来 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 4
400件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 4

の入る商買もない。文明の詩人はぜひとも他の金で詩出る気がなくても前へのめりたがる。大人しく時機を ひと を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬこととな待っ覚悟を気長に極めた詩人も未来を急がねばならぬ。 る。小野さんがわが本領を解する藤尾に頼たくなるの黒い点は頭の上にびたりと留っている。仰ぐとぐるぐ こうさん ゅうだち ・すう は自然の数である。あすこには中以上の恒産があるとる旋転しそうに見える。ばっと散れば白雨が一度にく なんもち たゞたんす はらちがい る。小野さんは百を縮めて馳けだしたくなる。 聞く。腹違の妹を片付るに只の簟笥と長持で承知する ような母親ではない。 ことに欽吾は多病である。実の 四五日は孤堂先生の世話やら用事やらで甲野のほう ゅうべ 娘に婿を取って、かゝる気がないとも限らぬ。おりおへ足を向けることもできなかった。昨夜はできぬ工夫 ( 2 ) らじうら りに、解いてみろと、わざとらしく結。ふ辻占があたれをむりにして、旧師への義理立てに、先生と小夜子を きち ばいつも吉である。急いては事を仕損する。小野さん博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩であ ( 4 ) 一いつばんひょう は大人なしくして事件の発展を、おのずから開くべきる。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂 ( 3 ) うどんげ 優曇崋の未来に待ち暮していた。小野さんは進んで母を徳とすという故事を孤堂先生から教わったことさ すもう えある。先生のためならばこれから先どこまでも力に 仕掛けるような相撲をとらぬ、またとれぬ男である。 ゅうきゅう なるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人 天地はこの有望の青年に対して悠久であった。春は 九十日の東風を限りなく得意の額に吹くように思われの義務である。この義務を果して、濃やかな人情を、 さから た。小野さんは優しい、物に逆わぬ、気の長い男であ得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に かっこう ふる っこ 0 ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好な優しい振 そびら 人の長い夢と背を向けて、西の国へさらりと流したはす舞である。たゞ何事も金がなくてはできぬ。金は藤尾 ちさ ばくじゅう 美の昔から、一滴の墨汁にも較ぶべきほどの暗い小、 し点と結婚せねばできぬ。結婚が一日早く成立すれば、一 あきら 日早く孤堂先生の世話が思うようにできる。 が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは むこ かたづけ ひと おとな 129

2. 夏目漱石全集 4

付かないものがめったにあるものかね。 ーー・それを、 ま、ひた / 、に重なり合うて冷えている。 嫁に遣ろうかと相談すれば、お廃しなさい、阿母さん 「お茶でも入れようかねー の世話は藤尾にさせたいからと言うし、そんなら独立「い、え」と藤尾はとく抜け出した香のなお余りある するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れ こも ねころ ひと へ閉じ籠って寐転んでるしさ。 そうして他人にはの底を敵くほどは、さほどとも思えぬが、縁に近くよ るろう あわおもて 財産を藤尾にやって自分は流浪するつもりだなんて言 うやく色を増して、濃き水は泡を面に片寄せて動かす じゃま なる。 うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもか み ( 4 ) さくら かってるようで見つともないじゃないか」 おをキき馴らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉 しん なきがらまった 「どこへ行って、そんなことを言ったんです」 炭の白き残骸の完きを毀ちて、心に潛む赤きものを片 おとっさん わぎり 「宗近の阿爺のところへ行 0 た時、そう言 0 たとさ」寄せる。温もる穴の阯れたる中には、黒く輪切の正し たち 「よっぽど男らしくない性質ですね。それよりはやくきを択んで、びち / ( \ と活ける。 、、ーー室内の春光はあ おだや 糸子さんでも貰ってしまったら好いでしように」 くまでも二人の母子に穏かである。 「ぜんたい貰う気があるのかね」 この作者は趣なき会話を娵う。猜疑不和の暗き世界 こ、ち 「兄さんの料簡はとても分りませんわ。しかし糸子さ に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地 んは兄さんのところへ来たがってるんですよ」 よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴の春 すみとり すきま つかさ 母は鳴る鉄瓶を卸して、炭取を取り上けた。隙間なを司どる人の歌めく天が下に住まずして、半滴の気韻 ふたすじみすじあい 昔しふも ( 1 ) ひゞやき ( 7 プ」うたんどろ ( 6 ) , つれつ 人く渋の洩れた劈痕焼に、二筋三筋藍を流す波を描いて、だに帯びざる野卑の言語を臚列するとき、毫端に泥を きまゝ ( 2 ) さつま きゅうす みど 美真白な桜を気儘に散らした、薩摩の急須の中には、緑含んで双手に筆を運らしがたき心地がする。宇治の茶 ( 3 ) うじ ひる りを細く綯り込んだ宇治の葉が、午の湯に腐やけたま と、薩摩の急須と、佐倉の切り炭を描くは瞬時の閑を 7 おっか すみ ふたりぼし ちやわん あめした こほ かおり ( 5 )

3. 夏目漱石全集 4

ついた。 が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、 ( 1 ) のあぎ ( 9 ) まるやま 玄関に待っ野明さんは坊主頭である。台所から百を円山へ登った時を思い出しはせぬかというたろう。 ( 間 ) たゞすもり ぜんこじ 出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。新聞屋になって、糺の森の奥に、哲学者と、禅居士と、 ( 2 ) こうせんおしよう ( 3 ) えか っしょに、ひっそり 居士は洪川和尚の会下である。そうして家は森の中に若い坊主頭と、古い坊主頭と、 うしろたけやふ ある。後は竹藪である。顫えながら飛び込んだ客は寒かんと暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。 がりである。 やつばり気取っているんだと冷笑するかもしれぬ。子 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったの規は冷笑が好きな男であった。 まる はもう十五六年の昔になる。夏の夜の月円きに乗じて、 若い坊さんが「お湯におはいり」と言う。主人と居 ( 4 ) きよみす あきら 清水の堂を律して、明かならぬ夜の色をゆかしき士は余が顫えているのを見兼ねて「公、まずはいれ」 まなこ ( 5 ) びぼう もののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅と言う。加茂の水の透き徹るなかに全身を浸けたとき やわら 燈に夢のごとく柔かなる空想をまゝに酔わしめたるは歯の根が合わぬくらいであった。湯に入 0 て顫えた は、制服の釦を真鍮と知りつ、も、と強いたる時ものは古往今来たくさんあるまいと思う。湯から出た ねふ 代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われ等は制服をら「公ます眠れ」と言う。若い坊さんが厚い蒲団を十 まるはたか ( ) ふとおり 捨てて赤裸のまゝ世の中〈飛び出した。子規は血を響二畳の部屋に担ぎ込む。「郡内か」と聞いたら「太織 しり はしょ ( 7 ) さいこくしゆっ・ほん いて新聞屋となる、余は尻を端折って西国へ出奔する。 だ」と答えた。「公のために新調したのだ」と説明があ ふっそう さしつかえ ッお互の世はお互に物になった。物駈の極子規はとうるうえは安心して、わがものと心得て、差支なしと考 こうぶ けとう骨になった。その骨も今は腐れつある。子規の えたゆえ、御免を蒙って寝る。 着 そうそき うれ 骨が腐れつ、ある今日に至って、よもや、漱石が教師寝心地はすこぶる嬉しか 0 たが、上に掛ける二枚も、〃 ( 8 ) をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石下へ敷く二枚も、ことみ、く蒲団なので肩のあたりへ よる ね・ここち かっ とお

4. 夏目漱石全集 4

ほこり ( 1 ) あまりよう 結んだ口元をちょろ / \ と雨竜の影が渡る。鷺草ともれて、間はます / 、遠くなる。宗近君は胸を出して馳 おどり一 0 とも ゆる あわせ 菫とも片付かぬ花は依然として春を乏しく咲いている。けだした。寛く着た袷と羽織が、足を下すたんびに躍 おど を踴る。 うしろ 十四 「おいーと後から手を懸ける。肩がびたりと留まると ほそおもて 電車が赤い札を卸して、ぶうと鳴って来る。入れ代ともに、小野さんの細面が斜めに見えた。両手は塞が うしろ っている。 って後から町内の風を鉄軌の上に追い捲くって去る。 あんますき むこうがわ 按摩が隙を見計って恐る / 、向側へ渡る。茶屋の小僧「おい」と手を懸けたま & 肩をゆす振る。小野さんは うすひ ( 3 ) はたふり が臼を挽きながら笑う。旗振の着るヘル地の織目は、 ゆす振られながら向き直った。 たま だれ 「誰かと思ったら : : : 失敬」 埃がいつばい溜って、黄色にぼけている。古本屋から ていねい よせ 小野さんは帽子のまゝ鄭寧に会釈した。両手は塞が 洋服が出て来る。鳥打帽が寄席の前に立っている。今 はりがね 晩の語り物が塗板に白くかいてある。空は針線たらけっている。 きこ しずか くら呼んでも聴えない」 である。一羽の鳶も見えぬ。上の静なるだけに下はす「なにを考えてるんだ。い ざっぱく 「そうでしたか。ちっとも気が付かなかったー こぶる雑駁な世界である。 「おい / 、」と大きな声で後から呼ぶ。 「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないよ うで、少し妙だよ」 二十四五の夫人がちょっと振り向いたまゝ行く。 「なにが」 あるきかた しるしばんてん 「君の歩行方がさ 今度は印絆天が向いた。 呼ばれた本人は、知らぬ気に、来る人を避けて早足「二十世紀だから、ハ、 あるきかた 「それが新式の歩行方か。なんだか片足が新で片足が に行く。抜き競をして飛んで来た二両の人力に遮ぎら ぬりいた とび おろ レ ル ふ ま め よ さえ はやあし おろ ふさ

5. 夏目漱石全集 4

るの名誉なるは言ふまでもなく候。教授は皆エラキ男京へは参り候。京の人形御所望なればお見やげに買 ってまゐるべく候。どんなのが京人形やら実は知らぬ引 のみと存じ候。しかしエラカラざる僕のごときはほと ( 2 ) かのう んど彼等の末席にさへ列するの資格なかるべきかと存にて候。京都には狩野といふ友人これあり候。あれは じ、思ひ切って野に下り候。生涯はたゞ運命を頼むよ学長なれども学長や教授や博士などよりも種類の違う あ さんたん たエライ人に候。あの人に逢ふために候。わざ / 、京 り致し方なく前途は惨慵たるものに候。それにもか おはさか ( 3 ) いちりき はらず大学に噛み付いて黄色になったノートを繰り返へ参り候。一カはいかが相成るやわかりかね候。大坂 ちかづき すよりも人間として殊勝ならんかと存じ候。小生向後へも参りて新聞社の人々と近付になるつもりに候。昨 なにをやるやらなにができるやら自分にも分らず。た夜はおそく相成り、今日はひる寐をして暮し候。学校 はるさめこ、ち だやるだけやるのみに候。頻年大学生の意気妙に衰へをやめたら気が楽になり候。春雨は心地よく候。以上 おもむ 三月二十三日 夏目金之助 て俗に赴くやう見うけられ候。大学は月給とりをこし 野上豊一郎様 らへてそれで威張ってゐるところのやうに感ぜられ候。 さふら 月給は必要に候へども月給以外になにもなきものども 一 0 京より虚子へ ごろ / \ して毎年赤門をで来るは教授連の名誉これ けい 三月三十一日 ( 日 ) 午後四時ー五時京都市外下加茂 にすぎすと存じ候。彼等はそれで得意に候。小生は頃 じっ ( 1 ) 村二十四番地狩野亨吉内より麹町区富士見町四丁目八番 日へーゲルがベルリン大学で開講せし当時の情況を読 地高浜清へ んで大いに感心いたし候。彼の眼中は真理あるのみに そろ ( 4 ) きこく 拝啓京都へ参り候。所々をぶらっき候。枳殻邸と て聴講者もまた真理を目的にして参り候。月給をあて にしたり権門からよめを貰ふやうな考で聴講せるものか中すものを見たく候。句依へ御紹介を願はれまじく ゃ。頓百 はなき様子に候。呵々 しゃうがい わか とんしゅ

6. 夏目漱石全集 4

1 ソて みきり 知ができぬという外れた鷹なら見限をつけてもう入 「小野さんに喧嘩ができるもんですか」 っ 「そうさ、たゞ教えてもらやしまいし、相当の礼をしらぬと話す。あとを跟けて鼻を鳴らさぬような大なら あと ているんだから」 ば打ち遣った後で、捨ててきたと公言する。小野さん 謎の女にはこれより以上の解釈はできないのである。の不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰 ち・かい るかもしれない。い や帰るに違ないと、小夜子と自分 藤尾は返真を見合せた。 ゅうべ 昨夕のことを打ち明けてこれ / 、であったと話してを比較した我が証言してくれる。帰って来た時に辛い あわ しまえばそれまでである。母はむろん躍起になって、 目に逢せる。辛い目にわせた後で、立たしたり、寐 かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさ こ 0 ちに同情するに巡記い。打ち明けて都合が悪いと うえせま はっゅ思わぬが、進んで同情を求めるのは、餓に逼っしたりする。そうして、面白そうな手柄顔を、母に見 ふたり はじめ かどぐち あわれみこ て、知らぬ人の門口に、一銭二銭の憐を乞うのと大しせれば母への面目は立つ。兄と一に見せれば、両人へ きのう それまでは話すまい。藤尾は の意趣返しになる。 た相違はない。同情は我の敵である。昨日まで舞台に ものう あやつりにんぎよう 躍る操人形のように、物言うも懶きわが小指の先で、返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に 意のごとく立たしたり、寐かしたり、はては笑わした失った。 じ 「さっき欽吾が来やしないか、と母はまた質間を掛け り、焦らしたり、どぎまぎさして、面白く興じていた しばふ てらがお あつば 手柄顏を、母も天晴れと、うごめかす鼻の先に、得意る。鯉は躍る、蓮は芽を吹く、芝生はしだいに青くな とんじゃく あれは、ほんる、辛夷は朽ちた。謎の女はそんなことに頓着はない。 の見栄をびくつかせていたものを、 す . 、きむこうなび 青亠おもてむき 日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書 の表向で、内実の昨夕を見たら、招く薄は向へ驩く。 人 むつま 美知らぬ顏の美しい人と、睦じくお茶を飲んでいたと、斎におればなにをしているかと思い、考えておればな弴 心外な蓋をとれば、母の手前で器量が下がる。我が承にを考えているかと思い、藤尾のところへ来れば、ど おもしろ

7. 夏目漱石全集 4

ありがと りつば ときわぎ 「や、難有う。たいへん立派なものを持っとるの」 変った地味な森になる。黒すんた常磐木の中に、けば もらもの 「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後 けばしくも黄を含む緑の、粉となって空に吹き散るか で、また見えないところへ投げ込んだ。 と思われるのは、樟の若葉らしい。 . ~ リをーりつゝ吼れ 二人の烟は恙なく立ち騰って、なき空に入る。 「久しぶりで郊外へ来て好い心持た」 の え 「君は始終こんな上等な烟草を呑んどるのか。よほど 「たまには、こういう所も好えな。僕はしかし田舎か 余裕があるとみえるの。少し借さんかー ら帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない 2 、、、こっちが借りたいくらいだ」 「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少 「なにそんなことがあるものか。少し借せ。僕は今度 し気の毒たったねー 「なに構わん。どうせ遊んどるんだから。しかし人間国へ行ったんでたいへん銭が入って困っとるところし や も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっと かねもうけ 、。小野さんの烟草の烟がふ 本気に言っているらしし なんぞ金儲のロはないかい」 うと横に走った。 冫オしが君のほうにやたくさん 「金儲は僕のほうこやよ、 「どのくらい要るのかね」 あるたろう」 おんな 「三十円でも二十円でも好え」 「いや近ごろは法科も詰らん。文科と同じこっちゃ。 「そんなにあるものか」 銀時計でなくちや通用せん」 え てすり 「じゃ十円でも好え。五円でも好え」 小野さんは橋の手擦に背を靠たせたま & 、内隠袋か りようひじ たばこいれ 浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両肘を鉄の ら例のとおり銀製の烟草入を出してばちりと開けた。 うしろ ( 1 ) キッド 手擦に後から持たして、山羊仔の靴をこ、ろもち前へ を置いたエジプト烟草の吸口が奇麗に並んでいる。 めがねごしつまさきかざりなか くわ 出した。烟草を啣えたまゝ、眼鏡越に爪先の節を眺め 「一本どうだね。 くす あす うちがくし

8. 夏目漱石全集 4

われても雨が降らねばらぬ。この寒いのに膝掛を拾気分で、不偏不覚に練って行った。穴から手を出して しり われては東京を出るとき二十二円五十銭を奮発した甲制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったから である。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫えてい 斐がない。 子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はる今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし セル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われ たくても、相談にはならん。 い所を歩行いたことを記憶している。その時子規はど なつみかん かんから、えは長い橋の袂を左へ切れて長い橋を一 こからか夏蜜柑を買うてきて、これを一つ食えと言っ かわら わらぶき ひとふさ っ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺と て余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに かじぼう ふそろい 裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまよも思われる不揃な家の間を通り抜けて、梶棒を横に切 いっか、え ったと思ったら、四抱か五抱もある大樹の幾本となく うていると、いつのまにやら幅一間ぐらいの小路に出 かどなみ た。この小路の左右に並ぶ家には門並方一尺ばかりの提燈の火にうつる鼻先で、びたりと留まった。寒い田 はるか 穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしを通り抜けて、よイ / 、寒い所へ来たのである。淦な さえぎ もしという声がする。はじめは偶然だと思うていたがる頭の上に見上げる空は、枝のために遮られて、手の ( 1 ) りようしよう あわ 行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左平ほどの奥に料峭たる星の影がきらりと光を放った 右の穴からもし / 、という。知らぬ顔をして行き過ぎ時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと ると穴から手を出して捕まえそうに烈しい呼び方をす考えた。 ぎろう る。子規を顧みてなんだと聞くと妓楼たと答えた。余「これが加茂の森た」と主人が言う。「加茂の森がわ は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央れわれの庭た」と居士が言う。大樹を繞ぐって、逆に もど から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする戻ると玄関に燈が見える。なるほど家があるなと気が とら しようし びら よか、え

9. 夏目漱石全集 4

うしろ ( 8 ) ( 9 ) こじ 「遠いよ」と主人が後から言う。「遠いぜ」と居士が ふる 前から言う。余は中の車に乗って顫えている。東京を につぼん 立っ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。 す きのう 昨日までは擦れ合う身体から火花が出て、むく / と そうみ ( 浦 ) にじ 血管をむりに越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸み 汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわ出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。 ( 1 ) しちじよう れを七条の。フラットフォームの上に振り落す。余が踵この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下 の やけいし ⅱ ) さんぶく の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽りた余は、あたかも三伏の日に照り付けられた焼石が、 ザう 喉から火の粉をばっと吐いて、暗い国へ轟と去った。 緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んたようなもの さび ( 2 ) まくす ( 3 ) かも ( ) しゆっこっ たゞさえ京は淋しい所である。原に真葛、日 , に加茂、だ。余はしゆっという音とともに、倏忽とわれを去る ( 4 ) ひえ ( 5 ) あたご ( 6 ) くらま しずか 熱気が、前なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配し 山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のま、一の原と川 と山である。昔のま、の原と川と山の間にある、一条、た。 くじよう にじようさんじよう じゅうじよう 「遠いよ」と言った人の車と、「遠いぜーと言った人の 二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至って せば ひやくじよ ) ( ロ ) かじ も、皆昔のまである。数えて百条に至り、生きて千車と、顫えている余の車は長き轅を長く連ねて、狭く 年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい 細い路を北へ北へと行く。静かな夜を、聞かざるかと さえぎ はるさむよい りん 京を、春寒の宵に、疾く走る汽車から会釈なく振り落輪を鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮られて、 された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばなら高く空に響く。かんから、ん、かんからゝん、という。 あ ぬ。南から北へーーー町が尺きて、家が尽きて、燈が尽石に逢えばか、ん、か、らんという。陰気な音ではな ひゞき きる北の果まで通らねばならぬ。 。しかし寒い響である。風は北から吹く。 京に着けるタ はや と ( 7 ) いちしよう 力、と みち よ お 2 / 4

10. 夏目漱石全集 4

記 日 トウジイン めくちおんいんのそのろーもんのゆーぐれにすいた 〇等持院 おかたにあいもせですかぬきやくしゅーによびこま 四月九日 ( 火 ) れ山寺のいりやいつぐるかねのこえしょーぎよーむ すみれ 叡山上リ。高野より登る。転法輪堂。叡山菫。草木じよーはまゝのかわわしはむしょ 1 にのぼりつめ花 のいたゞきどれいてみよー花はうつろうものなれど 採集。八瀬の女 コノボン さこそおしけれおしけれさこそいろふかみぐさ。 根本中堂。学校デ昼食ヲ乞う案内に応するものなし。 ( 5 ) いちりきてい 〇一カ亭。芸者がむやみに来る。舞子が舞う。 〇坂本。はしり堂にて中食。石橋の上。石橋は古雅。 数三あり。 〇大津まで汽船を待つ。時間か、る。車にて大津まで すいどう かゞりび ( 3 ) あいだい 行く。疎水の隧道を下る。篝火。欸乃。 やまはな 〇十一屋。平八茶屋。高野村へ行く途中山端にあり。 お前川上、わしや川下で : 四月十日 ( 水 ) 雨 平八茶屋 ( 雨を衝いて虚子と車をかる。渓流、山、 こいあつものうなぎ 鯉の、鰻、 ) 都踊 うた〔以下は小さき女の手跡なり〕 ふとんきてねたるすがたやふるめかしおきてはる っ まいこ 305