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検索対象: 夏目漱石全集 5
100件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 5

うわペ はどうあっても聞かない。父はつい憤死する。これが上部さえ形式に合っていれば、人が許すものたから、 まった みな 結末であります。この一段があるので、昔から見馴れ互の終りを全くして幸福を得ようとするには、過去の た恋愛談の陳腐なものとは趣を異にするようになりま不品行を蔵すにしくはないという男の苦心を察してみ すが、結婚問題が破裂するところがあればこそ、はあなると多少は気の毒であります。どこまでも習慣的制裁 るほどといわせることができるのです。はあなるほどを墨守して娘の恥を雪ぐためには、ともかくも公けに あた というのはとりもなおさす新らしかったという意味で結婚させてしまわなければならないと思い乱れる父親 あります。新らしい因果を見てもっともた今の世の中にも同情があります。最後に娘が一徹に、たとい世間 にはこんな因果があるだろうと思うからです。今の人からどういわれても、社会的地位を失っても、そんな俗 人の腹の中には行為にこそ、こ、まで出さなくっても、習に圧しつけられて、偽わりの結婚をして、可愛い子 しようがいひかげ こそ ~ 、 約東的な姑息手段に堪えないで、マグダと同じようなを生涯日蔭ものにするのは決していやたと、あくまで 似たものが、あるたろう 1 。あり得るはずたと認めるたも約東的習慣に抵抗するところは、たといその情操に けの目をもって読んでゆくからであります。この点に全然一致しない人までも、いくぶんか壮と感するでし うこの数者があればこそ劇も面白くなるのであり おいてこの劇はもとより真を発揮したものであります。よ。 しかしこの劇はそれだけよりほかに能事のないものでますが、これは、みんな主観のほうの情操であります。 これで見ますと真だけの作と思ってたものに存外、他 あろうかと考えてみますると、大いにあるでしよう。 度第一はこの相手の男の我儘なところ、過去の非を塗りの分子がはいっていることがお分りになりましよう。 これに反していかに主観的の作物でも全然真を含んで 潰して好い子になろうという精神が出ているから、読 けいべっ いないものはありません。もし含んでいなかったらと幻 者はその点において憎悪とか軽蔑とかの念を起さなけ きま てい読み得ないに極っています。かの infinitelong ・ ればならないはずでしよう。しかし世の中は虚偽でもう わがま、 わか おもしろ

2. 夏目漱石全集 5

間に距離というものがある。一間の距離とか、二間の少し迷惑であります。そこにはそれ相当な囚縁、すな 距離とかあるいは十間二十間 この講堂の大ぎさはわち先刻申上げた大村君の丁重なる御依頼とか、私の幻 うけあ やすうけあい どのくらいありますかーーーとにかく幾坪かの広がりが安受合とか、受合ったあとの義務心とか、いろ / \ の あって、その中に私が立っており、その中にあなたが因縁が和合したその結果かくのごとくフロックコート たが坐っていることになる。この広がりを空間と申しを着てまいりました。この関係を ( 人事、自然に通じ とな ます ( 申さなくっても御承知である ) 。つまりはスべて ) 因果の法則と称えております。 1 スというものがあって、万物はその中に、おの / \ 、 すると、こうですな。この世界には私というものが あなた ある席を占めている。次に今日の演説は一時から始まありまして、貴所がたというものがありまして、そう ります。そうしていっ終るか分りませんが、まあいっして広い空間の中におりまして、この空間の中でお互 しば、 か終るでしよう。こ、 、よ日が暮れるまえに終るこ に芝居をしまして、この芝居が時間の経過で推移して、 とと思います。私がこうやって好加減なことを喋舌っ この推移が因果の法則で纏められている。というので て、それが済むとあとから、上田さんが代ってまた面しよう。そこでそれにはます私というものがあると見 白い講話がある。それから散会となる。私の講話も、 なければならぬ、貴所がたがあると見なければならぬ。 上田さんの演説も皆経過する事件でありまして、この空間というものがあると見なければならぬ。時間と、 経過は時間というものがなければ、どうしても起るわうものがあると見なければならぬ。また因果の法則と めいりよう ごじん けにまいりません。これも明瞭なことでべつだん改め いうものがあって、吾人を支配していると見なければ うしあ て申上ける必要はな、。 最後に、なぜ私がこ、にこう ならん。これは誰も疑うものはあるまい。私もそう思 やって出てきて、しぎりに口を動かしているかといえう。 すいきようものすき ば、これは酔狂や物数奇で飛出してきたと思われては ところがよく / \ 考えてみると、それがはなはた怪 とびた いゝかげん しゃべ

3. 夏目漱石全集 5

次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向をから、空間があるとしないと生活上不便たと思うと、 取る。 ( 五 ) その結果として意識が分化する、明瞭にすぐ空間を捏造してしまう。時間がないと不都合たと なる、統一せられる。 ( 六 ) 一定の関係を統一して時勘づくと、よろしい、それじや時間を製造してやろう 間に客観的存在を与える。 ( 七 ) 一定の関係を統一しと、すぐ時間を製造してしまいます。だからいろ / 、 て空間に客観的存在を与える。 ( 八 ) 時間、空間を有な抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切 意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。 なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして まこと ( 九 ) 時間内に起る一定の連続を統一して因果の名を嘘から出た真実であります。いかにこの嘘が便宜であ ぎようき 付して、因果の法則を抽する。 るかは、何年となく嘘をつき習った、末世澆季の今日 しんじっ まずざ 0 と、こんなものであります。してみると空では、私もこの嘘を真実と思い、あなたがたもこの嘘 間というものも時間というものも因果の法則というもを真実と思って、誰も怪しむものもなく、疑うものも のも皆便宜上の仮定であって、真実に存在しているもなく、公々然恤るところなく、仮定を実在と認識して うれ のではない。 これは私がそういうのです。諸君がそう嬉しが 0 ているのでも分ります。貧して鈍すとも、窮 でないといえばそれでも宜い。御随意である。とにかすれば濫すとも申して、生活難に追われるとみんなこ く今日だけはそう仮定したいものだと思います。それ う堕落してまいります。要するに生活上の利害から割 ( 2 ) おおみそかじよろう でないと話が進行しません。なぜこんなよけいな仮定り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同しく げすりよう まこと をして平気でいるかというと、そこが人間の下司な了らいな実は含んでおります。なぜといって御覧なさい。 簡で、我々はたゞ生きたい / \ とのみ考えている。生もし時間があると思わなければ、また時間を計る数と うそ まちがい きさえすれば、どんな嘘でも吐く、どんな間違でも構 いうものがなければ、土曜に演説を受け合って日曜に わす遂行する、まことに浅間しいものどもであります来るかもしれない。お互の損になります。空間がある けん あさま ロは

4. 夏目漱石全集 5

ける。そうして思いどおりの調子を出す。今この両人だなと見分けがつけばよろしいのであります。したが を比較してみますと、ある手段に訴えて、目的 ( すな って彼の重んずるところは色彩から受ける楽みよりも、四 ま・こ わち思いどおりの色 ) に到着するのだから、そこまで いかにしてこの色彩を生じ得るかの知識もっと郵めて さしつかえ は同じことと見做して差支ないのです。しかし両人が いえばこの色彩の知識にあるといっても無理ではあり 工夫の結果同じ色彩に到着しても、到着した時の態度ません。さてこの両人もでき上った色を経験するとい えば同じ経験をしたに違いない。たゞ石版屋のほうは は大いに違うといわなければなりません。画工のほう effect が出た この経験を我から放出して、非我の属性たる色と認め、 はこの色彩を楽しむのであります。、、 うれ かっ属性として他の色と区別するに引き易えて、画家 といって嬉しがるのであります。この楽みを除いては、 むか いろ / \ の工夫を積んでこの結果に達するまでの知識は同一経験を、画面より我に向って反射し来ったる一 は無用なのであります。しかしこの知識をある意味に種の刺激と見做し、この色がいかに我を冒すかの点に おいて自得していないと、どうあってもこの結果が出のみ留意するのであります。だから石版屋のほうを客 やむ せない。出せなければ楽しむわけにまいらんから已を観的態度で主知主義とし、画工のほうを主観的態度で なづ 得すこの過程を冥々のうちにあるいは理論的に覚え込主感主義と名けてよかろうと思います。 ますこれで客観、主観、主知、主感の解釈ができま むのであります。しかるに、石版屋のほうでは、注文 を受けて原画と同じような調子を出せば、それで万事したが、これはきわめて単純なる経験についていうこ ひとつまった が了するので、その結果が網膜を刺激しようが、連想とで、その経験は一の全き経験でありますから、この ひっきよう を呼び起そうがい っこう構わんので、必竟するに彼の経験に対する注意の向け方、すなわち態度一つで、こ う両面に分解はできますようなものの、この両極端の 興味は色彩そのものに存するのであります。何と何と 何がどんな割合に調合されてこの色彩ができ上ったん態度を取って、いすれへか片付けなければならないよ たのし かたづ

5. 夏目漱石全集 5

場合には、この意志は変じて物理上の energy のよう 世が引っ繰り返っても、三者に対する情操のない世は むとんじゃく なものになります。少なくとも人間の意志とは趣を異ないはすで、いかに無頓着な人間でもこの点において にしてまいります。かように壮の発現もしくは潜伏が全然好悪を持っていない人はありません。もしあれば 物質界に移るとすると、美の範疇と接近してまいりま社会が維持できないばかりであります。一歩進んでい す。それゆえ時宜によっては、これも美のなかへ押しえば社会は改良できないわけであります。器械的の改 込んでも構いません。まず不完全ながら善、美、壮、良すなわち法律が細かくなるとか巡査の数を殖すこと かんじん の解釈はこうと致して、この三者に対する我の受け方はできますが、肝心の人間の行為を支配する根本の大 を叙述するのがこの方面の文学の目的であります。と 部分を閑却して世の中が運転するわけがありません。 さくざっ ころが我の受け方は千差万別に錯雑してまいりますが、 これがために、これ等の情操を維持し、助長すること 総括すると快不快の二字に帰着いたします、好悪の二を目的にする文学が成立するのであります。 学に落ちてまいります。すなわち善に逢って善を好み、 私は客観主観両方面の文学の目的とするところを一 悪を見て悪を悪み、美に接して美を愛し、醜に近づい 言述べました。こ、に目的というのは叙述家みずから て醜を忌み、壮を仰いで壮を慕し 、、弱を目にして弱をが、叙述以前にか、る目的を有しておらなければなら かんがえ 寢しむの類であります。もとより善、美、壮の考は人んという意味ではありません。その結果だけがこうい さしつかえ により時により、相違はあります、また、三が冒し合 う目的に叶っているたけでもいっこう差支ないのであ わないとも限りますまい。現に前に述べたカロリーネります。我々が結婚するようなもので、なにも必す子 れ・ト宀うはリ・ん の話でも愛に従うのを善とすれば、あの話を読んで十を産む了見で嫁を貰うとは限りません。しかし事実は おっと 分満足の気分になれましようし、また夫に従うのを善 多くの場合において、あたかも子を産むことを目的に とすれば、・ とうも不快な話になります。しかしどう浮して結婚をしたように見えます。さればといって子孫 あお か ふや 318

6. 夏目漱石全集 5

てんどうじけん ( 1 ) ふえん お前さんが三四返繰返されたが、毛布はよく寐てい だが、その後この顛倒事件を布衍して考えてみたら、 おおい る。仕方がないから長蔵さんは毛布の肩へ手を掛て、 こんな、例はたくさんある。つまり世の中では大勢の 「おい、おい」 やってることが当然になって、一人だけでやることが やむ と揺りはじめたんで、己を得ず、毛布のほうでも「およけいのように思われるんだから、当然になろうと思 ちゅうとはんば あが こしら ようす い」と同じような返事をして、中途半端に立ち上った。 ったら味方を大勢拵えて、さも当然であるかの容子で これでみんな起きたようなものの、自分は顔も洗わず、不当なことを遣るに限る。遣ってはみないがきっと成 飯も食わす、どうして好いか迷ってると、長蔵さんが、功するたろう。相手が長蔵さんと赤毛布でさえ自分に 「じゃ、そろノ \ 出掛よう」 はこれほどの変化を来たしたんでも分る。 まっさき あしもと と言って、真先に土間へ降りかけたには驚しオるイ 、こ。、曽すると長蔵さんは草鞋の紐を結んで、足元に用がな ふとくようりよう がっゞいて降りる。毛布も不得要領に土間へ大きな足 くなったもんだから、ふいと顔を上げた。そうして自 をぶら下げた。こうなると自分もなんとか片をつけな分を見た。そうして、こんなことを言う。 げた くっちゃならないから、いちばんあとから下駄を突掛「お前さん、飯は食わなくっても好いだろうね」 わらじひも けて、長蔵さんと赤毛布が草鞋の紐を結ぶのを、不景飯を食わなくって好い法はないが、わるいと言った ふところで 気な懐手をして待っていた。 って、始まりようがないから、自分はたゞ、 あさめし 土間へ下りた以上は、顔を洗わないのかの、朝飯を「好いです」 ぜいたく 食わないのかのと、当然のことを聞くのが、さも贅沢と答えておいた。すると長蔵さんは、 の沙汰のように思われて、とんと質間してみる気にな 「食いたいかね」 らない。習慣の結果、必要とまで見做されているものと言って、にや / 、と笑った。これは自分の顔に飯が が、急によけいなことになっちまうのは可笑しいよう食いたいような根性がいくぶんかあらわれたためか、 さた ゆす でかけ かけ っツか のら ひとり

7. 夏目漱石全集 5

ら、私のような粗末な考えを好い加減にいう時は、あと見做した結果にほかならぬ。文法というものは言葉 まりお信じにならんほうがよいかもしれませんが の排列上における相互の関係を法則にまとめたもので ーしかしあまり信じなくってもいけません。まず演説あるカ ; 、ト児は文法があって、それから文章があるよ の終るまで信じておって、お宅へお帰りになるころに うに考えている。文法は文章があって、言葉があって、 信じなくなるのがちょうどい、、加減であろうと思いまその言葉の関係を示すものにすぎんのだからして、文 す。 法こそ文章のうちに含まれているといってしかるべき 次に今いう意識の連続 , ーーすなわち甲が去って乙がであるごとく空間の概念も具体的なる両意識のうちに くるときに、こういう場合がある。ます甲を意識して、含まれているといってもよろしいと思う。それを便宜 それから乙を意識する。今度はその順を逆にして、乙のために抽象して離してしまって広い空間をかってし ふた を意識してから甲に移る。そうしてこの両つのものをたいに抛り出すと、無辺際のうちにぼつり / く、と物が こ。、ろも 意識する時間を延しても縮めても、両意識の関係が変散点しているような心持ちになります。もっともこの らない。するとこの関係は比較的時間と独立した関係空間論もだいぶ難物のようで、 = ートンという人は であって、しかもある一定の関係であるということが空間は客観的に存在していると主張したそうですし、 わかる。その時に吾人はこれを時間の関係に帰着せしカントは直覚たとかいったそうですから、私のいうこ あて むることができないことを悟って、これに空間的関係とは、あまり当にはなりません。あなたがたが当にな こう の名を与えるのであります。だからしてこれも両意識さらんでも、私はたしかにそう思ってるんだから毫も さしつかえ の間に存する一種の関係であって、意識そのものを離差支はありません。たゞ自分だけで、そう思っていれ れて空間なるものが存在しているはずがない。空間自 ば済むことを、かようになんのかのと申し上げるのは、、 存の概念が起るのはやはり発達した抽象を認めて実在演説をお頼みになった因果で已を得ず申し上げるので、 やむ 230

8. 夏目漱石全集 5

という意味を含んでおって、推移という意味がある以と少々妙であります。最初には私というものがあると 上は ( 一 ) 意識に単位がなければならぬということと申しました。貴所がたもたしかにお出になると申しま (ll) この単位が互に消長するということと ( 三 ) はした。そうして、お互に空間という怪しいものの中に はいり込んで、時間という分らぬものの流れに棹さし 消長が分明であるくらいに単位意識が明撩でなければ ならぬということと ( 四 ) 意識の推移がある法則に支て、因果の法則という恐ろしいものに東縛せられて、 ぐう / 、、いっていると申しました。ところが不通俗に 配せらるるやということになりますから、間題がよほ ど遲てきますが、今はそんな面倒なことをお話す考えた結果によるとまるで反対にな 0 てしまいました。 る場合でないから、諸君の御研究に一任することとし物我などという関門は最初からないことになりました。 天地すなわち自己というえらいことになりました。い て講話を進めます。もっとも今申した四か条のうち、 ひょうへん つのまにこう豹変したのか分らないが、まったく矛盾 意識推移の原則については私の「文学論」の第五編に 不完全ながら自分の考えたけは述べておきましたから、してしまいました ( 空間、時間、因果律もやはりこの あとまわ 御参考を願いたいと思います。ついでに「文学論」も豹変のうちに含んでいます。それは講話の都合で後回 とにかくしにしましたから、今にだん / 、わかります ) 。 一部ずつお求めを願いたいと思います。 なぜこんな矛盾が起ったのたろうか。よく考えると 意識がある。物もない、我もないかもしれないが意識 なんにもないのに、通俗では森羅万象いろ / 、なもの 際だけはたしかにある。そうしてこの意識が連続する。 ( 2 ) しゅうじん そうとう が掃蕩しても掃蕩しきれぬほど雑然として宇宙に充初 睡なぜ連続するかは哲学的にまたは進化的に説明が付く ( 3 ) とばり にしても、付かぬにしても連続するのはたしかであるしている。戸張君ではないが天地前にあり、竹風こ、 にありと いいたくなるくらいであります。ーーーなぜこ幻 芸から、これを事実として歩を進めてゆく。 そこでちょっと留まって、この講話の冒頭を顧みるんな矛盾が起ったのであろうか。これはすこぶる大間

9. 夏目漱石全集 5

あれに出てる坑夫は、なろん私が好い加減に作った が多くある。これを真に事実として写せばごく / 、 かきあら 想像のものである。坑夫の年齢は十九歳たが、十九の瑣なものであ 0 てほとんど書現わせない。よし現わせ うけと 人としちや受取れぬことが書いてある。たから現実のても熕に堪えぬ不得要領のものとなってしまう。面白 あと 事件は済んで、それを後から回顧し、何年かまえのこくないせいかもしらんが、ある意味からいえば、か、 とを記憶して書いてる体となっている。したがってまる方面のことはあまり多くの人がやっておらん。のを、 ア昔話といった書方たから、その時その人が書いたよ私はかえってそれが書いてみたい 糸かくやってみ うに叙述するよりも、どうしても感じが乗らぬわけだ。 。という念があるから、事件の進行に興味を持っ それはある意味からいえば文学の価値は下る。その代よりも、事件そのものの真相を露出する。甲なること り ( 自分を弁護するんじゃないが : : : ) 昔のことを回と、乙なることと、丙なることとが寄 0 て、こうな 0 顧してると公平に書ける。それから昔のことを批評し たというふうなところに主として興味をもって書く。 . 渉ながら書ける。善いところも悪いところも同じような 詳しくいえば、原因もあり結果もあって脈絡貫通 の 目をも 0 て見て書ける。一方じゃ熱が醒めてる代りに、した一個の事件があるとする。しかるに私はその原因 奇一方じゃ、さあなんとい 0 て好いかーー遠い感じがあや結果はあまり考えない。事件中の一個の真相、たと あた ( 1 ) ていかい 派る。当りが遠い。、 しわゆるセンセーショナルの烈しい えばならに行徊した趣味を感ずる。したがって書 自角を取ることができる。これはしかしある人々には気方も、という真相の原因結果は顧慮せすに、甲、乙、 噫に入らんだろう。 丙の三真相が寄ってを成している、それが面白いと の も一つは、あの書方でゆくと、ある仕事をやる動機書く。すなわち同し彼徊していても、分解的にできて 夫 坑 とか、所作なぞの解剖がよくできる。元来この動機のるところが多い。 この書方はある人には趣味がないた認 し力なる 解剖という奴は非常に複雑で、我々の気付かんところろう。もしあるとすれば、という真相は、、、 ようりよら・

10. 夏目漱石全集 5

もち もちゃ と心得なければ、また空間を計る数というものがなけ餅屋が餅をちぎ 0 て黄ナ粉の中へ放り込むような勢で れば、電車を避けることもでぎず、二階から下りるこ抛げつけます。この黄ナ粉が時間たと、過去の餅、現 ともできず、交番へ突き当 0 たり、犬の尾を踏んだり、在の餅、未来の餅になります。この黄ナ粉が空間たと、 はなはだ嬉しくない結果になります。普通に知れ渡 0 遠い餅、近い餅、こゝの餅、あすこの餅になります。 た因果の法則もこのとおりであります。だからすべて今でも私の前にあなたがたが百五十人ばかりならんで あや これ等に存在の権利を与えないとわが身が危ういのでおられる。これは失礼ながら私が便宜のため、そこへ あります。わが身が危うければどんな無理なことでも抛げ出したのであります。すでに空間のできた今日で あが りき しなければなりません。そんな無法があるものかと力あるから、嘘にもせよせ 0 かくでき上 0 たものを使わ ちぐさ 味でいる人は死ぬばかりであります。だから現今びんないのも宝の持腐れであるから、都合により、びしゃ なげだ びん生息している人間は皆不正直もので、律気な連中びしや投出すと約百余人ちゃんと、そこに行儀よく並 はとくの昔に、汽車に引かれたり、川〈落ちたり、巡んでおられて至極便利であります。投けると申すと失 査につかま 0 たりして、ことみ \ く死んでしま 0 たと敬に当りますが、粟餅とは認めていないのだから、た 、した非礼にはなるまいといます。 御承知になればたいした間違はありません。 この放射作用とまえに申した分化作用が合併して我 すでに空間ができ、時間ができれば意識を割いて我 礎と物との二つにすることは容易であります。容易など以外のものを、単に我以外のものとしておかないで、 的ころの騒ぎじゃない。実は我と物を区別してこれを手これにいろ / \ な名称を与えて互に区別するようにな 哲際よく安置するために空間と時間の御堂を建立したもります。たとえば感覚的なものと超感覚的なもの ( あ 芸同然である。御堂ができるやいなや待ち構えていた我るかないか知らないが幽霊とか神とかいう正体の分ら 我は意識を攫んでは抛げ、攫んでは抛げ、あたかも粟ぬものを指すのです ) に分類する。その感覚的なもの いきお、