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検索対象: 夏目漱石全集 15
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1. 夏目漱石全集 15

人間の能力を最もよく利用した人で ほど普通の人の考とは違ってくる。その極は平常の人れば知力という、 から見れば、あの男はなにを苦んであんなことを考えある。五重塔を積むに数十人の大工と二三年の手間が ほねお ているかと思う、あんなことを考えたからとて飯が旨入るごとく、知力の発達もこ、までゆくには骨が折れ く食えるわけのものではなかろうというふうになる。 る、容易なことではない。したがって普通の人から見 ところが考える人は急に考えだしたのではない。五重ると呑気のようであるけれども、実際ははなはだ心配 の塔を積み上げるようにはじめは普通の人の立場から性の男である。普通の人なら目前のことばかり考えて だん / \ 高く土台を築き上げたので、初めこそ、ふと食ってゆきさえすればそれで済むのだけれども、この した動機からやりかけたかもしれぬが、やっているう哲学者になると永遠のことや、普遍的のことや、並み ちにはそれが職業のようになってどうしても止められの人の五倍、十倍、百倍ほどなことを考える、しかも あぎと ない、迂濶だろうが空論だろうが、顋の上が干上がら考えずにいられぬのである。哲学者という者はかくの ぬうちは、とうてい已められない。ます / \ 根本的に ごとく普通の人の考え以上のことを考える者であるか ばじとうふう 立ち入って考える。ます / \ 概括的に考える。その極らその説くところいうところは普通の人には馬耳東風 ようりよう ひとかど は世の中を区別して心と物としてみたり、心ばかりにであってまた一廉の教育ある者にも不得要領なことが ャソきよう してみたり、あるいは耶蘇教の影響とこの考が寄り合 多いのである。現にヒュームが一七三九ー一七四八年 って世界は神の示現であるといってみたり、とうてい のあいだに哲学的の著書、すなわち『人性論』 ( 普通の人間としては解すべからざるようなことを真面、 of H ミミ ~ ~ ミにミ ) とか『人間の悟性に関する哲 評目な顔をして説き立てるようになる。これが哲学者で学的論文』 ( ~ 、。き、ミ。ミき 3 ミ。 ~ ・ミを 学ある。すなわち哲学者という者はある時代にあってそ Un ト、ミを ) 等を著わした時に、俗人はむろん読み のうちの最もよく考える人、物を概括する人、換言す手がなかった。教育ある人のなかでもこれを読んだ人 うかっ かんがえ

2. 夏目漱石全集 15

かんそう うけと 編中の主人公も気に掛けていない。下から受取った時、彼の作物の乾燥無味なのはこれがためである。彼ば うれ かりではない、十八世紀の作家の書いたものが冷淡に 嬉しがっても、よろこんでも、必然なる性格の活動と 見做すべき程度が減じてくる。けれどもそれがデフォ見えるのは多くこれがためである。デフォーは人間を こゝろえ 1 の人格たから仕方がない。 時計の機関のごとく心得て、この機関の運転をまった 同しくスティーヴンソンの文中に女が息をはすませく無神経なる、かっ獣的に無感覚なる筆をもって無遠 ( 1 ) ろう ながら物り付いたとある (She held ( 。 mea moment 慮に写してゆく。索然として蝋を物むような気持のす ひから るのはもちろんである。彼の目的は乾干びた事実であ very tight, breathing quick and deep. )。実用的に いえば噛り付いたとさえ書けば足りる。だから用向のる。その他にはなんの用事もない。普通の作家が四辺 報告には「息をはずませながら」というような言語はの光景を前に浮べるために苦心したり、あるいは感 使わないでも済む。女の心はどうあろうとも、自分に情を添えて人物を活動せしむるために労力を費したり かたづ おわ 縋り付いたという事実さえ判然すれば法廷の審間は了するうちに、彼はなんの苦もなく長編を片付けてしま るべぎである。もっとも特別の場合にはそうでないか う。したがって普通の人が、普通の頭で、普通の会話 もしれないが、なにしろデフォーならきっと気が付かをやる時と同じ具合に戦争談もやれば難船談もやる。 デフォーと普通の人との差は筆で書くのとロでしゃべ 気が付いても書く価値がないとして書かないこ ( 2 ) うけあい われ / 、、 と受合である。けれども吾々普通の人間から見ればこるとの巡である。そのうえに彼は用事を処弁する気で 月旨卩を力している の息をはすませて噛り付くというところに人間が存在 : The mountain wooded ( 0 the peak, the lawns 評しているように思われる。これでこそ人間が器械らし 学 And winding glades high up like ways ( 0 幻 く見えない。文章に油が乗って、感情があらわれてく 文 Heaven. る。デフォーにはこの感情がないのである。

3. 夏目漱石全集 15

はすこぶる僅少である。その僅少ななかで彼を理解しのとおり、十八世紀の文学を論するからというて十八 た者はきわめて少ない。レスリ 1 ・スティーヴンの説世紀の哲学を論ずる必要はまったくなくなる ( 哲学を によると、 The attempted answers are a suffcient 文学と見做せば格別たが ) 。それだから今十八世紀の proof that even the leaders Of opinion were 哲学をちょっと述べるまえに哲学と社会とはどんな関 impenetrable ( 0 his logic. Men of the highest 係があるか、少し考えてみたい。 「 eputation completely failed ( 0 unde 「 stand his 哲学者の説がいかに難渋艱険にせよ、いかに空漠曖 impo 「 tance. ( ミ g = Thought 、守ふ Ce ミミ ) 昧にせよ、いかに普通一般の人のむに入りがたく解し わか とあるのでも、その状況はよく分る。解せられなかっ がたきにせよ、狂人白痴の言語のごとくにせよ、その た著者はむろん心細い。解しえない社会一般もまた同説を生じた哲学者は砂澆の中に生れ出たわけのもので ( 2 ) たいざん 様に心細い次第である。 もない。太山の頂に湧いて出たものでもない。やはり 要するに昔から考えたうえへ後世の人がまた考える。他の普通の人と同じく同形同状の社会に生れたのであ そのうえにまた考えるので、考がむやみに普通の人のる。その衣服は社会の人の着る衣服で、その食物は社 頭を乗り超えてこんな次第になるのである。さてかよ会の人の食う食物である。もし学校があればやはりそ うに一般社会のうえに超然たる思想が一般社会に対しの社会の学校で教育さるるのである。したがってその てどのくらいな影響があるだろう。普通の人に読めも生長した社会の影響はどんな風変りの人でも免れるわ こう せす、また分りもせぬものがどうして世の中に感化をけにはゆかぬ。もしその社会の影響を蒙むらぬとい ) からだ 与えるだろう。もし与えぬとするならばこの哲学者の以上は自分が吸っている空気が自分の身体に影響がな ( 1 ) とうじんげいご 考というものはたゞ唐人の囈語として他の社会の現象 いと主張するようなものである。すると哲学者の考の とは切り離しておけばよい。今この場合においてもそ全部はとにかく、一部分はぜひともその社会の考が反

4. 夏目漱石全集 15

から纏めて並べてみると、下の数書である。 W. C. Sydney 著 E ~ ~ g 洋 0 、、ミ English 「 . B. Boulton 著 T 、ミミまきミミ。、 0 ミ ト 0 、ミ 0 、 ~ Dr. Traill 編修 50C ~ ミ、 ~ g こ、 ~ 斗 十八世紀の部 「 . Besant 著ト 0 ~ 0 洋 in the ~ 、ミ h Century. A. Barbeau 著 Life 洋 d トミ、 e こ、 Ba 、 h ~ ゞ、守 E ~ g 、 en 、 Cen 、 r W. Hogarth 画集 これらの書物には、普通の歴史または文学史などに 書いてない、裏面生活の状態が述べてある。普通の参 考書とは趣が違うから、掲けておく。その他の論説・ 原作・または批評・歴史等でこの講義に縁故の深いも 評のは、その都度紹介しただけでたくさんだから省く。 学以下にはこういう性質の参考書が出てこない。だから 特別な目録を付けない。しかし他人の説を引くときは、 っ あきら その出所を明かにして責任を明かにする。 195

5. 夏目漱石全集 15

りようじよく むこ ( 2 ) と、てんから毎って凌辱を加えるが、いざ向うからシドニーという人の『十八世紀におけるイギリス』と う書物 ( これはこの講義を作るにたいへん参考にな 明るい松明の火が見えたとなると、さっそく逃けだ これ等った書である。ついでをもって著者に謝意を表してお してしまう。貴人の馬車、富者の供揃、 く ) にこんなことが書いてある。 には決して掛からない。 会 Roughly speaking, a fine gentleman of the これは泥棒のことではない。またロンドンの真中の ( 1 ) あすかやま ことでもない。しかしいくら場末だって、飛鳥山だっ Georgian era ordinarily began 】 e day about いたすら て、普通の人間の悪戯がこのくらいだとすれば、本職 ten 0 一 ock in tl 】 e forenoon by a general recep ・ tion Of visitors in his dressing chamber, having の横行は思いやられた次第である。 first fortified himself for that arduous task bY ロンドンの住民 swallowing a cogue 0f Nantsey. When the last ロンドンの住民の上層は開化して富有であった。商 batch of callers had taken tl 】 eir departure he rose and placed himself under the superintendence 人もこれに次いで開化しておった。下等社会にいたっ ては野蛮である、殺伐である、俗悪である。品格の点 of his valet for about two hours. Now was において上下の区別が甚しいのみならず、同じロンド brought into requisition his extensive assortment ことな ン中でも所によって気風が大いに異っておった。これ 0f pe 「 fumery ー 0 一一 Venus, も一ユ ( 0 ( lavender, は今のように電車とか鉄道馬車とか汽車とかいう軽便 atar 0 ( ros 窃》 spirit 望 cinnamon 日 eau-de-luce— among Others , ー with which the varrous Of 評な交通機関が備わっていなかったためで、一端から一 おっくう 学端に行くのにたいそう億劫であったからである。そこ attire were severall} 「 and ca 「 efully 「 sp 「 inkled. Then, as now, there were vogue sweetly ・ で日常彼等はどんなことをして暮らしたかというと、 さっげつ はなはだ ともぞろえ

6. 夏目漱石全集 15

overmatched in some distant part of the world 第によれば彼等が自分に対して小さかったように、 whereof we have ) 「 et no discovery 「 . 彼等に対して一段小さい人民に出浄わぬとも限らぬ。四 胸騒ぎのするあいだにもリリノ 。、ツトのことは考え またこの巨大なる人間どもといえども、どこかまだ た。彼等は自分を自然界の大怪物のように考えてい 吾人の知らぬ遠い世界の涯で、とても敵わないよ ひつば でつくわ - 」 0 ロソけ・ . 。ハットでは帝国艦隊を片手で引張ったこと うに大きな人種に邂逅すかもしれない。 もあった。そのほか帝国の年代記に特筆大書されべ これはむしろ議論である。議論といわんよりは川 き事をいろ / \ 遣 0 た。後世に至 0 ては、たとえ万ヴァー自身の回想であ 0 て、前に挙けた例のような客 人が口を揃えて証明してもなか / \ 信じられそうも観的記述ではない。けれどもこの回想のなかにはに ない仕事を遣 0 た。その自分が今この国へ渡 0 てきでも共通に興味のある概念を含んでいる。人間は大き たくま て、あたかも小人国の人間が普通の世の中へでも現 くなれば成るほど傍若無人の非行を逞しくする。また われたように意気地がなか 0 たらいかにも心外千万人間の大小なども要するに比較的のもので、小人国で なことであろう いや、それくらいの不幸はまだ取は山のような男と呼ばれたガリヴァーが大人国へ来る えん懸ん るに足らぬ。人間というものは身体が大きければ大と宛然たる小人国民である。同時に小人国の住民の目 きいほどだん / 、残酷に成るものだということだか にさえもさらに小人国の民と見えるような小人がない おおおとこどくま ら、まっさきに自分を見付けて捕まえた巨漢の毒 とは限らん。とこういった哲理は少しく頭脳の発達し わか にかけられて、一口に喰われてしまうのはまのあた た人には誰にでも解る。解るはむろん読まぬ前から解 くら りである。昔の哲学者がものは較べたうえでなけり っているかもしれないが、こう書いてあるといまさら や大きいことも小さいこともないといったそうだが、のように感じる。そこが手際である。しかも前の小人 ま 0 たくそれに相違ない。小人国の住民だ 0 て、次国の話の次ぎにこの章句が出るので、なおい 0 そう対 や かな

7. 夏目漱石全集 15

かくのごとき交通の不便から起る結果は、考なくて「郷士の大多数は単なる植物同然で、同じ地面の上に めいりよう も明瞭である。つまり田舎は田舎、都会は都会と各独生えて、同じ地面の上で立ち枯れになるにすぎなかっ きつねが た」。彼等はなんという仕事もしない。たゞ狐狩りば 立して、その間に画然たる区別ができてしまうにきま おの っている。彼等は己れの村に住んで、己れの家に起臥かりやっていた。寺の坊主はまたひどく貧乏なもので するだけである。生濺大都会の様子を知らず、また都あって、百姓の賃銀以下の費用で、ようやく生活して しよもったな ひとりあ 、こ。したがって品格もない、書物棚も入らない。 から来たものには一人も遇わずに死んでしまったくらナ のり その他未開の例を一二挙げると、糊づきの状袋さえ いである。一七七〇年に本屋の主人でハットンという , ーミンガムからして古戦場の見物かできていなかった。手紙を書くと、上紙へ封蝋をべた 男がその生地のミ おも たがたレスタ 1 シャ 1 のある村へ行ったら、そこらのりと押したものである。会食があっても飲食以外に面 しろたんべい 者くハットンを見て妙な奴が来たというので犬を嗾し白い談柄を持っているものはまるでない。ずいぶんな ものもち かけたそうだ。 ' ジ , ン・ウ = スリーが地方を旅行した物持でも自分で織った衣服を着る。少々上等な衣服に うしろ 時には、村民が大声を挙げて車の後から追いかけてきなると子々孫々に伝える。あたかも今日の日本人のよ へきゅう うである。チャールス二世時代の帽子をジョ ージ三世 たくらいである。現今日本の寒村僻邑へ行ったってこ きようおうぶ んな饗応振りはあるわけのものでない。彼等が都会のの時に被っていた連中さえあったという。労働者など 状況を知る機会は、まず田舎回りの小商人を捕まえるは肉も食えなかった。普通の麺麭さえ食わなかったも おおむぎパ / か、または近所の庄屋のところへ来た新聞の古いのをのもいる。大麦麺麭を噛っていた。なお述べることは じようちょう たくさんあるが、冗長になるからこれで已めておく。 台所から拾ってきて、隣人を集めて朗読する時くらい のものである。第一その庄屋なるものが今の紳士など 十八世紀の社会風俗を研究するに都合の好い書物は、 という品格はむろんないので、ある人の評によると講義中にも紹介しておいたが、第二編の結末に達した やっ かん・かえ ( 2 ) や ふうろう 194

8. 夏目漱石全集 15

( 1 ) しよう 朗である ( 峭に対しては ) 。これだけを頭のなかへ入ったならその時に限って超自然の名を付けることがで れておいて、ポー。フが超自然の要素をどんなに取り扱きることになる。 かったかを調べる。しかしそのまえにまだちょっとお次には、自然界には超自然の要素を含んでいないと 見る立場もある ( むろん哲学的にいうのではない ) 。 話をしておきたいことがある。 超自然とは字の示すごとく自然を超越したものであすなわち超自然界は自然界と独立して存在している。 る。したがって自然 ( 大きな意味でいう ) を借りなけこれをあらわすに自然を借りるのは、借りなければ表 れば描写できないものである。しかし描写の手段からわせないから借りるたけで、同物だから、もしくは甲 いえば借りるに違いないが、世界観からいえば、自然が乙を含んでいるから、片方で片方を説明するのでは そのものが超自然の表現と断ずることもできる。するないということに帰着する。 この二つの見方で、文学もたいへん趣を異にした種 と名は超自然でも実は自然にすぎない。だから自然の そな 活動を描写すればたゞちに超自然の描写になる。こう 類の超自然要素を具えることになる。しばらくこれを なづ してしまえば別に超自然という類別を設ける必要はな内的・外的と名ける。内的のうちで草木山川はいざ知 まったくの蛇足である。次にはその範囲をめてらす、吾々人間に関した超自然は、要するに心理上の 考えることもできる。尋常の活動は自然として見做す。間題に帰着する。真偽の判定を下しがたい、研究の余 けれども尋常ならざるもの、普通の因果法で解けぬも地のある、不可思議になる。換言すれば超自然が自然 に変化するかも計りがたい現象になる。したがっても の、普通の経験に上らぬもの、これ等を一括してこの ( 2 ) 名を付ける。すると吾人凡人も時によると超自然の活 0 とも仮感を打破しがたきものである。もし真の意義 学動をやらないとも限らない。草・木・山・川・禽・獣においての神秘主義を求めたらばこれよりほかにある もそのとおり、 必ず遣るとは申さないが、もし遣まいと思う。草木山川についても同様の論理は応用で 371

9. 夏目漱石全集 15

人間の研究が人間相応のところなり。 同上 する返答は次のごとくである。 An honest man's the noblest work of God. 元来陳腐な真理は残り易い傾向を有している。残る からといって、珍らしがって保存されたのではない。 同上 正しき人は神の最も尊き作物なり。 実は有り触れたことだから残ったのである。陳臠とい ( 3 ) 'Tis the first virtue. vices ( 0 abhor ・ うことは一方からいうと普遍的である、また永久的で And the first wisdom, to be f00 一 no more.' あるという意味にもなる。吾人の日常喰っている米ほ だれぜんむか —The F 亀、 ~ ・ st 0 、 the こ、 ど陳腐なものはない。誰も膳に向って飯を見た時はっ B00 of ・ H ミミミ . と思うほど心を動かす者はあるまい。それでも飯は昔 から今日に至るまで、常食として欠くべからざる食物 悪を憎むは第一の徳、鹿を巳めるは賢の姆まり。 と成っている。日常欠くべからざるものだからおのず 『ホレース第一巻の第一信』 と陳腐にも成る。逆にいえば、陳腐なればこそ欠くべ これ等の例を見ても知らるるごとく、その内容は一 ながもち 般に抽象的、概括的である。同時に普通の人が考えてからざるものでもある。したがって永持もしようとい もそう驚ろくほどのこともない、まあ陳腐なものであうことにもなる。これと等しく、ポープが詩に表わし る。 た実際的判断や抽象的真理も皆ポープ時代の人の心に ③かように陳腐な思想ならば、それがべつだん後世まえの世から伝わったもので、それと同じ意味におい に残りそうもない。よしゃ残るにしてもポー。フの句とて、その時代からまた今日に伝わるのであるからして、 評して残る必要もあるまい この普通の思想が、ほかのたとえポープがこれを詩にしないでも、なんらかの形 形式で残っても可さそうなものであるのに、ポープの において伝わるべき性質のものである。いわば吾人の 文 ことわざ 句と成って残るのはいかなる訳であろうか。これに対飯のようなものだ。犬も歩けば棒に当るという諺があ 351

10. 夏目漱石全集 15

ひきっゞ かくげんじ りも、教的な格言染みた句のほうが有難い気持のす上せた結果が今日まで引続いたものであろう。読者に ことわざ るものである。日本人のような感情的な国民ですらやしてもし世の諺なるものがいかにこれと同性質のもの はりそうである。試みに普通俗人のロに膾炙する名句であって、いかに永久の生命を有しているかを解する ならよ、。、 ホープの句が今に至るまで人々に暗唱されて といわれるものを取って調べてみると、この種のヘぼ うなす ! しよう いる理由もおのすから点頭かれるであろうと思う。か 理屈を含んだ句がすこぶる多い。たとえばの「道 嫻の木槿は馬に喰はれけり」という俳句がたいへん珍くのごとくにして後世に伝わるのは文学的たから残る 重されているのも、単にそのなかに一種の倫理的判断のではない、むしろ実際的効用があるから残るのであ があって風刺に成っているからである。そこに一種のる。内容からいうと文学として最も薄弱なものが最命 概括的真理が認められるからである。「塚も動けわが脈の長いものに成るのは実にこれがためである。こう いう訳であるから、ポープの句が最も多く人口に膾炙 泣く声は秋の風」の句のごときは十七字として悲壮の 極を尽している。その価値からいって木槿どころのするということは、必すしも彼が大詩人たることを証 いな、何人といえども単にこの種の事 ぎではない。けれども世間一般にはあまり知れていな明していない ひっきようい いというのは、畢竟謂うところの知的要素を欠くがた情からして大詩人であるということは断言できないの めにほかならないのである。これはあまたあるなかのである。 十プ , こ現わるる知的要素 次に考うべきは、。、ーの詩冫 一例にすぎないが、さてポープの詩についても同様の わかやす が皆通俗的で、普通の俗人にも解り易いものばかりで 事実がその命脈を支配しておりはせぬかと思われる。 ざんしん ひや 評なぜといえば、彼の最も好むところは冷やかな抽象的あるということである。彼の真理は斬新でもない、奇 一家独特の見識を含んでもいない。要す の真理であって、しかもその数が非常に多いからして、抜でもない。 世間一般の俗人はこれを名句だと思ってしせんにロへるに誰にでも通用する当然の事柄で、悪くいえば平凡 ( 2 ) つか ( 1 ) みち の洋 ことから き 349