気の毒 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 4
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1. 夏目漱石全集 4

・こう 気楽に構えて、毫も自分と藤尾の仲を苦にしていない けれども小野さんはこれを称して気の毒といっている。 のがなおさらの気の毒になる。洋えば隔意なく話をす小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好 じようだん けい る。冗談を言う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経まぬからであろう。 綸を論する。もっとも恋のことはあまり語らぬ。語ら「散歩ですか」と小野さんは鄭寧に聞いた。 ぬといわんよりむしろ語れぬのかもしれぬ。宗近君は 「うん。今、その角で電車を下りたばかりだ。だから、 おそらく恋の真相を解せぬ男たろう。藤尾の夫には不どっちへ行ってもい、」 こたえ 足である。それにもかわらず気の毒は依然として気 この答は少々論理に叶わないと、小野さんは思った。 の毒である。 しかし論理はどうでも構わない。 「僕は少し急ぐから : : : 」 気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した さしつかえ 言葉であるから難有い。小野さんは心のうちで宗近君「僕も急いで差支ない。少し君の歩く方角へ急いでい に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに っしょに ~ 行こう 0 その紙屑籠を出せ。持ってやる おのれ から」 大いなる己を含んでいる。悪戯をして親の前へ出ると きの心持を考へてみるとわかる。気の毒だったと親の 「なに宜いです。見つともない」 ぶっそう かさばる ために悔ゆる了見よりはなんとなく物騒たという感じ 「まあ、出しなさい。なるほど嵩張割に軽いもんたね。 がおもである。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の見つともないというのは小野さんのことた」と宗近君 頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響しは屑籠を揺りながら歩きだす。 きらい て自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い 。占の嫌なも 「そういうふうに提けるとさも軽そうだ , しゅんこゅん かんこうば のが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡巡す「物は提けようひとっさ。 こりや勧工場で るのと一般である。たゞの気の毒とはよほど趣が違う。 買ったのかい。たいぶ精巧なものたね。紙屑を入れる りようけん おの かど お 0 ノ 62

2. 夏目漱石全集 4

「僕はどっちへでも行く」 旧のようだ」 あるき 小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、 「実際こういうものを提げていると歩行にくいから : しかも地面の上を歩行ていないようだと、宗近君が言 あてはまっ ったのは、まさに現下の状態によく適合た小野評であ 小野さんは両手を前の方へ出して、このとおりとい る。靴に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかし わぬばかりに、自分から下の方へ目を着けて見せる。 ′ここち なんとなく踏み心地が確かでない。にもかわらす急 宗近君もしぜんと腰から下へ視線を移す。 たちばなし ぎたい。気楽な宗近君などに逢っては立話をするのさ 「なんだい、それは」 ラソゾ かみくすか・こ っしょにあるこうと言われるとなお え難義である。い 「こっちが紙屑籠で、こっちが洋燈の台」 なり 「そんなハイカラな形姿をして、大きな紙屑籠なんそさら困る。 常でさえ宗近君に捕まるとなんとなく不安である。 を提けてるから妙なんたよ」 宗近君と藤尾の関係を知るような知らぬようなまに、 「妙でも仕方がない、頼まれものだから」 おもてむき 「頼まれて妙になるのは感心た。君に紙屑籠を提げて自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向人の ぎきようしん いゝなすけ 許嫁を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近 往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった」 たちいふるまい わらい 君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居振舞 小野さんは黙って笑ながらお辞儀をした。 のおり / \ にも、気のあるところはそれと推測ができ 「時にどこへ行くんだね」 る。それを裏から壊しにかったとまではゆかぬにし 「これを持って : とざ のぞみ 草 ても、実は宗近君の望を、われゆえに、永久に鎖し 「それを持って帰るのかね」 人 美「い、え。頼まれたから買っていってやるんです。君たわけになる。人情としては気の毒である。 気の毒はこれたけで気の毒であるうえに、宗近君が は ? 」 161

3. 夏目漱石全集 4

んでくれれば好いのに。言い置いて行きたいこともさ体が衰弱したせいか、頭脳の具合が悪いからだろう。 だめてあったろう。聞きたいこと、話したいこともたそれにしてもこの画は厭だ。なまじい親父に似ている くさんあった。惜いことをした。好い年をして三遍もだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したっ 四遍も外国へ遣られて、しかも任地で急病に罹って頓て始まらないのは知れている。ところへ死んだものを 鼻の先へぶら下げて思え / \ と繼促されるのは、木刀 死してしまった。 ( 1 ) せび を突き付けて、さあ腹を切れとられるようなものだ。 活きているⅡは、壁の上から甲野さんを見詰めてい うるさいのみか不快になる。 る。甲野さんは椅子に倚り掛ったま \ 壁の上を見結 それもたゞの場合ならともかくである。親父のこと めている。二人の目は見るたびにびたりと合う。じっ として動かずに、合わしたま、の秒を重ねて分に至るを思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、 ひとみ と、向うの眸がなんとなくらいてきた。睛を閑所に今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に【びとは、 むさぼ きまぐれはたらき 転する気紛の働ではない。打ち守る光がしだいに強く名ばかりの衣と住と食とを貪るだけで、頭はほかの国 なって、目を抜けた魂がじり / \ と一直線に甲野さんに、母も妹も忘れればこそ、こう生きてもいる。実世 せま に逼ってくる。甲野さんはおやと、首を動した。髪の界の地面から、踵を上けることを解しえぬ利害の人の こっちょう 目に見たら、さだめし馬鹿の骨頂たろう。自分は自分 毛が、・椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう す 魂はいなくなった。いつのまにやら、目のなかへ引きにすべてを棄てる覚悟があるにもせよ、この体たらく 返したとみえる。一枚の額は依然として一枚の額にすを親父には見せたくない。親父はたゞの人である。草 かげ ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけ葉の蔭で親父が見ていたら、さためて不肖の子と思う だろう。不肖の子は親父のことを思い出したくない。 どうもこの画はいかん 財鹿々々しい。が近ごろ時々こんなことがある。身思い出せば気の毒になる。 こ 0 とん から あにま 190

4. 夏目漱石全集 4

夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と溜から出す。おやと思うまに、ぬつくと立って歩いて 二重の関を隔ててう瀬はない。たま / \ に忍んで来 くる。打ち遣った時に、生息の根を留めておかなかっ 9 こと れば犬が吠える。みずからも、わが来る所ではないか たのが無念であるが、生息は断わりもなく向で吹き返 きまぐれ しらんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛の時 ふろしきかく ら・ 4 ~ 飛れい あた かげろう よみが を包む風呂敷に蔵してなおさらに疑を路上に受くるよ節を誤って、暖たかき陽炎のちらっくなかに甦えるの なさ よみがえ うな気がする。 は情けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に ひとしすく 過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫の油は反する。追い付かれれば労らねば済まぬ。生れてから あぶらつぼ 容易に油壷の中へ帰ることはできない。い やでも応で済まぬことはたゞの一度もしたことはない。今後とて も水とともに流れねばならぬ、夢を捨てようか。捨てもする気はない。済まぬことをせぬように、また自分 られるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨にも済むように、小野さんはちょっと未来の袖に隠れ におい てれば夢のほうで飛び付いてくる。 てみた。紫の匂は強く、近付いて来る過去の幽霊もこ 自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に働れならばと度胸を据えかけるとたんに小夜子は新橋に き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜 ステーションぶつか 得意に描く。小夜子の世界は新橋の停車場へ打突った子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思 時、劈痕が入った。あとは割れるばかりである。小説 はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほ 「阿父は」と小野さんが聞く。 おく ど気の毒なものはない。 「ちょっと出ました」と小夜子はなんとなく臆してい あした ひとり 小野さんも同じことである。打ち遣った過去は、夢る。引き越して新たに家をなす翌日より、親一人に、 ごみ の塵をむく / ( 、と掻き分けて、古ぼけた頭を歴史の芥子一人に春忙がしき世帯は、蒸れやすき髪に櫛の歯を ちり てんで 0 おとっさん ちか ) っ いたわ ね と むこう そで

5. 夏目漱石全集 4

も食えなければ、、 しつまでも物り付き獅物みつき、死思うようにこれを利用することができなかったのは残 んでも離れないつもりであった。ところへ突然朝日新念至極である。しかも余が閲覧室へはいると隣室にい 聞から入社せぬかという相談を受けた。担任の仕事はる館員が、むやみに大きな声で話をする、笑う、ふざ と聞くとたヾ文芸に関する作物を適宜の量に適宜の時ける。清興を妨けることは莫大であった。ある時余は たてまつつ に供給すればよいとのことである。文芸上の述作を生坪井学長に書面を奉て、恐れながら御成敗を願った。 ありがた 命とする余にとってこれほど難有いことはない、これ学長は取り合われなかった。余の講義のますかったの は半分はこれがためである。学生にはお気の毒たが、 ほど心持ちのよい待遇はない これほど名誉な職業は よ、。成功するか、しないかなどと考えていられるも図書館と学長がわるいのたから、不平があるならそっ のじゃない。博士や教授や勅任官などのことを念頭にちへ持って行ってもらいたい。余の学力が足らんのた かけて、うん / \ 、きゅう / \ 言っていられるものじと思われてははなはた迷惑である。 やよ、 0 新聞のほうでは社へ出る必要はないと言う。毎日書 大学で講義をするときは、いつでも大が吠えて不愉斎で用事をすればそれで済むのである。余の居宅の近 快であった。余の講義のますかったのも半分はこの犬所にも大はたいぶいる、図書館員のようにぐものも のためである。学力が足らないからたなどとは決して出て来るに相違ない。しかしそれは朝日新聞とはなん くら不愉快でも、妨害にな 思わない。学生にはお気の毒であるが、まったく大のらの関係もないことだ。い やといにん っても、新聞に対しては面白く仕事ができる。雇人が 所為たから、不平はそっちへ持って行っていたゞきた やといぬし 雇主に対して面白く仕事ができれば、これが真正の結 社大学でいちばん心持ちの善かったのは図書館の閲覧構というものである。 大学では講師として年俸八百円を頂戴していた。子 室で新着の雑誌などを見る時であった。しかし多忙で 、 0 ちょうたい 301

6. 夏目漱石全集 4

てない。妙だよ。豊隆子が長い手紙をよこした。米を 三五他人の批評 ( 一 ) 売ってしまえといって婆さんに叱られたとある。その 七月ニ十一日 ( 日 ) 午後三時ー四時本郷区駒込西片 くせ婆さんから相談を受けたのだそうだ。これはいよ 町十番地ろノ七号より府下巣鴨町上駒込三百八十八番地 いよ妙だよ。小説はなか / 、気が長いから僕も困る、 でかけ 内海方野上豊一郎へ〔はがき〕 君も困る。八月になったらさっそく出掛たまえ。僕も ぎよう しできうべくんば君のいる所へ回って行く。しからす今日の読売に正当防御と題して早稲田の人が君を攻 あわ んばなんでもどっかで待ち合せる。しからずんば僕が撃している。見たまえ。ぜんたい君はなにをかいたの どうしても東京を出られなくなって君は一つ所にぶらか。なにをかいてもあんな攻撃をするのは早稲田の若 下がる。これは大いに気の毒だが、今日の形勢を案ずイ人グ。 るにあるいは西片町を去ることができぬかもしれない。 三六他人の批評 ( 一 D なにしろ急行小説はやめたんだから。だら / 、虞美人 ひつば 七月ニ十ニ日 ( 月 ) 午前九時ー十時本郷区駒込西片 でいつまで引張られるか自分にも見当がっかない。も 町十番地ろノ七号より府下巣鴨町上駒込三百八十八番地 しこうなると違約になる。はなはだお気の毒た。そう 内海方野上豊一郎へ なったら二三日でもいいから君と前約履行のかたでど おもしろはんふん つかで遊ぼう。僕近来ズルクなって ( 広島の意味 ) 困拝啓人の攻撃を攻撃しかへすときは面白半分にか らかふ時のことなり。ひまが惜しければやるべからず。 る。なんでも急がぬ方針た。そして方針もなにもない。 べんばく 生きていて、食っていて、そして漫然たり。以上 堂々たる攻撃は堂々たる弁駁を要す。これは惜しい時 七月二十日 間を割いてやることなり。 三重吉様 僕また新聞雑誌に出たものに対して弁解の労をとり ばあ しか 332

7. 夏目漱石全集 4

てあんな女をいゝと思っちゃいけない。小夜子というろう。あれで朝鮮が減亡する端緒を開いては祖先へ申 かれん わか 女のほうがいくら可憐たか分りやしない。 虞美人訳がない。実に気の毒た。朝日新聞の湯島近辺という 草はこれでお仕舞。 のを読んでごらん。ああ、 しう小説もかいて好いという 金子筑水の議論は念の入ったものではない。昨日上お許しが出ると小説家の気も大ぎくなる。僕もまた二 うんぬん 田柳村君が来て文学論について云々して去った。大塚三十年は英語を教えないでどうかこうか飯が食えそう まじめ は真面目に読んでくれて批評をしにやってきた。博覧だ。 会へ行って water シュートへ乗ろうと思うがまた乗 悪縁で英語を習いだしたがこれからなるべく英語を ふしみ らない。伏見の宮さまが英国で大歓迎だという話であ倹約してドイツと依語にしたいと思う。ますドイツを たいきら る。僕は英国が大嫌い、あんな不心得な国民は世界に君に教わりたい。夏休み以後は少しやってくれたまえ。 ない。英語でめしを食っているうちは残念でたまらな以上 七月十九日 かったが昨今の職業はようやく英語を離れて瞞々した。 けいおうぎじゅく わせだ ところが早稲田と慶応義で教師になれというてきた。 豊隆様 食えなければ狗にでもなる。英語を教えるのはワンワ 三四「虞美人草 , 執筆 ( 六 ) ンと鳴くくらいな程度であるからいざとなればやるつ こうむ もりであるが、虞美人草の命があるうちはます御免 七月ニ十日 ( 土 ) 午前十時ー十一時本郷区駒込西片 ( 3 ) ちょうせん る。朝鮮の王様が譲位になった。日本からいえばこん 町十番地ろノ七号より本郷区駒込千駄木町二百三十八番 簡めでたい なⅡ出度ことはない。もっと強使にやってもいゝとこ 地幸川方鈴木三重吉へ とんしゅ ろである。しかし朝鮮の王様は非常に気の毒なものだ。 君はなにを思ったか深夜頓言して手紙をよこした。 歓の中に朝鮮の王様に同情しているものは僕ばかりだそうして内容は僕に会った時と別に変ったことが書い わけ 3 引

8. 夏目漱石全集 4

限なく未来に連なっている。そうして宗近君はこの米 相手の親類である。 つかさ たゞの親類ならまだしもである。かねてから藤尾に来を司どる主人公のように見えた。 きのう 野さんは赤く 心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ「昨日は失敬した」と宗近君が言う。小 きのう むこ 娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日までなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、 こ、ろもと けしき のぞみ 心元なく烟草へ火を移す。宗近君はそんな気色も見え 二人の関係を知らすに、昔の望をそのま、に県いでい ゆくさぎ からきん た宗近君である。偸まれた金の行先も知らすに、空金ぬ。 「小野さん、さっき浅井が来てね。そのことでわざわ 庫を護っていた宗近君である。 いなすま つんざか ざ遣ってきた」とすばりと言う。 秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、なかば劈れた。 小野さんの神経は一度にびり、と動いた。すこし、 眠っていた目を醒しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行 しゃべっ って井上のことでも喋舌たらーー困る。気の毒とはたしてから烟草の烟が陰気にむうっと鼻から出る。 かたき ことば だ先方へ対していう言葉である。気が裃めるとは、そ「小野さん、敵が来たと思っちや不可ない」 「いえ決して : : : 」と言った時に小野さんはまたぎく のうえにこちらから済まぬことをした場合に用いる。 りとした。 困るとなると、もういっそう上手に出て、利害が直接 あてこす 「僕は当っ擦りなど言って、人の弱点に乗ずるような にわが身の上に跳ね返って来る時に使う。小野さんは 人間じゃない。このとおり頭ができた。そんな暇は薬 宗近君の顔を見て大いに困った。 そむ にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に背く 宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の 人核は、気の毒の輪で尻こそばゆく取り巻かれている。 美そのうえには気が咎める輪が気味わるそうに重なって 宗近君の意味は通した。たゞ頭のできた由来が分ら くろすみ いる。いちばん外には困る輪が黒墨を流したように際なかった。しかし間い返すほどの勇気がないから黙っ しり うわて

9. 夏目漱石全集 4

甲野さ 名ある人の筆になるという。三年前帰朝の節、父はる時はおやいたかと驚ろくことさえある。 この一面を携えて、はるかなる海を横濕の埠頭に上 0 んがレオ。 ( ルデイから目を放して、万事を椅子の背に はげ た。それより以後は、歔吾が仰ぐたびに壁間に懸 0 て託した時は、常よりも烈しくおやいたなと驚ろいた。 おもいで みおろ 思出の胛に、亡き人を忍ぶ片身とは、思い出す便を 、る。仰がぬ時も壁間から歔吾を見下している。筆を うた、ね 執るときも、杖を突くときも、仮寐の頭を机に支う与えながら、亡き人を故に返さぬ無惨なものである。 るときもー - ・ー・たえす見下している。歔吾がいない時で腿に離さぬ数糸の髪を、懐いては、泣いては、月日は たゞ先へと回るのみの浮世である。片身は焼くに限る。 すら、画布の人は、常に書斎を見下している。 父が死んでからの甲野さんは、なんとなくこの画を見 見下すだけあって活ぎている。目王に締りがある。 おちつきねじろ それもたんねんに塗りたく 0 て、根気任せに錬り上げるのが厭にな 0 た。離れても別状がないと落付の根城 しせき キゅまっげ た目王ではない。一腓毛に輪郭を描いて、眉と睫の間を据えて、咫尺に慈顏を髣髴するは、離れたる親を、 あふ したまぶたたるみ に自然の影ができる。下瞼の垂味が見える。取る年が記憶の紙に炙り出すのみか、浄える日を春に待てとの ひとみ めじりひつば カ洋おうと思った本人はもう死んでし 集 0 て目尻を引張る波足が浮く。そのなかに瞳が活き占にもなる。く、 まった。活きているものはたヾ目玉たけである。それ ている。動かないでしかも活きている刹那の表情を、 こう さそく 甲野さんは そのま、画権に落した手腕は、会心の機を早速に捕えすら活きているのみでも動かない。 ぼうぜん た非凡の技といわねばならぬ。甲野さんはこの目を見茫然として、目王を眺めながら考えている。 おやじ 親父も気の毒なことをした。もう少し生きれば生き るたびに活きてるなと思う。 ひげ 人想界に一瀾を点ずれば、千瀾追うて至る。瀾々相擁られる年だのに。髭もまるで白くはない。血色もみす こうべ 美して思索の郷に、吾を忘るるとき、懊悩の頭を上けて、みすしている。死ぬ気はむろんなか 0 たろう。気の毒 この目にはたりと洋えば、あ 0 、あ 0 たなと思う。あなことをした。どうせ死ぬなら、日本へ帰 0 てから死 うら ほうふつ かたみ にほん 189

10. 夏目漱石全集 4

( 1 ) 牋うりゅうし ( 2 ) もりかわらよう 昨夜豊降子と森川町を散歩して草花を二買った。 ぐびじんそう 木屋になんという花かと聞いてみたら虞美人草たと 言う。おりから月説の題に窮して、予告の時期に後れ 、、かげん るのを気の毒に思っておったので、好加減ながら、つ かむ い花の名を拝借して巻頭に冠らすことにした。 純白と、深紅と濃ぎ紫のかたまりが逝く春の宵の灯 はなびらしわくちゃ 影に、幾重の花弁を皺苦茶に畳んで、乱れながらに、 きょあざむあら かしら 鋸を欺く粗き葉の尽くる頭に、重きに過ぎる朶々の かんむりもた 冠を擡ぐる風情は、艶とは言え、一、妖冶な感じ そな がある。余の小説がこの花と同じ趣を具うるかは、作 予り上げてみなければ余といえども判じがたい。 草社では予告が必要たと言う。予告には題が必要であ る。題には虞美人草が必要でーーないかもしれぬが、 ちょっと重宝であった。いさ乂か虞美人草の由来を述 『虞美人草』予告 よ ちょうはう ようや べて。虞美人草の製作に取りかゝる。 五月二十八日 ( 明治四〇・五・二八「東京朝日新聞」 ) 295