人物が、主人公の犠牲になっているのは、毫も貶すしている。これらの小説は、大変な長い月日の間に行 るに足りない。同時に「三四郎」と比較することはでわれる主人公の性格の開発を目的として書いている。 きないと言う人があるかもしれない。しかし、編中に長い間にいろんな人に交って、いろんな影響を受けて、 出てくる多勢の人間を、同じ程度の明瞭さで写すのと、人間ができ上がっていくところを書いている。だから ある特定の一、二の人間を明瞭に描くがために、他を影響を受ける当人の性格の発展が主眼なのであるが 儀牲にするのとはどっちがむずかしいかと言えば、描それだけ一方では、影響を与える他の人々の性情が明 かるべき性格の種類による事だろうが、大抵似寄っ瞭でなければならんわけだから、出てくる人物ーー主 たものを書くとすれば、別に考えんでもわかり切って人公と接触する人物は、それだけ重く見て、明瞭に写 いる。今までの作品のやり方は丁度、自分だけ立派なさなければならん。長い時間の間に、いろいろな人物 装をして、穢ない下女かなんかを連れてあるく奥様のが相応の価値を持って出るんだから、ほかの小説に比 して、まず多勢の人間が、多勢ながらに明らかに写し ようなものたと思う。それが悪いというのではない。 それが一種の方法をとらずに、今まで人が嘗て成功し出さるべきはずである。しかるに大抵は中の人間が活 なかった多勢の性格を等分に描き上げてあるという点きていない。揃いも揃って、形を供えていない。あの を、大なる特色たというのである。 個所に行くと、叙情詩的の感じはある。感じはあるが ドイツにビルドウングス・ロマーンと名づけられて依然として形を供えていない。また時には形を供えて 批いる小説の一種がある。ゲーテの「ウイルヘルム・マ人間が活躍しているところもあるが、その形はわすか スの「ハインリッヒ・フォ 人イステル」たとかノ・ハリ なる二、三人に止まって、しかも全体の上から見て小 ン・オフテルディンゲン」だとか、ケラーの「デル・ 説全体が極めて纏っていない。全体が纏っていないの グリューネ・ハインリッヒーたとかこの種の小説に属たから、どこで切ったところで、差し障わりはない。 朝日 353
むしろ一部分一部分を、一個の短編小説かなぞのようら見て、全体の郷りをつける上に、一挙一動、相関連 に取扱って見たほうが適当である。 して、ぬきさしがならぬようにでき上がっている。全 一方では、フローベルの「サルワン。ハ」のような小 体が有機的統一を有している。この点において、「三 説があって、人間が続々と出てくる歴史小説もある。 四郎」は最も困難なる方法を採って、しかも成功した しかしこんな小説は人間を主として書いたのではなく ものである。この点において「三四郎」は新しい て、人間を中心として、その背景を形造っている時代 この困難なる方法を採って、あれだけに書き上げる の大パノラマを描いたものであるから、時代から出てに、作者は如何なる手段を講じているかについて、研 くる空気の色合は感得することはできるが、人はちっ 究する必要がある。 と活躍しない。 要するに今までの小説は多くは、ある特定の一、二 を主人公として書いているか、あるいは多勢の人間を「三四郎」は十三のチャプターから成立っている。そ 出していても、その人間が活ぎていないか、あるいは うして中の人物が、同じくらいの度数で、しばしば出 多勢の人間を活かそうとしたがために、全体のしめくてくる。入れかわりして、互違いに重なって行ってい くりがっかなくなって、支離滅裂な作になっているか、 る。人間が活きている活きていないか、作者の、作中 いすれかに帰着しているように思う。 の人物に形を与え得ないの才能によって定まる問題で ミリアーこ 「三四郎」の中には、三四郎を中心として外に、六人あるが、一方では、ある点まで読者にファ の人間が出てくる。この七人が同様な明瞭さを以って、なる程度によって、活きる活きないの程度が比例する いすれも主人公たり得べき資格を以って、活躍するよ とも一言えるからして、ファミリアーになるためには、 うにできている。そうしてその七人の活躍が、全局かそれたけ、作中に幾度も出てこなければならないわけ 354
際人間たる吾々は、人間らしからざる行為動作を、ど 置があるが、その装置の下に働く人物は、光線のよう うしたって想像できるものじゃない。たゞ下手に書く に自然の法則に従っているか疑わしい」これは縞の羽 から人間と思われないのじゃないですか、 織の批評家の言葉であった。 ト説家はそれで黙った。今度は博士がまたロを利い 「そうかもしれないが、こういうことは人間の研究上 ーーすなわち、ある状 記憶しておくべき事だと思う。 らんぶ 「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣り洋燈の一振動 況のもとに置かれた人間は、反対の方向に働き得る能 の時間が、振動の大小にか、わらす同しであることに 力と権利とを有している。ということなんだが。 ( 3 ) ところが妙な習慣で、人間も光線も同じように器械的気が付いたり、 = ートンが林檎が引力で落ちるのを の法則に従 0 て活動すると思うものだから、時々とん発見したりするのは、はじめから自然派ですね」 まちがい 「そういう自然派なら、文学のほうでも結構でしよう。 だ間違ができる。怒らせようと思って装置をすると、 もくろ 笑ったり、笑わせようと目論んでかゝると、怒ったり、原口さん、画のほうでも自然派がありますか」と野々 宮さんが聞いた。 まるで反対た。しかしどちらにしても人間に違ない」 おそ ( 4 ) 「あるとも。恐るべきクールべ工という奴がいる。 と広田先生がまた間題を大きくしてしまった。 ( 5 ) ヴェリテヴレイ vérité vraie. なんでも事実でなければ承知しない。し 「じゃ、ある状況のもとに、ある人間が、どんな所作 しようけっ をしても自然たということになりますね」と向の小説かしそう猖獗を極めているものじゃない。たゞ一派と 家が質間した。広田先生は、すぐ、 して存在を認められるだけさ。またそうでなくっちゃ 「え、、え、。どんな人間を、・ とう描いても世界に一困るからね。小説だって同じことだろう、ねえ君。や ( 6 ) ( 7 ) 人くらいはいるようじゃないですか」と答えた。「実つばりモローや、シャパンヌのようなのもいるはすた むこう / 二 りんご
旺舎の高等学校を卒業して東京の大学にはいった三 四郎が新しい空気に触れる、そうして同輩だの先輩だ っ若い女だのに接触していろいろに動いてくる、手間 はこの空気のうちに、これらの人間を放すだけである、 あとは人間がかってに泳いで、おのずから波瀾ができ るだろうと思う、そうこうしているうちに読者も作者 も、この空気にかぶれて、これらの人間を知るように なることと信ずる、もしかぶれ甲のしない空気で、 あきら 知り咲のしない人間であったら、お互に不運と諦める ( 1 ) まかふし ! より仕方がない、ただ尋常である、摩訶不思議は書け ( 明治四一・八・一九「東京朝日新聞」 ) 「三四郎」予告 29 イ
等の教育を受けている人間であるが、自分がここで、 意義ある感化を受ける作品たと言うのは、単に人間が 高等教育を受けているからだというのではない。むし「三四郎」の中に出ている人間のうちで、最も興味あ ろ器械的な教育が多大の影響を及ぼし得ざる、人間そる性格は美子の性格である。最も複雑であって、最 も個性的な女である。そうして近代的の色彩を帯びて れ自身の姿を、あからさまに書き現しているところが いる。あんな女は二十世紀でなければ、見ることので 意義ある作品たというのである。読者は「三四郎」に きぬ女である。 没頭して、俗界を離れたる、清き空気を吸い得る点に ツルゲニエフの「初恋」たったと記憶する。若い女 おいて意義があるというのである。「如何に生くべき か」の問題に対して、かくのごとく生きざるべからず主人公 ( ? ) が、若い士官達をあつめて、自分の意志 との解答を与えている点に意義があるというのである。どおり命令どおりに若い士官が動くのを見て喜んでい 人間として世に住む上において、新しき内容を、読者るところが書いてあった。それから「父と子」の中に ハザロフの向うにまわって、 の胸底に、付け加えるから意義があるというのである。出てくる何とかいう 新しき内容が同時に、有意義に生きる上において、必ザロフと大変興味のある舌戦をやる。大変インテレク トの勝った女もある。あの女も、、ハザロフを支配しよう、 要なる新しき内容なるがゆえに、「三四郎」は価値あ る作品である ( この議論のためには、「三四郎」の中支配しようとする女であった。 ズーデルマンは近代的の女性をかくに霊腕を有して 此の人間をことごとく、あけて、ここがいいとかこう の いる作家である。「暮光」と題する処女作の短編集以 人動くところがいいとか、精しく証明しなければならな いのだが、長くなるからやめる。読んた人には、自分来、彼の小説に現れてくるおもなる人物は大抵、一種 の特徴ある女ばかりで、しかもそれぞれに違った性格 のこの論の主旨がわかることたと思う ) 。 3 し 9
意義をその作家の人格の上に認めることはあっても、 るような作物でなければいけないという意味である。 あるいはその作家の事実上の行為に対する第三者の好 この点において芸術は、自然界に見ることのできない 独特な色調を帯びてくるんである。作者の大なる人格奇心はあ 0 ても、すでに完成して、一個の小さな世界 芸術として見た を形造っている小説の価値には、 の影響が読者に董 ~ 化を及ほすんである。 る小説の価値にはなんらの関係を有していないのであ 今の文壇の作家の多くは、自家の経験でなくっちゃ 駄目だといって、偽らざる自己の告白だとか号して、 いつもいつ、自分の閲歴ばかりを書いている。本当要するに、活かすための手段として、多くの作家は は書いていないのだか知らぬが、とにかく書くんだと自分のことばかり書いている。それたから書いたもの 言っている。これは小説の中に描く人物を活かすためは、ある程度までうまくでき上がっている。しかしう には、最都合よき手段には違いない、人から聞いたまくでき上がっているというのは、人間が浮き上がっ ことだの、本で読んたことだのよりか、自家の経験をているというたけで、その浮き上が 0 た人間と、面接 そのまま筆にしたほうが、多くの苦心を費やさすして、する気にな「て、見ていると実にくたらない人間ばか りである。ある小説の主人公は酒ばかり飲んで金に困 人間を書き活かすことがでぎるであろう。しかし当面 っている。ある小説の主人公は淫売みたいな女に引っ の目的は、描いた人物が活きているという点にある。 活きた人間を描かれさえすれば、必すしも自家の閲歴かかって夢中になっている。ある小説の主人公は女と を書いたところが、必すしも小説中の人物が活きると手紙の往復をして、妻君から見つかっている。ことご 人は行かない。偽らざる自己の告白というものは、できとく、くたらないことをしている人間ばかりである。 厨上がった一個の小説とはなんらの交渉ないものであなにも酒に酔っぱら「たり、妙な女に引っかか「たり、 って、当該小説をかかんとする動機において、倫理的手紙をやりとりすることそれ自身が駄目たというので 367
あんたん 的でなければならない。また義務のほうからいっても、めにや、ともすると不度なる自覚もしくは暗憺たる こん上 ( 、 マーテルリ そのとおりである。普通の皆昧な意識中にある義務は風狂と化し了るのを悲しむのである。 びゅうけん 時としては謬見である。偏解である。虚偽である。約ンクの説はたいへん面白い。イプセンの書いた人間が ふくしゅう 東である。かの俗界にいうところの名誉なり、復讐な一拍子変っているのはまったくこれがためで、ドンキ り、自重なり、栄なり、信心なり、ことごとく流俗ホテゃ。ヒクウィックに出てくる人間が一拍子変ってし のみとめて争うべからざる義務の根源と心得るもので、るのとは主意が違うのである。またレミゼラブルの主 ことごとく義務とするに足らぬものである。己霊の光人公が群を離れて変っているのとも、おのすからその 輝に遍照の利益を享けたる超凡の人より見れば、まさ主意が違うのである。つまり普通以上の自覚のある人 しく義務とするに足らぬ義務である。にもか、わらず 間を描き出して、その自覚を動作にあらわそうという 普通の劇なるものは、この義務とするに足らぬ義務をのが彼の目的なのである。したがって彼の道徳間題に 中心として成立しているのである。そこで再びイプセ関する解決は常人の解決と違ってくる。途方もない解 ンに立ち帰って考えてみると彼はその劇において吾人釈をする。イプセンはこの方法で吾人に約東的な解決 曲を人間意識の甚深の急所まで連れ込んでゆく男である。以上に道徳間題の解釈の方法があるという教訓を与え ると同時に、この約東的以上の解釈で現代の劇に不足 たヾ劇には一道の怪炎があ 0 て、終始吾人をつけ纏 0 のている。したがってイプセンの劇においても吾人が彼している詩趣的装飾を償ったのである。その代り彼の めんくら とともに最高なる人間の意識を承当するとともに、 , 刀 かいた人間はちょっと面喰うような無鉄砲ものが多い。 ぞうさ ばかげぎちがいじ 読れの悲劇の運命を支配する義務が、この高邁英霊なる考えると馬鹿気た気狂染みた人間が雑作なく平気で出 意識の内部より起らずしてかえって外方に存するがたてくる。ほとんど応接に遑なきくらい出頭没頭するか じんしん おわ 291
はう いというんである。芸術は単なる模倣ではない、創造自然に見るべからざる色と光の下に映し出たしたもの なのである。そうして写し上げ描き出たしたものが活 であるというんである。それだから、小説に限らす、 芸術的作品は、自然の造り得ざる特別なる風趣を帯びきている。 けれども、ある特殊なるシチュエーション ( 自然界 ていなければならんと思っている。自然が造れるがま まの形を、特別なる光明あるいは色彩の下に照らし出で見出すことのできないような ) に置かれた人間の動 ・すのが芸術であると思っている。 き方が大変うまく動いて、活きているように見えるの 一編の小説は一個の新しい別世界である。現実の世は、単にその作者の技巧上の才によるんだとも一言える。 くら自然を模倣しようといったところ書き現し方がうまければ、どんな人間をかいても、活 界ではない。い で、成立した小説は自然その物ではない。自然その物きているように思われる。けれども活かすというのが、 を模做するのが目的で、しかも自然その物に達するこ単なる文芸の目的ではない。作中の人物が活きていな とができなければ、小説の存在する必要はあるまい ければならないという要求は、つまりは、その作全体 詮ずるところ、文芸の存在する価値を有しているのは が、第三者すなわち翫賞者に対して、意義ある感化を 模倣たからではない。自然に見るべからざる風趣を、与えなければならんという根拠から出ているのである。 作品中に現さんとするのが芸術の真義である。 意義ある感化ということは、何も文芸を道徳説や宗教 自分は「三四郎」を芸術中の最も芸術的なるものとや哲学やを説くための方便または器械としろというの 言った。その意味はここまで説明してきたら明らかにではない。説明のため教訓のために文芸があれという なったろうと思う。「三四郎」一編は、自然に見るべかのではない。文芸の作品から、知らず知らずのうちに 読者の脳裏にある感化が及んでくるように、作者の側 らざる結合を ( 人間やら、人間の動きやら ) やって、 ・人間性情の動き方を描き出したものである。そうして、から言えば、作品全体に、作者の人格が泌みこんでい 366
おれ さんが答えた。そうか、じゃこれが好いだろう。己は い。怖い目をして、あたりを見回しながら、な、なに あっちの綿入羽織を着ていこうか、少し寒いようたねが可笑しい。己が人間なのが、どこが可笑しい。こう 2 と、旦那がまた言いだすと、お廃しなさいよ、見つと見えたって、と言って、だらりと ~ 目を垂れてしまうか もない、一つものばかり着てと、お作さんは絣の綿入と思うと、いきなり思い出したように、人間だいと大 きな声を出す。 羽織を出さなかった。 ( ー ) うすらち ) めん ( 2 ) みちゅき ところへまた印袢天を着た背の高い黒い顔をした男 やがて、お化粧ができ上って、流行の鶉縮緬の道行 えりまき を着て、毛皮の襟巻をして、お作さんは旦那といっしが荷車を引いてどこからか、遣ってきた。人を押し分 ょに表へ出た。歩きながら旦那にぶら下がるようにしけて巡査に何か小さな声で言っていたが、やがて、酔 やろう て話をする。四つ角まで出ると交番の所に人がおおぜっ払いの方を向いて、さあ、野郎連れていってやるか ( 3 ) まわし い立っていた。お作さんは旦那の回套の羽根を捕まえら、この上へ乗れと言った。酔払いは嬉しそうな顔を ぐんじゅ て、伸び上がりながら、群集の中を覗き込んだ。 して、難有てえと言いながら荷軍の上に、どさりと仰 あ まんなかしるしばんてん 真中に印袢天を着た男が、立っとも坐るとも片付か向けに寝た。明かるい空を見て、しょぼ / \ した目を、 どろ べらぼう ずに、のらくらしている。今までも泥の中へ何度も倒二三度ばちつかせたが、箆棒め、こう見えたって人間 おとな れたとみえて、たゞさえ色の変った袢天がびた / \ にでえと言った。うん人間た、人間たから大人しくして わらなわ 濡れて寒く光っている。巡査がお前はなんだと言うと、 いるんたよと、背の高い男は藁の繩で酔払いを荷車の 呂律の回らない舌で、お、おれは人間だと威張ってい 上へしつかり縛り付けた。そうして屠られた豚のよう る。そのたんびに、みんなが、どっと笑う。お作さんに、がら / \ と大通りを引いていった。お作さんはや ( 4 ) しめかざ - も旦那の顏を見て笑った。すると酔っ払いは承知しな つばり回套の羽根を捕まえたま \ 注目飾りの間を、 ・つれつ のそ さ み かすり め こわ ありが おれ め あお
昭和二十年代も後半の学生生活と、明治のそれとを較べてみても始るまいが、地方出の友人の住む 下宿へ行って、遅くまで話し込み、果ては乏しい蒲団を分け合って寝るというような事には、これ までに知らぬ人間関係が育って行くのだと、錯覚させるような感触があった。私の頃の地方出の学 生は、概ね世慣れていて、私の方が、世間について教えられる事が多かったのである。三四郎が、 与次郎に引廻され、時には迷惑をかけられながら、彼の言う通りになり、それを不満に思うどころ か、却って楽しんでいる。そんなところに、私は、自分の体験を重ね合せていたのかも知れなかっ こ 0 三四郎と与次郎との間にあるものを、″友情〃と名付けるには、あまりに淡いたろう。彼等は互 いの性格の相違のために、互いの内側へまで踏込んで行こうとよしよ、。 。オし三四郎の美禰子への感情 が、「馬鹿だなあ、あんな女を思って。思ったって仕方がないよ」に始る与次郎の饒舌の中にはぐ らかされ、しまいには、何となく愉快になってしまうあたりに、それはよく現れている。 卒業とともに恐らく、彼等の交わりは終るだろう。しかし、そういう淡い交わりは、後になって 最もなっかしみを誘いやすいものかも知れない。 論尤も、最近人に聞いたのだが、男女共学が当り前となった現在の学校では、男同士の付合いは、 愕くほど成立ち難いのだそうだ。友情という言葉の響きも、もはや遠くなっているのだろう。三四 郎と与次郎の遣取りにしても、漫才めいて調子のいいだけのものと思われるようになるのは、さし 385