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検索対象: 夏目漱石全集 4
384件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 4

1 ソて みきり 知ができぬという外れた鷹なら見限をつけてもう入 「小野さんに喧嘩ができるもんですか」 っ 「そうさ、たゞ教えてもらやしまいし、相当の礼をしらぬと話す。あとを跟けて鼻を鳴らさぬような大なら あと ているんだから」 ば打ち遣った後で、捨ててきたと公言する。小野さん 謎の女にはこれより以上の解釈はできないのである。の不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰 ち・かい るかもしれない。い や帰るに違ないと、小夜子と自分 藤尾は返真を見合せた。 ゅうべ 昨夕のことを打ち明けてこれ / 、であったと話してを比較した我が証言してくれる。帰って来た時に辛い あわ しまえばそれまでである。母はむろん躍起になって、 目に逢せる。辛い目にわせた後で、立たしたり、寐 かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさ こ 0 ちに同情するに巡記い。打ち明けて都合が悪いと うえせま はっゅ思わぬが、進んで同情を求めるのは、餓に逼っしたりする。そうして、面白そうな手柄顔を、母に見 ふたり はじめ かどぐち あわれみこ て、知らぬ人の門口に、一銭二銭の憐を乞うのと大しせれば母への面目は立つ。兄と一に見せれば、両人へ きのう それまでは話すまい。藤尾は の意趣返しになる。 た相違はない。同情は我の敵である。昨日まで舞台に ものう あやつりにんぎよう 躍る操人形のように、物言うも懶きわが小指の先で、返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に 意のごとく立たしたり、寐かしたり、はては笑わした失った。 じ 「さっき欽吾が来やしないか、と母はまた質間を掛け り、焦らしたり、どぎまぎさして、面白く興じていた しばふ てらがお あつば 手柄顏を、母も天晴れと、うごめかす鼻の先に、得意る。鯉は躍る、蓮は芽を吹く、芝生はしだいに青くな とんじゃく あれは、ほんる、辛夷は朽ちた。謎の女はそんなことに頓着はない。 の見栄をびくつかせていたものを、 す . 、きむこうなび 青亠おもてむき 日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書 の表向で、内実の昨夕を見たら、招く薄は向へ驩く。 人 むつま 美知らぬ顏の美しい人と、睦じくお茶を飲んでいたと、斎におればなにをしているかと思い、考えておればな弴 心外な蓋をとれば、母の手前で器量が下がる。我が承にを考えているかと思い、藤尾のところへ来れば、ど おもしろ

2. 夏目漱石全集 4

じれつ こ 0 少し緲が寄った。先生が熱度を計って、地烈たそうに ゅうだち 不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。タ立を「いえ、ちっと風邪を引いてね」 たより ぼんすぎありがた こすえ 野中に避けて、頼と思う一本杉を雌有しと梢を見れば 「はあ、そうですか。 もう若葉がだいぶ出ました いなすま こわ 稲妻がさす。怖いというよりも、年を取 0 た人に気のな」と言 0 た。先生の病気に対してはまるで同情も頓 かんしやく きげん じゃく 毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪なら、機嫌の着もなか 0 た。病気の源因と、経過と、容体をくわし 取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽く聞いてもらおうと思 0 ていた先生は当が外れた。 しようがない。かりそめの風邪と、当人も思い、自分「おい、ないかね。どうした」と次の間を向いて、常 きのうきよう かけ も苦にしなかった昨日今日の咳を、蔭へ回って聞いてよりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。 ち みると、医者は性質が善くないと言う。二三日で熱が 「はい、たゞいま」と小さい声が答えた。が験温器を 退かないと言って焦慮るような軽い病症ではあるまい。 持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて、 かん 知らせれば心配する。言わねば気で通す。そのうえ疳「はあ、そうかい」と気のない返をした。 を起す。この調子で進んでゆくと、一年の後には神経 浅井君は詰らなくなる。はやく用を片付けて帰ろう が赤裸になって、空気に触れても飛び上がるかもしれと思う。 ゅうべ 昨夜小夜子は目を合せなかった。 「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかり 「羽織でも召していらしったら好いでしよう」 なって。お嬢さんと結婚する気はないですよーとばた 孤堂先生は返をせすに、 ばたと順序なく並べた。 人「験温器。、 力あるかい。ひとつ計ってみよう」と言う。 孤堂先生の窪んだ眼は一度に鋭どくなった。やがて 小夜子は茶の間へ立つ。 鋭どいものが一面に広がって顔中苦々敷なる。 むぞうさ 「どうかなす 0 たんですか」と浅井君が無雑作に尋ね「廃したほうが好えですな」 しわ かたら 24 】

3. 夏目漱石全集 4

こ 0 か言って来る時分だが、あいにくの雨で : : : 」 「いやーーーそりやーーー御心配には及ばんです。体は貰雨を価く一両の車は輪を鳴らして、格子の前で留っ カらりと明くとたんに、ぐちやりと濡れた草鞋を いや貰わんです。貰た。 : わんことにしました。たぶん きら くっぬぎ 叙述は第三の車の うと言っても私が不承知です。作を嫌うような婦人は、沓脱へ踏み込んだものがある。 使命に移る。 倅が貰いたいと申しても私が許しません」 おんな 「小夜や、宗近さんの阿父さんも、あ & 仰しやる。同第三の車が糸子を載せたま、、甲野の門に々の響 を送りつ、馳けて来るあいだに、甲野さんは書斎を片 じことだろう」 ひきだし よろ ろけ 「私はーーー参らんでもーー、宜しゅうございます」と小付はじめた。机の抽出を一つすっ抜いて、いっとなく すて たま うしろ 夜子が枕の後で切れ / \ に言った。雨の音の強いなか溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。床 うすたか はんきれひざ でようやく聞き取れる。 の上は千切れた半切で膝のところたけが堆くなった。 「いや、そうなっちゃ困る。私がわざ / 、飛んで来た甲野さんは乱るる反故屑を踏み付けて立った。今度は した、 甲斐がない。ト / 野氏にもだん / 事情のあることたろ抽出から一枚、二枚と細字に認めた控を取り出す。な べージまと うから、まあ倅の通知次第で、どうか、先刻お話を申かには五六頁纏めて綴じ込んたのもある。たいていは ききすみ 自分で倅のことを西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目 したようにお聞済を願いたい。 わげ かれこれ申すのは異なものたが、儀は事理の分った奴見て、すぐ机の上へ重ねる。なかには半行も読ますに とりはからいいた で、決して後で御迷惑になるような取計は致しますま置き易えるのもある。しばらくすると、重なるものは から たかさ 小一尺の高まできた。抽出はたいてい空になる。甲野 人い。御破談になったほうがおためたと思えばそのほう うえした さんは上下へ手をけて、総体を暖炉の傍まで持 0 て はじめてお目に懸っ 美をお勧めしてくるでしよう。 むごん もうなんときたが、やがて、無言のま抛け込んだ。重なるもの たのたがどうか私を御信用ください。 あと おとっ せがれ やっ と な ひかえ わらじ とま 257

4. 夏目漱石全集 4

ぜん ううカ面の人を、こういうふうに、 こういう点で影 あが 響しようというのは、こ、に判然と具象的にでき上っ四 たものについていうことで、それを、作物のまたでき 上っていない未来のことについて、今こに判然とい うことはできない。 いかなるものを描かんと欲するかとの御質間である では過去の作物について話せというのですか。では が、私は、いかなるものをも書ぎたいと思う。自分の貴方のほうで質間を呈出してくたさい。それについて ぐびじんそう 能力の許すかぎりは、いろ / 、種類の変化したものをお答えすることにします。『虞美人草』の藤尾の性格 わがま、 書きたい。自分の性情に適したものは、なるべく多方は、我儘に育った我の強いところからきたのか、自意 面にわたって書きたい。しかし、私のような人間であ識の強いモグーンなところからきたのかというのです るから、それは単に希望だけで、その希望どおりに書か。それは両方に跨っている。単に自意識の強いモズ くことはできないかもしれぬ。で、御質間に対して漠 ーンなところを見せようという、 それを目的にして書 然としたお答えではあるが、たいてい以上に尽きてい いたなら、あ、は書かなかったであろう。しかし一面 る。私は、ある主義主張があって、その主義主張を創 においてはそれも含んでいる。従順な女と、我の強い 作によって世に示しているのではない。であるから、女を、藤尾と糸公によって対照させ、そして、そうし こういうものを書いてこうしたいという 、局部的な考た性格の異る二個の女性の運命を書いて見せたのかと えは別にない。したがって、社会一般に及ぼす影響と いうのかね。別にそんな考えはない。必ずしも自意識 か、感化とかいうけれども、それも、作物の種類、性の強い女はあ、いうふうに終るものでヘお糸のように 質によっておのずから生じて来るものであるから、こ順良な女は、あ & いう結果になると定ったものではな 「予の描かんと欲する作品」

5. 夏目漱石全集 4

んは、うまく逃ける 0 「え、 ? ーと変な顔をする 「兄のほかにですか」 「昼間もそんなに忙しいんですか」 「え、」 「昼間って : : : 」 「兄に聞いてごらんになればい、のに ホ、、、まだ分らないんですか」と今度はまた庭ま きげん かんだか 機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、 で響くほどに疳高く笑う。女は自由自在に笑うことが うす ことば ぼうぜん こうか渦の中を漕ぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶできる。男は茫然としている。 ら下がって、往ったり来たりするうちに、 いつのまに 「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」 おとな ひざ ・タイ やら平地へ出ることがある。小野さんは今まで毎度こ と言って、両手を大人しく膝の上に重ねた。燦たる金 ヤモノド の手で成功している。 剛石がぎらりと痛く、小野さんの目に飛び込んでくる。 ほっぺたたゝ 「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、はやく上 小野さんは竹箆でびしやりと頬辺を叩かれた。同時に がろうとして急いだもんですから」 頭の底で見られたという音がする。 「ホ、、」と突然藤尾は高く笑った。男はぎよっとす「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませ すき たゝ じんだてそうくすれ る。その隙に んよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩 むとゞけ 「そんなに忙しいものが、なんで四五日無届欠席をしとなる。 たんです」と飛んで来た。 「実は一週間まえに京都から故の先生が出て来たもの 「いえ、四五日たいへん忙しくって、どうしても来らですから : : : 」 れなかったんです」 「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃお いそがし 「昼間も」と女は肩を後へ引く。長い髪が一筋ごとに忙いわけね。そうですか。そうとも知らすに、とん うそぶ 活きているように動く。 だ失礼を中しまして」と嘯きながら頭を低れた。緑の ひらち うしろ さん 152

6. 夏目漱石全集 4

晩かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので : : : 」 いかは分りませんが、ます貰っていたゞいたと致した あと 「でございますとも」 ところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようで 「ついては、その、藤尾さんなんですがねー は私も実のところはなはだ心細いようなわけで : : : 」 、、そう心しちゃ際限がありませんよ。藤尾 きごころ 「あのかたなら、まあ気心も知れているし、私も安心 さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る だし、一はむろん異存のあるわけはなしーーー・よかろう わけだから、し、せんと考もちがってくるにきまってい と思うんですがね」 る。そうなさい」 「そういうものでございましようかね」 おっかさんかんがえ おとっさん 「どうでしよう、目 阿母のお考は」 「それに御承知のとおり、阿父がいっぞや仰しやった 「あのとおり行き届きませんものをそれほどまでに仰こともあるし。そうなれば亡くな 0 た人も満足たろ しやってくださるのはまことに難有いわけでございまう」 つれあい 「いろ / 、御親切に難有う存じます。なに偶さえ生 「いゝじゃ、ありませんか」 きておりますれば、一人でーー・こんーーーこんな心配は しあわ よろ 「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で : : : 」 致さなくっても宜しい のでございますが」 「御不足ならともかく、そうでなければ : : : 」 謎の女の言うことはしだいに湿気を帯びてくる。世 きら 「不足どころじやございません。願ったり叶ったりで、に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。かろうじて謎の女の 草 人 このうえもない結構なことでございますが、たゞ彼人謎をこ、まで叙し 0 た時、筆は、一歩も前へ進むこ 美に困りますので。一さんは宗近家をお襲ぎになる大事とが厭だと言う。日を作り夜を作り、海と陸と儿てを ( 1 ) なぬかめ な身体でいらっしやる。藤尾がお気に入るか、入らな作りたる神は、七日目こ 冫いたって休めと言った。謎の おそ かな わたし おっ 川 9

7. 夏目漱石全集 4

「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうです「藤尾のような女は今の世に有すぎて困るんですよ。 あふ 気を付けないと危ない。 まぶた 女は依然として、肉余る瞼を二重に、愛嬌の露を大 「そうよ、 。し力ない」 したー、ら うまっき 「だって、これが生れ付なんだから、いつまで立ったきな眸の上に滴しているのみである。危ないという気 色は影さえ見えぬ。 って、変り様がないわ」 おとっさんにい 「藤尾が一人出ると昨夕のような女を五人殺します」 「変ります。ーー阿爺と兄さんの傍を離れると変りま とっさ あざや した、 鮮かな眸に滴るものはばっと散った。表情は咄嗟に おそろ ことば ーーその他 「どうしてでしようか」 変る。殺すという言葉はさほどに怖しい。 の意味はむろん分らぬ。 「離れると、もっと利口に変ります」 「あなたはそれで結構た。動くと変ります。動いては 「私もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利ロ いけない に変れば変るほうがい、んでしよう。どうかして藤尾 「動くと ? 」 さんのようになりたいと思うんですけれども、こんな 馬鹿たものだから : : : 」 「え、、恋をすると変ります」 甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない 女は鬮喉から飛び出しそうなものを、ぐっと嚥み下 くちもと 口元を見ている。 した。顏はルになる。 うらやま 「嫁に行くと変ります」 「藤尾がそんなに茨しいんですか」 うつむい 女は俯向た。 「えゝ、ほんとうにまましいわ」 「それで結構だ。嫁に行くのは勿体ない」 美「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。 「なにと糸子は打ち解けている。 可愛らしい二重瞼がっヾけさまに二三度またたいた。 ゅうべ もったい の け 乃 9

8. 夏目漱石全集 4

後の始末が大事ですよ。こうな 0 ちゃ、ぜひ甲野さん「偽の子だとか、ほんとうの子だとか区別しなければ あたまえ にいてもらうより仕方がないんだから、その気にな 0 好いんです。ひらたく当り前にしてくだされば好いん て遣らないと、あなたが困るばかりだ」 です。遠慮なんそなさらなければ好いんです。なんで 母はわ 0 と泣きだした。過去を順みる涙は抑えやすもないことをむずかしく考えなければ好いんです」 。卒然として未来におけるわが運命を自覚した時の 甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。 涙は発作的に来る。 あるいは理解できないからかと思う。甲野さんは再び 「どうしたら好いかー・。ーそれを思うと・・・ - ーー一さん」 口を開いた。 うち 切れん \ の言葉が、涙と洟の間から出た。 「あなたは藤尾に家も財産も遣りたかったのでしよう。 わたし 「御叔母さん、失礼ながら、ちっと平生の考え方が悪だから遣ろうと私が言うのこ、 冫いつまでも私を疑って かった」 信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家にい ふゆきとゞき 「私の不行届から、藤尾はこんなことになる。欽吾に るのを面白く思っておいででなかったでしよう。だか つらあて は見放される : : : 」 ら私が家を出ると言うのに、面当のためだとか、なん 「だからね。そう泣いたってしようがないから : : : 」 とか悪く考えるのが不可ないです。あなたは小野さん めんぼく 「 : : : まことに面目次第もございません」 を藤尾の養子にしたかったんでしよう。私が不承知を 「だからこれから少し考え直すさ。ねえ、甲野さん、 言うだろうと思って、私を京都へ遊びに遣って、その そうしたら好いだろう」 留守中に小野と藤尾の関係を一日 / 、と深くしてしま 「みんな私が悪いんでしようね」と母ははじめて欽吾 ったのでしよう。そういう策略が不可ないです。私を に向った。腕組をしていた人はようやく口を開く。 京都〈遊びにやるんでも私の病気を聳すために遣 0 た んたと、私にも人にも仰しやるでしよう。 そういう嘘 あと むか わたし おさ おもしろ おっ うたぐ 270

9. 夏目漱石全集 4

かたひげ 引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭が縮んだ卵色の襯衣の袖が正面に見える。 かど つき からたじようぶ じねんお うわくちびる 「身体を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だか 上唇を沿うて、自然と下りてきて、尽んとする角か ひとみ ま ら、急に捲き返す。ロは結んでいる。同時に黒い眸はら : : : 」 あごのど 句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎を咽喉へ押 眼尻まで擦ってきた。母と子はこの姿勢のうちに互を たび し付けて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重 認識した。 なっている。母の足は見えない。母は出直した。 「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。 うっとうしく うわぐっ むごん 「身体が悪いと、つい気分まで鬱陶敷なって、自分も 無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、 おもしろ 面白くないし : : : 」 洋卓の角まで足を運ばした時、はじめて ことば 甲野さんはふと目を上けた。母は急に言葉を移す。 「窓を明けましようか , とゆっくり聞いた。 「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」 「どうでもーー・母さんはどうでも構わないが、たゞお うっとう 「そうですか」 前が鬱陶しいたろうと思ってさ そうですかって、他人のことのように。 無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。 なんだか顏色が丈夫 / \ してきたじ 2 、ないか。日 促がされたる母はます椅子に着く。歔吾も腰を卸した。 「どうだね、エ合は」 に焼けたせいかね」 ありがと 「そうかもしれない」と甲野さんは、百を向け直して、 「難有う」 窓の方を見る。窓掛の深い襞が左右に切れる間から、 「ちっとは好いほうかね」 かなめ なまへんじ 「えゝ まあーーー」と生返事をした時、甲野さんは扇骨木の若葉が燃えるように硝子に映る。 背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲「ちっと、日本間の方へ話にでも来てごらん。あっち の上へ左の外踝を乗せる。母の目からは、たゞ裄のは、からっとして、書斎より心持が好いから。たまに めじ ) そとくろふし おっか ひら おろ こう につぼんま シャッ のそ おっか

10. 夏目漱石全集 4

まいとし 「毎年俗になるばかりですね。昔のほうがよほど好 ましたがその時がちょうど八分どおりでした」 「そのくらいでしよう、嵐山は早いですから。それは 近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんと 結構でした。どなたと御いっしょに」 おびたゞ ほしづきょ 花を石る人は星月夜のごとく夥しい。しかしいっしばたりと合った。小夜子ははっと思う。 「ほんとうに昔のほうが : : : 」と言い掛けて、わざと ょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。 父でなければーーーあとは胸のなかでも名は言わなかっ庭を見る。庭にはなんにもない。 こ 0 「私が御いっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑 とう 沓しませんでしたね」 「やつばり阿父とですか」 小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を 「えゝ」 まむき おもしろ 「面白かったでしよう」とロの先で言う。小夜子はな向いた目は、ちらりと真向に返る。金縁の眼鏡と薄黒 ひとみ くちひげ い口髭がすぐ眸に映る。相手は依然として過去の人で ぜか情けない心持がする。小野さんは出直した。 いとくち はない。小夜子は床しい昔話の緒の、する / \ と抜け 「嵐山も元とはたいぶ違ったでしようね」 出しそうな咽喉を抑えて、黙って口をつぐんた。調子 「え大悲閣の温泉などは立淤に十請ができて : づいて角を曲ろうとする、どっこいと突き当ることが ある。品のい、紳士淑女の対話も胸のうちでは始終突 「そうですか」 ( 2 ) こ・こうつほね き当っている。小野さんはまたロを開く番となる。 「小督の局の墓がござんしたろう , 「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませ 「え & 、知っています」 みんなかけちやや 「あすこいらは皆掛茶屋ばかりでたいへん賑やかになんねー 「そうでしようか」と小夜子は相手を諾するような、 りました」 おとっさん にぎ かど おさ ざっ