′イ・イツツ・サウゾド 句は意義より独立して、単に音ばかりで思うとお burne) の詩中にはや、これに接近したものはあるが、 りの感興を起さねばならぬ、というのである (Arthur それとても単に音のみの興味ではなく、各語の有する セパレート・ビクチュアー Symons の "Symbolist Movement in France" お別個の光景が頭脳のなかに入ってぎて興味を助ける ( 2 ) よび Max Nordau の 2 Degeneration ご参照 ) 。ドイ ことが多い。私がロンドンにいた時ケアー ()e 「 ) 教授 ツでは、 2 EmotionaI and melodious sound is only 2 Epic and Romance ごの著者、 : Peri0ds 0f true poetry" ( 感興を起す好調音のみが真の詩である ) European Literature" 中の : Middle Age" の部 ( 3 ) 時こよ思想な というティーク (Tieck) がいる。ノヴァリス (Nova ・を書いている、 の講義を聞いたが、言冫冫 デ ) の言葉によれば「吾々は夢に見る雑多の場面より く音調のみで、他の思想のあるものと同様の興味を起 まとま すくなどあい も纏りの少い度合の詩を作ることを想像する。すなわすことができるとて、コールリッジ (Coleridge) の ち前後貫徹せず、好調子で美しい言葉ばかりで、意味『クプラ・カン』 (Kubla Khan) をその例に引いた も内容もない、たゞところる、に意味の解かる節は散この詩は作者が千七百九十八年、病中、睡剤を服用 在しているが、それとて連絡も関係もないような詩をして夢中に得たものとして知られている。醒めてから 作り得ると思う」 (Brandes の : German Romantics' 記憶に残ったところを書きとめているところへ来客が 参照 ) といっている。こんな主義を極端まで運んでゆあって、ある行の後は忘れてしまい、その続きをかけ くと、思想抜きの「音の結合」ができるわけだ。そんなかったという。なるほどこの詩には統一も連絡もな ( 7 ) サステーノド・イノテレスト 論な風の詩を標準として吾々が音に対する趣味を吟味しく、 連続した興味の欠乏していることは事実であるが、 ライソ・ライソ たならば、吾々と西洋人といかほどの程度まで一致す行々には思想が存在して、単に音のみを持っところ わか 文るかが容易に判るであろうが、惜しいかな、英語にはの詩ではない。ゆえにこれをもって音のみより成る詩 この種の詩を発見しない。スウイン・ハ ーン (Swin ・を鑑賞してみる手段とはならない。 ふう メアリー わ スタノザ ` 1 )
っとも価値のある部分でも翻訳しがたいところはいく 。ハンの歴史の興廃を叙したから、余はこ、にパン の定義を下そうと思う。パンとは発音が同じくって、らでもある。。ハンに限ったことではない。アデイソン ことば 意義の違った二つの言葉を用いて生する一種の気転の説はこまで及んでいないから不完全なものには相 である。ウィットを試験する唯一の方法は、これを違ない。そのつもりでお聞を願いたい。 他国の言語に翻訳するにある。翻訳しても通用すれ次に彼は真のウィットを説明している。彼の意見に ば真のウィットである。もし翻訳とともに消えてしよると、真のウィットは字音に関係なく、多くの場合 まえばパンである。 において、観念の類似調和から出る。また真偽の混交 。ハンはもとより文学的に価値の多いものではない。 したものもある。彼はこれを雑のウィットと名づけて その価値は字音の類似の通用する範囲内に限られてい いる。彼は雑のウィットの例にカウレーを挙げた。情 る。したがってこれを外国語に訳すことはとうていで熱は火に似ている。昔からこの類似観念の連想を利用 ほのお きない。訳せば消えてしまうばかりである。外国語にして愛を喩えて火といい炎と呼ぶのがお定まりで、ある。 訳せないということは、つまりその価値の普遍的でな この表裏二面の意味をもじって、詩人が種々様々のウ いという意味と一般である。デイソンの説くところィットを弄したなかに、カウレーのはだいぶ手数がか は至当である。しかし普遍的であるということは、あかっている。 第一には、女の目が愛の熱情の源である。同時に目 ながち文学的に最上ということにはならない。普遍と はたヾ誰が読んでも興味があるたけで、興味の広狭をそのものははなはだつれない。冷やかな様子をする。 たからこれを検えると、氷からできた燃えるがごとき 評示す言葉ではあるが、その深浅を定める言葉ではない。 学したがって単に翻訳ができるできないで、万事の試験硝子 (burning-glasses made ice) である。けれ ども女のためなら、。 とんな苦痛も厭わない。この意味 を了するわけにはゆかない。厳密にいえば文学的にも ガラス ろう ひや 235
ひとっ 一である。 普通の教養を持っている人々の目には、文学なる言 葉はきわめて解し易いもののようにみえる。だが、こ ばくゼん の言葉の内容がはなはだ漠然としていることは争わか ない事実である。今数個の西洋の学者につき、彼等が ふう 文学をどんな風に解釈したかをみると ( なかには文学 とりあっか General Conception Of Literature の概念を述べることなしにたゞちにこれを取扱ってい われ / 、 ( 3 ) 吾々の日常使用する言語のなかには、その内容の曖るセンツベリーのごとぎ人もいる ) 、マッスュー・ア グ・アンド・ナ・フスキューア ーノルド (Matthew A 「 nold, 】 822 ー 88 ) は「文学と 昧朦隴なものが多い。吾々はこれを使用するに ( 1 ) インテンスイーゾ・アンド・ ( 2 ) エキステンスイー・フ・ あたり、その内包、外延の意味を知らは世界にこれまで考えられ、いわれたるものの最善を アックエーント おぼろ あいまい ずにたゞ曖昧の意味を朧けに伝える。これを伝えられ知得させるものだ」、と茫漠たる定義を与えており、 ( 5 ) ハラム (Henry Hallam, 1777 ー 1859 ) は、 た人も、また曖昧に聴いて曖昧に解するのみである。 ( 6 ) フラ さらにある場合には符号の表わす内容につき、なんら彼の文学史中に人間知識のあらゆる方面を網羅し、微 ( 8 ) インテグラル・カルキュ - ・ス クショナル・カルキュラス コンセプンヨン の概念なくして用いることさえある。それで、必要積分学あり、爿フラーの積分学あり、べ = ン、ス。ヒノ 1 ザ等の哲学あり、思想、・務ルに があってある言の意義を確めようとする時、もしく 関するいっさいの書を蒐めて、これを文学と見做して 論はその意義を他人に間われた場合にあたっては、つい ようりよう いる。彼は文学の定義より出立してはいないが、文学 これ、吾々が内容そのも に要領を得ないことが多い。 コンセプションイノブリシットリー シンポル 文のを思考の材料としないで、記号そのものをもって考についての彼の概念は暗々裏に玩味することがで えるからである。文学という言語もこの種の言葉のきる。英国のパックル CHenry Thomas Buckle' 屋 英文学形式論 ニング 物っ 謇んみ
いうことを研究するもので、なにゆえということすなしまえに述べたような訳だからこの原因結果とはある 現象の前には必らずある現象があり、またある現象の わち舅「 h ということの質間には応じかねるという あと 後には必らずある現象が従うという意味で、甲が乙を のである。たとえばこ、に花が落ちて実を結ぶという しかならしめたなどという意味ではないのはむろんで 現象があるとすると、科学はこの間題に対して、いか プロセス なる過程で花が落ちてまたいかなる過程で実を結ぶかある。それでこの原因結果を探るには分解をする。一 てつゞき という手続を一々に記述してゆく。しかしなにゆえの現象をとって「いかにして」ということを究めるに (Why) に花が落ちて実を結ぶかという ( しかならざは、それが複雑な現象であればあるほど「いかにして」 。知ったと思うても分解を経 とい、つことを知りに ~ 、い るべからずという ) 、間題は棄てて顧みないのである。 まちが おぼしめし ひとたびなにゆえにという間題に接すると神の御思召たうえでないと常に間違う。だから人間はその場合と であるとか、樹木がそうしたかったのだとか、人間がその時代に応じてでき得るかぎりの分解を企てる。分 しかせしめたのだとかいわゆる Will すなわちある一解をしてある微細なことについて「いかにして」とい うことが分ると、次にはこの零細なる事実をたくさん の意志というものを持てこなければ説明がっかぬ。 科学者の見た自然の法則はたゞそのま、の法則である。集めて比較してみる。そこで総合ということが始まる。 これを支配するに神があってこの神の御思召どおりに総合とは同じような事実をたくさん集めて「いかにし 天地が進行するとかなんとかいうなにゆえ問題は科学て」という点において皆一致していることを見ること 者の関係せぬところである。だからいたって淡泊なである。で総合ができれば、これから一の法則ができ よろ かんがえ るわけである。それから総合をしてみて「いかに 考で研究に取りか & るといっても宜しい。 さてこのいかにしてすなわち H 。 w ということを解て」という点においていろ / \ な場合が一致しなけれ ば分類ということができる。ますざッとこんなふうで 釈すると俗にいう原因結果という答が出てくる。しか もっ ぎわ
がてん なるほどと合点しなければならない、もっともだと思作中の人物をその筋に合うように働かせるから統一が って読まざるを得ない。長いものをつい短かく読まさできたというまでで、作中の人物のほうでは、この統 0 れてしまう。それではそういう組立はどんな組立か説一をむりにも維持するために作者から強いられている。 まぬ 明してみろと成る。私はそれをこう説明する。ある一 読んで窮屈である。生気がない。だからこの弊を免か つの飭の縦に比ぬいているもの ( ある場合には横に行れるためには、ぜひとも編中の人物のほうが自由意志 き渡っているものになるかもしれない。筋の意味、貫に従って、自分で纏まった筋を構成するように働らい ぬく、行き渡るの意味は、後段に性格や事件を説明すてゆかなければならない。そうするとその小説の統一 るときに、おのずから分るようになる ) がすなわちそは作者の作った統一でなくって、編中人物の作った統 れである。なんとなればその筋があらゆる編章をセメ 一になる。たから有機的になる。形式を脱して生気を ントで堅めて動かぬようにするからである。他の言葉帯びてくる。統一が心理上の必要になってくる。 でいえば興味の統一 (Unity of lnterest) を与えるか 有機的の統一は器械的の統一と同じく部分と部分の らである。しかしたゞ一つの興味が一貫するたけでは関係から成立する。たヾ有機的であり得るためには、 統一を与えるというばかりで、それ以上に刺激性の興部分と部分が作者の命令によって関係していてはなら 味というものがない。統一はあるかもしれぬが死んたぬ。自己の本性によって連結しなければならぬ ( 作家 ぎりいっぺん ぎら 統一である、器械的義理一遍の統一である。なぜと説が大事件の推移を写すに偶然を嫌うはこの嫌を避くる 明するがものはない、統一に自由がないからである。 がためである ) 。部分と部分が自己の本性によって連 兵隊の挙止動作に統一があるごとく統一には相違ない結する以上は、両者の関係は心理上の因果によって縦 に推移しもしくは横に展開しなければならぬ。心理上 が、外から威圧的に余儀なくされる統一である。型に はいった統一である。作家があらかじめ筋を作って、 の因果によって推移しもしくは展開する統一は、統一 わか きらい
ある点において、読者を動かすのは当然である ( 動かの未来の運命を構成する一要素となるのが当然である。 し方の強弱、大小、およびその影響する時間の長短はしたがってこの人はこの作物から一種の訓戒を得たの幻 もとより無限の差があると理論的に許してもよろしい である。またある作物を読んで美醜・善悪・壮劣、の が ) 。動かしたとすれば、動かした程度において、その諸方面について感じたとする。この感じも娯楽である 人の未来を支配したものである。未来を支配したとい かもしれない。しかしこの娯楽もまたその内部に美 う意味は、向後の生活状態に多少の変化を輸入すると醜・善悪・壮劣それ乙、の感じを含んで、やはりその あきら いうことたから、たといその変化が処世の大間題に触人の好悪・言動を支配するようになるのは明かである。 れないにしろ、一挙手一投足の微細な行動にしろ、日したがってこの人はそれ等の作物から一種の訓戒を得 常平几の瑣事を観察する方法にしろ、ことん \ くこれたことにあたる。 を作物上から得た訓戒に得たといわなければならない。 この意味においての訓戒は文芸上あらゆる作物の自 この変化は自己の意志に従った変化であって、その変然的結果であって、何人も訓戒の二字に対して異議を さかのに 化の源は作物に接したから起ったと溯って行けば、現申し立てる権利はないものと思う。しかし今私が諸君 在の自己をして、しかく現在にあらしむるものは作物の御注意を頃わしたいという訓戒的傾向は、こういう の訓戒によるといわなければならない。人世のどの方広義に解釈した訓戒ではない。人生の一部分すなわち 善悪たけに触れた訓戒である。しかも十八世紀の常識 面に輸入した変化に対しても訓戒の二字は使用するこ とができる。ある作物を読んで、ある事を知ったとすに東縛された習俗的道徳を標準とした訓戒である。し る ( 今まで気のつかなかった人生上のある真を知った かもその訓戒は、娯楽の裏面に形を具えずに伏在する とする ) 。知ったことが娯楽であるかもしれない。し訓戒でなくって、あからさまに訓戒的文字となって現 かしこの娯楽はその底に横わる知識を擁して、その人われる、あたかも政府の公布する法律の条令のような
ると、この諺は陳腐に相違ないが、一面の真理を示しも思う ) 。 しからばポープよ ーいかに巧妙にその陳腐なる思想を ていると世間から認められる以上は永く伝わらなけれ うんぬん しい顕わしたかという問題に移る。人の知るごとく、 ばならない。犬も歩けば云々という諺は消滅するかも ポープの詩は皆同一形式からできている。一二の例外 しれないが ( 現にポー。フの詩句のうちにはラテン語の 翻訳めいたものがたくさんある ) 。これと同じ意味のはあるが、全然ほとんどヒロイック・カプレット体 うす (heroic couplets) の詩で埋まってるといっても可い 真理はなんらかの形式によって伝わらなければならな い。もしこれが伝わらないとすると、日常他人と応対この詩形は彼の専売ともいうべきもので、その特色は するうえにすこぶる不便を感ずる。この諺のなかに含同韻脚を用いて二行すっ対をとる、そうしてどこまで んでいる真理を一々説明する代りに、これだけの成語もこの対句で押してゆくのである。それでこの詩形を を述べて意味を通ずることができれば、実用上はなは用うるとなると、いきおい二行である意味の纏ったも のに拵えてゆかないと調子が悪い。したがってポープ だ便利といわなければならない。ポープの詩句が世に の詩においても同韻の対句ごとに意味が切れるか、ま 伝わるのもこれと一般で、彼は普遍的真理を捕えてい るのみならず、その真理を最も旨くいい顕わしているたは次の対句に意味が繋がるとしても、ちょっとその てぎわ からである。後の人がポープ以上の手際をもって同一あいだが休まれるように句切れができている。上の対 真理を表現し得る時代が来たらとにかく、さもなけれ句から下の対句へ意味がのべつに続く例はほとんどな 。してみるとこの詩形に伴なって、作家の頭には、 ば彼の句が永遠に残るのも至当といわなければならな 長い文句で表わすべぎ思想をいろ / \ に工夫して対句 ( こゝに真理々々というのはもっともな概念という くらいなものである。一方に真事という字面を作って、のなかへぎっちりと畳み込んで、その対句のなかに一 具体・抽象両面の真をあらわすようにしたら便利かとつの纏った意味を表わそうとする努力が起るのは当然 あら こしら まとま 352
たしかに、文学芸術の ' ・野の広さに関しては、上田広くはあったが深くはなかったということになるので 敏の渉猟と知識は、漱石「」凌いでいた。大陸文学全般ある。 にかけての、あるいは古今の西洋芸術にかけての博覧 しかし漱石は自分ではその道を行かなかったにして は、漱石といえども一歩を譲らざるを得ないものがあも、別の行き方の意味は十分みとめていた。「人の説 った。その一面、彼の文業はもつばら翻訳紹介にとどを聚めて紹介するのを平凡たとか才気がないとか言う まって、漱石のようにオリジナルな評論冫 こ及ばなかっ が、これは大なる誤解である。多くの書物を読んでこ た。敏の最高の学間的業績は、「伊蘇保物語考、で、これをよく分るように紹介するのは一種の技能である」 こにも彼の博覧と総合の才は見うるが、これと漱石の ( 「文学評論」第一編 ) と言っているのである。 「文学論」や「文学評論」とを比較すれば、両者の立脚とにかく「文学評論」は、このような意味で注目す 地の相違は説かずして明らかである。漱石には翻訳紹べき作品であり、漱石の学才とともに、その批評家と 介のものは殆んどなく、敏を後世に伝えるものは「海しての才能を十分に証明するものである。勿論明治三 潮音」「牧羊神」の訳詩集であることも参考になろう。 十九年という歴史的限界、ことにその時期における、 しかし日本の外国文学研究者として見れば翻訳紹介日本人の英文学研究という ( ンディキャップは、蔽う を主とした上田のほうがオーソドックスなのであり、 べくもないであろう。部分的には、訂正するべき個所 漱石は型はすれの才能たと言わざるを得ない。前者にや事実は無いとはいえまい。しかし、にもかかわらす、 は漱石のように自己本位の立場を固執し、心理学社会漱石のスウイフト観や、ポー。フ観は、依然としてオリ 学などを広くあさって、文学の根本を見究め、それをジナルな見識として光っている。 独自の立場から、体系化しよう、もしくは理論づけよ 逆にいえば、明治三十九年という、日本の外国文学 うとする意図と努力を欠いていた。かんたん髪 = ロえば、研究の草創期にあたって、よくこれたけの、先人の糟 4 イ 8
まんべん かすり おくり、の 男が他の贈物を拒絶したという事実を伝えるとする。絣にも比較すべきものである。万遍なく入り込んでく ・こうせん しりぞ その時あるものは「彼は傲然として斥けた」とかくかるには相違ないが、それだけで人生の模様は成り立た きぜん もしれない。またあるものは「彼は毅然として斥けない。 しかしこういう風に、人生の総体にわたって織り込 た」とかくかもしれない。またあるものは「欲しそう な顔をして」とも「謝の意を表して」とも書くだろまれている、点にも比すべき、道徳上の意義は、どん 肉刀肉叉の置き方を書いても、 う。どう書くのも随意には相違ないが、この数種の叙なことを書いても、 はげし 方のうちには、どれもこれも善悪の評価の意味が含まもっと烈敷くいえば、天然の光景を書いてもーー。切り おもしろ れている。すなわち読者のほうで冊な奴だとか、面白離すことができないかもしれない。その意味からして やす アデイソンとスティールが倫理的傾向を有していると い男だとか、その人を好悪し易いような叙方である。 こと ! 言葉を換えていうと、読者の好悪をいく・ふんか支配し評したところで別に批評にも知識にもなんにもならな アデイソン、ステ ィールに限ったことではない。 たような書方であって、そうしてその好悪は、拒絶し た本人の人格上、ことに人の贈りものを拒絶するとい古今東西にわたって人事に筆を着けたものは一人とし まぬ う一事件について起るのだから、その裏面に道徳的なてこの倫理的傾向を免かれない。私のいわゆる彼等の 匂いを帯びているのはむろんである。してみると普通倫理的傾向というのはある一事一件を全体と観て、そ むか 我々が信じて、純然たる客観的叙述と見做しているもの全体に向って倫理的批評を加えなければ巳まない傾 向をいうのである。こうなると世界が急に狭くなる、 ののなかでも、道徳上の分子はある形式をもって入り 一本調子になる。たとえば芝居の光景を描くとする。 込んでくる。存外区域の広いものになる。 けれども人生の全体がこれで掩い尽せるものではな舞台の模様、観客の態度、役者の所作、それだけでま これ等は人生という一枚の布を織り上げたなかで、あじゅうぶんだろうと思う。ところがアデイソンにな にお
むという意味ではない。もしそういう意味であったら、として眺めるのである。たとえば悪人が悪事を働らく 私はある食物を不味いが旨いとか、冷たいが暖かいと事実を、単なる事実として好むこともできるのである。 あと もいい得るわけである。何ゆえといえば善悪という字すなわちその発展の迹を慕って、一歩ごとにあらわる と好悪という字とは別物であるけれども、か、る場合る心の変化もしくは行為の推し移るさまを、単なる心 に実際の話をいうと、好きだから善で、善だから好きの変化もしくは推し移る行為として、好むこともでき あきら なのである。そこで悪人を好むというのは明かに自家るのである。道徳上の悪人を好悪する代りに、この悪 撞着である。にもか & わらず私はその悪人を好んで作人がわが前に開展しつゝある真そのものを好むことも 中に書いた。また実際書くかもしれない。私は何ゆえできるのである。悪人を真偽の方面より見たる材料と こう撞着するのだろう。説明したいのはこの点である。して、好悪することの自由なるごとく、同じ悪人を壮 今まで私は好むという字を善悪の方面からばかり見ての刀面より見たる材料として、好悪することも、ま いた。だから悪人を好むというと、一個の道徳的人物た容易である。ーー好悪はかくして二重にも、三重に も、またこっちからもあっちからもできるものである。 として見たる悪人を好むという意味になってしまう。 だから矛盾になる。人間を道徳の方面から律して、そ 好悪の意味はこう複雑であるが、これからさきに使 おっくう うしてそのうちの悪人を好むというのはあり得べからうときは便宜のために、億劫を避けて、一々どの意味 にあたるかを説明しない。たゞあなたがたのほうで好 ざることである 0 けれども悪人を道徳的人物と見做さ かげん なければ、矛盾も衝突もなく悪人を好むことは随意に い加減に判断をしていたゞくつもりである。 われ′ \ できるのである。悪人を道徳的人物と見做さないとい さて吾々が世の中に住んでいる。世の中が運転する。 う意味は、道徳を離れて悪人が存在するというのでは吾々は、吾々の性質や、境遇や、また位地やらで、こ ない。道徳的に働きっ & ある悪人を、善悪以外の材料の世の中を面白く見ることもある。または癪に障って みな おもしろ しやくさわ