経験 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 5
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1. 夏目漱石全集 5

である。漱石自身、この坑夫の経験をした書生からその体験談を聞いたときに、その体験に第一二者 として興味を持ったというにすぎす、決してその書生の人生に心を動かされたわけではないのが、 読者にはっきりわかってしまうのである。 これは作家が手法としてどのような方法をとろうが、結局は作品の内的世界を文学の生命である 「詩」にまで昻め得なかったということである。文学における手法とは、あくまでも表現の手段で しかなく、それ自身は文学の生命とはなり得ない。つまり手法は文学の必要条件であり、決して充 分条件ではない。 普通スケッチは実際にあるものを見て描くが「坑夫」の描写は他人の体験談から触発された想像 の世界を追ってなされたものであり、作家はできるだけ自分を離れて他人の中にはいりこもうとし ており、自己の想像力を試している。 「ーー。坑夫についての経験はこれだけである。そしてみんな事実である。その証拠には小説にな っていないんでも分る」と結んでいる通り、作者自身、小説としての構成をここではいちおう無視 していることを認めている。 「そしてみんな事実である」といった前提こそが、この作品を小説として成功させ得なかった限 界であり、もし小説にしようとすれば、事実であってはならなかったのである。その意味で「坑夫」 は事実らしさをできるだけ拾いあげようとしたものであり、ほんとうの創造の世界がない。「文鳥」 422

2. 夏目漱石全集 5

価値は乏しい。真とか真でないということは、たくさめて世間に通用する真が成立するのだから、この切実 だれ な経験を誰が見ても動かすべからざる真にもり立てよ んの人の経験が一致して存在していると認めるか、ま ひとり うとするには、これを客観的に安置する必要が起って た天下に一人でもいいからその存在を認めたものがあ って、これが真だといった時に、他のものがこれを認まいります。そこで私はこの演説の冒頭に自分の過去 識しなくてはならんものであります、また本人は真だの経験も非我の経験と見做すことがでぎるといってあ と証明し得るものでなくてはなりません。でき得るもらかじめ予防線を張っておきました。刻下の感じこそ、 のならば実験ででも証明し得るもののほうがたしかに我の所有で、また我一人の所有でありますが、回顧し こ感じは他人のものであると申しました。少なくとも は相違ないのであります。ところがこの幽霊談になるナ となか / く、容易には証明できない。できるようになる自分に縁故のもっとも近い他人のものとして取り扱う うそ ことができると申しました。愛というと一字でありま かもしれませんが、今のところではまず嘘に近いほう であります。しかしながら胸中の恋とか、なっかしさす。自分の愛と人の愛といえば、たとい分量性質が同 というものは、たとい人に見せられないまでも、よしじでもついに所有者が違ってまいります。愛の見当が 人が想像してくれないまでも、また好い加減に甲、乙、違います。方角が違います。したがって自己の過去の 丙、丁のだれの胸の中にも存在しているんたろうくら愛と他人の愛とは等しく非我の経験と見做し得ます。 いに推察しているにもか、わらず、自分だけにとってこの点において主観的なる愛そのものを一歩離れて眺 度はこれほどたしかなものはありません。これほど刧実めることができます。たヾ困ることは、 . 時により場合 な経験はありません。たからやつばり真だろうといわにより増減があって、変化の度が著るしく目につくん れると、御もっともといわなければなりません。たゞで、それがため客観的価値がだいぶ下落いたします。 、くら客観的に見ること 自分に真なものすなわち人に真なものになって、はじのみならず悲しいことには、し 323

3. 夏目漱石全集 5

ける。そうして思いどおりの調子を出す。今この両人だなと見分けがつけばよろしいのであります。したが を比較してみますと、ある手段に訴えて、目的 ( すな って彼の重んずるところは色彩から受ける楽みよりも、四 ま・こ わち思いどおりの色 ) に到着するのだから、そこまで いかにしてこの色彩を生じ得るかの知識もっと郵めて さしつかえ は同じことと見做して差支ないのです。しかし両人が いえばこの色彩の知識にあるといっても無理ではあり 工夫の結果同じ色彩に到着しても、到着した時の態度ません。さてこの両人もでき上った色を経験するとい えば同じ経験をしたに違いない。たゞ石版屋のほうは は大いに違うといわなければなりません。画工のほう effect が出た この経験を我から放出して、非我の属性たる色と認め、 はこの色彩を楽しむのであります。、、 うれ かっ属性として他の色と区別するに引き易えて、画家 といって嬉しがるのであります。この楽みを除いては、 むか いろ / \ の工夫を積んでこの結果に達するまでの知識は同一経験を、画面より我に向って反射し来ったる一 は無用なのであります。しかしこの知識をある意味に種の刺激と見做し、この色がいかに我を冒すかの点に おいて自得していないと、どうあってもこの結果が出のみ留意するのであります。だから石版屋のほうを客 やむ せない。出せなければ楽しむわけにまいらんから已を観的態度で主知主義とし、画工のほうを主観的態度で なづ 得すこの過程を冥々のうちにあるいは理論的に覚え込主感主義と名けてよかろうと思います。 ますこれで客観、主観、主知、主感の解釈ができま むのであります。しかるに、石版屋のほうでは、注文 を受けて原画と同じような調子を出せば、それで万事したが、これはきわめて単純なる経験についていうこ ひとつまった が了するので、その結果が網膜を刺激しようが、連想とで、その経験は一の全き経験でありますから、この ひっきよう を呼び起そうがい っこう構わんので、必竟するに彼の経験に対する注意の向け方、すなわち態度一つで、こ う両面に分解はできますようなものの、この両極端の 興味は色彩そのものに存するのであります。何と何と 何がどんな割合に調合されてこの色彩ができ上ったん態度を取って、いすれへか片付けなければならないよ たのし かたづ

4. 夏目漱石全集 5

でぎますからおみになります。まず第一には、お店わけでもなんでもありやしないのです。だから九十銭 ながひばちわき で舐めた酒と、長火鉢の傍でぐび / \ 遣った酒とは、 が一円でもたゞ旨く飲めさえすりや結構なんです。こ四 しよう この番頭にとって同じ経験であります。もっとも焼ういう点からいうと、両方が変っています。酒の味を ちゅう しろざけ 酎とベルモット、ビールと白酒では同じ経験とも申さ利用して酒の性質を知ろうというのが番頭の仕事で、 うち れませんが、同種、同類、同価の酒を店で吐いて、家酒の味を旨がって、ロ舌の満足を得るというのが晩酌 で飲んたとすれば、吐くと飲むとの相違があるだけで、の状態であります。双方とも同じ経験に違いない。こ ことば 舌の当りは同じことだとみるのが順当たから、つまり だその経験の処置が異なっています。言葉を換えてい この男は同じ味覚の経験を繰り返したわけになります。 うと同様の経験について、目の付け所が違う、注意の こ、、までは誰が見ても同じ経験であります。それなら向け方が違っている。最後にこの講演に大事な言葉を どこまでも同じたろうかというと、違っています。店用いて申しますと、態度が違っております ( こ、のと ため で試しにロへ当ててみるのは、この酒はどんな質で、 ころが少しウントなどと違ってるかもしれません。ヴ どうロ当りがして、売ればいくらくらいの相場で、舌ントのような専門の大家に対して異説を立てるのはは 触りがびりとして、後がさつばりして、頭へびんと なはだ恐縮ですが、私のは、こうゆかないと説明にな なだ しざけどふろく わか 答えて、灘か、伊丹か、地酒か濁酒かが分るため、 りませんから、こうしておきます。またこうしても、 い換れば酒の資格を鑑別するためであります。これが実際上差支ないと信じます ) 。 晩酌のほうで見ると趣が違います。そりや時と場合に もう一歩進んで、この態度が違っているということ よると、今日の酒はたいぶ善いね、一升九十銭くらい を説明しますと、番頭のほうは酒の味を外へ抛け出す するねくらいのことは言いながら、舌をびちゃ / \ 鳴態度であります。すなわち自分の味覚をもって、自分 らすかもしれませんが、なにも九十銭を研究している以外のもの、 ( 最前申した非我 ) の一部分を知る料に きよう いたみ たち した さしつかえ どこら

5. 夏目漱石全集 5

もったい あります。 りの酒を、勿体なそうに猪口に受けて舌の先へ持って しようばいがら ます吾人の経験でもっとも単純なものは sensation ゆくところを御覧になることがあるでしよう。商売柄 しすく であります。近ごろの心理学では、この字に一種限定だけに旨いことをするなと見ていると、酒の雫が舌へ 的の意味を付して、ある単純なる全部経験の一方面を触るか、触らないうちにぶっと吐いてしまいます。そ あらわすことになっておりますが、私は便宜のため全 うして次の樽からまた同じように受けて、同じように 部経験の意義に用います。たゞ便宜のために用いるの舌の先へ落しては、次へ次へと移ってゆきます。けれ なんべん ですから、実際の価突のないことは私の説明をお聞に ども何遍同じことを繰り返しても決して飲まない。飲 わか なればお分りになるだろうと思います。それからあるんだら好さそうなものですが、ことム \ く吐き出して 心理学者は sensation は分解の結果到着する単純な経しまいます。そこで今度は同じ番頭が店から家へ帰っ ( 3 ) とりせん ばんしやく 験で、現実な吾人の経験はも 0 と複雑なところから始て、楸さんとお取膳かなんかで、晩酌をやる。すると まっているじゃないかといってるようですが、それも今度は飲みますね。決して吐き出しません。ことによ ( 4 ) とく 構いません。たヾ sensation が単純な経験をあらわせると飲み足りないで、もう一本なんて、赤い手で徳久 よろ ば、私の目的には宜しいのであります。もし不都合な利を握って、細君の目の前へぶらっかせることがある ら、そんな字を借用しないでもよろしい。面倒なこと かもしれません。まずこの二たとおりの酒の呑み方 がてん をいわないで、例でもってお話をすれば、早く合点が ( もっとも一方は呑み方ではない、吐いてしまうから 度ゆかれますから、すぐさま例に取りか、ります。 吐き方かもしれませんが ) ーー吐き方なら吐き方でも さかどんや めくらじま おもしろ の時々酒間屋の前などをお通りになると、目暗縞の着よろしい。この呑み方と吐ぎ方を比較してみると面白 とうざんまえだれ おおけさ 第物で唐桟の前垂を三角に、小倉の帶へ択んた番頭さん 、。研究と申すほどの大袈裟な文字は如何わしいが、 ( 2 ) こもかぶ のみぐち が、菰被りの飲口をゆるめて、墫の中からわずかばか説明のしようによると、なか / 、えらく聞えるように ′こしん たる めんどう きき ちょこ 295

6. 夏目漱石全集 5

我の石についての経験は堅いとか、冷たいとか、素気ろ極端であります。比較するものと比較されるものと ないとかいう属性から構成されているのはむろんであの属性が一点もしくは一以上の諸点において、似てい りますが、いやしくもこの属性が石の属性で、石の意れば似ているだけ客観的比較に近づくわけですからし きま て、漸々 perceptual の叙述に縁が付いてまいりま 義を明瞭ならしむるものと相場が極まってしまえば、 す。たとえば先刻のあの人は虎のようだというような もう融通は利きません。どうしても石を離れることが いくぶんかは できなくなります。石を離れることができないとする simile でも石と心の比較に比べると、 と、まるで性質の違った心を形容するわけにはまいり perceptual の方面へ向いております。なぜというと、 ません。堅いのは石が堅いので、冷たいのもやはり石虎は動物であり、人も動物であるという点において、 が冷たいんだから、その堅さ冷さを石から奪って、心すでに客観的価値のある比較であります。なにも動物 に与えるわけにはまいりません。しかし一たび立場をという概念がなくても構いません、寐るところが似て 変えて、その堅さ冷たさを石から経験したとすれば、 いる、物を食うところが似ている、歩くところが似て いくら皮膚が似 いる以上は、客観的価値があります。 自分が石を認めたんでなくって、石が自分を冒したと かっこう ひげ すれば、冷たいのは自分の冷たさで、堅いのも自分のていなくっても、足の恰好が似ていなくっても、髯の 堅さであるから、一たび石の経験に触れるやいなや、数が似ていなくっても、似ているところがあるたけそ こゝろも 石を離れて冷たい、堅いという心持ちだけになるから、れたけ客観的価値のある比較であります。しかしなが 度いやしくもこれと同じ心持を起すものならば、移してら、もし以上の点において類似を主張するならば、よ の・なにへでも使うことができます。それで、あの人の心 りよき類似を主張する比較物はいくらでもあるはすで 第は石のようたという叙述が意味のあるものとなります。あります。たとえばあの人は父に似ているとかまたは これはまったく性質の違った比較をする場合で、むし母のごとしとかいうほうが虎のごとしというよりもは そっけ

7. 夏目漱石全集 5

れは当然のことで記憶さえあれば誰でもできる。そのまだかって生れたような心持がしたことがない。しか 時に、我が経験した内界の消息を他人の消息のごとくし回顧してみるとたしかに某年某月の午の刻か、寅の幻 に観察することができる。ことができるというのです時に、母の胎内から出産しているに違いない。違いな から、必すそうなるというのでもなければ、またそう いとは申しながら、泣いた覚もなければ、浮世の臭も 見なくてはならないというのでもありません。たとえかいだ気がしません。親に聞くとたしかに泣いたと申 きよう うち じようだん ば私が今日こゝで演説をする。その時の光景を家へ帰します。が私からいわせると、冗談言っちゃ可ませ 0 てから寝ながら考えてみると、私が演説をしたんじん。おおかたそりや人違いでしようと言いたくなりま ゃない、自分と同じ別人がしたように思うこともできす。そこで我々内界の経験は、現在を去れば去るほど、 るーー、できませんか。それじゃ、こういうなあどうであたかも他人の内界の経験であるかのごとき態度で観 1 レよ洋ノ 0 去年の暮に年が越されない苦しまぎれに、友察ができるように思われます。こういう意味からいう 人から金を借りた。借りる当時は痛切に借りたような と、まえに申した我のうちにも、非我と同様の趣で取 気がしたが、今とな 0 てみるとなんだか自分が借りたり扱われ得る部分が出てまいります。すなわち過去の ような気がしない。 不可ませんか。それじや私が我は非我と同価値だから、非我のほうへ分類しても差 - 」ども 小供の時に寝小便をした。それを今日考えてみると、 し支ないという結論になります。 その時の心持よ、 。しくふんか記憶で思い出せるが、どう かように我と非我とを区別しておいて、それから我 ひげ うけと も髯をはやした今の自分がやったようには受取れない。 が非我に対する態度を検査して懸ります。心理学者の これはあなたがたも御同感だろうと思います。なお溯説によりますと、我々の意識の内容を構成する一刻中 りますとーーーもうたくさんですか、しかしついでだかの要素は雑然膨大なものでありまして、そのうちの一 ら、もう一つ申しましよう。私はこの年になるが、い 点が注意に伴れて明瞭になり得るのたと申します〕こ おぼえ におい

8. 夏目漱石全集 5

夫 やはりほんとうに死ななくっては駄目だ。たヾし頃悶思うが早いか、長蔵さんがおるんだ、坑夫になるんた、 がなくなった時分には、また生き返りたくなるに極っ汽車賃がなかったんだ、生家を出奔したんた、どうし たんだ、こうしたんだとまるで十二三のたんだがむら てるから、正直に理想をいうと、死んだり生きたり互 ちがい こんなことをかむらと塊まって、頭の底から一度に湧いてきた。その 違にするのがいちばんよろしい。 ごんご ひょうきんじようだん くと、なんだか剽軽な冗談をいってるようだが決して速いことといったら、言語に絶するといおうか、電光 りようけん そんな浮いた了見じゃない。本気に真面目を話してる石火と評しようか、実に恐ろしいくらいたった。ある せつな つもりである。その証拠にはこの理想はたゞ今過去を人が、溺れか、ったその刹那に、自分の過去の一生を、 おもしろ 回想して、面白半分興に乗じて、好い加減に付け加え細大漏らさずあり / \ と、目の前に見たことがあると 1 一口 う話をその後聞いたが、自分のこの時の経験によっ たんじゃない。実際汽車が留って、不意に目が覚めた うそ 時、このとおりに出てきたのである。鹿気た感じだて考えると、これは決して嘘じゃなかろうと思う。要 こつけい から滑稽のように思われるけれどもその時は正直にこするにそのくらい早く、自分は自分の実世界における この立場と境遇とを自覚したのである。自覚すると同時に、 んな馬鹿気た感じが起ったんだから仕方がない。 感じが滑稽に近ければ近いほど、自分は当時の自分を急に褫な心持にな 0 た。たヾ厭では、とても形容がで 可愛想に思うのである。こんな常識をはすれた希望を、きないんだが、さればといって、別に叙述しようもな こ、ろも い心持ちだからたヾの厭でとめておく。自分と同じよ 真面目に抱かねばならぬほど、その時の自分は情ない うな心持ちを経験した人ならば、たヾこれだけで、な 境遇におったんだということが判然するからである。 あ るほどあれだなと、すぐ勘づくだろう。・また経験した 自分がふと目を開けると、汽車はもう留っていた。 汽車が留まったなという考えよりも、自分は汽車に乗ことがないならば、それこそ幸福だ、決して知るに及 っていたんだなという考えが第一に起った。起ったと しかた きま たがい

9. 夏目漱石全集 5

作品論 らないという条件を守ろうとすれば、不自然な命のないものになると悟ったのではないだろうか。・ だからこそ、彼はこの習作を書きつづけながらも、文学における我と非我が、主観と客観が、頭を 離れなかった。そして、次の段階として、克明な描写と、自分自身の内部意識をより素朴に、抒情 的にひらめかせる「文鳥」や「夢十夜」のような作品を、このうまくいかなかった試みのあとに書 いたのである。 「文鳥」はなにげない文体だが、漱石の言う情操、すなわち浪漫主義と自然主義的な描写が巧み に重ねられているし、「夢十夜」にはこの両極を一層大胆にゆれながら往復して創り出された空間 がある。「夢十夜」は一夜一夜の夢をとってみた場合は、ほとんど断片にすぎないものもあるが、 十夜の夢を連作としてみると、ひとつの不可思議な世界があって、朦朧とした夢の中で、読者は人 生にまつわるさまざまな記憶を呼び戻され、それが非常に真実である。 「坑夫」は部分部分をとってみると、達者に描けているのだが、それは末梢的な事実らしさにす ぎず、読み終えてみると坑夫の話が読者の人生の中でアイデンティファイできる感動とつながらな これは坑夫の生活が、読者の経験すべくもない、かかわりあいのないものだということでは決 してない。文学世界とは、それがたとえ読者にとってはありそうもない架空の世界、あるいは全く 別世界であっても、読者の何らかの人生経験と同一視できるものがそこにあり、詩的感動があると幻 いうことである。坑夫の生活に読者は異常な世界を覗き見たという気はするが、ただそれだけなの 、 0

10. 夏目漱石全集 5

を比較して見ると、 いかに漱石が他人の経験を主体化 し、想像力によって肉付けているかが知られる。でき 上りは別として、彼の想像力のゆたかさを証明するに 足る一編である。 漱石はこの作品を書くに際して、自然主義の作家の 吉田精一 ようこ、 冫たとえば田山花袋が「田舎教師ーでこころみ 「坑夫」は、明治四十一年 ( 一九〇八 ) 一月一日から たように、実地にその土地を踏み、細かいノオトをと 四月六日まで、九十一回にわたって「朝日新聞」に連 り、ある程度まで事実や資料について実証的調査をす 載され、同年九月、「野分」と合せて、『草合』の題でるということをしなかった。明治四十年の十月二十九 出版された。彼の長編の系語からいうと、「虞美人草」日、「虞美人草」を書き終ったばかりの漱石は、十二月 に次ぎ、「三四郎」に先立っている。漱石の長編中では、十日になって、急に新しい小説を書く交渉をうけ、こ 最も問題にされることの少ないもので、ふつう失敗の の材料を生かすことを思いついたのであって、それほ 作と見られている。 どの余裕もなかったのである。 この作品に材料になったのが、前年十一月に彼を尋 おそらくそれも一つの理由であろう。「坑夫」は、 ねて来た一人の青年の経験であることは、「『坑夫』の 三人称の客観体形式をとらす、一人称の私小説 lch- 作意と自然派伝奇派の交渉」によって明らかである。 Roman の構成に従った。岩野泡鳴のいわゆる一元描 それに加えて、彼のノオト断片を参照すれば、この作写体である。しかも主人公の後年の回想による心理小 品がほとんどまったく事実によっていることがわかる。説が、彼がえらんた方法だった。この行き方ならば、 しかしこれたけのノオトと、でき上った「坑夫」とすべてを「心理」のうちにつつみこみ、その、ハ理的現 404