よし子 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 6
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1. 夏目漱石全集 6

よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。与から見舞に行ってやってください。何病だか分らない びんしよう 欠郎たけに敏捷な働きをした。寐たま \ 開け放しのが、なんでも軽くはないようだって仰しやるものたか 入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へら、私も美子さんも喫驚したの」 あらわれた。今日は紫の袴を穿いている。足は両方共 与次郎がまた少し法螺を吹いた。悪く言えば、よし ちゅうちょ 廊下にある。ちょっとはいるのを躊躇した様子が見え子を釣り出したようなものである。三四郎は人が好い る。三四郎は肩を床から上げて、「入らっしゃい」と から、気の毒でならない。 「どうも難有う」と言って ふろしきろつみ みかんかご 言った。 寐ている。よし子は風呂敷包の中から、蜜柑の籃を出 まくらもと よし子は障子を閉てて、枕元へ坐った。六畳の座敷した。 そうじ が、取り乱してあるうえに、今朝は掃除をしないから、 「美子さんの御注意があったから買ってきました」 みやげ なお狭苦しい。女は、三四郎に、 と正直な事を言う。どっちのお見舞たか分らない。三 「寐て入らっしゃい」と言た。三四郎はまた頭を枕へ四郎はよし子に対して礼を述べておいた。 おだや 着た。自分だけは穏かである。 「美子さんも上るはすですが、このごろ少し忙しい よろ 「臭くはないですかーと聞いた。 ものですからーーーどうぞ宜しくって : ・ : こ 「え、、少し」と言ったが、。 へつだん臭い顔もしなか 「何か特別に忙しいことができたのですか」 った。「熱がおありなの。なんなんでしよう、御病気「え。できたのーと言った。大きな黒い目が、枕に は。お医者は入らしって」 ついた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、 あおじろ 「医者は昨夕来ました。インフ . ルエンザだそうです」 よし子の蒼白い額を見上げた。はじめてこの女に病院 ものう 「今朝早く佐々木さんがお出になって、 小川が病気たで逢った昔を思い出した。今でも物憂けに見える。同 ゅうべ はかまは あが びつくり ありがと 幻 8

2. 夏目漱石全集 6

ない。三四郎は気の毒になった。 茶の間で話声がする。下女はいたに違ない。やがて 「もうお廃しなさい。そうして、また新しくおきな襖を開いて、茶器を持 0 て、よし子があらわれた。そ の顔を正面から見たときに、三四郎はまた、女性中の よし子は顏を画に向けたま \ 尻目に三四郎を見た。もっとも女性的な顔であると思った。 うるおい 大きな潤のある目である。三四郎はます / ( 、気の毒に よし子は茶を汲んで椽側へ出して、自分は座敷の畳 なった。すると女が急に笑いだした。 の上へ坐った。三四郎はもう帰ろうと思っていたが、 そば 「馬鹿ね。二時間ばかり損をして」と言いながら、せ この女の傍にいると、帰らないでもかまわないような つかく描いた水彩の上へ、横縦に二三本太い棒を引い 気がする。病院ではかってこの女の顔を眺めすぎて、 きよら・ て、絵の具函の蓋をばたりと伏せた。 少し赤面させたために、さっそく引き取ったが、今日 「もう廃しましよう。座敷へおはいりなさい。お茶をはなんともない。茶を出したのをさいわいに椽側と座 上けますから」と言いながら、自分は上へあがった。 敷でまた談話を始めた。いろ / 話しているうちに、 くっ めんどう 三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、やはり椽側に腰をよし子は三四郎に妙な事を聞きだした。それは、自分 すきいや 掛けていた。腹の中では、今になって、茶を遣るとい の兄の野々宮が好か嫌かという質間であった。ちょっ おもしろ どはず がんぜ う女を非常に面白いと思っていた。三四郎に度外れのと聞くとまるで頑是ない子供のいいそうな事であるが、 女を面白がるつもりは少しもないのだが、突然お茶をよし子の意味はもう少し深いところにあった。研究心 上げますといわれた時には、一種の愉快を感ぜぬわけの強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、 にゆかなかったのである。その感じは、どうしても異情愛が薄くなるわけである。人情で物をみると、すべ 性に近づいて得られる感じではなかった。 てが好き嫌いの二つになる。研究する気なぞが起るも しりめ きら

3. 夏目漱石全集 6

意味がよく分らない。二歩ばかり女の方に近付いた。 「そう」と疑を残したように言った。 「もう宅へ帰るんですか」 「ちょいと上がってみましようか」とよし子が、快く— 女は二人とも答えなかった。三四郎はまた二歩ばか言う。 り女の方へ近付いた。 「あなた、まだこ、を御存じないの」と相手の女は落 「どこかへ行くんですか」 ち付いてでた。 「宜いから入っしゃいよ」 「え、、ちょっと」と美子が小さな声で言う。よく 聞えない。三四郎はとう / 、女の前まで下りて来た。 よし子は先へ上る。二人はまた跟いて行った。よし しかしどこへ行くとも追窮もしないで立っている。会子は足を芝生のはしまで出して、振り向きながら、 おおげさ ( 3 ) 場の方で喝采の声が聞える。 「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使った。「サッフォーで ( 1 ) 「高飛よ . とよし子が言う。「今度は何メートルになも飛び込みそうな所じゃありませんか」 ったでしよう」 美禰子と三四郎は声を出して笑った。そのくせ三四 美子は軽く笑ったばかりである。三四郎も黙って郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよく分ら ( 2 ) いさぎよ いる。三四郎は高飛に口を出すのを屑しとしないつもなかった。 りである。づると美禰子が聞いた。 「あなたも飛び込んでごらんなさい」と美禰子が言う。 「この上には何か面白いものがあって ? 」 「私 ? 飛び込みましようか。でもあんまり水が汚な この上には石があって、量があるばかりである。面いわね」と言いながら、こっちへ帰って来た。 白いものがありようはずがない。 やがて女二人のあいたに用談が始まった。 「なんにもないです」 「あなた、いらしって」と美子がいう。

4. 夏目漱石全集 6

の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。中に小さな 「え。あなたは」とよし子がいう。 まっ 島がある。島にはた二本の樹が生えている。青い松 「どうしましよう」 「どうでも。なんなら私ちょっと行ってくるから、こと薄い紅葉が具合よく枝を交し合って、箱庭の趣があ こんもり る。島を越して向側の突き当りが蓊鬱とどす黒く光っ こに待って入らっしゃい」 こかげゅびさ 「そうね」 ている。女は丘の上からその暗い木蔭を指した。 なか / \ 片付かない。三四郎が聞いてみると、よし「あの木を知って入らしって」という。 「あれは椎」 子が病院の看護婦のところへ、ついでだから、ちょっ と礼に行ってくるんだと言う。美禰子はこの夏自分の 女は笑い出した。 たず 「よく覚えて入らっしやること」 親戚が入院していた時近付になった護婦を訪ねれば 「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪ねようと言っ 訪ねるのだが、これは必要でもなんでもないのだそう たのは」 すなお よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞に、すぐ「えゝ」 ちがう はやあし 「よし子さんの看護婦とは違んですか」 帰って来ますと言い捨てて、早足に一人丘を下りて行 ちがい った。止めるほどの必要もなし、いっしょに行くほど「違ます。これは椎ーーといった看護婦です」 の事件でもないので、二人はしぜん後に遣るわけにな今度は三四郎が笑い出した。 った。二人の消極な態度からいえば、遣るというより、「あすこですね。あなたがあの石護婦といっしょに団 遺されたかたちにもなる。 扇を持って立っていたのは」 二人のいる所は高く池の中に突き出している。この 三四郎はまた石に腰を掛けた。女は立っている。秋 ◆ - 」 0 しんせき わたし しまい わ かわ

5. 夏目漱石全集 6

とっ 「お父さんや御母さんは」 四郎は今度は正直に、 よし子は少し笑いながら、 「え \ 少し黒すぎますーと答えた。すると、よし子 えふで 「ないわ , と言った。美禰子の父母の存在を想像するは画筆に水を含ませて、黒い所を洗いながら、 こつけい のは滑稽であるといわぬばかりである。よほど早く死「入らっしゃいますわ」とようやく三四郎に返事をし こ 0 んだものとみえる。よし子の記憶にはまるでないのだ ろう。 「たび / \ ? 」 「そういう関係で美子さんは広田先生のうちへ出入「え、たび / \ 」とよし子は依然として画紙に向って をなさるんですね」 いる。三四郎は、よし子が画のつゞきを描きだしてか なかよし 「え、。死んだ兄さんが広田先生とはたいへん仲善だら、問答がたいへん楽になった。 のぞ ったそうです。それに美子さんは英語がすきだから、 しばらく無言のまゝ、画のなかを覗いていると、よ 時々英語を習いに入らっしやるんでしよう」 し子はたんねんに藁葺屋根の黒い影を洗っていたが、 ふなれ 「こちらへも来ますか」 あまり水が多すぎたのと、筆の使い方がなか / \ 不慣 よし子はいつのまにか、水彩画の続きを描き始めた。 なので、黒いものがかってに四方へ浮ぎ出して、せつ かげぼししぶかき 三四郎が傍にいるのがまるで苦になっていない。それかく赤くできた柿が、蔭干の渋柿のような色になった。 でいて、よく返事をする。 よし子は画筆の手を休めて、両手を伸ばして、首をあ わら ( 1 ) 「美禰子さん ? 」と聞きながら、柿の木の下にある藁とへ引いて、ワットマンをなるべく遠くから眺めてい ぶぎ ちいさ 葺屋根に影をつけたが、 たが、仕舞に、小な声で、 「少し黒すぎますね、と画を三四郎の前へ出した。三 「もう駄目ね」と言う。実際駄目なのだから、仕方が でいり

6. 夏目漱石全集 6

なおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎてい った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが杳 る。三四郎はできるだけの言葉を層々と排列して感謝水の相談を受けた。い っこう分らない。ヘリオトロー の意を熱烈に致した。普通のものから見ればほとんど プと書いてあるを持って、好加減に、これはどうで 借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったもすと言うと、美禰子が、「それに為ましよう」とすぐ極 のである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。 めた。三四郎は気の毒なくらいであった。 それだから、自然の勢、感謝が感謝以上になったので 表へ出て分れようとすると、女のほうが互にお辞儀 もある。三四郎はこの手紙を郵函に入れるとき、時をを始めた。よし子が「じや行ってきてよ」と言うと、 移さぬ美藩子の返事を予期していた。ところがせつか美子が、「お早く : : : 」と言っている。聞いてみて、 いもと くの封書はたゞ行ったま、である。それから美子に妹が兄の下宿へ行くところだということが解った。三 きれい ふたりづれ う機会は今日までなかった。三四郎はこの微弱なる四郎はまた奇麗な女と二人連で追分の方へ歩くべき宵 はっきり 「このあいだは難有う」という反響に対して、確乎した となった。日はまだまったく落ちていない。 おおき 返事をする勇気も出なかった。大な襯衣を両手で目の 三四郎はよし子といっしょに歩くよりは、よし子と さきへ広けて眺めながら、よし子がいるからあゝ冷淡 いっしょに野々宮の下宿で落ち合わねばならぬ機会を なんだろうかと考えた。それからこの襪衣もこの女の いさ、か迷惑に感じた。い っそのこと今夜は家へ帰っ 金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますとて、また出直そうかと考えた。しかし、与次郎のいわ 催促した。 ゆるお談義を聞くには、よし子が傍にいてくれるほう 二人の女は笑いながら側へ来て、いっしょに襯衣をが便利かもしれない。まさか人の前で、母から、こう 見てくれた。仕舞に、よし子が「これになさい」と言 う依頼があったと、遠慮なしの注意を与えるわけは ポスト 扣 8

7. 夏目漱石全集 6

慣例もあった。三四郎の家では、年に一度すっ村全体 「なに、、い配することはありませんよ。なんでもない へ十円寄付することになっている。その時には六十戸 事なんだから。たヾ御母さんは、田舎の相場で、金の 価値を付けるから、三十円がたいへん重くなるんだね。から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村 なんでも三十円あると、四人の家族が半年食っていけのお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつゞけに飲 ると書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。んで、御馳走を食いっゞけに食うんだという。 よし子は大きな声を出して笑った。三四郎にも馬鹿気「それで十円」とよし子が驚いていた。お談義はこれ ているところがすこぶる可笑しいんだが、母の言条が、でどこかへいったらしい。それから少し雑談をして一 まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに段落付いた時に、野々宮さんがあらためて、こう言っ こ 0 気が付いた時には、なるほど軽率な事をして悪かった 「なにしろ、御母さんのほうではね。僕が一応事情を と少しく後悔した。 わり 「そうすると、月に五円の割だから、一人前一円二十調・ヘて、不都合がないと認めたら、金を渡してくれろ。 五銭にあたる。それを三十日に割り付けると、四銭ばそうして面倒でもその事情を知らせてもらいたいとい かりだが いくら田舎でも少し安すぎるようだな」うんだが、金は事情もなんにも聞かないうちに、もう どうするかね。君たしか佐 渡してしまったしと、 と野々宮さんが計算を立てた。 「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょ佐木に貸したんですね」 三四郎は美彌子から洩れて、よし子に伝わって、そ う」とよし子が真面目に聞きだした。三四郎も後悔す ありさま る暇がなくなって、自分の知っている田舎生活の有様れが野々宮さんに知れているんだと判じた。しかしそ を、よう めぐめぐ みやごもり の金が巡り巡ってイオリンに変形したものとは、兄 をいろ / 、話して聞かした。そのなかには宮籠という はんねん ばかげ いじよう 2

8. 夏目漱石全集 6

郎 三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。そ 「知りません」 もど たやす う容易く下宿生活に戻るくらいなら、はじめから家を 「そう」 かまておけ 持たないほうが善かろう。第一鍋、釜、手桶などとい 「どうかしましたか」 しょたい う世帯道具の始末はどう付けたろうと、よけいなこと 「なに、その原口さんが、今日見に来ていらしってね、 みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、 まで考えたが、ロに出して言うほどのことでもないか 。ホンチに画かれるからって、野々宮さんがわざ / \ 注ら、べつだんの批評は加えなかった。そのうえ、野々 あともど 意してくだすったんです」 宮さんが一家の主人から、後戻りをして、ふた、び純 美子は傍へ来て腰を掛けた。三四郎は自分がいか書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさす にも愚物のような気がした。 家族制度から一歩遠退いたと同じことで、自分にとっ 「よし子さんはさんとい 0 しょに帰らないんですては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好 つごう 都合にもなる。その代りよし子が美子の家へ同居し おさま きよう、 「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんてしま 0 た。この兄妹は絶えす往来していないと治ら きのう ないようにでき上っている。絶えす往来しているうち は、昨日から私の家にいるんですもの」 三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮の御母さには野々宮さんと美禰子との関係も次第々々に移 0 て んが国へ帰 0 たということを聞いた。御母さんが帰るくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活 と同時に、大久保を引払 0 て、野々宮さんは下宿をすを永久に巳める時機がこないともかぎらない。 こういう疑ある未来を、描き 三四郎は頭のなかに、 る、よし子は当分美子の宅から学校へ通うことに、 っこうに気が乗 ながら、美禰子と応対をしている。 相談が極ったんたそうである。 あるじ

9. 夏目漱石全集 6

「お敷きなさいー 窮した。見ると椽側に絵の具函がある。描きかけた水 ふとん 三四郎は布団を敷いた。門をはいってから、三四郎 彩がある。 ひとこと え はまだ一言も口を開かない。 この単純な少女はたゞ自「画をお習いですか」 ごう か 分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からは毫も 「え \ 好きだから描きますー 返事を求めていないように思われる。三四郎は無邪気 「先生は誰ですか」 じようず なる女王の前に出た心持がした。命を聴くだけである。 「先生に習うほど上手じゃないの」 お世辞を使う必要がない。 一言でも先方の意を迎える 「ちょっと拝見」 ような事をいえば、急に卑しくなる。唖の奴隷のごと 「これ ? これまたできていないの」と描き掛を三四 ふるまっ く、さきのいうがま、に振舞ていれば愉快である。三郎の方へ出す。なるほど自分のうちの庭が描き掛けて こども 四郎は子供のようなよし子から子供扱いにされながら、ある。空と、前の家の柿の木と、はいり口の萩だけが 少しもわが自尊心を傷けたとは感じ得なかった。 できている。なかにも柿の木ははなはだ赤くできてい る。 「兄ですか」とよし子はその次に聞いた。 野々宮を尋ねて来たわけでもない。尋ねないわけで 「なか / \ 旨い」と三四郎が画を眺めながら言う。 もない。なんで来たか三四郎にも実は分らないのであ「これが ? 」とよし子は少し驚いた。ほんとうに驚い る。 たのである。三四郎のようなわざとらしい調子は少し もなかった。 「野々宮さんはまだ学校ですか」 じようだん 「えゝ、 いつでも夜遅くでなくっちゃ帰りません」 三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもで あいさっ これは三四郎も知ってる事である。三四郎は挨拶にきず、また真面目にすることもできなくなった。どっ おしどれい わか まじめ かけ

10. 夏目漱石全集 6

やりしていた。やがてまた動く気になったので腰を上たじが起る。三四郎は立ったまミこれはまったく、 ひとみ この大きな、常に濡れている、黒い眸のお蔭だと考え げて、立ちながら靴の踵を向け直すと、岡の上り際の、 もみじ こ 0 薄く色づいた紅葉の間に、さっきの女の影が見えた。 すそ 美子も留った。三四郎を見た。しかしその目はこ 並んで岡の裾を通る。 三四郎は上から、二人を見下していた。二人は枝のの時にかぎって何物をも訴えていなかった。まるで高 すき ひなた 隙から明かな日向へ出て来た。黙っていると、前を通い木を眺めるような目であった。三四郎は心の裡で、 り抜けてしまう。三四郎は声を掛けようかと考えた。 火の消えた洋燈を見る心持がした。もとの所に立ちす 距離があまり遠すぎる。急いで二三歩芝の上を裾の方 くんでいる。美禰子も動かない。 へ下りた。下りだすと好い具合に女の一人がこっちを「なぜ競技を御覧にならないの」とよし子が下から聞 向いてくれた。三四郎はそれで留った。実はこちらか しやくさわ らあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障「今まで見ていたんですが、つまらないから已めて来 っている。 たのです」 「あんな所に : ・ : 」とよし子が言いたした。驚いて笑よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動 ちんぶ っている。この女はどんな陳腐なものを見ても珍らしかさない。三四郎は、 そうな目付をするように思われる。その代り、いかな 「それより、あなたがたこそなぜ出て来たんです。た あて 郎珍らしいものに出逢 0 ても、やはり待ち受けていたよ いへん熱心に見ていたじゃありませんか , と当たよう うな目付で迎えるかと想像される。だからこの女に逢な当てないようなことを大きな声で言 0 た。美禰子は うと重苦しいところが少しもなくって、しかも落付い この時はじめて、少し笑った。三四郎にはその笑いの くつかゝと うち