顔 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 4
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1. 夏目漱石全集 4

あた・、かみ なものか一生知らすに済んでしまう人間がいくらもあ 宗近君の言葉にはなんだか暖味があった。 る。皮だけで生きている人間は、土だけでできている 「いるです」と答えた。しばらくしてまた、 」。宗近君は顔を前へ人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるの 「いるです」と答えた。下をく あと もったい に人形になるのは勿体ない。真面目になった後は心持 出した。相手は下を向いたま \ 力い、ものだよ。君にそういう 経験があるかい」 「僕の性質は弱いです」と言った。 小野さんは首を垂れた。 「どうして」 「なければ、ひとつなってみたまえ、今だ。こんなこ 「生れ付きだから仕方がないです」 この機をはすすと、もう これも下を向いたま、言う。 とは生涯に二度とは来ない。 かたひざ 宗近君はなおと顔を寄せる。片を立てる。膝の上駄目だ。生崕真面目の味を知らすに死んでしまう。死 に肱を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうしてぬまでむく犬のようにうろ / 、して不安ばかりだ。人 間は真面目になる機会が重なれば重なるほどでき上っ 法螺じゃな 「君は学間も僕よりできる。頭も僕より好い。僕は君てくる。人間らしい気持がしてくる。 、。自分で経験してみないうちは分らない。僕はこの を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」 とおり学間もない、勉強もしない、落第もする、ごろ ・ : 」と顏を上けた時、宗近君は鼻の先にい ごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なん た。顔を押し付けるようにして言う。 あや 危、時に、生れ付きを敲き直しておかなぞは神経が鈍いからたと思っている。なるほど神経も きよう しよう力い 草 しかしそう無神経なら今日でも、こ 鈍いだろう。 いくら勉強しても、いく いと、生涯不安で仕舞うよ。 こ、だよ、 う遣って車で馳け付けやしない。そうじゃないか、月 美ら学者になっても取り返しは付かない。 野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どん野さん」 2 引

2. 夏目漱石全集 4

くと若狭の国へ出る所だそうです」 がら、眸を豆の受持ち手の方へ動かした。目を動かさ どろぼう 「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまちんとするものは、まず顔を動かす。火専場に泥棒を働 さりやく 前言を取り消した。 らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略は 「だって君が、そう言ったじゃないか」 ある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ間題を呈出した。 「それは冗談さ」 「御叔父さん、東塔とか西塔とかいうのはなんの名で 、若狭へ出ちやたいへんだ」と老人は大いすか」 ふたえまぶた えん・りやくじ に愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼の波を寄せた。 「やはり延暦寺の区域だね。広い山の中に、あすこに 「いったいお前がたはたゞ歩行くばかりで飛脚同然た一と塊まり、こ、に一と塊まりと坊が集まっておるか ( 1 ) とうとう ( 2 ) さいとう ( 3 ) よかわ からいけない。 叡山には東塔、西塔、横川とあつら、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とかいうの まちがい て、その三か所を毎日往来してそれを修業にしている たと田 5 えば間違はない 人もあるくらい広い所だ。たゞ登って下りるだけなら「まあ、君、大学に法、医、文とあるようなものだよ」 どこの山へ登ったって同じことじゃないか」 と宗近君は横合から、知ったような口を出す。 「なに、たゞの山のつもりで登ったんです」 「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。 ( 5 ) とうしゆら 「アハ、、それじや足の裏へ豆を出しに登ったような 「東は修羅、西は都に近ければ横川 の奥そ住みよかり ものだ」 けるという歌があるとおり、横月がいちばん淋しい うけもち 「豆はたしかです。豆はそ 0 ちの受持です」と矢なが学間でもするに好い所とな 0 ている。ーー・今話した相 人 ら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかり輪樸から五十丁もはいらなければ行かれない」 ともしびあきら 美はしておられぬ。燈火は明かに揺れる。糸子は袖を口 「どうれで知らずに通ったわけだな、君」と宗近君が えがおおさ ぎわっむり へ当てて、崩しかゝった笑顔の収まり際に頭を上げなまた甲野さんに話しかける。甲野さんはなんとも言わ わかさ わらい そで ひとみ さび 8

3. 夏目漱石全集 4

その代り、母さんの世話はお前 景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆「今日から遣る。 は引きかけた線の半ばでびたりと留った。同時に藤尾がしなければ不可ない」 ありがと 「雌有う」と言いながら、また母の方を見る。やはり の顔は背景を抜け出して来る。 ( 1 ) あぶだ 「炙り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来笑っている。 よこ . あい 「お前宗近へ行く気はないかー て、横合から腰を卸す。卸しおわった時、また、 「え、」 「出て ? 」と母に聞く。母はたゞ藤尾の方を意味あり げに見たのみである。甲野さんの黒い線はこのあいだ 「ない ? どうしても厭か」 に四本増した。 「厭です」 「そうか。 「兄さんがお前になにか御用があるとお言いだから」 そんなに小野が好いのか」 「そう」と言ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。 藤尾はきっとなる。 黒い線がしきりにできつ、ある。 「それを聞いてなんになさる」と椅子の上に背を伸し 「兄さん、なにか御用」 て言う。 「うん」と言った甲野さんは、ようやく顔を上げた。 「なんにもしない。私のためにはなんにもならないこ 顔を上げたなりなんとも言わない。 とだ。たゞお前のために言ってやるのだ , うすわらい しり ことば 藤尾は再び母の方を見た。見るとともに薄笑の影が 「私のために ? 」と言葉の尻を上げておいて、 奇麗な頬にさす。兄はやっと口を切る。 「そう」とさも軽蔑したように落す。母ははじめて口 「藤尾、この家と、私が父さんから受け襲いだ財産はを出す。 かんがえ みんなお前にやるよ」 「兄さんの考では、小野さんより一のほうがよかろう という話なんだがね」 ほお おろ わたしおとっ っ きよう け おっか の 204

4. 夏目漱石全集 4

ころも するつもりならそれでよい。二人が仄した囈実の反証より合わない。引き掛けた法衣のようにふわっいた下 くろたび から黒足袋が見える。足袋だけは新らしい。嗅けば紺 を挙げて鼻をあかしてやる。 あやまら の匂がしそうである。古い頭に新しい足の欽吾は、世 小野はどうしても詫せなければならぬ。つらく当っ えんわ て詫せなければならぬ。同時に兄と宗近も詫せなけれを逆様に歩いて、ふらりと椽側へ出た。 からかいづら ( 2 ) うんさいぞこ ばならぬ。小野は全然わがもので、調戯面にあてつけ 拭き込んた細かい柾目の板が、雲斎底の影を写すほ せおっ た二人の悪戯はなんの役にも立たなかった、見ろこのどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負た黒 とおりと親しいところを見せつけて、鼻をあかして託い髪はさらりと動いた。とたんに椽に落ちた紺足袋が せなければならぬ。 藤尾は矛盾した両面を我の一女のⅡにはいる。足袋の主は見なくても知れている。 あらいがみうしろ 紺足袋は静かに歩いて来た。 字で貫こうと、洗髪の後に顔を埋めて考えている。 かな椽に足音がする。背の高い影がのっと現われ「藤尾」 うしろ ねすみいろけおりンヤ みそ かすりあ・いせ た。絣の袷の前が開いて、既につけた鼠色の毛織の襯声は後でする。雨戸の髀をすっくと仕切った栂の柱 きかさま 衣が、長い三角を逆様にして胸に映る上に、長い頸がを背に、歔吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。 あお 「また夢か」と欽吾は立ったま \ 癖のない洗髪を見 ある、長い願がある。顔の色は蒼い。髪は渦を捲いて、 おろ 二三か月は刈らぬと見える。四五日は櫛を入れないと下した。 くちひけ ( 3 ) やまかゞ も思われる。美くしいのは濃い眉とロ髭である。髭の 「なんですーと言いなり女は、顔を向け直した。赤棟 し かげろう 蛇の首を擡けた時のようである。黒い髪に陽炎を砕く。 質はきわめて黒く、きわめて細い。手を入れぬま、に ひとがら 自然の趣を具えてなんとなく人柄に見える。腰は汚れ男は、目さえ動かさない。蒼い顔で見している。 まわ ろちりめんふたえ 向き直った女の額をじっと見下している。 た白縮緬を二重に周して、長すぎる端を、だらりと、 すそ ( 1 ) ねこ 「昨夕は面白かったかい」 猫じゃらしに、右の袂の下で結んでいる。裾はもと たち あ いたずら ほのめか におい ゅうべ まさめ み 738

5. 夏目漱石全集 4

た腰を卸しながら笑う。相手は半分顔を背けて硝子越 「そうさ、待合所が黒山のようだった。 に窓の外を透して見る。外はたゞ暗いばかりである。 「京都は淋しいだろう。今ごろは」 汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。轟という 、、、ほんとうに。実に閑静な所だ」 「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれで音のみする。人間は無能力である。 ( 1 ) なんマイル 「ずいぶん早いね。何哩くらいの速カかしらん、と宗 もやつばりいろ / ( 、な用真があるんだろうな」 「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるたろ近君が席の上へ胡坐をかきながら言う。 まっくら 「どのくらいはやいか外が真暗でちっとも分らん」 う」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。 「外が暗くったって、はやいじゃないか」 、生れて死ぬのが用真か。蔦屋の隣家に住ん 「比較するものが見えないから分らないよ」 でる親子なんか、まあそんな連中たね。すいぶんひっ そり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行「見えなくったって、はやいさ , 「君には分るのか」 くというから不楓議だ 「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をか 「博覧会でも見に行くんだろう」 うちた、 き直す。話はまた途切れる。汽車は速度を増してゆく。 「いえ、家を畳んで引っ越すんたそうだ」 たれ 向の棚に載せた誰やらの帽子が、傾いたま \ 山高の 「へええ。 「いっか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかっ頂を顫わせている。給仕が時々室内を抜ける。たいて いの乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。 「どうしてもはやいよ。おい」と宗近君はまた話しか 人「あの娘もいずれ嫁に行くことだろうな」と甲野さん ひとどと ける。甲野さんは半分目を眠っていた。 美ま独り一『ロのように一一一口う 0 すだぶくろたな 、、、行くだろう」と宗近君は頭陀袋を棚へ上げ「えゝ ? 」 むこう ふる おろ あぐら と をむ ガラス 1 し

6. 夏目漱石全集 4

「えゝ」と小声に答えて、立ち兼ねた。 に戻らざる好処置が、知恵分別の純作用以外に活きて 「これは東京で育ったのだよ , と先生が足らぬところくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生か を補ってくれる。 らも聞いたことがない。したがって浅井君はいっこう 「そうでしたな。 たいへん大きくなりましたな」 知らない。たヾ断われば済むと思っている。淋しい ごん ( 1 ) ふうし と突然別間題に飛び移った。 夜子の運命が、夫子の一言でどう変化するだろうかと さび えおうつむけ こたえ 小夜子は淋しい笑顔を俯向て、今度は答さえも控えは浅井君の夢にだも考ええざる間題である。 た。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺めている。 浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂 こゝろもと せき ( 2 ) せ これからこの女の結婚間題を壊すんだなと思いながら先生は変な咳を二つ三つ塞いた。小夜子は心元なく父 平気に眺めている。浅井君の結婚間題に関する意見はの方を向く。 しようがい 大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯の幸福「お薬はもう上がったんですか」 についてはあまり同情を表しておらん。たゞ頼まれた「朝の分はもう飲んだよ」 から頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。「お寒いことはござんせんか」 「寒くはないが、少し : : : 」 そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっ 先生は右の手頸へ左の指を三本懸けた。小夜子は浅 とも実際的で、実際的は最上の方法たと心得ている。 浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力井のいることも忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見 の少ないのをかって不足たと思ったことのない男であ詰めている。先生の顔は髯とともに日ごとに細長く瘠 る。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活せこけてくる。 きづかわ 動はかえって想像力のために常に阻害せらるるものと 「どうですかーと気遣し気に聞く。 信している。想像力を待って、はじめて、全たき人性「少し、早いようた。やつばり熱が除れない」と額に こわ まっ こと ひげ

7. 夏目漱石全集 4

ている。遅日影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮の 「実は井上先生のことだがね」 こまや 濃かに照る上に、目に入らぬほどの埃が一面に積んで 「お先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ね ほそで よこはら ひま よろ いる。小野さんは携えた細手の洋杖での横腹をぼんる閑がないから、行かんが。君先生に逢うたら宜しく ぼんと鞭うった。埃は靴を離れて一寸ほど舞い上がる。言うてくれ。ついでにお嬢さんにも」 またら 鞭うたれた局部たけは斑に黒くなった。並んで見える 浅井君はハ、、、と高く笑った。ついでに爛干から つば よだれ 浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかっ無細工である。 胸をつき出して、涎のごとき唾をかの下に吐いた。 「十円ぐらいなら都合ができないこともないが 「そのお嬢さんのことなんだが : : : 」 つごろまで」 「いよ / \ 結婚するか」 「今月末にはきっと返す。それで好かろう」と浅井君「君は気が早くって可ない。そう先へ言 0 ちまっち ことば むぎばたけな第 は顔を寄せてくる。小野さんは口から烟草を離した。 ゃあ : : : 」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めてい すいがらむこう 指の股に挾んだまゝ、一振はたくと三分の灰は靴の甲たが、たちまち手に持った吸殻を向へ投げた。白いカ しつぼうみようとばたん に落ちた。 フスが七宝の夫婦釦とともにかしやと鳴る。一寸に余 えり かす たもと けむりさかさま 体をそのま、に白い襟の上から首だけを横に捩ると、る金が空を掠めて橋の袂に落ちた。落ちた烟は逆様に 欄干に頬杖をついた人の顔が五寸下に見える。 地から這い揚がる。 もったい 「今月末でも、いつでもい。 その代り少しお願「勿体ないことをするのう , と浅井君が言った。 がある。聞いてくれるかい」 「君ほんとうに僕の言うことを聞いてくれるのかい」 草 「うん、話してみい」 「ほんとうに聞いとる。それから」 人 うけあ 美浅井君は容易に受合 0 た。同時に頬杖をやめて背を「それからって、まだなんにも話しやしないじゃない おりい 立てる。二人の顔はすれ / \ にきた。 金の工面はどうでもするが、君に折入ってお ほおらえ なち はさ ちじっ ひとふり ステッキ ほこり ねがい 、刀 、 0 225

8. 夏目漱石全集 4

ちゃがま とする。 らりとした勝手には茶釜ばかりが静かに光っている。 くろだ げたばこ しよせいべや 甲野さんは玄関を右に切れて、下駄箱の透いて見え黒田さんは例のごとく、書生部屋で、坊主頭を腕の中 うす つくえ ( 1 ) たゝき ねこ る格子をそろりと明けた。細い杖の先で合土の上をこ に埋めて、机の上に猫のように寐ているだろう。立ち た、 の あぎやしき ちこち叩いて立っている。頼むともなんとも言わぬ。 退いた空屋敷とも思わるるなかに、内玄関でこち / 、 けわい むろん応するものはない。屋敷のなかは人の住む気合音がする。はてなと何気なく障子を明けるとーーー広い ひとり も見えぬほどにしんとしている。門前を通る車のほう 世界にたった一人の甲野さんが立っている。格子から ひかげ がかえって賑やかに聞える。細い杖の先がこち / 、鳴差す戸外の日影を背に受けて、薄暗く高い身を、合土 まんなか の真中に動かしもせす、しきりに杖を鳴らしている。 からかみ 「あらー やがて静かなうちで、すうと唐紙が明く音がする。 きょ ね ひさし 清や / \ と下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は 同時に杖の音はとまる。甲野さんは帽の廂の下から ちかろ 勝手の方に近付いて来た。杖の先はこち / 、という。 女の顔を久しぶりのように見た。女は急に目をはすし のば 足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。て、細い杖の先を眺める。杖の先から藝いものが上っ みあわ 糸子と甲野さんは顔を見合せて立った。 て、顔がぼうとほてる。油を抜いて、為すがま、にふ 下女もおり書生も置く身は、気軽く構えてもめった くらました髪を、落すがごとく前に、糸子は腰を折っ とりつぎ こ 0 に取次に出ることはない。出ようと思うまに、立てか ひとはり ひざおろ ふたはり こし J 洋一 けた膝を卸して、一針でも二針でも縫糸が先へ出るが 「お出 ? 」と甲野さんは言葉の尻を上げて簡単に聞く。 ごこち なが ふたえまふちあい 常である。重たき琵琶の抱き心地という永い昼が、永「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない二重瞼に愛 あぶ きよう きに堪えず崩れんとするを、鳴く纛にうっとりと夢を嬌の波が寄った。 支えて、清を呼べは、清は裏へでも行ったらしい。か 阿爺さんは」 「お留守ですか。 た にぎ なが お と な

9. 夏目漱石全集 4

耋うしぶん 小野さんは申分のない聟である。たゞ財産のないのける。呉れるというのを、呉れたくない意味と解いて、 が欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、 貰う料簡で貰わないと主張するのが謎の女である。六 それがし かに気に入った男でも幅が利かぬ。無一物の某を入れ 畳嗷の人生観はすこぶる複雑である。 よめしゅうとめ て、大人しく嫁姑を大事にさせるのが、藤尾の都合 謎の女は間題の解決に苦しんでとう / ~ 、六畳敷を出 にもなる、自分のためでもある。一つ困ることはその た。貰いたいものをあくまで貰わないと主張して、し 財産である。夫が外国で死んだ四か月後の今日は当然かも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易 くったく 欽吾の所有に帰してしまった。胆はこゝから始まる。に発見のできぬ方法である。謎の女が苦し紛れの屈託 がお じれった 欽吾は一文の財産も入らぬという。家も藤尾に遣る顔に六畳敷を出たのは、焦慮いが高じて、布団の上に という。義理の着物を脱いで便利の赤裸になれるものたたまれないからである。出て見ると春の日は存外 のどか びんなふ なら、降って湧いた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気長閑で、平気に鬢を嬲る温風はいやに人を馬鹿にする。 にもなる。しかし体裁に着る衣装はそう無雑作に幻ぎ謎の女はいよ / \ 気色が悪くなった。 えん 取れるものではない。降りそうたから傘をやろうと投椽を左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部 げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、 屋は歔吾が書斎に使っている。右は鍵の手に折れて、 見す / \ 呉れる人が濡れるのを構わすに我儘な手を出折れたはすれの南に突き出した六畳が藤尾の居間とな すのは人の思わくもある。そこに謎ができる。呉れるる。 ひしもち まっすぐ というのは本気でいう嘘で、取らぬ顔付を見せるのも菱餅の底を渡る気で真直な向う角を見ると藤尾が立 もうしわけ ぬれいろさば 隣近所への申訳にすぎない。欽吾の財産を歔吾のほう っている。濡色に捌いた濃き鬢のあたりを、栂の柱に うけと なかまど からむりに藤尾に譲るのを、いや / \ ながら受取った圧し付けて、斜めに持たした艷な姿の中穆に、帯深く つくろ ( 2 ) はぎ すゝきなひ 顔付に、文明の手前を繕わねばならぬ。そこで謎が解差し込んだ手頸たけが白く見える。萩に伏し薄に驩く かおっき かさ むぞうさ や ふとん ひとへ

10. 夏目漱石全集 4

「アハ、、、ほんとうに帰ろうかね」 いた時分もこうかい」 ひど 「ほんとうに帰っても宜うござんすわ」 「え、ずいぶん苛くってよ きよう ねん / 、はげ 「なぜ」 「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞはま ひさし のそ ったく風はないね」と廂の外を下から覗いて見る。空「なぜでも」 こ、ろ・も 「だって来たばかりじゃないか」 は曇る心持ちを透かして春の日があやふやに流れてい きこ 「来たばかりでも構いませんわ」 る。琴の音がまた聴える。 じようだん なか / 、旨い。ありや 「構わない ? 、冗談を : : : 」 「おや琴を弾いているね。 なんだい」 娘は下を向いた。 「当ててごらんなさい」 「小野が来たそうたね」 おとっさん 「当ててみろ。ハ 、、、阿父には分らないよ。琴を聴「え、娘はやつばり下を向いている。 しすか くと京都のことを思い出すね。京都は静でい目 阿父「小野は 小野はなにかねーーこ じだいおく のような時代後れの人間は東京のような烈しい所には 「え ? 」と百を上げる。老人は娘の顔を見た。 向かない。東京はまあ小野だの、お前たののような若「小野はーー・来たんだね」 い人が住まう所たねー 「え、、入らしってよ 時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざ / \ 「それでなにかい。その、なにも言って行かなかった 埃だらけの東京へ引き越したようなものである。 のかい」 「いえ別に・ 「じゃ京都へ帰りましようかーと心細い顔に笑を浮べ あわ うけし」 て見せる。老人は世に疎いわれを憐れむ孝心と受取っ 「なにもいわない ? 待ってれば好いのに」 「急ぐからまた来るってお帰りになりました」 こ 0 えみ 100