いると思うかもしれない。私はそう思っていたのだが、今度「虞美人草」を読んでみると、この小 説では六人の男女はいずれも年齢との間に、老けすぎているところも、幼稚なところも、全くない のである。今日から見て、そうなのである。 しかし、それは漱石が、登場人物の年齢において、時代の先取りをしていたからではあるまい 彼等はまた今日的人物であるわけでもない。漱石は風俗や社会状勢や平均寿命の長短などには侵蝕 されない、永遠の普偏性をもっ年齢を見透して彼等を造型したのであろう。同じ漱石の作品でも、 例えば「三四郎ーの三四郎の二十三歳には、こうまで鮮やかな年齢性はない。彼には数え年の二十 三歳らしさもなくはないけれども、今日から見ると、やはり老成しすぎているところと幼稚なとこ ろとがある。殊に最初のほうで、上京する途中、名古屋で一泊するのに、乗り合わせた見知らぬ女 に頼まれて同宿するところから翌朝別れて又車中の人となるあたりまで、二十三歳らしくないこと がわかるだけで、老成しすぎているところと幼稚なところとの混合のようでさえある。三四郎の二 十三歳は永遠の普偏性ある二十三歳とは、私には感じられないのである。 漱石のように、遣した著作が極端に少ないというわけではないのに、全著作が悉く代表作として 扱われている作家はあまり例がないと思うけれども、そういう漱石の代表作のなかでも、「虞美人 草」は「坊っちゃん」「吾輩は猫である」の人気や後期の作品への評価とはちがったかたちで、取 り分け代表作のようにいわれている。それというのも、永遠の普偏性をもっ年齢を見透すほどに登 364
河野多恵子 夏目漱石の「虞美人草 , をはじめて読んだ時、私は女学校の二、三年生くらいだ 0 たようで、今 でいえば中学二、三年生だったことになる。 私は女学校に入 0 て間もなく、学校の図書室で偶然に読んだ谷崎潤一郎の「少年」で文学の歓び を識 0 たのをき 0 かけとして、その頃までに同じ作者のものを幾つか読み、更に泉鏡花のものを夢 中にな 0 て読むようにな 0 ていた。漱石のものでは、「坊 0 ちゃん」と「草枕」をどちらも一部分 教科書に載 0 ていたのを読んだあと、「坊 0 ちゃん」と「吾輩は猫である」を全文自分の読書で読 論んでいた。そして、漱石という小説家は、潤一郎や鏡花とちが 0 て、小説らしくない小説を書く人 おこな 品 だなと思った。見たり、聞いたり、行 0 たりしたことを、自信に満ちた感想を標榜しつつ、どしど 9 し話して聞かせているような気がした。かねて読んだ漱石のそれらの作品に面白さを感じながらも、 作品論 恋愛小説としての「虞美人草」
説 解 「虞美人草」に通じる、美文調と写生文調との混合、交個性的事物のうちに普遍的価値を内在せしめうるかど 錯しているあとがある。 うかを間わない態度に対する叱責がある。自然の表面 「写生文」 ( 四十年一月二十日 ) と「鶏頭の序」 ( 四十でなく、奥深い生命をとらえねばならないとする漱石 一年一月 ) とは、ともに読むべきものであろう。漱石の意図が潜在しているのである。 は世間から「写生文」から出た作家である。一部から 『鶏頭』の序文は、「低徊趣味」とか「余裕派」とかい は、「写生文」が世間の広い注目をひいたのは漱石のう名称を天下に広め、またこの名前で漱石自身の作風 「猫」からであり、したがって「今日の写生文は ( 夏を批評される機会をあたえた、有名な文章である。 目 ) 氏が紹介したものだ」 ( 柳川春葉、「文章世界」明 しかし漱石は虚子の文学をよぶのに、かりにこうい 治四十年三月 ) とも云われていた。 う名前をつけたのであって、彼自身は「写生文」に批 それはともかく子規がひらいたこの一派の文体の意判的であったように、虚子にも批判的であった。三十 図するところは、子規にせよ、虚子にせよ、手法につ九年十月二十六日鈴木三重吉あての書簡で、「単に美 いてが主であって、態度や本質に関するものではなか的な文字は昔の学者が冷評したごとく閑文学に帰着す しようよう った。漱石のこの一文は、その点についての反省をふる。俳句趣味はこの閑文学の中に逍して喜んでいる。 くんだ最初のものであって、それを超越的・東洋的な いやしくも文学をもって生命とするものならば単 に美というだけでは満足ができない。ちょうど維新の 態度として解説したうえで、真の写実という点からい えば、かなりモデレートな、微温的なものであること当時勤王家が困苦をなめたような了見にならなくては を指摘している。「二十世紀の今日こんな立場のみに駄目だろうと思う。間違ったら神経衰弱でも気違でも ろうじよう 入牢でもなんでもする了見でなくては文学者になれま 籠城して得意になって」いることを批判する裏には、 と思う : : : それが、人生の意味の深さ広さをとらえようとせす、 かの俳句連虚子でも四方太でもこの点 357
不尭 , あュ 第一高等学校本館玄関前の漱石 ( 明治 40 年 2 月 ) および書跡「不見萬甲 . 道但見萬甲 . 天漱石」
たものの総称で、世話物に対して用いられるが、ここは、 のち早田大学文学部長にもなった。 過去の時代を取扱った作品の意味。 明治十二年ー昭和十 ( 2 ) 坂元 ( 当時白仁 ) 三郎 かふき じようるり ( 7 ) 世話ものふつう、歌舞伎・浄瑠璃などで使わ 三年 ( 1879 ー 1938 ) 。能楽批評家。雪鳥と号す。朝日新 しようへ れる言葉であるが、その他小説・戯曲・芝居などにおい 聞社が漱石を招聘した際、使者として漱石のもとを訪れ て、現代の世態・風俗・人情を、現代の事件に取材して た人。当時東京帝国大学国文科学生。熊本第五高等学校 描いたものにもいう。 時代の漱石の教え子であったところから、朝日新聞社で あやつりにんきよう 三 C 七 ( 1 ) ダーク一座の操人形第一巻四六川ページ分 はこの人を使者に立てた。 ( 4 ) 参照。 ( 3 ) その節のお話の義朝日新聞社入社について ざうがん の話。 三 0 〈 ( 1 ) 象嵌「象眼」とも書く。金属・木材・陶磁器な どの材料に他の同種の材料をはめ込んで飾りとする技術。 ( 4 ) 大学より英文学の講座担任の相談これあり候 三一 0 ( 1 ) レヴェレーション revelation ( 英 ) 。天啓。 鏡子夫人の思い出によれば、漱石の友人で東京帝国大学 神のお告げ。 教授の大塚保治を通して、英文学の講座担任および講師 三一一 ( 1 ) 「縁」明治四十年っ 907 ) 二月の「ホトトギス」 から教授への昇格の話がなされたという。当時の専任教 授の月収は百五十円であった。 巻頭に掲載された野上弥生子の処女作。その際漱石のこ の手紙の全文が「漱石氏来書」として載せられ、序文の ( 5 ) 池辺氏池辺三山 ( 一兀治元年ー明治四十五年、 てつこんろん 役をつとめた。 1864 ー 1912 ) 。本名吉太郎。別に鉄崑崙とも号した。当 明治三十九年 ( 1906 ) 五月「ホトト ( 2 ) 「千鳥 , 時の東京朝日新聞主筆。 ギス」に発表された、鈴木三重吉の処女作にして出世作。 ( 6 ) 村山氏村山竜平 ( 嘉永三年ー昭和八年、 1850 三三 ( 1 ) 片上伸 明治十七年ー昭和三年 ( 1884 ー 1928 ) 。 ー 1933 ) 。当時の朝日新聞社社主。 批評家。ロシア文学者。天弦と号した。早稲田大学卒業三一四 ( 1 ) 去年中に小生がなしえたる仕事明治三十九 後、島村抱月の主宰する「早稲田文学」の記者となり、 年 ( 1906 ) 中に漱石は「吾輩は猫である ( 九ー十一 ) 」
し。単に人情ものとしてもなおよくない。そして片々はない。君が正しい点から出立して一個の森巻吉とし じゃま が片々を邪魔をするように組み合わされているからそて成功せんことを望むからである。以上 一月十二日 の結果はなおいけない。 夏目金之助 〇僕の解剖は正しい。普通の人はあれを読んでなんだ 森巻吉様 か可笑しいと思う。そしてなにが可笑しいか分らすに 三野上弥生子の「明暗」を評す しまう。君はそれ等の評をきくと不平に違いない。不 一月十七日 ( 木 ) 本郷区駒込西片町十番地ろノ七号よ 平かもしれないがそういう評が適当である。君の不平 をある点まで和げようと思って僕はこゝまで解剖して り府下巣鴨町上駒込三百八十八番地内海方野上八重へ 明暗 御覧に入れたのである。 〇いちばん最後に呵責の一編においてもっとも取るべ 非常に苦心の作なり。しかしこの苦心は局部の 0 0 き点があるなら文章である。そしてその文章はついに 苦心なり。したがって苦心の割に全体が引き立っ ことなし。 漱石の癖所を真似たものである。したがって漱石以上 一局部に苦心をしすぎる結果散文中にむやみに詩 に成功した文章でも天下はそれほど動かない。君の損 である。真似をされた漱石自身さえ好まぬ以上は他人 的な形容を使ふ。しかも入らぬところへむりやり ( 1 ) ざうがん ふみづくゑ に使ふ。スキ間なく象嵌を施したる文机のごとし。 はなおさらである。文は人間である。君は漱石とは違 全体の地は隠れてしまふ。 う人間であるからしせんにかけばきっと漱石と違った ものができる。それが君の文章である。どうかこの後 一しかしてこの装飾は机の木とある点において不 作物をやる時はそのつもりでやってもらいたい。 調れなり。会話は全然写真にして地の文はほとん 0 僕は遠慮のないことをいう。君を失望させるわけで ど漢文口調のごとき堅苦しきものなり ( 余の文体 やわら 308
三四三 ( 1 ) 畔柳都太郎英文学者。第一高等学校教授。 出版された高浜虚子の短篇小説集「鶏頭」の序文 ( 本巻 三 ( 1 ) 「やもり」明治四十年十月の「ホトトギス」に 所収 ) 。この中で漱石は「余裕のある小説」「余裕のない 掲載された寺田寅彦の「やもり物語」。 小説」「低徊趣味」などについてかなりくわしく説明して ( 2 ) 牛込区早稲田南町七番地漱石の生家に近い しゅうえん 家で、漱石終焉の家となった。第二次大戦のため、母屋三四六 ( 1 ) 深田康算美学者。一高教授。のち・京大教授。 おほまちけいげつ から切り離して保存されていた客間と書斎とは消失して ( 2 ) 大町桂月君の夏目漱石論明治四十年十二月 今はないが、漱石山房跡として猫の墓が残っている。 に広文堂から発行された大町桂月の「半生の文章」に ( 3 ) 巌谷季雄明治三年ー昭和八年 ( 1870 ー 1933 ) 。 「夏目漱石論」というのが入っている。 号、漣山人・大江小波など。童話作家・小説家・俳人。 ( 3 ) 趣味の男当時の雑誌「趣味」に関係していた 人物の意味。 明治二十八年来博文館に入って、「少年世界」ほかの少年 うけ 雑誌を主宰、文学的香気たかい少年読物を発表していた。三四七 ( 1 ) 有卦陰陽道で定めた幸運の年まわりで、この ( 4 ) 田山録弥田山花袋の本名。明治三二年来博文 年まわりに入った人は七年の間吉事が続くといわれる。 館編集部に入って生活の安定を図っていた。 有卦に入るとは幸運にめぐりあうこと。 さいをんじ ( 5 ) 西園寺侯爵西園寺公望 ( 嘉永一一年ー昭和十五 ( 2 ) 三十日っゞきのものをただいまたのまれたば 年、 1849 ー 1940 ) 。政治家。維新に軍功あり、明治三ー十 かり「朝日新聞社」からの新年用小説の依頼をさす。 三年渡仏。三十六年政友会総裁、三十九年一月より四十 その結果「坑夫」が書かれ、翌四十一年一月一日から四 年七月まで、首相をつとめた。文藻趣味も豊かで、首相 月三日まで東西「朝日新聞ーに連載された。 在任中は、駿河台の自邸に当代の知名文士を招く雅会 ( 吉田精一 ) 「雨声会」をしばしば催した。ここに「招待」というの は、この「雨声会」のことである。 三四五 ( 1 ) 御依頼の序文明治四十一年一月、春陽堂から 416
論 作 子を感じる私の眠から見ると、そうなる。三分の二の小夜子と三分の一くらいの糸子であろうか。 セドレ家が傾きはじめた時、ジョオジは父親からアメリアとの婚約の破棄を命しられ、代りに大 富豪の世嗣娘との結婚をすすめられる。彼はセドレ家から遠ざかり、同家の破産は決定的となる。 藤尾と結婚しようとする小野さんの小夜子への様子、その時の小夜子の心細さや憂欝、小野さんの 心変りがはっきりした時の彼女の悲しみや井上先生の怒りを読むと、私は「虚栄の市」に描、かれて いるこの間のジョオジやアメリアや彼女の両親のことを思いだす。そうして、小野さんと小夜子を 結婚させるための宗近君の大活躍は、そういうジョオジとアメリアを結婚させるためのドッビン大 尉のこれも同じ大活躍を思いださずにはいられないのである。 「虚栄の市」は一八四五年から書きはじめられ、一八四八年には出版されている。一八大七年生 まれの漱石が英文学の研究に取りかかった時分には、既に古典となっていたことであろう。漱石は この作品を読んでいたかもしれない。漱石とメレディスやジェーン・オースティンの文学との関係 はよく指摘される。が、私は漱石がサッカレイから影響を受けたかどうかは、実はどうでもいいの である。全く繋がりのない実在の人間同士の間でも、驚くほど似たようなことをする人たちが見ら れるものだ。そういう発見をした時は、実に面白い。「虞美人草」の若い男女たちと「虚栄の市」 の若い男女たちとの間で、それに似た面白さを味わうのが、私は好きなのである。 「虞美人草」のところどころに見られる美文や誇張にこだわりすぎたり、哲学的意味を問いすぎ
たりするのは、この小説の面白さを事前に識り損ねるようなものではないかと思う。私はこの小説 に、妹というものをも含めて若い女性に対する若かった日の漱石の見果てぬ夢を感じる。この一編 の創作衝動はそこにある。漱石は甲野さんでありたかったのであり、宗近君でありたかったのであ り、小野さんでありたかったのであろう。考えてみると、小野さん役なども、なかなかよさそうで 、。小夜子のような女性が終始いてくれて、 ある。彼は小夜子と義理ゆえに結婚するのではあるまし しかも藤尾のような女性と恋をし、その藤尾を捨てて、小夜子と結婚する自足は、男性にとっての 夢のひとつではないだろうか。
かせ ありがた れうけん 申すことあり。永劫に虞美人草攻となる了簡なり。 難有く候。実はその面影をよまずそれがためか、るコ ( 1 ) しきわり ントラストを生じ候。まづはお答へまで。草表 細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割などを食っ うすぎりさるえら てゐるよし。芋の薄切は猿と択ぶところなし。残忍な 四七漱石と世評 る世の中なり。しかして彼等は朝から晩まで真面目に 働いでゐる。 八月十九日 ( 月 ) ( 時間不明 ) 本郷区駒込西片町十番 地ろノ七号より福岡県京都郡犀川村小宮豊隆へ 岩崎の徒を見よⅢ〕 みえきち 終日人の事業の妨害をして ( いな企てて ) さうして 君が帰京前最後の手紙としてこれをかく。三重吉と 三食に米を食ってゐる奴等もある。漱石子の業はこ いっしょにこしらえてくれた花壇はいまだに花が絶え びっちゅう かげ れ等の敗徳漢を筆誅するにあり。 ぬ。お蔭で日々慰めになる。虞美人草をかく時にも大 はなばたけ なうてん いなる注意物となった。筆をもって漫然とあの花畠を 天候不良なり。脳巓異状を呈してこの激語あり。蓊 こども ( 3 ) かさん 見ている。暑があけて秋が来て朝夕は涼しい。小供が 先生願はくは加餐せよ。以上 むしか・こ 八月十六日 夏目金之助 虫籠を軒へかけた。虫がなく。少し書物が読みたい。 ろうじよう ( 5 ) こうざん 中村蓊様 この夏も江山の気を得すに籠城してしまいそうだ。三 重吉のおとっさんが肺病になる。川下江村という人が 四六「小夜子」という名 卒業してすぐ死んでしまった。 かんがえ 八月十七日本郷区駒込西片町十番地ろノ七号より大 世の中は妙な考を持っているものだ。殿下様が漱石 分県大分郡松岡村吉峰竟也へ〔はがき〕 の敵だといえば漱石はすぐ恐れ入るかと考えている。 どうはうよし そろ のんき 四海同胞の好みをもって御書遣はされ拝見いたし候。至極呑気にできている。殿下様はえらいかもしれない ふたばてい 虞美人草の人物の名二葉亭氏にこれあるよし、御注意 が、漱石がそう安っぽくできていたひにや小説なんか えい・こふ やつら おかげ 3 有