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検索対象: 夏目漱石全集 15
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1. 夏目漱石全集 15

る。変化なき局部は重複であって、いつまで重ねても、場面の変化する割合に性格の活動は単調である。アフ リカへ渡っても、大陸へ行っても、またはイギリスへ 局部を脱して全部には至りえぬからである。しかもこ の変化は第一のごとく局部と局部のあいだに密接なる帰っても、似たり寄ったりのことをしている。性格の 因果法を含んで前後することの必要のない変化である方面を前後左右から見て、その活動の変化からしては からして、作家、ことに古い作家は、や & ともすると、じめて全部を了し得たという統一の感が起らない。た こ働らいて一貫しているだけが 偶然の事件を濫用して、変化の道具に用いる。一見変だ単調な主人公が単調冫 化の目的はそれで達せられる。多少の興味はある。け統一になる。だから厳密にいうと第三のなかへは入れ られなくなる。 れども、単に外部の変化である。性格の表現にいたっ ては、依然として巻頭より巻尾に至って、一行為、一 以上の三種はむろん諸君の便宜のために私が区別し いわみじゅうたろう たのである。実際の小説が純然この三類型に分れてい 行動を繰返している。極端の例をいえば岩見重太郎、 みやもとむさし 宮本武蔵の伝のようなものである。これほど烈しくはるわけではない。互に入り乱れている。しかもこうで ないけれども、同型内に人るべきものは『ジル・。フラき上っている以上は、どうしても興味の統一がある。 ース』 (GilBlas) である。スモレット (Smollett) の作読んだあとで、その統一のある興味は一つの凝った感 物である。その他一言にしていえばいわゆる。ヒカレスじに集注ができる。それからこの凝った感じを一つの ことば ク小説 (Picaresque n 。 vel) は皆この類である。近来の言葉に翻訳すると一句の命題になる。その命題には必 ものを挙ぐればポロー (Bor 「 (w) の『ラヴェングロ』ず人生の哲理を含んでいる。翻訳のできない場合でも、 できそうなまたできねばならぬような気がする。これ ( トを。にさ ) のようなものである。すべてこれ等の小 まとま 学説の極端になると、作家が全知全能の威力をもって偶が作物の纏った証拠である。自然を締め括りのあるよ うに観察した証拠である。さてこれたけのお話をして 然の事件をかって次第に插入して場面の変化をとる。

2. 夏目漱石全集 15

けない ) 。 残念ながらないと答えるよりほかに仕方はない。およ で、まえに私は作物は筋が通るか行き渡って仰ったそ天地間の現象は皆相当の理由があって起らないもの 感じを与えなければならないといった。この筋とは説 は一つもあるまい。相当の理由があって起る以上は皆 明するまでもなく事件のことである。その事件が極端必然である。けれども私なら私、あなたがたならあな は場所の活動と性格の活動であるとすると、場所の活たがたからいえば、自分と相談しないでかってに起る 動が纏ったものと、性格の活動が纏ったものとが、両ものがいくらでもある。それどころではない吾人の人 極端にできるわけである。前者はたとえば火事を火事生の三分二は実にこの偶然から成立している。・自然は の叙述として纏めたようなものになるが、小説は元来真空を悪むかはしれぬが、自然は偶然に対しては実に 人物を主とするという定義を許す以上は、これはむし寛大なものである。してみると作物を作っても、一編 さしつかえ ろ切り棄てても差支ない。残る極端にある性格の活動ことみ、く性格の活動だけからできた事件を排列する として纏ったものがはるかに重大である ( 私は最初か ことは、たとい理において、望ましきことであっても、 ら人間と場所を並立させて論じてはいない。人間を主実際においてはあり得べからざる芸である。だから偶 として、その人間がいるためには場所が付属的に必要然の事件と必然の事件とよ、 をしかなる小説においても相 であるといったまでであるから、よしゃ謂うところの交わらなければならない。い わんや起るとぎには偶然 事件が場所だけの活動から起っても、その結果としての事件でもその結果は必然の事件をむような場合に 人間に影響を及ぼさない以上は、纏まる纏まらないに なることが多いのだから、なおさらこれを無用視する 論なく急いで研究する必要はないのである ) 。 わけにはゆかない。 さて性格の活動として纏まり得る事件が純乎たる形 だから性格の活動から出る事件でったものといえ 式において自然小説にも存在し得べぎものであろうカ 、。ば、比較的という条件を付けなければならない。しば まとま

3. 夏目漱石全集 15

こうしよう しゅうふう こ、にまた偶然の連想よりして、ある形式に吾々ある。「秋風」は高尚で、「あきかぜ」は下卑ていると う理屈はないにかゝわらず、甲を取って乙を棄てる が愛着する趣味でもって取捨を決する場合がある。そ してその場合が存外に多いのである。これが外国文学のは、習慣に着き纏う感情を標準とするからである。 イノコ / グリューアス・エフ ゆえん を鑑賞するに困難なる所以である。思想そのものに好そしてこの種の選択を行わない場合には不似合の結 果が生ずる。立場を変えると西洋人とても同様でなけ 悪を表して取捨を決することは当然で不思議はない。 また思想を表わす形式が解しにくいから捨てる、嘶新ればならない。それで第一には思想を標準として、第 インテレクトアッビール だから取るというのも当然である。しかるに思想も形二には形式が理解に訴えるかいなかで、第三には雑 工モーショナル・エレメント りくっ ーネアス 式も同価値で、理屈の付く諸点はことみ \ く同等であ多の諸点で、最後にはこの感情的要素で取捨を決 って、しかも甲を好み乙を嫌うという時、その時の好定する。吾々日本人は西洋人の文章を稽古しても、こ うたがわ わがもの 悪は偶然の因習から来るのである。したがって同様なの最後の要素が我有となるかどうかがはなはだ疑 る因習を経た人々でなければ、取捨好悪することはで たとえ我有となることがあっても、それは単に部分的 デフェクト きない。 この取捨好悪ができなければ、外国文学の形のものにすぎまいと思われる。これは吾々の欠点で、 あじわ 式を味ううえに大なる損失となるわけである。 どうすることもできない。たゞ吾々の意を強くするこ しこう しゅうふう たとえば日本語で「秋風」と「あきかぜ」とは形式とは、元来これは根拠のない嗜好であるから、始終浮 : たる は異っていて思想は同じである。「亡くなる」と「ご動変化している。日本語の例を上げると、「 : ・ まえ べし」という語は「だんべい」というよりも真面目の 論ねる」、「あ、わが夫」と「お前さん」も同断である。 ら 務これ等につきなにを標準として選択を行うか。あらゆ感じがあるけれど、それは習慣上の感じである。ある 文るものが同等であるが、たゞ習慣上、この各組に付いはやがて「だんべいーという言葉が上品とせられる 工モーショナル・エレメノト 着する感情的要素が違う、それが標準となる要素で時代が来るかもしれない。下女がピアノを練習してい チャノスアッソシェーシ第ン な わがもの まじめ ミッセレ

4. 夏目漱石全集 15

くみた ことま ある。これに反し、各語の思想 (idea) が普遍的でな (U) 第三には、各語より組立てられた言葉全体の アッピール い場合がある。西洋人には善く理解されるが日本人で思想が吾々の知力に訴える場合である。この場合にお わか は分らない場合がある。たとえばチャベル (Chapel) いては、各語それ自身としては解し易いが、全体とし とかトリニティ (Trinity) とかいうものは、かのて解しにくいことがある。たとえば He is she. 国には目馴れた思想のものであるが、わが国では、そ うはゆかない。もっともこれは無知から起る結果で、 という句のごときは知力に満足を与えにくい アイデア いったん分ってくれば普遍である。持っている思想そこの第三の場合は洋の東西を間わす万人を通じて同一 のものがなずかしいのではないのだから。この場合をである、すなわち普遍的である。 準普遍 (Pseudo-universal) と名付ける。それで 冝 ) 第四には、結合したる思想を現わす言語の順 各語の思想には普遍のものと準普遍のものとがあるわ序 (word-o 「 de 「 ) である。この順序の良否によって、 けだ。 知力に解、不解を起させるので、これには普遍と準 ( し ) 第二には各思想を表わす符号 (symbol) すな遍とがある。たとえば日本語では、 サ・フゼクト オゾゼクト プレデイケート わち語 (word) が知力に訴える場合である。こゝに 主格ーー目的格ーー賓辞 一個の思想を表わすに二ッ以上の同義語あって、解しという順序であるが英語では、 主格ーー賓辞ー - ー目的格 易い程度が違うことがある。ディレーイ (delay) と えば解し易く。フロクラスティネ 1 ション (procras- という順である。この場合は準遍である。 tination) とい、え・は . 解しに 2 、 い。たゞしこの相違は習 以上を表で示す。 慣から起るものである。前者は普遍的で、後者は準普 lntellect ⅱ appeal 的である。 インテレクト サティスファクショノ

5. 夏目漱石全集 15

彼我趣味の一致する唯一の条件は偶然の暗合であるが、を狭めみずからを朿縛するものである。に厭きない そういう機会はきわめて少い。決して普遍的のもので うちに肉でなければならんというのは愚である。 ない。むしろ、さる場合を認めないほうが穏当である。 さもあれ、吾々が彼等の持っ歴史的趣味から自由で そこで見地を換えていえば、英国人は文体につあるということは、一方から見れば幸福であるが、他 ぎかくかくの趣味を有するがゆえに吾々もかくかくの方から見れば不幸である。一方に東縛を持たないため、 ものを好まねばならぬという理由はないことになる。他方に彼等と同じ趣味を共有する権利を失っている。 工飛リューションネセッサリー ・プロセス 彼等は進化の必然的進程によって一個の趣味から他それで、吾々が英文の形式を取捨するにあたって第一 ネエチューア アアクタア アイデア の趣味へ移った。いな、移るように自然より命ぜられに重きをなす要因はその形式が代表する思想すなわち コンテンツ たちかえ あらわ た。やがて現在の趣味にも倦んで、昔時の趣味に立帰内容である。しかして、その思想を表し出すに二個以 るか、あるいはまた別冫 こ他の形式を選ぶように自然に上の形式ある場合には、種々の点より決定するけれど、 命ぜられるかでなければ、彼等は現在の文体を棄てるます一ツの形式が他のものよりも、より善く理解力に わけにゆかないのである。これに反し、彼等のごとき訴えるかいなかで定める。これも同等である場合には、 ざんしん 過去を持たず、過去の因縁に東縛せられない吾々は、 一方が他のものよりも、斬新であるとか、カがあると エキス・フレッスイ・フ 英国人のごとく不自由ではない。英文の標準点を定むか、または優美であるとか、表明的であるとかいう るにあたり、現在の英文に趣味を持つも可なり、十七根拠で批判する。要するに全然普遍のものを根拠とし 世紀の文体を好むも可なり、十八世紀の文体に私淑すて批評するか、さもなければある程度まで外国人とし クオリティーオプジェクティープ るもまた自由である。なんとなれば東縛のない吾等はて解し得る性質が客観的に存在する場合に、これを ファクタア 各時代を通じ自由の選択権を有するからである。彼等批評の要因と定めるのである。しかし以上の標準のみ と同様の趣味を持たねばならぬと心得るのはみすから ならば評価の場合さほどの困難を感することはないが、 ポイント・オゾ・ビュー グラウンド せば

6. 夏目漱石全集 15

するとすれば、その構造はかく / \ 筋道はかく / 、、、 堂といずれの場合にも臨むというはすこぶる困難なる 事件の発展と性格の活動はかく / \ というので、自己話で、少々危くなると第一に逃れ込むことが多い。し はうへん の趣味をもってこれを上下し、褒貶せぬのである。こ かも実際感じないことでも前人の言などを繰返す場合 れはまえのと正反対である。しかしてこの態度は古来も多くあるだろうと思われる。またいかによくこの第 からの批評家にほとんど少ない。たま / \ あると詰ら三の態度を取ったところで、こうロでいうようにハッ ない人に限るようである。また人はかる品評を好まキリと明瞭にできるものではない。第一感情の分解と こういうふうにやれば趣味がないとか分らない いうことが非常に困難である。それから感情が分解で とかいうてしまう。しかしそれは態度の異るので、最きたとしてもこれに当箝る事実をいち / 、指摘するこ 初から趣味を交えぬ客観的の態度であるということをとがすこぶるむつかしい。単に一字を見てもその一字 承知しなければならん。またか、る態度は文学の作品 から受ける感情をだん / \ 考えてみると非常な遠いと 上にあっても許すべきものであるということも承知しころへ縁を引いて連想に連想を重ねている。ちょうど なければならん。いな単独なる作品に対してはとにか薄い紙を何枚も重ねて厚紙が成り立ているような場合 く、二個以上を比較するとか、前後幾多の作品を比較が多い。その紙を一枚々々元のようにはがして人に見 するとかいう点に関しては、この方法は大いにたいせせることが困難であるごとく、一字から出てくる感じ あきら つな事となることは以下に述ぶるところで明かであろを分解して説明するのもたいへん困難な場合がある。 う。さて第三の態度にいたってはいわゆる在来の批評そこで以上は一個の作品に対してこの三とおりの態 家の往々用いたる方法であって、第一の態度に不満を度があるということを話したのであるが、二個以上の 学感じてなんらかの発展を見出す時は必らすこゝに出ず作品を比較するということになってもたゞ手続が複雑 3 になるというまででこの態度に変化は来たさないので るのである。されども確然とかゝる態度を維持して堂

7. 夏目漱石全集 15

ことが気に入るかもしれぬ。また乙の時代ではそれがおり日本に俳句という一種の文学があって十七字で詩 気に食わぬかもしれぬ。それがまた丙の時代では大い形をなしている。あの俳句で考えてみるとすぐ分る。 めず に珍らしいかもしれぬ。丁の時代では尋常の事かもし同じ題で同じ材料で同じ配合でまるで同じ趣向ででき れぬ。それから、一方の変化を求めるために普遍性かた二つの句をとってみると、一は大いに愉快な感が起 ら遠ざかる例をいえば、ある人が電気燈の光を見て非る場合と一はそんなに愉快な感が起らない場合、いな 常に感じて、この光のなかに恋もある生命もある、すむしろ忌味を感ずる場合がある。よく / 、調べてみる ぎんきじゃく べての情感、すべての美術はこゝにあるなどと欣喜雀とやはりそう感ずるに相応な根拠を発見することがで 躍して飛び回るような有様を書いたとすれば、その意きる。ますこれは俳句における一の事実であるとして により 味は一般の人に通じようがないにきまっている。 話を進めるが、この似寄の句を髪結床の親方とか酒屋 以上の諸原因からして、趣味の普遍性によって必然の主人とかいう普通の人が見るとその人々はその差異 の暗合をなす場合は存外少ないのである ( 材料の相互を全然感じておらん、双方とも同一の句だ、一様の価 的関係から出るものを別とすれば ) 。 ことに外国の文値があると思っている。俳句はむろん日本語である。 学についての批判となるとこれ等のうえにいま一つの日本語で書いたしかもほとんど同様の事を書いたもの 障害がある。すなわち言葉である。言葉という意味はに対して日本人ーー・・・朝夕日本語を使い日本文を読んで 日本語と英語とは構造が違うとか文法が違うとかいう いるーーー日本人が見てかほど差異のある感じを起す。 あや 意味ではない。言葉には意味の微妙 (delicate shade それはなぜかというと一は俳句というものを見て俳句 meaning) がある。また一種の調子の付着したもの言語を見慣れているから俳句的言語について一種の 評 学のである。たゞこれだけでは説明にならんからもっと微細な知覚を持っている。したがって俳句的言語があ シェード ( 2 ) けんべっ 分りやすいことを例に引いてお話をする。御承知のとらわし得る微妙な濃淡とか調子とかいうものを甄別す ( 1 ) いやみ ひとっ かみいどこ わか

8. 夏目漱石全集 15

の刺激はその程度を超せばかえって快味を亡くする sonian 三 ) とヴィクトリア時代の文体との相違な ども、比較分析することはきわめて造作がない。しか ことになる。同じ人の し甲と乙とを比較してどこかに違っている点はあるが、 His ExceIIency the Titular あきら Herr Ritter KauderweIsch 明かにそれということができない場合がある。十年以 Von Pferdefuss-Quacksalber. 前に出逢ったことのある人に会見して、その顏がなん となく変ってはいるが、さてどこと説明のできないと のようなのは刺激が極端となって、愉快を感ずること ができるとは思われない。彼の文体がとかく野蛮の批一般である。これを心理学では直感総合 (A noetic 支那の詩から西洋の詩に移ってみ 評を受けるのはそのためである。今彼の文章の面白さ synthesis) という。 ると、いかにも違っているようではあるが、読みさし を感ぜさする刺激的要素を挙げてみると、 ているうちにはにわかにその相違点を挙げることので 一、頭文字を多く使用すること。 きないのも同様な心理状態である。諸君も文体につい 一「接続詞、動詞、代名詞等を落し去ること。 てこの種の経験をする場合が多かろうと思う。 三、名詞を動詞に変化すること。 このような分析のできない場合の起るのは文体 等である。 こうばく カーライルのような癖のある文章を分析することは (style) という語に広漠なる意義を含ませるに因るこ やさ 容易しい。その他の人の文体についてもたいがいの見ともある。たとえばフランスのビフォン (Buffon) の有名な言葉に 論当はつく。たとえばミルトン (Milton) や、クー Sty 】 e オ the man himself. ) 形 (Cowper) のような長い複雑の文章と、ドライデン という句がある。またショー 文 (Dryden) やアデイソン (Addison) の平易な優麗な みわけ だれ 文体の区別は誰しも見別が付く。ジョンソン体 (J0hn ・ hauer) はその文体論の初めに、 ペンハワー (Schopen ・ ぞうさ スタイル

9. 夏目漱石全集 15

まとま 的な点において、吾人の批評的鑑賞の態度は、ある作よく纏って見える。それから船の外の波だか炎だか分 品のうえに同一の好悪的批判を下すであろう。すなわらない中にいる亡者幽霊などがおおぜいかたまって、 と、の ちこの点において必然的暗合は起らねばならぬわけで中心になった二人の周囲を取巻いた有様がよく調って ある。 見える。それで一目見ると、すぐにでき上った品物た、 これでたくさんた もう一つ必然的暗合を引き起すべき別輙の趣味があこれより以外に求めるものはない、 る。これは外国文学を研究する際にあたって、普通のという満足な感じが起るとすれば、この画は材料の案 排具合からして出てくる吾人の趣味を飽かしめたので 場合よりもいっそう重大な任務を帯びてくるたいせつ な趣味である。この趣味が普遍的であるために、吾人ある。そうしてこの趣味は東西の別なく通じる普遍的 は外国語をもって書いた書物に対しても比較的独立しなものである。なぜ晋遍的かといえば少し具眼の人か た判断を下して、相当の信念をもって、必然の暗合を、ら注意されれば、すぐ啓発を受けたような心持になる かえって彼等外人に対って要求することができるのでからである。もっと八釜敷反対を試みる人があるなら ある。この普遍性の趣味とはほかでもない。すなわちば、その人に対して君は中心のない、もしくは散漫に 文学書中に使用せられたる材料の継続消長から出る趣して収束しがたき、あるいは支離減裂なる芸術的作品 味をいうのである。まえいった趣味は材料そのものにを喜ぶかと聞いてみれば分る。もういっそう進んで、 よけいなことをむやみに書いたり、必要な事をやたら 対して申したのであるが、今度のは材料そのものはさ に書ぎ残した作品を見て、満足な感じを起すかと質間 て置いて、材料と材料の関係案排の具合から出てくる。 画を例にしてお話をしてみると、ドラクロアが Dante してみれば分る。この問に対して肯定するようなもの ミ Virgile を描いたとする。するとダンテとヴァージは一人もないはずである。たゞしどこが散漫で、どこ こようまん ようす が冗漫で、どこが物足りないかは、人々によって必す ルが船の中に立っていて、二人の姿勢やら容子やらが ふたり とりま あが

10. 夏目漱石全集 15

じよう′ を通じて冗語なく、 一閑筆なく、簡潔で弛みのない一」したほかに符号 , ー・ー言語・ーー・をも精選したものと「 ( ら シソプリシティー と等である。もし他の小説家たとえばスコットなどがれる。その結果は簡潔の感じを吾々に与えるので、 カティリー この場面を書いたならば、五六枚に亙る長文を作した この要素はの範疇に属する。 えんせき たんっゞ に相違ない。立腹、怨惜の場面はこんな風に書いてよ 二、長い語なく、大部分は単綴りの語であるという いものか、どうかという実際間題は別として、とにか ことは、どういうことになるか。吾々が同等の力と速 く、簡筆を用いていることは争われない。さて吾々はカで長い語と短い語とを発音する場合、長い語は時と シンプリシティービイイア てっとりばや これを読んで、簡潔と雄健のじを受けるというこ力とを失うに反し、短い語は手取早く、いきおい強く とは主観的の批評である。これを客観的に文の要素を発音することができる。たとえば "but" と "trans ・ とりしら おもしろみ ラビディティーディレク 取調べて、その面白味のどこまでが、 << の形式から来 u n 〔一 a ま n ご とを比較すると、前者は迅速と直 トネス るか、どこまでが音の結合から来るか、どこまでが截とに利得するに反し、後者はこれを口に上せて、優 の形式すなわち「雑のもの」の固有性に拠るかを考え長で、緩慢で、いかにも力のないものである。ゆえに どイイア カティリー ると、 長い言葉のないということの結果は雄健で、Ⅱの範疇 一、全文が平易の言葉のみから成・しているという に入るべきものである。 ことは、二様の説明が付けられる。すなわち思想が平三、単文章の多いこと、単文が複文よりも解し易い 易であるか、または思想の符号なる言語が平易である ことは当然で、文法上の形式からいってもそうである。 論か、の二ツである。これを一々語にあたって吟味するすなわち << の形式に属する。また句章に切目多く、 形のは倦怠の業であるから略するが、スティ ー。フンソン who や which などの関係代名詞が欠けているという 文はフローベールやペニターにも引けを取らない八釜しことは、ロに上す際に時と力とに益がある。これはⅡ シンプリシティ : ビイイア 屋の文体家であるから推しても、単に思想の簡潔を期に属すべきもので、結果は簡潔、雄健である。 たる ふう