明治 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 4
52件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 4

たものの総称で、世話物に対して用いられるが、ここは、 のち早田大学文学部長にもなった。 過去の時代を取扱った作品の意味。 明治十二年ー昭和十 ( 2 ) 坂元 ( 当時白仁 ) 三郎 かふき じようるり ( 7 ) 世話ものふつう、歌舞伎・浄瑠璃などで使わ 三年 ( 1879 ー 1938 ) 。能楽批評家。雪鳥と号す。朝日新 しようへ れる言葉であるが、その他小説・戯曲・芝居などにおい 聞社が漱石を招聘した際、使者として漱石のもとを訪れ て、現代の世態・風俗・人情を、現代の事件に取材して た人。当時東京帝国大学国文科学生。熊本第五高等学校 描いたものにもいう。 時代の漱石の教え子であったところから、朝日新聞社で あやつりにんきよう 三 C 七 ( 1 ) ダーク一座の操人形第一巻四六川ページ分 はこの人を使者に立てた。 ( 4 ) 参照。 ( 3 ) その節のお話の義朝日新聞社入社について ざうがん の話。 三 0 〈 ( 1 ) 象嵌「象眼」とも書く。金属・木材・陶磁器な どの材料に他の同種の材料をはめ込んで飾りとする技術。 ( 4 ) 大学より英文学の講座担任の相談これあり候 三一 0 ( 1 ) レヴェレーション revelation ( 英 ) 。天啓。 鏡子夫人の思い出によれば、漱石の友人で東京帝国大学 神のお告げ。 教授の大塚保治を通して、英文学の講座担任および講師 三一一 ( 1 ) 「縁」明治四十年っ 907 ) 二月の「ホトトギス」 から教授への昇格の話がなされたという。当時の専任教 授の月収は百五十円であった。 巻頭に掲載された野上弥生子の処女作。その際漱石のこ の手紙の全文が「漱石氏来書」として載せられ、序文の ( 5 ) 池辺氏池辺三山 ( 一兀治元年ー明治四十五年、 てつこんろん 役をつとめた。 1864 ー 1912 ) 。本名吉太郎。別に鉄崑崙とも号した。当 明治三十九年 ( 1906 ) 五月「ホトト ( 2 ) 「千鳥 , 時の東京朝日新聞主筆。 ギス」に発表された、鈴木三重吉の処女作にして出世作。 ( 6 ) 村山氏村山竜平 ( 嘉永三年ー昭和八年、 1850 三三 ( 1 ) 片上伸 明治十七年ー昭和三年 ( 1884 ー 1928 ) 。 ー 1933 ) 。当時の朝日新聞社社主。 批評家。ロシア文学者。天弦と号した。早稲田大学卒業三一四 ( 1 ) 去年中に小生がなしえたる仕事明治三十九 後、島村抱月の主宰する「早稲田文学」の記者となり、 年 ( 1906 ) 中に漱石は「吾輩は猫である ( 九ー十一 ) 」

2. 夏目漱石全集 4

音の霊場として知られた。徳Ⅱ 丿家光によって再建された の「読売新聞」に掲載された。 ( 全集第十四巻所収 ) 本堂は、「清水の舞台」として国宝に指定され、ここから三一一 0 ( 1 ) 中川の序文「文学論」草稿の整理に当たった の眺望は市内随一といわれる。 中川芳太郎の序文。 ( 7 ) 鳥居氏鳥居素川 ( 慶応三年ー昭和三年、 1867 ( 2 ) 最後の所「韮才浅学にして先生を労すること はなはだ しよく あた ー 1928 ) 。当時の「大阪朝日新聞」主筆。「草忱」 ( 全集 甚しくついにその囑を全くすること能はず、更にその しようへ、 しかん 第三巻所収 ) に感激して漱石招聘発案した人。 刊行の遅延を招きしは余の至憾なり」とある。 みやこをどり 〈 ( 1 ) 京の都踊明治四十年 ( 】 907 ) 四月十七日の ( 3 ) 渋川柳次郎 明治五年ー大正十五年 ( 1872 ー 19 「国民新聞」に発表された高浜虚子の「塔」の中の「春 26 ) 。当時東京朝日新聞社の社会部長のような仕事をし 雨」 ( 下 ) をさす。 ていた人。玄耳と号す。藪野椋十のペンネームで活躍し よろづや 」 0 ( 2 ) 万屋四月十六日に掲載された前記「春雨」 ( 上 ) をさす。 ( 4 ) 金尾出版書店金尾文淵堂をさす。 ( 3 ) 人工的インス。ヒレーション明治三十九年 ( 5 ) 十八世紀文学漱石が明治三十八年 905 ) 九 ( 1906 ) 七月三日の高浜虚子宛書簡 ( 全集第三巻三九七ペ 月から四十年三月まで東京帝国大学で行なった講義「十 ージ ) 参照。 八世紀英文学」で、四十二年、春陽堂から出版された 三一九 ( 1 ) 七夕さま明治四十年 ( 1907 ) 六月の「ホトト 「文学評論」 ( 全集第十五巻所収 ) のこと。 ギス」に掲載された野上弥生子の小説。 三一三 ( 1 ) 受けやった「受けあった」のなまり。 ひきてちやや ( 2 ) 引手茶屋遊廓で、客を妓楼に案内する茶屋。三一一三 ( 1 ) 金子堅太郎君嘉永六年ー昭和十七年 3 ー 中宿ともいう。 1942 ) 。政治家。明治憲法起草者の一人で、明治三十九 すがた ( 3 ) テコ舞姿手古舞姿のこと。祭礼などで、芸妓 年 ( 186 ) 枢密顧間官に親任された。 みこし が男装して鉄棒をひき、神輿の先駆をする姿。 ( 2 ) お産明治四十年 ( 1907 ) 六月五日に長男純一 ( 4 ) 文学論の序明治三十九年 ( 1906 ) 十一月四日 が生れた。

3. 夏目漱石全集 4

注 元 0 ( 1 ) 依々趣味、恋々趣味「依々恋々」 ( 離れがた 明治三十八年 ( 1905 ) 一月号 ( 6 ) 京の隧道を・ : く恋慕うさま ) をわけていったもの。 「ホトトギス」に「非片々文学」と題して発表された「影 ねすみ 法師」の一編をさす。 ( 2 ) 交番の前で鼠をぶら下げている第二巻四二 七ページ一四 ( 4 ) 参照。 ( 7 ) 大内旅宿明治四十年 ( 1907 ) 七月号「ホトト さら てんぐれん ギス」に発表。『鶏頭』所収。 ( 3 ) 天狗連のお浚え義太夫・清元など、その道の 達人とうぬ・ほれている人たちの練習。 元一一 ( 1 ) 第一義当時の自然主義の文芸批評によくでて 処理しない。やってしまわない。 くる語で、人生の根本的な意義をさす。 ( 4 ) 弁じない そうえんおしよう ふうりゅうせん・・う ( 5 ) 風流懺法明治四十年 ( 1907 ) 四月号「ホトト ( 2 ) 宗演和尚釈宗演 ( 安政六年ー大正八年、 1859 ギス」に発表。『鶏頭』所収。 ー 1919 ) 。号は洪岳。明治一一十五年 ( 1892 ) 、鎌倉円覚寺 な力い の管長となり、三十六年、建長寺派の管長ともなった。 ( 6 ) 仲居茶屋などで客に応接する女中。 いかるがものがたり 漱石は、二十七年十二月、この人のもとで参禅した。 元一 ( 1 ) 斑鳩物語明治四十年 ( 】 907 ) 五月号「ホトト ふもみしよう ギス」に発表。『鶏頭』所収。 ( 3 ) 父母未生以前本来の面目禅語。絶対無差別 の本来の姿。 ( 2 ) 楽屋明治四十年 ( 19Q7 ) 三月号「ホトトギス」 きよれいこうけっ に発表。『鶏頭』所収。 ( 4 ) 虚霊皎潔な心持心を空しくした清らかな気持。 てりはきようげん ( 3 ) 照葉狂言明治末期までおこなわれていた大衆元一一 ( 1 ) 歉風明治三十八年 ( 1905 ) 十二月号「ホトト 演芸の一種で、狂言に俗謡や舞踊・所作ごとなどをまじ ギス」に発表。『鶏頭』所収。 えたもの。泉鏡花の小説「照葉狂言」に描かれている。 『虞美人草』予告 ( 4 ) 勝敗明治四十年 ( 1907 ) 十月号「ホトトギス」 はうりゅうし 小宮豊隆。 に発表。『鶏頭』所収。 一一九 . 五 ( 1 ) 豊隆子 一、し力しー もりかわちょう ( 5 ) 低徊拍掌の感そこに現われている低徊趣味に ( 2 ) 森川町文京区森川町。東京大学正門前の町。 拍手喝采したくなるような気持。 すいどう 407

4. 夏目漱石全集 4

較的痛切な題目に対する虚子の叙述的態度は依然とし て余裕があるようである。虚子は畢竟余裕のある人か もしれない。 明治四十年十一月 ( 明治四一・一・ ひっきよう 294

5. 夏目漱石全集 4

目次 虞美人草 京に着けるタ 写生文 高浜島 虚子著『災頭』序 『虞美人草』予告 「予の描かんと欲する作品」 入社の辞 日一記 ( 明治四十年 ) 書簡 ( 明治四十年 ) 一一七九 一一九六 三 8 三 0 三 三 0 六 一一七四

6. 夏目漱石全集 4

三四三 ( 1 ) 畔柳都太郎英文学者。第一高等学校教授。 出版された高浜虚子の短篇小説集「鶏頭」の序文 ( 本巻 三 ( 1 ) 「やもり」明治四十年十月の「ホトトギス」に 所収 ) 。この中で漱石は「余裕のある小説」「余裕のない 掲載された寺田寅彦の「やもり物語」。 小説」「低徊趣味」などについてかなりくわしく説明して ( 2 ) 牛込区早稲田南町七番地漱石の生家に近い しゅうえん 家で、漱石終焉の家となった。第二次大戦のため、母屋三四六 ( 1 ) 深田康算美学者。一高教授。のち・京大教授。 おほまちけいげつ から切り離して保存されていた客間と書斎とは消失して ( 2 ) 大町桂月君の夏目漱石論明治四十年十二月 今はないが、漱石山房跡として猫の墓が残っている。 に広文堂から発行された大町桂月の「半生の文章」に ( 3 ) 巌谷季雄明治三年ー昭和八年 ( 1870 ー 1933 ) 。 「夏目漱石論」というのが入っている。 号、漣山人・大江小波など。童話作家・小説家・俳人。 ( 3 ) 趣味の男当時の雑誌「趣味」に関係していた 人物の意味。 明治二十八年来博文館に入って、「少年世界」ほかの少年 うけ 雑誌を主宰、文学的香気たかい少年読物を発表していた。三四七 ( 1 ) 有卦陰陽道で定めた幸運の年まわりで、この ( 4 ) 田山録弥田山花袋の本名。明治三二年来博文 年まわりに入った人は七年の間吉事が続くといわれる。 館編集部に入って生活の安定を図っていた。 有卦に入るとは幸運にめぐりあうこと。 さいをんじ ( 5 ) 西園寺侯爵西園寺公望 ( 嘉永一一年ー昭和十五 ( 2 ) 三十日っゞきのものをただいまたのまれたば 年、 1849 ー 1940 ) 。政治家。維新に軍功あり、明治三ー十 かり「朝日新聞社」からの新年用小説の依頼をさす。 三年渡仏。三十六年政友会総裁、三十九年一月より四十 その結果「坑夫」が書かれ、翌四十一年一月一日から四 年七月まで、首相をつとめた。文藻趣味も豊かで、首相 月三日まで東西「朝日新聞ーに連載された。 在任中は、駿河台の自邸に当代の知名文士を招く雅会 ( 吉田精一 ) 「雨声会」をしばしば催した。ここに「招待」というの は、この「雨声会」のことである。 三四五 ( 1 ) 御依頼の序文明治四十一年一月、春陽堂から 416

7. 夏目漱石全集 4

注 三一一四 ( 1 ) 南翠先生須藤南翠 ( 安政五年ー大正九年、 18 のち日清印刷と合併して現在に至っている。 58 ー 1920 ) 。明治大正期の通俗小説家。 野上豊一郎の号。 三毛 ( 1 ) 日川 みつこし ( 2 ) 三越呉服店にも譲らざる大広告三越では、 ( 2 ) 樗陰滝田樗陰。本名、哲太郎。「中央公論」 ゆかた 漱石の「虞美人草」にちなんで「虚美人草浴衣」を売り の記者。のち、その主幹となった。 出していた。 ( 3 ) 坪内先生坪内逍遙 ( 安政六年ー昭和十年、 18 ものすき ( 3 ) 原稿をもらいたいとう甲 、勿数奇な人間 59 ー 1935 ) 。小説家・劇作家・評論家。 木三重吉といわれる。 ( 4 ) シッひぜんと呼ばれる皮膚病。 4 ) リース Ludwig Riess ( 1861 ー 1928 ) 。ユダヤ ( 5 ) 筑水君金子筑水 ( 明治三年ー昭和十二年、一 8 70 ー 1937 ) 。本名馬治。哲学者・文学博士。 系ドイツの史学者。招かれて東京帝国大学で史学を講じ ていた。 ( 6 ) 竹風君の評明治四十年 ( 1907 ) 七月の「新小 説」我観録の欄に、登張竹風の「漱石の文学論を評す」 三一一五 ( 1 ) 生田先生生田長江。明治十五年ー昭和十一年 というのが載っている。 ( 1882 ー 1936 ) 。評論家。翻訳家。 くもえもん ( 2 ) 雲右衛門 桃中軒雲右衛門 ( 明治六年ー大正五三 ll< ( 1 ) 弓削田氏当時朝日新聞社の通信部長をしてい た弓削田精一をさす。 年、 1873 ー 19 】 6 ) 日本浪曲界の草分け。明治三十九年 ( 1906 ) 、東京本郷座で赤穂義士を演じて以来、名手とし三元 ( 1 ) 大内旅館明治四十年 ( 】 907 ) 七月の「ホトト て知られた。 ギス」に載った高浜虚子の「大内旅館」という作品。 三一一六 ( 1 ) 大倉大倉書店。漱石の「文学論」 ( 全集第十四三三 0 ( 1 ) 謡を再興漱石は熊本にいた時友人の教授たち 巻所収 ) 「漾虚集」「吾輩は猫である」 ( 全集第一一巻所収 ) と謡を習っていたので、再興と云ったもの。こののち高 などここから出版された。 浜虚子の紹介で、宝生新に下懸宝生流の謡を教わること になる。 ( 2 ) 秀英舎現在の大日本印刷株式会社の前身にあ / 力す町にあり、 たる印刷 ~ 牛込区 ( 現在新宿区 ) 市谷日 ( 2 ) 女「虞美人草」の女主人公藤尾のこと。次の小 4 】 3

8. 夏目漱石全集 4

にじ ( 四煮浸みふつう「滲み」と書く。 さんぶく ( Ⅱ ) 三伏夏の猛暑の期間。 しゆっこっ ) 修忽たちまち。 かじぼう ( 当轅人力取の梶棒。 おたわらちょうちん 一一七五 ( 1 ) 小田原提燈大文年間 ( 1532 ー 1555 ) ごろ小田 原の甚左衛鬥という者が作りはじめたという、細長いち ようちん。 かんむてんのう ( 2 ) 桓武天皇三八カページ犬 ( Ⅳ ) 参照。 ( 3 ) はじめて京都に来た東京帝国大学学生であ った明治二十五年 ( 1892 ) 七月のこと。その時は岡山や 松山をも訪れた。 ふやまちひいらぎや ( 4 ) 麩屋町の柊屋京都市中京区鉄屋町御池南入ル にある柊家旅館。 ひから ( 5 ) 糸瓜のごとく干枯びて正岡子規は明治三十 五年 ( 1902 ) 九月十九日、結核性脊髄カリエスのため、 ひどくやせ細って死んだ。辞世の句に糸瓜を詠んでいる。 三九三ページ三公 4 ) 参照。 を・ようしよう 毛六 ( 1 ) 料峭春の寒さの形容。 ( 2 ) 加茂の森京都市左京区下賀茂宮河町にある比 もみおや ただす 茂御祖神社 ( 下鴨神社 ) の森。「糺の森」ともいう。 のき 毛七 ( 1 ) 野明さん野明敏治。漱石は帰京後この人あて へちま に世話になったことの礼状を出している。 こうせんおしよう -4 ( 2 ) 洪川和尚文化十三年ー明治二十五年 ( 1816 ー和 1892 ) 。明治八年 ( 1875 ) 以来、鎌倉円覚寺管長であった。 ほうえ ( 3 ) 会下法会の下の意味で、門下。 きよみす ( 4 ) 清水四一一ページ三一七 ( 6 ) 参照。 びぼう ( 5 ) 微茫はるかにかすんでいる状態。 いっしょに京都で遊んだ明治一一 ( 6 ) 新聞屋となる 十五年 ( 1892 ) の十二月、子規は大学を中退して日本新 聞社に入社した。 さいこくしゆっぽん ( 7 ) 西国へ出奔漱石は明治二十八年 ( 1895 ) 四月、 愛媛県尋常中学校 ( 松山中学 ) に赴任した。 ( 8 ) 新聞屋になろうとは漱石は明治四十年 ( 19 07 ) 四月、いっさいの教職をやめて朝日新聞社に入社し こ 0 まるやま ( 9 ) 円山京都市東山区にある円山公園。三七カペ ージ一一三 ( ) 参照。 ただすもり ( 四糺の森二七六 ( 2 ) 参照。 ふとおり ( Ⅱ ) 太織節の多い糸で織った絹織物で、群馬県伊 勢崎地方などで作られる。 つおう 一一七〈 ( 1 ) 雪甌雪をいれた瓶。 ( 2 ) うき我れをいとゞ寒がらしめ芭蕉の句に

9. 夏目漱石全集 4

注 け 4 に人し ( 4 ) 建仁寺建仁二年 0202 ) 、将軍源頼家が宋から三 0 五 ( 1 ) 叡山上リ 「虞美人草」冐頭部分に生かされてい る。 帰国した栄西禅師に帰依して建てた京都最初の褝寺。東 山区小松町にある。 ( 2 ) 坂本三八八ページ公 ( 4 ) 参照。 ケきや かぎ 三 0 四 ( 1 ) 鍵屋寺町二条にあった菓子屋。正しくは「鎰 ( 3 ) 歟乃船歌。 や 屋」と書く。 ( 4 ) お前川上、わしや川下で : きたのてんじん ( 2 ) 北野天神天暦一一年 ( 948 ) 、時の朝廷が太宰府 一一三べージに使用されている。 いちりきてい で死んた菅原道真の祟りを恐れてその霊を祭ったのが起 ( 5 ) 一カ亭京都祗園万亭の通称。 りという「北野天満宮」。上京区馬喰町にある。 書簡 ( 3 ) 金閣寺三七九ページ一一三 ( Ⅱ ) 参照。 だいとくじ いっきゅうぜんじたくあんぜんじ ( 4 ) 大徳一休禅師・沢庵禅師の住んだ寺として三 0 六 ( 1 ) 「畑打」の句「打っ畠に小鳥の影の屡す」「物 有名。その大伽藍は、禅宗建築の最も整った典型とされ、 いはぬ人と生れて打っ畠か」の二句。明治四十年 ( 1907 ) 洛北随一といわれる。北区紫野大徳寺町。 二月の「ホトトギス」に所収されている。 かみがも わけいかすちのかみ ( 5 ) 上加茂 別雷神を祭った上賀茂神社。京都三 ( 2 ) 森な吉第一巻五三八べージ当一 ( 2 ) 参照。 あおい かしゃ ~ 、 大祭の一つの葵祭 ( 賀茂祭 ) などで知られる。境内は風 ( 3 ) 呵責明治四十年一月の「帝国文学」に掲載さ おものいみ みたらし みすせんかん 致に富み、御物忌川、御手洗川の清流が走る。「水潺湲」 れた森巻吉の短篇。筆名は森馬奇となっている。 んえい たて というのは、この流れのことであろう。 ( 4 ) 幻影の盾漱石が明治三十八年 ( 1905 ) 四月の ( 6 ) 山陽外史の室上京区東三本木にある頼山陽が 「ホトトギス」に発表した短篇 ( 全集第一巻所収 ) 。 書斎に使用したという史跡建物。鴨川の流れを見下す簡 ( 5 ) 一夜漱石が明治三十八年 ( 1905 ) 九月の「中 素な稾葺の平屋造りである。山陽は安永九年ー天保三年 央公論」に発表した短篇 ( 全集第三巻所収 ) 。 じようるり ( 1780 ー 1832 ) 。物者。著書に「日本外史』がある。 ( 6 ) 時代ものふつう、聰第に・浄瑠璃などで、江 イ・ ( 7 ) 嵐山三八匹。ヘージ五五 ( 3 ) 参照。 戸時代およびそれ以前の、特に武将の軍記などを脚色し 「虞美人草」

10. 夏目漱石全集 4

不尭 , あュ 第一高等学校本館玄関前の漱石 ( 明治 40 年 2 月 ) および書跡「不見萬甲 . 道但見萬甲 . 天漱石」