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検索対象: 夏目漱石全集 5
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1. 夏目漱石全集 5

生む。生まれたものは同じわけには行かぬ。同じわけ烏と認むるほどの、見識と勇気と説明がなくてはなら ( 1 ) ひんしつ にゆかぬものを、同じ法則で品隲せんとするのは舟をぬ。これができるためには以上の条項と法則を知らね こうでい 刻んで剣を求むるの類である。過去を総合して得たるばならぬ。知って融通の才を利かさねばならぬ。拘泥 法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度すればそれまでである。 は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。 現代評家の弊はこの条項とこの法則を知らざるにあ はんもん 批評の法則が立っと文学が衰えるとはこのためである。る。ある人は頃悶を描かねば文学でないという。ある 法則がわるいのではない。法則を利用する評家が変通ものは他にいかほどの採るべき点があっても、事件に の理を解せんのである。 少しでも不自然があれば文学でないという。あるもの きわ 0 0 作家は造物主である。造物主である以上は評家の予は人間交渉の際卒然として起る際どき真味がなければ 期するものばかりは拵らえぬ。突然として破天荒の作文学でないという。あるものは平淡なる写生文に事件 物を天降らせて評家の脳を奪うことがある。中学の課の発展がないのを見て文学でないという。しかして評 きよう くんとう 目は文部省できめてある。課目以外の答案を出して採家が従来の読書および先輩の薫陶、もしくは自己の狭 点を求める生徒は一人もない。したがって教師は融通隘なる経験より出でたる一縷の細長き趣味中に含まる からす が利かなくてもよい。造物主は白い烏を一夜に作るかるもののみを見て真の文学た、真の文学だという もしれぬ。動物学者は白い烏を見た以上は烏は黒いもはこれを不快に思う。 のなりとの定義を変する必要を認めねばならぬごとく、 余は評家ではない。前段に述べたる資格を有する評 批批評家もまた古来の法則に遵わざる、また過去の作中家ではむろんない。したがって評家としての余の位地 より挙け尽したる評価的条項以外の条項を有する文辞を高めんがためにこの編を草したのではない。時間の に接せぬとは限らぬ。これに接したるとき、白い烏を許すかぎり世の評家とともに過去を研究して、でき得 あまくだ したが いちる 2

2. 夏目漱石全集 5

ように考えている。小説家よりも大学の先生のほうが れたけの眼識のないものが人間を写そうと企てるのは、 ほっしん はるかにえらいと考えている。内務省の地方局長のほ あたかも色盲が絵をかこうと発心するようなものでと うてい成功はしないのであります。画を専門になさる、うがなおはるかにえらいと思 0 ている。大臣や金持や 貴所がたのほうからいうと、同じ白色を出すのに白紙華族様はなお / ( 、はるかにえらいと思っている。妙な ことであります。もし我々が小説家から、人間という の白さと、食卓布の白さを区別するくらいな視覚力が ないと視覚の発達した今日において十分理想どおりのものは、こんなものであるという新事実を教えられた 色を表現することができないと同様の意義で、 , ーー文ならば、我々は我々の分化作用の径路において、この 学者のほうでも同性質、同傾向、同境遇、同年輩の男小説家のために一歩の発展を促されて、開化の進路に ひとむら でも、その間に微妙な区別を認め得るくらいな眼光があたる一叢の荊霖を切り開いてもら 0 たといわねばな ないと、人を視る力の発達した今日においては、性格らんだろうと思います ( 小説家の功力はこの一点に限 この一点を挙げて考えても局 を描写したとは申されないのであります。したがってるという意味ではない。 人間をかく文学者は、単に文学者ではならん、要する長さんや博士さんに劣るものでないというのでありま に人間を識別する能力が発達した人でなくてはならんす ) 。もし諸君がそんな小説家は現今日本に一人もな いではないかといわれるならば、私はこう答える。そ のです。進んだる世の中に、もっとも進んだる眼識を そな 具えた男ーーー特に文学者としてではない、一般人間とれは小説家の罪ではない。現今日本の小説家 ( 私もそ りつば してこの方面に立派な腕前のある男ーーーでなければ手の一人とお認めになってよろしい ) の罪である。局長 は出せぬはずであります。世の中はそう思っておりまにでもがあるごとく、博士にでもがあるごとく、小説 さし せん。なんの小説家がと、小説家をもってあたかも指家にでもがあるのもお互様と申さねばならぬのであり どぷ ものし きようじゃ 物師とか経師屋のごとく単に筆を舐って衣食する人のます。ーーまた泥溝の中へ落ちました。 ねぶ ひとり

3. 夏目漱石全集 5

なにか人らざることでもしているもののように考えて 私はある事情からおもに創作のほうをやる考えであり むか います。実をいうと芸術家よりも文学家よりも入らぬ ますから、向後この方面に向って、どのくらいの貢献 ことをしている人間はいくらでもあるのです。朝から ができるかしれませんが、もし篤実な学者があって、 錏意にそちらを開拓してゆかれたならば、学界はこの晩まで車を飛ばせて馳け回っている連中のうちで、文 人のために大いなる利益を享けるに相違なかろうと確学者や芸術家よりも入らざることをしている連中がい くらあるかしれません。自分たけが国家有用の材たな 信しております。 うぬ・は どと己惚れて急がしげに生存上十人前くらいの権利が 最後に一言を加えます。我々は生きたい / \ という ふるま りようけん 下司な念を本来持っております。この下司な了見からあるかのごとく振舞ってもとうてい駄目なのです。彼 して、物我の区別を立てます。そうしていかなる意識等の有用とか無用とかいう意味はきわめて幼稚な意味 の連続を得んかという選択の念を生じ、この選択の範でいうのですから駄目であります。怒るなら、怒って し、いくら怒っても駄目であります。怒るの 囲が広まるに従って一種の理想を生じ、その理想が分もよろし、 わか は理屈が分らんから怒るのです。怒るよりも頭を下け 岐して、哲学者 ( または科学者 ) となり、文芸家とな り実行家となり、その文芸家がまた四種の理想を作り、てその訳でも聞きに来たらよかろうと思います。恐れ かっこれを分岐せしめて、各自に各自の欲する意識の入って聞きにくればいつでも教えてやってよろしい。 ひるね 私なども学校をやめて、縁側にごろ / 、昼寐をし 連続を実現しつ、あるのであります。要するに皆いか にして存在せんかの生活間題から割り出したものにすているといって、友達がみんな笑います。ーー笑うの なる ぎません。たからしてなにをやろうと決して実際的のじゃない、実は羨ましいのかもしれません。 はす 利害を外れたことは一つもないのであります。世の中ほど昼寐は致します。昼寐ばかりではない、朝寐も宵 ひましん 寐も致します。しかし寐ながらにして、えらい理想で では芸術家とか文学家とかいうものを閑人と号して、 ともだち うらや あさね

4. 夏目漱石全集 5

も実現する方法を考えたら、二六時中車を飛ばして電めなく 0 ちゃいけない。しかしこれだけ大胆にひま人 車と競走している国家有用の才よりえらいかもしれなじゃないと主張するためには、主張するだけの確信が ことば い。私はたゞ寐ているのではない、えらいことを考えなければなりません。言葉を換えていうといかにして たれ ようと思って寐ているのである。不幸にしてまだ考え活きべきかの問題を解釈して、誰がなんといっても、 付かないだけである。なか ~ ( 、もって閑人ではない。 自分の理想のほうが、ずっと高いから、ちっとも動か 諸君も閑人ではない。閑人と思うのは、思うほうが閑ない、驚かない、なんだ人生の意義も理想もわからぬ ひま 人である。でなければ愚人である。文芸家は閑が必要 くせに、生意気をいうなと超然と構えるだけに腹がで かもしれませんが、閑人じゃありません。ひま人と いきていなければなりません。これだけにできていなけ うのは世の中に貢献することのできない人をいうのでれば、、 しくら技巧があっても、書いたものに品位がな す。いかに生きてしかるべきかの解釈を与えて、平民 い。ないはずである。こう書いたら笑われるだろう、 に生存の意義を教えることのできない人をいうのです。あ、い 0 たら叱られるだろうと、びく / 、して筆を執 こういう人は肩で吸をして働いていた 0 て閑人です、るから、あの男は腹の中がかたま 0 ておらん、理想が 文芸家はいくら縁側に昼寐をしていたって閑人じゃな生煮だ、と、う弓 し点が書物の上に見え透くように写っ 。文芸家のひまとのらくら華族や、ずぼら金持のひている、したが 0 ていかにも意気地がない。いくら技 礎まといっしょにされちやたいへんだ。だから芸術家が巧があった 0 て、これじや人を引きつけることもでき なげう 的自分を閑人と考えるようじゃ、自分で自分の天職を抛ん、いわんや感化をやであります。またいわんや還元 てんとうさます 件つようなもので、お天道様に済まないことになります。的感化をやであります。こんな文芸家を称して閑人と 芸芸術家はどこまでも閑人じゃないと極めなくっちゃい いうのであります。正木君のいわれた市気匠気というん けない。、 しくら縁側に昼寐をしても閑人じゃないと極のは、か、、る閑人の文芸家について回るのであります。

5. 夏目漱石全集 5

想は哲学者および科学者の理想であると同時に文芸家て、妻の食うべき粥を夫が奪って食うということを小 の理想にもなります。たゞし後者は具体を通じて真を説にかく。するとこれもある位地境遇にある夫婦の関 あらわすという条件に東縛されただけが、前者と異な係を明かにするという点で同様の満足を作者と読者に るのであります。そうしてこの真のあらわし方、すな与えるかもしれない ( 人間の精神作用からいうと真は いろ / \ である。時には相反しても依然として双方と わち知を働かす具合も分化していろ / \ になりますが、 おもに人間の精神作用が ( この場合には ( 一 ) におけも真である ) 。好んでこういうことをかく文芸家を真 るごとく人間を純感覚物と見做さないのである ) 、あを理想にする文芸家といいます。 ごじん ごしん ( ろ ) 吾人の有する第二の精神作用は情であります。 らかじめ吾人の予想した因果律と一致するか、または この因果律に一歩の分化を加えたる新意義に応じて発この情を理想として働かせる人を文芸家ということは 展する場合に多く用いられるのであります。たとえばまえに述べたとおりでありますが、説いてこ、に至る けむり 父子が激論をしていると、急に火事が起って、家が烟と混雑を生じやすいからして、少々弁じたうえ進行し あいまい ます。単に情というと曖昧であります。なぜなれば我 につ、まれる。その時今まで激論をしていた親子が、 あいたす けんか 急に喧嘩を忘れて、互に相援けて門外に逃けるところ我が情の活動を得んがために、文芸上の作物を仕上け あじわ を小説にかく。すると書いた人はむろん読む人もなるたり、またはこれを味う時に働かしむる情は、作物中 ほどさもありそうたと思う。すなわちこの小説はあるに材料として使用する情とは区別する必要があるから 地位にある親子の関係を明かにしたという点において、であります。我々は感覚物を感覚物として見るときに 作者および読者の知を働かし得て、真に対する情の満一種の情を起します、この情はすなわち文芸家の理想 の一であります。我々はまた感覚物を通じて知を働か 足を得せしむるのであります。または反対に、たいへ ききん ん中のよかった夫婦が飢饉のときに、平生の愛を忘れせるときに一種の情を起します。この情もまた文芸家 おやこ 242

6. 夏目漱石全集 5

びき こよっこり 的の人 ( 創作家 ) であるのはむろんであります。しか これはたんとないかもしれぬが、軍 ョワ、ー / ゅ / をしたり、冒険に出たり、革命を企てたりするのはたし関係を明めるほうをもつばらにする人は、明めやす くするために、味わうことのできない程度までにこの いぶあるでしよう。 かく人間の理想を三大別したところで、我々、すな関係を抽象してしまうかもしれません。林檎が三つあ 、わち今日この席で講演の栄誉を有している私と、そのると、三という関係を明かにさえすればよいというの かんじん で、肝心の林檎は忘れて、たゞ三の数たけに重きを置 講演をお聴きくださる諸君の理想はなんであるかとい くようになります。文芸家にとっても関係を明かにす いうまでもなく第二に属するものであります。 る必要はあるが、これを明かにするのは従前よりよく 情を働かして生活したい、知意を働かせたくないとい この関係を味わい得るために、明かにするのたからし うのではないが、情を離れて活きていたくないという て、いくら明かになるからというて、この関係を味わ のが我々の理想であります。しかしたゞ「情が理想」 い得ぬ程度までに明かにしてはなんにもならんのであ では合点がゆかない。お互になるほどと合点がまいる ります。たから三という関係を知るのは結構たが林檎 ためには、 いま少し詳細に「情を理想とする」とは、 くたものわす こんなものたと小かく割ってお話をしなければなるま という果物を忘るることはとうてい文芸家にはできん のであります。文芸家の意志を働かす場合もそのとお いと思います。 りであります。物の関係を改造するのが目的ではない、 情を働かす人は物の関係を味わうんだと申しました。 あきら 物の関係を味わう人は、物の関係を明めなくてはならよりよく情を働かし得るために改造するのである。か あらた ず、また場合によってはこの関係を改造しなくては味らして情の活動に反する程度までにこの関係を新にし が出てこないからして、情の人はかねて、知意の人でてしまうのは、文芸家の断じてやらぬことであります。 かたわら なくてはならす、文芸家は同時に哲学者で同時に実行松の傍に石を添えることはあるでしようが、松を切っ こま り第ル」一 238

7. 夏目漱石全集 5

ての答案を英語の尺度で採点してしまうと一般である。その繩張以外の諸点においては知らぬ、わからぬとい その尺度に合せざる作家はことみ、く落第の悲運に際 い切るか、または何事をもいわぬが礼であり、徳義で 会せざるを得ない。世間は学校の採点を信ずるごとく、ある。 評家を信するの極ついにその落第を当然と認定するに これ等の条項を机の上に貼り付けるのは、学校の教 至るたろう。 師が、学校の課目全体を承知のうえで、自己の受持に こゝにおいて評家の責任が起る。評家はまず世間と当るようなもので、自他の関係を明かにして、文学の むか 作家とに向って文学はいかなるものぞという解決を与全体を一目に見渡すと同時に、自己の立脚地を知るの えねばならん。文学上の述作を批判するに方って ( 詩便宜になる。今の評家はこの便宜を認めていない。認 てあた は詩、劇は劇、小説は小説、すべてに共有なる点は共めても作っていない。たヾ手当り次第にやる。述作に 有なる点として ) 批判すべき条項を明かに備えねばな対すると思い付いたことをい、加減に述べる。たから らぬ。あたかも中学および高等学校の規定が何と何と、評し尽したのたか、まだ残っているのか当人にも判然 これ / 、とを修め得ざるものは学生にあらずと宣告すしない。西洋も日本も同じことである。 そろ るがごとくせねばならん。この条項を備えたる評家は これ等の条項を遺憾なく揃えるためには過去の文学 この条項中のあるものについて百より〇に至るまでのを材料とせねばならぬ。過去の批評を一括してその変 点数を作家に付与せねばならん。この条項のうちわが遷を知らねばならぬ。したがって上下数千年に渉って 趣味の欠乏して自己に答案を検査するの資格なしと思抽象的の工夫を費やさねばならぬ。右から見ている人 惟するときは作家と世間とに遠慮して点数を付与すると左から眺めている人との関係を同じ平面にあつめて ことを差し控えねばならん。評家は自己の得意なる趣比較せねばならぬ。昔の人の述作した精神と、今の人 ゅびさ 味において専門教師と同等の権力を有するを得べきも、の支配を受くる潮流とを地図のように指し示さねばな なトばり かげん わた 幻 5

8. 夏目漱石全集 5

ものを借りてこないと文章にも絵になりません。だ て湯屋に売払うことはよほど貧乏しないとでぎにく、。 けむり せつかくの松を一片の烟としてしまうともう、情を働から旧約全書の神様やギリシアの神様はみんな声とか かす余地がなくなるからであります。してみると文芸形とかあるいはその他の感覚的な力を有しています。 ごじん それだから吾人文芸家の理想は感覚的なるある物を通 家は「物の関係を味わうものだ」という句の意味がい よろ めいりよう さか明瞭になったようであります。すなわち物の関じて一種の情をあらわすというても宜しかろうと存じ 係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体ます。そこで問題は二つになります。一は感覚的なも 的でなくてはならぬ、知意の働きで、具体的のものをのとはなんたという問題で二はいわゆる一種の情とは、 打ち壊してしまうやいなや、文芸家はこの関係を味わ感覚的なものの、どの部分によ 0 て、どんなエ合にあ うことができなくなる。したが 0 てどこまでも具体的らわされるかまた、「感覚的なものを通して」という のものに即して、情を働かせる、具体の性質を破壊せのは感覚的なものを使って、この道具の方便である情 ますこうなをあらわすというのか、しからすんば感覚的なもの、 ぬ範囲内において知、意を働かせる。 それ自身がこの情をあらわす目的物かという問題であ ります。 すると文芸家の理想はとうてい感覚的なものを離れります。この問題を解釈すると文芸家の理想の分化す ては成立せんということになります ( この事をくわしる模様がたいたい見当がつぎます。第一間の解釈、第 く論ずるといろ / \ の疑間が起 0 てきますが、今は時二問の解釈として順を追うては述べませんが、たヾ 的間がありませんから述べません。ますだいたいのうえ序を立てて分りやすくするためにやはり一二の番号を 哲においてこの命題は確然たる根拠のあるものとお考え振って説明してゆきます。 さい・せん - 芸 にな 0 ても差支はなかろうと思います ) 。早い話が無 ( 一 ) 私は最前空間、時間の建立からして、物我の二 ・文 臭無形の神のことでもかこうとするとなにか感覚的の世界を作ると申しました。その物なるものは自然であ わか

9. 夏目漱石全集 5

、当該課目以外の知識が全然欠乏しているからであ人となり、暴士となり、盲者となり、悪人となる。 今の評家のあるものは、ある点においてこの教師に幻 る。たヾ欠乏しているからではない。その結果として 入らぬところまでのさばり出て、要もない課目を打ち似ていると思う。もっとも尊敬すべき一言語をもって評 けんそん のめさねば巳まぬ底の勇気があるから迷惑なのである。家を翻訳すれば教師である。もっとも謙遯したる意義 これ等の人は自己の主張を守るの点において志士でにおいて作家を解釈すれば生徒である。生徒の点数は はうゆう ある。主張を貫かんとするの点において勇士である。教師によって定まる。生徒の父兄朋友といえどもこの 主張の長所を認むるの点において知者である。他意な権利をいかんともすることはできん。学業の成蹟は一 に教師の判断に任せて、不平をさしはさまざるのみな く人のために尽さんとするの点において善人である。 たゞ自他の関係を知らす、目を全局に注ぐあたわざるらず、かえってこれによって彼等の優劣を定めんとし なわば 加減なところに幅つ、ある。一般の世間が評家に望なところはまさにこ ・がため、わが繩張りを設けて、い、 を利かして満足すべぎところを、足に任せて天下を横れにほかならぬ。 たゞ学校の教師には専門がある。担任がある。評家 行して、からぬのが災になる。人が咎めればいう。 , おれの地面と君の地面との境はどこた。境は自分がきはこ、まで発達しておらぬ。たまには詩のみ評するも めぬだけで、人のほうではとうから定めている。再びの、劇のみ品するものもあるが、しかしそれすら寥々 たっしゃ たるものである。のみならすこれ等の分類は形式に属 ・咎めればいう。このとおり足が達者でどこへでも歩い てゆかれるじゃないか。足の達者なのは御洋のとおりする分類であるから、専門として独立する価値がある はたけ かないかすでに疑間である。してみると、つまりは純 である。足に任せて人の畠を荒らされては困るという 文学の批評家は純文学の方面に関するあらゆる創作を しし生ハ五と のである。かの志士といい、勇士と、 ふえん ろう 善人といわれたるものもこ、においてかたちまちに浪検閲して採点しつ、あることになる。前例を布衍して にん せいせきい

10. 夏目漱石全集 5

が英語の答案を見て方程式にあてはまらないから落第 る ( 今はその理由を説明する余地がないから略す ) 。 もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作であだというようなものである。デフォーは一種の写実家 る。さいわいにしてオセロは事件の総合と人格の発展である。ロビンソンクルーソーを読んでテニソンのイ が非常にうまく配合されてしぜんと悲劇に運び去る手ノック・アーデンのように詩趣がないという。こ、ま ぎわ 日本の芝居の仕ではなるほどと降参せねばならぬ。しかしそれだから 際がある。読者はそれを見ればいい。 くみ ロビンソンクルーソーは作物にならないというのは歌 組は支離減裂である。鹿々々しい。結構とか性格と まろ かいう点からあれを見たならば抱腹するのが多いだろ麿の風俗画には美人があるが、ギド・レニのマグダレ できごと う。しかし幕に変化がある。出来事が走馬燈のごとくンは女になっておらんと主張するようなものである。 例を挙げれば際限がないから已める。 人を驚かして続々出る。こ、だけを面白がって、その 作家が評家に呈出する答案はかくのごとく多種多面 ほかを忘れていればやはりいくぶんの興味がある一 九は御覧のとおりの作者である。一九を読んで崇高のである。評家は中学の教師のごとく部門をわけて採点 感がないというのは非難しようもない。崇高のがなするかまたは一人で物理、数学、地理、歴史の知識を いから排斥すべしというのは、文学と崇高の博と内容兼ねなければならぬ。今の評家は後者である。いやし くも評家であって、専門の分岐せぬ今の世に立つから において全部一致したあかっきでなければいえぬこと こつけい には、多様の作家が呈出する答案を検閲するときに方 である。一九に点を与えるときには滑稽が下卑である から五十とか、識謔が自然だから九十とかきめなけれ 0 て、いろ / \ に立場を易えて、作家の精神を汲まね ばならぬ。メリメのカルメンはカルメンという女性をばならぬ。融通のきかぬ一本調子の趣味に固執して、 まっさっ 描いて躍然たらしめている。あれを読んで人生間題のその趣味以外の作物を一気に抹殺せんとするのは、英 根元に触れていないから駄作だというのは数学の先生語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、すべ あた ( 3 )