は皆同等の権利を有して人生をあるいている。あるく 構わないと主張されるかもしれませんが、狭いという きま のは御随意だが、権利が同等であると極ったなら、価 と不都合なことになります。医者があまり熱心になっ かげんお て狭い専門の範囲を、寝ても覚めても出ることができ突しそうな場合にはお互に示談をして、好い加減に折 ないと、ついには妻に毒薬を飲まして、その結果を実り〈亠を付けなければならないわけです。この折り合を ひとりがてん 験してみたいなどととんでもないことを工夫するかも付けるためには、自分が一人合点で、自分一人の路を つまり向うから来る人、横 しれません。世の中は広いものです、広い世の中に一あるいていてはできない。 わきめ もめんいと 本の木綿糸をわたして、傍目も触らず、その上を御丁から来る人も、それる、相当の用事もあり、理由もあ 寧にあるいて、そうして、これが世界だと心得るのはるんたと認めるだけに、世間が広くなければなりませ すでに気の毒な話であります。たゞ気の毒なだけならん。ところが狭く深くなるとまえにいうたお医者のよ うにそれができなくなる。抽出法といって、自分の熱 本人さえ穉すればそれで済みますが、こう一本調子 にゆかれては、大いにはたのものが迷惑するようなわ心なところだけへ目をつけて他のことは皆抽出して度 けになります。往来をあるくのでも分ります。いくら外に置いてしまう。度外に置くわけである。他のこと 巡査が左へ / \ と、月給を時間割にしたほどな声を出は頭から目にはいってこないのであります。そうなる 一直と本人のためには至極結構であるが、他人すなわち同 して、制しても、東西南北へ行く人をことん \ く 線に、同方向に、同速力に向けることはできません。方向に進んでゆかない人にはずいぶん妨害になること があります。妨害になるということを知っておれば改 広い世界を、広い世界に住な人間が、随意の歩調で、 かってな方角へあるいているとすれば、お互に行き合良もするだろうが、自己の世界が狭くて、この狭い世 うとぎ、突き当りそうなとぎは、格別の理由のないか界以外に住む人のあることを認識しない原因から起る ぎり、両方で路を譲り合わねばならない。四種の理想とすれば、どうすることもできません。現代の文芸で みち むこ 250
っている。ところがなにかの拍で全然類の違った 人ーー商人でも、政事家でもあるいは宗教家でもなん でもよろしい。なるべく縁の遠い関係の薄い先生方に おど 逢って、その人々の意見を聞いてみると驚ろくことが あります。それ等の人の世界観に誤謬があるので驚く 演題は「創作家の態度」というのであります。態度というよりも、世の中はこうも観られるものかと感心 みかた というのは心の持ち方、物の観方ぐらいに解釈しておするほうの驚ろき方であります。ちょうどまえに述べ かっこう いてくたされば宜しい。この、心の持ち方、物の観方た我々が月の恰好に対する考えの差と同じであります。 で十人、十色さま \ の世界ができまたさまん \ の世こういうと人間がばら / \ になって、相互の心に統一 界観が成り立つのは申すまでもない。一例を上げて申がない、きわめて不安な心持になりますが、その代り、 むか たれ あわ すと、もし諸君が私に向 0 て月の形はどんなだと聞か誰がどう見ても変らない立場におって、申し合せたよ れれば、私はすぐに丸いと答える。諸君もさだめし御 うに一致した態度に出ることもたくさんあるから、そ 異存はなかろうと思う。ところがこのあいだある西洋う苦になるほどの焜雑も起らないのであります ( 少な 人の書いたものを見たら、我々は普通月を半円形のも くとも実際上 ) 。ジェ 1 ムスという人が吾人の意識す まんまる のと解しているとあったのみか、なぜ真丸なものと思るところの現象は皆撰択を経たものだということを論 度 0 ていぬかという訳までが二三行っけ加えてあ 0 たんじているうちに、こんな例を挙げています。ーー撰択 の・で、少し驚いたくらいであります。我々は教育の結果、の議論はとにかく、その例がこ、の説明にはも 0 とも 習慣の結果、ある眼識で外界を観、ある態度で世相を適切たと思いますから、ちょ 0 と借用して弁じます。 眺め、そうしてそれが真の外界で、また真の世相と思今こ、に四角があるとする。するとこの四角を見る立 創作家の態度 ・こじん 275
すじかい 場はいろ / 、である。横からも、竪からも、筋違からかいた画を見るとこの心持ちが思い切って正直に出て も、目の位置と、角度を少し変えれば千差万別に見るこ います。これもこの際都合のいいように翻訳していし とができる。そうしてそのたび / \ に四角の恰好が違ますと、吾々が手や足の長さに対する態度はちゃんと かんがえ あわ けれども我々が四角に対する考は申し合せたよう 申し合せたように一致しているということになります。 に一致している。あらゆる見方、あらゆる恰好のうち してみると世界は観ようでいろ / 、に見られる。極 で、たった一つ。 すなわち吾人の視線が四角形の端にいえば人々個々別々の世界を持っているといって さしつかえ 面に直角に落ちる時に峡じた形を正当な四角形たと心も差支ない。同時にその世界のある部分は誰が見ても 得ている。これを私の都合の好いようにいい換えると、一様である。はしめから相談して、こう見ようじゃあ 吾人は四角形を観る態度においてことみ、く一致してりませんかと、規約の東縛を冥々のうちに受けている。 いるのであります。また別の例を申しますと彫刻などそこで人間の頭が複雑になればなるほど、観察される でいうま「 esho 「 tening ということがあります。誰で事物も複雑になってくる。複雑になるんではないが、 も心得ていることでありますが、人が手でも足でも前単純なものを複雑な頭でいろ / 、に見るから、つまり の方に出している姿勢を、こちらから眺めると、実際のは物自身が複雑に変化すると同様の結果に陥るのであ もど 手や足よりも短かく見えます。けれども本来はあれよ ります。これをまえの言葉に戻していうと、世が進む えごこら したが り長いものたと思って見ています。だから画心のない に従って、複雑な世界と複雑な世界観ができて、そう 吾々が手や足を描こうとすると本来そのま、、の足や手して一方ではこの複雑なものが統一される区域も拡が を、方向のいかんにか & わらず、紙の上にあらわしたく ってくるのであります。 つりあい なる。あらわしてみるとどうも釣合がわるい。悪いけ そこで創作家も一種の人間でありますからめい / 、 ~ 」ども れども腹が承知をしないで妙な矛盾を感する。小供の かってな世界観を持って、かってな世界を眺めている こ、ろも 276
ふたり かしい間題であります。要するに象徴として使うものくに見える」この二人の言葉は多少 infinite longing は非我の世界中のものかもしれませんが、その暗示すと同じく、いさ、か形容の言葉のようにも思われます るところは自己の気分であります。要するにおれの気が、御参考のために、こゝに引いておきます ) 。 これで主観客観の三対あわせて、六とおりの叙述の 分であって、非常に厳密にいうと他人の気分ではない、 という傾向のあるところ説明を済ましました。そこでこれだけ説明すればあら 外物の気分ではむろんない。 ゆる文学書中に出てくるすべてのものを説明し尽した から、この種の象徴を主観的態度の第三段に置いて、 とは決して申すつもりではありません。しかしながら 数学の公式などの対と見立てました ( シモンズのフラ これだけ説明すれば、吾人の経験の取扱い方の一般は ンスの象徴派を論じた文のなかに、こんな句がありま す。「我々が林中の木を一本々々に叙述するのを避分るだろうと思います。客観主観の両態度の意味と、 おそ けて、自然を怖れて逃がれんとするがごとくもてなすその態度によって、叙述の様子がだん / 、に左右へ離 と、ます / \ 自然に近くなります。また普通の俗人はれてゆく模様が分るだろうと思います。それが普通の 日常の雑事を捉えて実在に触れていると考えておりま人の分れ具合でまた創作家の分れ具合であります。だ つま そうとう はんさ すが、これ等の熕瑣な事件を掃蕩してしまうと、ますから詰るところは創作家の態度も常人の態度も同じこ つま さぎだ ます人間に近くなるものであります。世界に先って生とに帰着してしまいます。なんだ詰らない、それがど じ、世界に後れて残るべぎ人間の本体に近づくものでうしたんだと仰しやるかたが、あるかもしれません。 ( 3 ) なるほど詰らない。私も詰らないと思います。しかし あります」この人はまたカーライルの語を引用してい ます。「真正の象徴は明らかにまた直接に、無限をあこ、まで解剖してみてはじめて詰らないことが分った ので、それまでは私も諸君と同じようにし 、つこう不得 らわしている。無限は象徴によって有限と合体する。 目に見えるようになる。あたかも達せらるるかのごと要領であったのです。しかし詰らないながらもこうい とら ト - ら・りト - 要ノ 3 囮
( 1 ) たんしゃ たりする。そうして誰も口を利かない。そうして、む化けちまったんで、丹砂のように赤く見える。今まで あと ひとふでまっさっ やみに急ぐ。世界から切り離された四つの影が、後にの雲で自分と世間を一筆に抹殺して、こ、までふらっ ふえ へり なり先になり、殖もせず減もせず、四つのま \ 引かきながら、手足だけを急がして来たばかりだから、こ れて合うように、弾かれて離れるように、またどうしの赤い山がふと目に入るやいなや、自分ははっと雲か ても四つでなくてはならないように、雲の中をひたすら醒めた気分になった。色彩の刺激が、自分にこう強 こた ら歩いた時の景色はいまだに忘れられない。 く応えようとは思い掛けなかった。 , ーー実をいうと自 むとんじゃくた 自分は雲に埋まっている。残る三人も埋まっている。分は色盲じゃないかと思うくらい、色には無頓着な性 天下が雲になったんだから、世の中は自分ともにたっ質である。 そこでこの赤い山が、比較的烈しく自 やどなし た四人である。そうしてその三人が三人ながら、宿無分の視神経を冒すと同時に、自分はいよ / \ 銅山に近 である。顔も洗わず朝飯も食わずに、雲の中を迷ってづいたなと思った。虫が知らせたといえば、虫が知ら れんじゅう あかゞね 歩く連中である。この連中と道伴になって登り一里、 せたともいえるが、実はこの山の色を見て、すぐ銅を 降り二里を足の続くかぎり雲に吹かれてきたら、雨に連想したんだろう。とにかく、自分がいよ / 、到着し なった。時計がないんで何時だか分らない。空模様でたなと直覚的にーー世の中で直覚的というのはたいが 判断すると、朝ともいわれるし、午過ともいわれるし、 いこのくらいなものだと思うが いわゆる直覚的に さしつかえ またタ方といっても差支ない。自分の精神と同じよう 事実を感得した時に、長蔵さんが、 「やっと、着いた」 に世界もぼんやりしているが、たゞちょっと目に付い たのは、雨の間からかすかに見える山の色であった。 と自分が言いたいようなことを言った。それから十五 その色が今までのとは打って変っている。いつのまに分ほどしたら町へ出た。山の中の山を越えて、雲の中 まだらは , あたキ からぼうす か木が抜けて、空坊主になったり、ところ斑の禿頭との雲を通り抜けて、突然新しい町へ出たんだから、目 みちづれ ひるすぎ
作品論 らないという条件を守ろうとすれば、不自然な命のないものになると悟ったのではないだろうか。・ だからこそ、彼はこの習作を書きつづけながらも、文学における我と非我が、主観と客観が、頭を 離れなかった。そして、次の段階として、克明な描写と、自分自身の内部意識をより素朴に、抒情 的にひらめかせる「文鳥」や「夢十夜」のような作品を、このうまくいかなかった試みのあとに書 いたのである。 「文鳥」はなにげない文体だが、漱石の言う情操、すなわち浪漫主義と自然主義的な描写が巧み に重ねられているし、「夢十夜」にはこの両極を一層大胆にゆれながら往復して創り出された空間 がある。「夢十夜」は一夜一夜の夢をとってみた場合は、ほとんど断片にすぎないものもあるが、 十夜の夢を連作としてみると、ひとつの不可思議な世界があって、朦朧とした夢の中で、読者は人 生にまつわるさまざまな記憶を呼び戻され、それが非常に真実である。 「坑夫」は部分部分をとってみると、達者に描けているのだが、それは末梢的な事実らしさにす ぎず、読み終えてみると坑夫の話が読者の人生の中でアイデンティファイできる感動とつながらな これは坑夫の生活が、読者の経験すべくもない、かかわりあいのないものだということでは決 してない。文学世界とは、それがたとえ読者にとってはありそうもない架空の世界、あるいは全く 別世界であっても、読者の何らかの人生経験と同一視できるものがそこにあり、詩的感動があると幻 いうことである。坑夫の生活に読者は異常な世界を覗き見たという気はするが、ただそれだけなの 、 0
、、あんばい りますから、この注意の向き案排もしくは向け具合が丁寧に室の中へ並べます。なんでもよほどの数になっ すなわち態度であると申しても差支なかろうと思いまておりました。で私は感心しました。ほかのことに感 す ( 注意そのものの性質や発達はこ、には述べませ心したわけでもありませんが、この爺さんの世界観が ん ) 。私が先年ロンドンにおった時、このあいだ亡く杓子からでき上ってるのに尠なからず感心したのであ なられた浅井先生と市中を歩いたことがあります。そります。これはたゞに一例であります。詳しくいうと の時浅井先生はどの町へ出ても、どの建物を見ても、講演の冒頭に述べたごとく十人十色で、いくらでも不 あれは好い色だ、これは好い色だ、と、とう / 、家へ思議な世界を任意に作っているようであります。なか 帰るまで色尽しでお仕舞になりました。さすが画伯だ にもカントとかへーゲルとかいう哲学者になるととう けあって、違ったものだ、先生は色で世界ができ上がてい普通の人には解し得ない世界を建立されたかのご ってると考えてるんだなと大いに悟りました。すると とく思われます。 ( 2 ) また私の下宿に退職の軍人で八十ばかりになる老人が こう複雑に発展した世界を、でき上ったものとして、 おりました。毎日同じ時間に同じ所を散歩をする器械一々御紹介することは、とてもできませんから、分り そと しやく のような男でしたが、この老人が外へ出るときっと杓やすいため、きわめて単純な経験で一般の人に共通な めしじゃくし 子を拾ってくる。もっとも日本の飯杓子のような大きものを取って、経験者の態度がいかに分岐してゆくか こどもがんぐ なものではありません。小供の玩具にする・フリッキ製ということをお話して、その態度の変化がすなわち創 しやじ ばあ の匙であります。下宿の婆さんに聞いてみると往来に作家の態度の変化にも応用ができるものだという意味 落ちているんだと申します。しかし私が散歩したって、を説明しようと思います。きわめて単純なところだけ、 いまだかって落ちていたことがありません。しかるに 、くぶんか根 だいたいの点のみしか申されませんが、し 爺さんだけは不思議に拾ってくる。そうして、これを本義の解釈にもなろうかと存して、思い立ったわけで しまい へや
である。漱石自身、この坑夫の経験をした書生からその体験談を聞いたときに、その体験に第一二者 として興味を持ったというにすぎす、決してその書生の人生に心を動かされたわけではないのが、 読者にはっきりわかってしまうのである。 これは作家が手法としてどのような方法をとろうが、結局は作品の内的世界を文学の生命である 「詩」にまで昻め得なかったということである。文学における手法とは、あくまでも表現の手段で しかなく、それ自身は文学の生命とはなり得ない。つまり手法は文学の必要条件であり、決して充 分条件ではない。 普通スケッチは実際にあるものを見て描くが「坑夫」の描写は他人の体験談から触発された想像 の世界を追ってなされたものであり、作家はできるだけ自分を離れて他人の中にはいりこもうとし ており、自己の想像力を試している。 「ーー。坑夫についての経験はこれだけである。そしてみんな事実である。その証拠には小説にな っていないんでも分る」と結んでいる通り、作者自身、小説としての構成をここではいちおう無視 していることを認めている。 「そしてみんな事実である」といった前提こそが、この作品を小説として成功させ得なかった限 界であり、もし小説にしようとすれば、事実であってはならなかったのである。その意味で「坑夫」 は事実らしさをできるだけ拾いあげようとしたものであり、ほんとうの創造の世界がない。「文鳥」 422
果茶柱を見て来客の時のような心持になったり、曉をしたがって自分がこういう気分になりたいと思った時 に、その気分を起してくれる非我の世界の形相が具っ して、人の噂を耳にするような気分が起る人がないと ・も限りません。そういう人にはこんな象徴もやはり主ておらんことがあります。つまり非我の世界を支配す 観的価値のあるものであります。だから本人の気の持る器械的法則が我の気分に応して働いてはくれません。 ( 3 ) ひょう ( 1 ) にんじん ( 2 ) さん ちょうひとつでは、仁参がお三どんの象徴になって瓢そこでこの法則の運行と、自分の気分と合体した時、 簟が文学士の象徴になっても、ことる、く信心からのすなわち自分がかくなりたいとかねる、希望していた き、め 第の頭と同じような利目があります。なお進むと、烏かのごとき気分を生ずるときの非我の形相を、常住の えい′」う 鳴きが凶事の記号になったり、波の音が永劫をあらわ公式に翻訳しようとするのが我々の欲望であります。 ( 5 ) ほと、きす すぢかひ ひヾき ・す響と聞えたり、星の輝きが人間の運命を黙示する光たとえば時鳥平安城を筋違にという俳句があります。 りに見えたりします。こうなると漸々主観的価値が増平安城は器械的法則の平衡を保って存在しているのた えてかって から、そうむやみに崩れてはしまいません。それすら してくるのみならず、解剖の結果まったく得手勝手な 明治の今日には見ることができません。いわんや時鳥 象徴でないということも証明ができます。このくらい ならばまだ、たいしたことはありません。第二段第一は早い鳥であります。またその鳥が筋違に通るところ 段とつながっているくらいのものでありますが、層々も、始終はありません。おやといううちに時鳥も筋違 も消えてしまいます。消えてしまう以上はその時の気 展開して極端に至ると妙な現象に到着します。ちょっ とその説明を致します。我々は我々の気分 ( 主観の内分になりたくってもちょっとなれないから、平安城を 容 ) を非我の世界から得ます。しかし非我の世界は器筋違にという瞬間の働きをさも永久の状態のごとく、 械的法則の平衡を待ってはじめて落ち付くものであり保存に便にするように纏めておきます。さてかように ます。もしこの平衡を失えばすぐに崩れてしまいます。纏った気分が ( 客観的にいうと形相 ) だん / \ 頭のなか からす 308
むか よし好まないまでも、偽を悪むわけだろう。真を取りけれども客観的態度で向う世界には、偽ははじめから すう 偽を棄てるのは自然の数じゃないか。なるほどそうで存在しておらん、少なくとも真だけだとしなければ、 あります。しかし文字のうえでこそ真偽はありますが、最初から真の価値を認めないのと同様の結果に陥りま 非我の世界、すなわち自然の事相には真偽はありませす。だからいやしくも真を本位として筆をとる以上は はさ きよう ん。昨日は雨が降った、今日は天気になった。雨が真好悪の念を挾む余地がないことになります。したがっ で、天気が偽たとなると少し、天気が迷惑するようにて取捨はないと一般に帰着いたします。たとえば隣り 思われます。これを逆にして、それじゃ雨のほうが偽に醜くい女がいる。見ても厭になると仰しやる。それ みにく くら醜くって だといっても、雨のほうが苦情をいうだろうと思いまはどうでも御随意でありましようが、い す。だから大千世界の事実は、すでにその事実たるのもなんでも現にいるものはいるに相違ありません。醜 くいから戸籍に載せないとなったひには、区役所の調 点においてことん \ く真なのであります。この事実は あて きらい 真たから好きだ、この事実は偽だから嫌たと、どうしべはまるで当にならないことになります。偽りになり ても取捨はできないわけであります。真偽取捨の生すます。気に喰わない生徒たからといって点数表から省 いたら、学校ほど信用のできないところはなくなるで る場合は、この客観の事相を写し取った作物そのもの についてこそいわれべきものであります。詳しくいえしよう。してみると、真を写す文字ほど公平なものは きたん ば、傍観者がこの作物を自然そのものと比較するとき、ない。一視同仁の態度で、忌憚なく容赦なく押してゆ ( 2 ) 度もしくは甲の作と乙の作とを自然を標準として対照すくべきはずのものであります。プルンチェルがバルザ ックを論じたうちにこんな句があります。自然派作家 éる時にはじめて真偽ができ、取捨ができ、好悪が生ず うじ ぞう には、蛆よりも象のほうをたいせつだと考える権利が るのであります。だから客観的態度で叙述した詩文に は偽があるかもしれません、またあるはずであります。ない。もちろん生物学上の発達からいったら、象のほ きのう みに とな