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検索対象: 夏目漱石全集 5
115件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 5

ります。医者ばかりではありません、学者でもそうでむ人が必ずしも好悪のない人とは申されません。真に あります。動物学者が御苦労にも泥溝の中から一滴の向って進むあいだだけ好悪の念を脱却するのでありま むとんじゃく 水を取ってきて、しきりに顕微鏡で眺めています。たす。尿を検査する医師がいつでも尿に無頓着とは受け ちがい くさん虫が見えるでしよう。しかしみんな裸体に違な取れません。無頓着ならば食卓の上に便器があっても のみならず時々は如何わしい状態をするかもしれ平然として食事ができるはずであります。虫の交尾す のそ ありさま るところを研究する動物学者だって、虫以外の万事ま ない。覗き込んでいる動物学者がこの有様を見て、 やこれはたいへんだ風紀に害があるから、もう研究をでにその態度を応用する勇気はないでしよう。たヾ真 巳めよう。という鹿もないでしようが、あったらどを研究する時だけ他を忘れ得るほどに真に熱中するの うでしよう。非常に道徳心の高い動物学者には相違なであると解釈しなければなりません。真を写す文学者 いでしようが、しかし真理の研究者としてはほとんどもこの医者や動物学者と同じ態度で、平生は依然とし こうでい とんしやく 三文の価値もないと申さなければなりません。文学者て善悪に拘泥し、美醜に頓着し、壮劣に留意する人間 もそのとおりかと存じます。真を目的とする以上は、 であることは争うべからざるの事実であります。柳は ひきよう しいます。 真を回避するのは卑怯であります。露骨に書かなけれ緑、花は紅、そのほかになんの奇があると、 そっけ ばなりません。大胆に忌憚なく筆を着けなくっては、 しかし実際はこう素気ない世の中ではありません。柳 真に対して面目のないことになります ( この点におい に舟を繋ぎたくなったり、花の下で扇を翳したくなる 度て善、美、壮に対する情操と時々衝突を起すことは文のが人情であります。 の一芸の哲学的基礎において述べましたし、前段において そこでこういうことが起ります。真を描く文学は、 ぎわ も一方が強くなると、一方が弱くなる事実を例証しま真を究めさえすればよろしいとなる。その結果他の情 したから御記憶を願います ) 。けれども真に向って進操と衝突しても、まあ嬢いとする。 読者のほうで つな

2. 夏目漱石全集 5

ように考えている。小説家よりも大学の先生のほうが れたけの眼識のないものが人間を写そうと企てるのは、 ほっしん はるかにえらいと考えている。内務省の地方局長のほ あたかも色盲が絵をかこうと発心するようなものでと うてい成功はしないのであります。画を専門になさる、うがなおはるかにえらいと思 0 ている。大臣や金持や 貴所がたのほうからいうと、同じ白色を出すのに白紙華族様はなお / ( 、はるかにえらいと思っている。妙な ことであります。もし我々が小説家から、人間という の白さと、食卓布の白さを区別するくらいな視覚力が ないと視覚の発達した今日において十分理想どおりのものは、こんなものであるという新事実を教えられた 色を表現することができないと同様の意義で、 , ーー文ならば、我々は我々の分化作用の径路において、この 学者のほうでも同性質、同傾向、同境遇、同年輩の男小説家のために一歩の発展を促されて、開化の進路に ひとむら でも、その間に微妙な区別を認め得るくらいな眼光があたる一叢の荊霖を切り開いてもら 0 たといわねばな ないと、人を視る力の発達した今日においては、性格らんだろうと思います ( 小説家の功力はこの一点に限 この一点を挙げて考えても局 を描写したとは申されないのであります。したがってるという意味ではない。 人間をかく文学者は、単に文学者ではならん、要する長さんや博士さんに劣るものでないというのでありま に人間を識別する能力が発達した人でなくてはならんす ) 。もし諸君がそんな小説家は現今日本に一人もな いではないかといわれるならば、私はこう答える。そ のです。進んだる世の中に、もっとも進んだる眼識を そな 具えた男ーーー特に文学者としてではない、一般人間とれは小説家の罪ではない。現今日本の小説家 ( 私もそ りつば してこの方面に立派な腕前のある男ーーーでなければ手の一人とお認めになってよろしい ) の罪である。局長 は出せぬはずであります。世の中はそう思っておりまにでもがあるごとく、博士にでもがあるごとく、小説 さし せん。なんの小説家がと、小説家をもってあたかも指家にでもがあるのもお互様と申さねばならぬのであり どぷ ものし きようじゃ 物師とか経師屋のごとく単に筆を舐って衣食する人のます。ーーまた泥溝の中へ落ちました。 ねぶ ひとり

3. 夏目漱石全集 5

代のロシア文学にならねばならぬものだとは断言できてはシア風で、フランス文学はやはりフランス流で、 ドイツ、イギリスもまたそれん ( 、、にドイツ、イギリスお ないと信じます。または必すューゴーからバルザック、 パルザックからゾラという順序を経て今日のフランス的な特長があるだろうと思います。したがって文学は 文学と一様な性質のものに発展しなければならないと汽車や電車と違って、現今の西洋の真似をしたって、 いう理由も認められないのであります。幼稚な文学がさほど痛快なことはないと思います。それよりも自分 発達するのは必す一本道で、そうして落ち付く先は必の心的状態に相当して、自然と無理をしないで胸中に ず一点であるということを理論的に証明しない以上は起ってくる現象を表現するほうがかえって、自分のも 現代の西洋文学の傾向が、幼稚なる日本文学の傾向とのらしくって生命があるかもしれません。 もっとも日本だって孤立して生存している国柄では ならねばならんとは速断であります。またこの傾向が つきあい 絶体に正しいとも論結はできにくいと思います。一本ない。やつばり西洋とお付合をしてたいぶばた臭くな りつ、ある際だから、西洋の現代文学を研究して、そ 道の科学では新すなわち正ということが、ある程度に おいていわれるかもしれませんが、発展の道が入り組の歴史的の由来を視て、は、あ西洋人は、今こんな立 んでいろ / \ 分れる以上はまた分れ得る以上は西洋人場で書いてるなくらいは心得て置かなくっちゃなりま の新が必すしも日本人に正しいとは申しようがない。 せん。たとえ夢中に真似をするのが悪いといっても、 しかしてその文学が一本道に発達しないものであると先方の立場その他を参考にするのはもちろん必要であ いうことは、理屈はさて置いて、現に当代各国の文学ります。文学は前申したような特色のものではありま もっとも進歩している文学ーーを比較してみたらすが、その特色のうちには一本調子に発達する科学の いちはんよく分るだろうと思います。近ごろのように影響がたくさん流れ込んできますから、定数として動 交通機関の備った時代ですら、ロシア文学は依然としかす・ヘからざるこの要素が、いかに科学の進歩につれ

4. 夏目漱石全集 5

が英語の答案を見て方程式にあてはまらないから落第 る ( 今はその理由を説明する余地がないから略す ) 。 もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作であだというようなものである。デフォーは一種の写実家 る。さいわいにしてオセロは事件の総合と人格の発展である。ロビンソンクルーソーを読んでテニソンのイ が非常にうまく配合されてしぜんと悲劇に運び去る手ノック・アーデンのように詩趣がないという。こ、ま ぎわ 日本の芝居の仕ではなるほどと降参せねばならぬ。しかしそれだから 際がある。読者はそれを見ればいい。 くみ ロビンソンクルーソーは作物にならないというのは歌 組は支離減裂である。鹿々々しい。結構とか性格と まろ かいう点からあれを見たならば抱腹するのが多いだろ麿の風俗画には美人があるが、ギド・レニのマグダレ できごと う。しかし幕に変化がある。出来事が走馬燈のごとくンは女になっておらんと主張するようなものである。 例を挙げれば際限がないから已める。 人を驚かして続々出る。こ、だけを面白がって、その 作家が評家に呈出する答案はかくのごとく多種多面 ほかを忘れていればやはりいくぶんの興味がある一 九は御覧のとおりの作者である。一九を読んで崇高のである。評家は中学の教師のごとく部門をわけて採点 感がないというのは非難しようもない。崇高のがなするかまたは一人で物理、数学、地理、歴史の知識を いから排斥すべしというのは、文学と崇高の博と内容兼ねなければならぬ。今の評家は後者である。いやし くも評家であって、専門の分岐せぬ今の世に立つから において全部一致したあかっきでなければいえぬこと こつけい には、多様の作家が呈出する答案を検閲するときに方 である。一九に点を与えるときには滑稽が下卑である から五十とか、識謔が自然だから九十とかきめなけれ 0 て、いろ / \ に立場を易えて、作家の精神を汲まね ばならぬ。メリメのカルメンはカルメンという女性をばならぬ。融通のきかぬ一本調子の趣味に固執して、 まっさっ 描いて躍然たらしめている。あれを読んで人生間題のその趣味以外の作物を一気に抹殺せんとするのは、英 根元に触れていないから駄作だというのは数学の先生語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、すべ あた ( 3 )

5. 夏目漱石全集 5

という意味を含んでおって、推移という意味がある以と少々妙であります。最初には私というものがあると 上は ( 一 ) 意識に単位がなければならぬということと申しました。貴所がたもたしかにお出になると申しま (ll) この単位が互に消長するということと ( 三 ) はした。そうして、お互に空間という怪しいものの中に はいり込んで、時間という分らぬものの流れに棹さし 消長が分明であるくらいに単位意識が明撩でなければ ならぬということと ( 四 ) 意識の推移がある法則に支て、因果の法則という恐ろしいものに東縛せられて、 ぐう / 、、いっていると申しました。ところが不通俗に 配せらるるやということになりますから、間題がよほ ど遲てきますが、今はそんな面倒なことをお話す考えた結果によるとまるで反対にな 0 てしまいました。 る場合でないから、諸君の御研究に一任することとし物我などという関門は最初からないことになりました。 天地すなわち自己というえらいことになりました。い て講話を進めます。もっとも今申した四か条のうち、 ひょうへん つのまにこう豹変したのか分らないが、まったく矛盾 意識推移の原則については私の「文学論」の第五編に 不完全ながら自分の考えたけは述べておきましたから、してしまいました ( 空間、時間、因果律もやはりこの あとまわ 御参考を願いたいと思います。ついでに「文学論」も豹変のうちに含んでいます。それは講話の都合で後回 とにかくしにしましたから、今にだん / 、わかります ) 。 一部ずつお求めを願いたいと思います。 なぜこんな矛盾が起ったのたろうか。よく考えると 意識がある。物もない、我もないかもしれないが意識 なんにもないのに、通俗では森羅万象いろ / 、なもの 際だけはたしかにある。そうしてこの意識が連続する。 ( 2 ) しゅうじん そうとう が掃蕩しても掃蕩しきれぬほど雑然として宇宙に充初 睡なぜ連続するかは哲学的にまたは進化的に説明が付く ( 3 ) とばり にしても、付かぬにしても連続するのはたしかであるしている。戸張君ではないが天地前にあり、竹風こ、 にありと いいたくなるくらいであります。ーーーなぜこ幻 芸から、これを事実として歩を進めてゆく。 そこでちょっと留まって、この講話の冒頭を顧みるんな矛盾が起ったのであろうか。これはすこぶる大間

6. 夏目漱石全集 5

なにか人らざることでもしているもののように考えて 私はある事情からおもに創作のほうをやる考えであり むか います。実をいうと芸術家よりも文学家よりも入らぬ ますから、向後この方面に向って、どのくらいの貢献 ことをしている人間はいくらでもあるのです。朝から ができるかしれませんが、もし篤実な学者があって、 錏意にそちらを開拓してゆかれたならば、学界はこの晩まで車を飛ばせて馳け回っている連中のうちで、文 人のために大いなる利益を享けるに相違なかろうと確学者や芸術家よりも入らざることをしている連中がい くらあるかしれません。自分たけが国家有用の材たな 信しております。 うぬ・は どと己惚れて急がしげに生存上十人前くらいの権利が 最後に一言を加えます。我々は生きたい / \ という ふるま りようけん 下司な念を本来持っております。この下司な了見からあるかのごとく振舞ってもとうてい駄目なのです。彼 して、物我の区別を立てます。そうしていかなる意識等の有用とか無用とかいう意味はきわめて幼稚な意味 の連続を得んかという選択の念を生じ、この選択の範でいうのですから駄目であります。怒るなら、怒って し、いくら怒っても駄目であります。怒るの 囲が広まるに従って一種の理想を生じ、その理想が分もよろし、 わか は理屈が分らんから怒るのです。怒るよりも頭を下け 岐して、哲学者 ( または科学者 ) となり、文芸家とな り実行家となり、その文芸家がまた四種の理想を作り、てその訳でも聞きに来たらよかろうと思います。恐れ かっこれを分岐せしめて、各自に各自の欲する意識の入って聞きにくればいつでも教えてやってよろしい。 ひるね 私なども学校をやめて、縁側にごろ / 、昼寐をし 連続を実現しつ、あるのであります。要するに皆いか にして存在せんかの生活間題から割り出したものにすているといって、友達がみんな笑います。ーー笑うの なる ぎません。たからしてなにをやろうと決して実際的のじゃない、実は羨ましいのかもしれません。 はす 利害を外れたことは一つもないのであります。世の中ほど昼寐は致します。昼寐ばかりではない、朝寐も宵 ひましん 寐も致します。しかし寐ながらにして、えらい理想で では芸術家とか文学家とかいうものを閑人と号して、 ともだち うらや あさね

7. 夏目漱石全集 5

りますまいが、まあ例ですからそのつもりでお聞きを その辺に注意を払った適度の評価をしなければなりま すまい。もしこれを在来のま、で絶対評価をもって叙願います ) 。それで読む人は難有がる。書く人は成功芻 おく 述すると時勢後れになります。せつかくの目的が達せする。ばかりじゃない、傍から見ても、旧来の評価を られなくなります。昔は親のために身を苦海に沈めるむりに維持しようとする情操文学よりも必要の度が多 、でしよう。 のを孝といったかもしれない。今日の我々から見ても ことがら 孝かもしれないが、よし娘が拒絶したって、事柄が事次に日本では情操文学も揮真文学も双方発達してお りませんのは、し 、くら己惚の強い私も十分に認めねば 柄たから不孝とは思いますまい。それだけ孝の評価が なりませんが、昔から今日まで出版された文学書の統 下落したのであります。これを西洋人にいわせると、 頭からてんで想像し得られないといいます。西洋へ行計を取ってみたら、むろん情操文学に属するものが過 半でありましよう。のみならず作物の価値からいって くと孝の評価がまた一段下がるのであります。こうい うふうに評価が変ってゆくのはつまるところ、まえにもこの糸統に属するほうが優っているようであります。 いった社会状態の変化に基いた結果にほかならんのでそれは当然のことで客観的叙述は観察カから生ずるも ありますから、この状態の変化を知りさえすれば、旧ので、観察力は科学の発達に伴って、間接にその空気 来の評価を墨守する必要がなくなります。これを知らに伝染した結果と見るべきであります。ところが残念 ねばこそ熕悶が起ったり矛盾が起ったりして苦しむのなことに、日本人には芸術的精神はありあまるほどあ であります。こういう時に誰か目の明きらかな人が、 ったようですが、科学的精神はこれと反比例して大い この状態の変化を知らせる、ーーすなわち客観的に叙に欠乏しておりました。それだから、文学においても、 述すれば、読者ははあなるほどと思うので、たいへん非我の事相を無我無心に観察する能力はまったく発達 な解脱になります ( こんな単純な場合では解脱にもなしておらなかったらしいと思います。くどくなります はんもん ( 1 ) きしん うぬぼれ はた まさ ありがた

8. 夏目漱石全集 5

である。漱石自身、この坑夫の経験をした書生からその体験談を聞いたときに、その体験に第一二者 として興味を持ったというにすぎす、決してその書生の人生に心を動かされたわけではないのが、 読者にはっきりわかってしまうのである。 これは作家が手法としてどのような方法をとろうが、結局は作品の内的世界を文学の生命である 「詩」にまで昻め得なかったということである。文学における手法とは、あくまでも表現の手段で しかなく、それ自身は文学の生命とはなり得ない。つまり手法は文学の必要条件であり、決して充 分条件ではない。 普通スケッチは実際にあるものを見て描くが「坑夫」の描写は他人の体験談から触発された想像 の世界を追ってなされたものであり、作家はできるだけ自分を離れて他人の中にはいりこもうとし ており、自己の想像力を試している。 「ーー。坑夫についての経験はこれだけである。そしてみんな事実である。その証拠には小説にな っていないんでも分る」と結んでいる通り、作者自身、小説としての構成をここではいちおう無視 していることを認めている。 「そしてみんな事実である」といった前提こそが、この作品を小説として成功させ得なかった限 界であり、もし小説にしようとすれば、事実であってはならなかったのである。その意味で「坑夫」 は事実らしさをできるだけ拾いあげようとしたものであり、ほんとうの創造の世界がない。「文鳥」 422

9. 夏目漱石全集 5

けいれきだん 経歴譚として聞いたのはこれがはじめてであります。して発達した両方が交り合って雑種の雑種というよう これはあまりとっぴな例かも知れませんが、こんな経なものが、いくらでもそのあいだに起ってまいります。 右へ行ったり左へ寄ったりするのは、つまり態度だけ 験で文学の形になってあらわれておらないものがだい かえ ぶあるだろうから、そういう の話で、この態度から出る叙述は決して繰り返される 研究をしたら材料はずい すさん ぶん出てきはすまいかと思っております。 ものではありません。どこか変ってまいります。社撰 かんがえ このほか因果の関係で人の気につかなかったことやながら自分の考では、世間一般の科学的精神が、情操 ら、類型を脱した個性をかく方面やらいろ / \ あるだの勢力より比較的強くなって、平衡を失いかけるやい ろうと思いますが、この三四か条は理論上これ / 、に なや、文壇では情操文学が隆起してまいりますし、ま なら 分れるというのでなくって、たゞ思い付いたことを列た情操の勢力が科学的精神を圧迫するほどに隆起して べたまででありますが、どこで切っても同じことであくると、客観文学がせひとも起ってまいるわけだと考 りますからこれで已めておきましよう。しかし今日の えます。文壇はこの二つの勢力が互に消長して、平衡 くに わが邦に比較的客観態度の叙述が必要であるというこを回復し、回復するかと思うと平衡を失して永久に発 とは、向後何年っゞくことか明らかには分りません。展するものでありましよう。であるから同時同刻にせ 西洋では illuminism が盛に行われた、十八世紀の反よ西洋の文学にあらわれた態度が、必す日本の態度の ロマンてき ぼっこうきた 動として十九世紀の前半に浪漫的趣味の勃興を来しま模範になる理由は認められません。前段に申した今日 した。それが変化してまた客観的態度に復してまいりわが邦における客観文学の必要とは、わが邦現在の一 ました。二十世紀はどうなるか分りません。この二潮般の教育状態からして案出した愚考にすぎんのであり 流が押しつ押されっしているうちに、つまりは両方が ます。しかしながら、やはり同一の立場から見て、ほ 一種の意味において一様に発達してまいります。そう とんど純客観に近い態度の文学を必要と認めるほど情 340

10. 夏目漱石全集 5

注 能楽師。明治三十八年 ( 1905 ) 父の死後第十代目を継ぎ、 ( 3 ) 銀世界十二社にあった娯楽場の名か。 昭和十一一年 ( ご 37 ) 能楽界初の芸術院会員となった。漱 ( 4 ) 妻君を国へお帰しのよしこのとき、真綱の 石はこの人について謡を習った。 妻はお産のため帰郷していた。 ( Ⅱ ) 野村野村伝四。第一巻五三六ページ三蝨 ( 9 ) 参 小島武雄。第五高等学校で漱石の教え子。 ( 5 ) 小島 照。 明治三十四年 ( 1901 ) 東京帝国大学英文科卒業。松山中 ーし力いし 学・群馬織物学校・岡山中学で英語を教え、のち、小千三七九 ( 1 ) 俳諧師高浜虚子の自伝的長編小説。明治四十 一年 ( 1908 ) 二月十八日から七月二十八日まで「国民新 谷中学校長・米沢高等学校教授、大正八年 ( 1919 ) 以後 聞」に連載。虚子は三蔵。新海非風は十風、内藤鳴雪は 山口高等学校教授になった。 北湖先生、正岡子規は素堂の名で描かれている。なお、 ( 6 ) 依頼の件このとき小島が松山中学を退職する 三月十三日掲載の第二十二回は、京都に来て先輩の十風 話があり、真綱はその後任として自分を推薦してくれる 夫婦の家に下宿した主人公三蔵が彼ら夫婦と春の嵐山に ように漱石に依頼した。 遊ぶ個所である。 ( 7 ) 高田高田知一郎。第一巻五四〇・〈ージ四 0 六 ( 2 ) ゃぶかうし ( 2 ) 藪柑子先生寺田寅彦。第一巻五一一六べージ 参照。 三哭 ( 5 ) 参照。なお、このとき東京帝国大学大学院物理 ( 8 ) 木曜漱石は明治三十九年 ( 】 906 ) 十月ごろか 学専攻に在学中で、「ホトトギス」などに藪柑子の。ヘンネ ら木曜日の午後を面会日として、門下生・記者・知人ら ームでしばしば随筆を発表していた。 と交際していた。 イタリイじん ( 3 ) 「伊太利人」明治四十一年 ( 】 908 ) 四月号「ホ 皆川正禧。第一巻五三五べージ三九三 ( 5 ) 参 ( 9 ) 皆川 トトギス」に掲載された寅彦の随筆。本郷付近に住んで 照。なお、明治三十六年 ( 1903 ) 東京帝国大学英文科卒 いた語学教師風のイタリア人ジュセッポ・ルッサナに関 業で、このとき、真綱と同じく明治学院の英語講師をし する回想。 ていた。 ( 4 ) 演説四五〇ページ三四七 ( 1 ) 参照。なおこのとき ( ) 宝生新明治三年ー昭和十九年 ( 一 870 ー 1944 ) 。 453