聞い - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 6
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1. 夏目漱石全集 6

慣例もあった。三四郎の家では、年に一度すっ村全体 「なに、、い配することはありませんよ。なんでもない へ十円寄付することになっている。その時には六十戸 事なんだから。たヾ御母さんは、田舎の相場で、金の 価値を付けるから、三十円がたいへん重くなるんだね。から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村 なんでも三十円あると、四人の家族が半年食っていけのお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつゞけに飲 ると書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。んで、御馳走を食いっゞけに食うんだという。 よし子は大きな声を出して笑った。三四郎にも馬鹿気「それで十円」とよし子が驚いていた。お談義はこれ ているところがすこぶる可笑しいんだが、母の言条が、でどこかへいったらしい。それから少し雑談をして一 まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに段落付いた時に、野々宮さんがあらためて、こう言っ こ 0 気が付いた時には、なるほど軽率な事をして悪かった 「なにしろ、御母さんのほうではね。僕が一応事情を と少しく後悔した。 わり 「そうすると、月に五円の割だから、一人前一円二十調・ヘて、不都合がないと認めたら、金を渡してくれろ。 五銭にあたる。それを三十日に割り付けると、四銭ばそうして面倒でもその事情を知らせてもらいたいとい かりだが いくら田舎でも少し安すぎるようだな」うんだが、金は事情もなんにも聞かないうちに、もう どうするかね。君たしか佐 渡してしまったしと、 と野々宮さんが計算を立てた。 「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょ佐木に貸したんですね」 三四郎は美彌子から洩れて、よし子に伝わって、そ う」とよし子が真面目に聞きだした。三四郎も後悔す ありさま る暇がなくなって、自分の知っている田舎生活の有様れが野々宮さんに知れているんだと判じた。しかしそ を、よう めぐめぐ みやごもり の金が巡り巡ってイオリンに変形したものとは、兄 をいろ / 、話して聞かした。そのなかには宮籠という はんねん ばかげ いじよう 2

2. 夏目漱石全集 6

、つでも に藤鼠の天鵞絨の房の下 0 たものを、背から腰の下山向〈逃げても行かぬ。風のない村の上に、し まで三角に垂れて、赤い足袋を踏んでいた。手に持 0 落付いて、じ 0 と動かずに靄んでいる。その間に野と た朝鮮の団扇が身体の半分ほどある。団扇には赤と青林の色が次第に変 0 てくる。酸いものがいつのまにか と、えうろしか 甘くなるように、谷全体に時代が付く。。ヒトロクリの と黄で己を漆で描いた。 行列はかに自分の前を過ぎた。開けしにな 0 た谷は、この時百年の昔、二百年の昔にかえ 0 て、やす ( 4 ) う 戸が、空しい日の光を、書斎の入口に送 0 て、縁側にやすと寂びてしまう。人は世に熟れた顔を揃えて、山 の背を渡る雲を見る。その雲はある時は白くなり、あ 幅四尺の寂しさを感じた時、向うの隅で急に・ ( イオリ ソを擦る音がした。ついで、小さい咽喉が寄り合 0 て、る時は灰色になる。おり / 、は薄い底から山の地を透 かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。 どっと笑う声がした。 うちこども 自分の家はこの雲とこの谷を眺めるに都合好く、小 宅の小供は毎日母の羽織や風呂敷を出して、こんな さな丘の上に立っている。南から一面に家の壁へ日が 遊戯をしている。 あたる。幾年十月の日が射したものか、どこもかしこ ねずみいろ も鼠色に枯れている西の端に、一本の蓄薇が這いかゝ って、冷たい壁と、暖かい日の間に拠ま 0 た花をいく 。ヒトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、目つか着けた。大きな弁は卵色に豊かな波を打 0 て、蕚 に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起から翻えるように口を開けたま \ ひそりと所々に静 日きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半まり返 0 ている。香は薄い日光に吸われて、二間の空 気の裡に消えてゆく。自分はその二間の中に立 0 て、 途で包んで、じかには地にも落ちてこぬ。と言って、 むこ ふろしき 第み - むこう おちっ うち におい 2 / 1

3. 夏目漱石全集 6

しく胸の辺を打ちだした。二三間離れて聞いていても、往来は歩くに堪えん、戸外はいるに忍びん、一刻も早 しようがい とん / \ 音がする。ロンドンの御者はこうして、己れ く屋根の下へ身を隠さなければ、生涯の恥辱である、 とわが手を暖めるのである。自分は振り返って、ちょ かのごとき態度である。 っとこの御者を見た。剥げ懸った堅い帽子の下から、 自分はのそ / Å歩きながら、なんとなくこの都にい つの 霜に侵された厚い髪の毛が食み出している。毛布を継づらい感じがした。上を見ると、大きな空は、い ( ー ) きりぎし むね ぎ合せたような粗い茶の外套の背中の右にその肱を張世からか、仕切られて、切岸のごとく聳える左右の棟 って、肩と平行になるまで怒らしつ、、、とん / \ 胸をに余された細い帯だけが東から西へかけて長く渡って ねすみいろ 敵いている。まるで一輙の崟械の活動するようである。 いる。その帯の色は朝から鼠色であるが、次第々々に 自分は再び歩きだした。 鳶色に変じてきた。建物はもとより灰色である。それ 道を行くものは皆追い越して行く。女でさえ後れてが暖かい日の光に倦み果てたように、遠慮なく両側を うしろ かゝと ふさ はいない。腰の後部でスカートを軽く撮んで、踵の高塞いでいる。広い土地を狭苦しい谷底の日影にして、 し婀が曲るかと思うくらい烈しく鋪石を鳴らして急い 高い太陽が届くことのできないように、二階の上に三 せつばつま で行く。よく見ると、どの顏もどの顔も刧歯詰ってい階を重ねて、三階の上に四階を積んでしまった。小さ わきめ る。男は正面を見たなり、女は傍目も触らず、ひたすい人はその底の一部分を、黒くなって、寒そうに往来・ らにわが志す方へと一直線に走るたけである。その時する。自分はその黒く動くもののうちで、もっとも まゆ ( 2 ) では のロは堅く結んでいる。眉は深く鎖している。鼻は険漫なる一分子である。谷へ択まって、出端を失った風 そび しく聳えていて、顔は奥行ばかり延びている。そうしが、この底を掬うようにして通り抜ける。黒いものは て、足は一文字に用のある方へ運んで行く。あたかも網の目を洩れた雑魚のごとく四方にばっと散って行く。 あら おの けわ とびいろ

4. 夏目漱石全集 6

郎 いうことも聞いた。先生はその入場券の価まで知ってりにして、導かれた席に着いた。狭い所に割り込みな みつかっゞき いた。一日だけの小芝居は十二銭で、三日続の大芝居がら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がち は三十五銭だと言った。三四郎がへえ、へえと感心しら , ・ ~ \ する。自分の目を動かすからばかりではない。 ているうちに、演芸会場の前へ出た。 無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめい めいに、 盛んに電燈が点いている。入場者は続々寄って来る。 かっかってに、動くからである。 与次郎の言ったよりも以上の景気である。 舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みん こしかっ かんむりかも くつは 「どうです、せつかくだからおはいりになりませんな冠を被って、沓を穿いていた。そこへ長い輿を担い まんなか か」 で来た。それを舞台の真中で留めたものがある。輿を 「いやはいらない」 卸すと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜 あい 先生はまた暗い方へ向いて行った。 いて、輿を突き返したのと斬り合を始めた。 郎にはなんのことかまるで分らない。もっとも与次郎 三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、 - 」 - っ力し あとから、車で乗り付ける人が、下足札を受け取る手から梗概を聞いたことはある。けれども好加減に聞い 間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分ていた。見れば分るたろうと考えて、うんなるほどと あしばや も足早に入場した。前へ押されたと同じことである。 言っていた。ところが見れば毫もその意を得ない。三 ( 1 ) いるか 入口に四五人用のない人が立っている。そのうちの四郎の記憶にはたゞ入鹿の大臣という名前が残ってい 袴を着けた男が入場券を受け取った。その男の肩の上る。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはと のそ から場内を覗いて見ると、中は急に広くなっている。 うてい見込が付かない。そこで舞台全体を入鹿のつも つ、そでぎもの 9 ~ まゆ かつはなはだ明るい。三四郎は眉に手を加えないばか りで眺めていた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服 っ おろ ぎ おとゞ ごう

5. 夏目漱石全集 6

部屋へ帰って、書物を読んでいると、妙に下の親子 この女のひすばった頬のなかを流れている、色の褪め した、り た血の瀝とを比較しミ遠いフランスで見るべぎ暖かが気に懸って堪らない。あの爺さんは骨張った娘と較幻 な夢を想像した。主婦の黒い髪や黒い目の裏には、幾べてどこも似たところがない。顔中は腫れ上ったよう まんなか においむな に膨れている真中に、ずんぐりした肉の多い鼻が寝転 年の昔に消えた春の匂の空しき歴史があるのだろう。 ( 3 ) ゝやとんで、細い目が二つ着いている。南亜の大統領にクル あなたはフランス語を話しますかと聞いた。い したさきさえぎ ーゲルというのがあった。あれによく似ている 0 すっ 答えようとする舌先を瀝って、二三句続けざまに、滑 ことば らかな南の方の言葉を使った。こういう骨の勝った咽きりと心持よくこっちの眸に映る顏ではない。そのう え娘に対してのものの言い方が和気を欠いている。粛 喉から、どうして出るだろうと思うくらい美しいアク セントであった。 が利かなくって、もご / ( 、しているくせに、なんとな まんさん く調子の荒いところが見える。娘も阿爺に対するとき そのタ、晦餐の時は、頭の禿げた髯の白い老人が卓 は、険相な顔がいとゞ険相になるように見える。どう に着いた。これが私の親父ですと主婦から紹介された 自分はこう考えて寝 ので、はじめて主人は年寄であったんだと気が付いた。しても普通の親子ではない。 この主人は妙な言葉遣をする。ちょっと聞いても決し て英人ではない。なるほど親子して、海峡を渡って、 翌日朝飯を食いに下りると、昨夕の親子のほかに、 がてん ロンドンへ落ち付いたものだなと合点した。すると老また一人家族が殖えている。新しく食卓に連なった人 あいきよう 人が私はドイツ人であると、尋ねもせぬのに向うからは、血色のい、愛嬌のある、四十恰好の男である。 名乗って出た。自分は少し見当が外れたので、そうで自分は食堂の入口でこの男の顔を見た時、はじめて、 すかと言ったきりであった。 生気のある人間社会に住んでいるような心持ちがした。 ( 2 ) おやじ ひげ うち なこ あさめし ふ ゅうべ おやじ ころ

6. 夏目漱石全集 6

よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。与から見舞に行ってやってください。何病だか分らない びんしよう 欠郎たけに敏捷な働きをした。寐たま \ 開け放しのが、なんでも軽くはないようだって仰しやるものたか 入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へら、私も美子さんも喫驚したの」 あらわれた。今日は紫の袴を穿いている。足は両方共 与次郎がまた少し法螺を吹いた。悪く言えば、よし ちゅうちょ 廊下にある。ちょっとはいるのを躊躇した様子が見え子を釣り出したようなものである。三四郎は人が好い る。三四郎は肩を床から上げて、「入らっしゃい」と から、気の毒でならない。 「どうも難有う」と言って ふろしきろつみ みかんかご 言った。 寐ている。よし子は風呂敷包の中から、蜜柑の籃を出 まくらもと よし子は障子を閉てて、枕元へ坐った。六畳の座敷した。 そうじ が、取り乱してあるうえに、今朝は掃除をしないから、 「美子さんの御注意があったから買ってきました」 みやげ なお狭苦しい。女は、三四郎に、 と正直な事を言う。どっちのお見舞たか分らない。三 「寐て入らっしゃい」と言た。三四郎はまた頭を枕へ四郎はよし子に対して礼を述べておいた。 おだや 着た。自分だけは穏かである。 「美子さんも上るはすですが、このごろ少し忙しい よろ 「臭くはないですかーと聞いた。 ものですからーーーどうぞ宜しくって : ・ : こ 「え、、少し」と言ったが、。 へつだん臭い顔もしなか 「何か特別に忙しいことができたのですか」 った。「熱がおありなの。なんなんでしよう、御病気「え。できたのーと言った。大きな黒い目が、枕に は。お医者は入らしって」 ついた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、 あおじろ 「医者は昨夕来ました。インフ . ルエンザだそうです」 よし子の蒼白い額を見上げた。はじめてこの女に病院 ものう 「今朝早く佐々木さんがお出になって、 小川が病気たで逢った昔を思い出した。今でも物憂けに見える。同 ゅうべ はかまは あが びつくり ありがと 幻 8

7. 夏目漱石全集 6

が有って、そこにまたこの小説の面白味が有るのであ三四郎の地位は面白い。よし子が兄に馬鹿だと言われ る。前とまるで反対な事を言うようだが、視方を変えて、一馬鹿じゃないわ。ねえ、 川さん」と訴えるの うそ たのたから仕方がない。前のは嘘で、今言うのが真実を、三四郎はまた笑っていた。腹の中ではもう笑うの である。 が厭になったとある。ューモアというものもここが極 軽く弄ばれるのだから、刺激も弱い、打撃もあまり致ではあるまいか。三四郎は周囲から弄ばれているの 恐ろしくない。好いこともそれほどでない代りに、悪が強くは迫らない。感じは暖かい。それでいて、一味 さかすきかす いこともそれほどでない。盃の滓を乾さぬ代りに、その悲哀がある。能くまあこんな刺激の軽い事柄ばかり れが毒で有っても、命まで失う気遣いはない。刺激の寄せて、こんなシチュエーションが作られたものだと 強いものばかりこてこて並べるのも容易ではないが、驚かざるを得ない。 刺激があまり強くなく、しかも平凡でない材料をこれ これは一場の場面のことであるが、全体の結構から だけ集めるのはさらに困難である。さらにその材料を言っても、整然として一糸乱れない。そのためにある 布置按排して、読者を倦ましめないような結構を組立人には不自然だという感を抱かせるかもしれないが てるのはいっそうの困難である、たとえば、故国から形式が気持よく整っているので埋合せをするから、差 送って来た金子を受取りがてらお談義を聞きに行く一一一引同じことだろう。そこでこの小説の骨子と成ってる いなかもの 評四郎と、お嫁に行かぬかという相談を受けに行くよしものは、前にも言 0 たとおり、田舎者の三四郎が都会 の 人 子とが、野々宮さんの下宿へ落合って、よし子の口かの風に触れて、だんだんその世界を拡めて行くエ合で ら兄へ、美禰子が文芸協会の演芸会へ連れて行 0 てくある。美子と三四郎との間に生じた不即不離の関係 5 ことづて れと言「た、その言伝を伝えるのを、傍で聞かされたのごときも、一見この小説の骨子のようには見える、 しかた

8. 夏目漱石全集 6

ろうば ( 2 ) とくだしゅうせい 母』、徳田秋声君の『二老婆』、 ( 以上は中央公論 ) 、早 あひるがい ( 3 ) まやませいか 稲田文学に出ていた真山青果君の『家鴨飼』その他ま だあったが、とりん \ に面白かった。で、どれも面白 くは読んだが、その面白く読んだなかに、今までは気 が注かなかったが、考えたわけでもなく、ただふと、 私はいつも多忙であるために、諸方から寄贈されるこういうことが浮んだのである。それは読んだ小説の 雑誌や小説をことごとく読むわけにはいかぬ。しかしほとんどことごとくが、涙を出す物が一つもないとい 近ごろは小説を書く人多くなり、したがって小説のうことである。もっとも花袋君の『祖父母』には少し おもしろ 数も殖えて面白いものも出るよ ) であるが、私は自分そのほうの傾向があったかもしれないけれども、外の いんうつ びと で小説を書いているうちは、ついそれに追われて他人には一つもなかった。それでいてたいていは陰鬱なも さんの物を見るわけにゆかず。また自分のほうが小説の、厭世的のものである。むろん面白くは読んだのだ を書き終うと、他の書物を読むために、せつかく贈っけれども、何かこう圧迫を感じたような気がする てくれられた月々の雑誌や小説を見落すことが多いの読んで愉快というのでなく旨いという意味でー・・ーただ てである。が、ちょうどこの四月は春季の雑誌の臨時増なんとなく陰鬱な調子が大多数を貫いている。いずれ 刊の物や、その他に出た各雜誌の物も奮発して読んでもが申合せたようにこの調子で書いている。これはも みた。もっとも、むろんことごとくは読まぬ。で、私ちろん合議のうえではあるまい。偶然の暗合であろう。 にが読んだ十ばかりの物は、どれも面白かった。たとえしかし暗合でも、単にお鬮を抽いて二人が同じに当っ ( 1 ) おぐりふうよう ば、小栗風葉君の「ぐうたら女』、田山花袋君の『祖父たのとは違って、おのすから作家に一の傾向が胸の 近作小説二三に就て っ みくじひ ふたり 305

9. 夏目漱石全集 6

「電報はよそう。馬鹿気ている。いくら君たって借にかりではいけないから、ぜひとも日本人を入れてもら いけるたろう」 おうというところまで話はきた。これから先はもう一 「いける」 遍寄って、委員を選んで、学長なり、総長なりに、我 らち これでようやく二十円の埒があいた。それが済むと、我の希望を述べに遣るばかりである。もっとも会合た 与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。 けはほんの形式だから略しても可い。委員になるべき 運動は着々歩を進めつ、ある。暇さえあれば下宿へ学生もたいたいは知れている。みんな広田先生に同情 出掛ていって、一人一人に相談する。相談は一人一人を持っている連中だから、談判の模様によっては、こ にかぎる。大勢寄ると、各自が自分の存在を主張しょ っちから先生の名を当局者へ持ち出すかもしれない。 うとして、や、ともすれば異を樹てる。それでなけれ ば、自分の存在を閑却された心持になって、初手から 聞いていると、与次郎一人で天下が自由になるよう 冷淡に構える。相談はどうしても一人一人にかぎる。 に思われる。三四郎はすくなからす与次郎の手腕に感 その代り暇は要る。金も要る。それを苦にしていては 服した。与次郎はまたこのあいだの晩、原口さんを先 運動はできない。それから相談中には広田先生の名前生の所へ連れてきた事について、弁じだした。 をあまり出さないことにする。我々のための相談でな 「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会をやるから くって、広田先生のための相談だと思われると、事が出ろと、勧めていたろう」と言う。 三四郎はむろん覚 纏まらなくなる。 えている。与次郎の話によると、実はあれも自身の発 与次郎はこの方法で運動の歩を進めているのだそう 起にかゝるものたそうだ。その理由はいろ /. \ あるが だ。それで今日までのところは旨くい 0 た。西洋人ばます第一に手近なところを言えば、あの会員のうちに でかけ ひとりひとり ( 2 ) ノ 42

10. 夏目漱石全集 6

感触を害するために、わざ / \ 偽善をやる。横から見て、この理論をすぐ適用できるからである。三四郎は ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないよ頭の中にこの標準を置いて、美禰子のすべてを測って うに仕向けてゆく。相手はむろん厭な心持がする。そみた。しかし測り切れないところがたいへんある。先 こで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのま、で生はロを閉じて、例のごとく鼻から哲学の烟を吐き始 先方に通用させようとする正直なところ露悪家の特めた。 色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違な ところへ玄関に足音がした。案内も乞わすに下伝 ( 1 ) いカら、 そら、二位一体というようなことになる。 いにはいって来る。たちまち与次郎が書斎の入口に坐 この方法を巧妙に用いるものが近来だい・ふ殖えてきた ようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人が、も「原口さんがお出になりました」と言う。たヾ今帰り っとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばましたという挨拶を省いている。わざと省いたのかも ( 2 ) ぞんざい ん好い方法になる。血を出さなければ人が殺せないとしれない。三四郎には存在な目礼をしたばかりですぐ に出ていった。 いうのはずいぶん野蛮な話だからな君、だん / \ 流行 ぎわす らなくなる , 与次郎と敷居際で擦れ違って、原口さんがはいって 広田先生の話し方は、ちょうど案内者が古戦場を説来た。原口さんはフランス式の髭を生やして、頭を五 明するようなもので、実際を遠くから眺めた地位にみ分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年 ずからを置いている。それがすこぶる楽天の趣がある。が二つ三つ上に見える。広田先生よりすっと奇麗な和 ・あたかも教場で講義を聞くと一般の感を起させる。し 服を着ている。 こた かし三四郎には応えた。念頭に美子という女があっ 「やあ、しばらく。今まで佐々木が宅へ来ていてね。 いや けむり ノ 32