慣例もあった。三四郎の家では、年に一度すっ村全体 「なに、、い配することはありませんよ。なんでもない へ十円寄付することになっている。その時には六十戸 事なんだから。たヾ御母さんは、田舎の相場で、金の 価値を付けるから、三十円がたいへん重くなるんだね。から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村 なんでも三十円あると、四人の家族が半年食っていけのお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつゞけに飲 ると書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。んで、御馳走を食いっゞけに食うんだという。 よし子は大きな声を出して笑った。三四郎にも馬鹿気「それで十円」とよし子が驚いていた。お談義はこれ ているところがすこぶる可笑しいんだが、母の言条が、でどこかへいったらしい。それから少し雑談をして一 まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに段落付いた時に、野々宮さんがあらためて、こう言っ こ 0 気が付いた時には、なるほど軽率な事をして悪かった 「なにしろ、御母さんのほうではね。僕が一応事情を と少しく後悔した。 わり 「そうすると、月に五円の割だから、一人前一円二十調・ヘて、不都合がないと認めたら、金を渡してくれろ。 五銭にあたる。それを三十日に割り付けると、四銭ばそうして面倒でもその事情を知らせてもらいたいとい かりだが いくら田舎でも少し安すぎるようだな」うんだが、金は事情もなんにも聞かないうちに、もう どうするかね。君たしか佐 渡してしまったしと、 と野々宮さんが計算を立てた。 「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょ佐木に貸したんですね」 三四郎は美彌子から洩れて、よし子に伝わって、そ う」とよし子が真面目に聞きだした。三四郎も後悔す ありさま る暇がなくなって、自分の知っている田舎生活の有様れが野々宮さんに知れているんだと判じた。しかしそ を、よう めぐめぐ みやごもり の金が巡り巡ってイオリンに変形したものとは、兄 をいろ / 、話して聞かした。そのなかには宮籠という はんねん ばかげ いじよう 2
すぐ返事を出してくれれば、もう届く時分であるの この夏は野々宮さんだけで専領していた部屋に髭の生 にまた来ない。今夜あたりはことによると来ているか えた人が二三人いる。制服を着た学生も二三人いる。 せいしゆく もしれぬくらいに考えて、下宿へ帰ってみると、はたそれが、みんな熱心に、静粛に、頭の上の日のあたる よそ して、母の手蹟で書いた封筒がちゃんと机の上に乗っ世界を余所にして、研究を遣っている。そのうちで野 ている。不思議なことこ、、 冫しつも必す書留で来るのが、野宮さんはもっとも多忙に見えた。部屋の入口に顔を 今日は三銭切手一枚で済ましてある。開いてみると、 出した三四郎をちょっと見て、無言のま、近寄ってき 中は例になく短い。母としては不親切なくらい、用事た。 だけで申し納めてしまった。依頼の金は野々宮さんの 「国から、金が届いたから、取りに来てくれたまえ。 さしず 方へ送ったから、野々宮さんから受取れという差図に今こゝに持っていないから。それからまだほかに話す すぎない。三四郎は床を取って寐た。 事もある」 翌日もその翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かな 三四郎ははあと答えた。今夜でも好いかと尋ねた。 よろ かった。野々宮さんのほうでもなんともいってこなか野々宮はすこしく考えていたが、仕舞に思い切って宜 った。そうしているうちに一週間ほど経った。仕舞にしいと言った。三四郎はそれで穴倉を出た。出ながら、 野々宮さんから、下宿の下女を使いに手紙を寄こした。さすがに理学者は根気の能いものだと感心した。この ふくじんづけかん 御母さんから頼まれものがあるから、ちょっと来てく夏見た福神漬の罐と、望遠鏡が依然として故のとおり すき 郎れろとある。三四郎は講義の隙をみて、また理科大学の位地に備え付けてあ 0 た。 たちばなし の穴倉へ降りていった。そこで立談のあいだに事を済次の講義の時間に与次郎に逢ってこれ / \ だと話す よ、つこ 0 ませようと思ったところが、そう旨くよ、 し、刀ュ / 、刀子ー と、与次郎は馬鹿たと言わないばかりに三四郎を佻め
という答えを得た。さ 0 そく本を置いて入口の新聞を野宮君の名を知 0 ている。 三四郎はまた、野々宮君の先生で、昔正門内で馬に 閲覧する所まで出て行ったが、野々宮君がいない。玄 関まで出てみたがや 0 ばりいない。石階を下りて、首苦しめられた人の話を思い出して、あるいはそれが広 を延ばしてその辺を見回したが影も形も見えない。や田先生ではなかろうかと考えだした。与次郎にその事 うち むをえず引き返した。もとの席へ来てみると、与次郎を話すと、与次郎は、ことによると、家の先生だ、そ んなことを遣りかねない人だと言って笑っていた。 が、例のヘーゲル論を指して、小さな声で、 「だいぶ振 0 てる。昔の卒業生に違ない。昔の奴は乱その翌日はちょうど日曜なので、学校では野々宮君 に逢うわけにゆかない。しかし昨日自分を探していた 暴だが、どこか面白いところがある。実際このとおり ことが気掛になる。さいわいまだ新宅を訪間したこと ナしふ気に入ったらしい。 だ」とにや / ( \ している。・こ : がないから、こっちから行って用事を聞いてきようと 三四郎は いう気になった。 「野々宮さんはおらんぜ」と言う。 思い立ったのは朝であったが、新聞を読んでぐずぐ をいたがな」 「さっき入口こ ずしているうちに午になる。午飯を食べたから、出掛 「何か用があるようたったか」 ようとすると、久しぶりに熊本出の友人が来る。よう 「あるようでもあった」 一一人はい 0 しょに図書館を出た。その時与次郎が話やくそれを帰したのはかれこれ四時過ぎである。ちと ( 1 ) きぐう 野々宮君は自分の寄寓している広田先生の、遅くな 0 たが、予定のとおり出た。 おおくぼ 野々宮の家はすこぶる遠い。四五日前大久保へ越し もとの弟子でよく来る。たいへんな学間好きで、研究 もたいぶある。その道の人なら、西洋人でもみんな野た。しかし電車を利用すれば、すぐに行かれる。なん おそ 三か、刀り・ ひる ( 2 ) でかけ
なかろう。ことによると、たゞ金を受取るたけで済む「どうして御存じ」 とんじく 三四郎は返答に窮した。なは頓着なく、すぐ、こう 三四郎は腹の中で、ちょっと狡い かも解らない。 言った。 決心をした。 「いくら兄さんにそう言っても、たゞ買ってやる、買 「僕も野々宮さんの所へ行くところです」 っ ってやると言うばかりで、ちっとも買ってくれなか 「そう、お遊びに ? 」 「いえ、すこし用があるんです。あなたは遊びですたんですの。 三四郎は腹の中で、野々宮よりも広田よりも、むし ろ与次郎を非難した。 「いゝえ、私も御用なの」 二人は追分の通りを細い露路に折れた。折れると中 両方が同じようなことを聞いて、同じような答を得 みちこ けしき に家がたくさんある。暗い路を戸毎の軒燈が照らして た。しかし両方共迷惑を感じている気色がさらにない。 いる。その軒燈の一つの前に留 0 た。野々宮はこの奥 オいかと尋ねてみた。ち 三四郎は念のため、邪魔じゃよ っとも邪匱にはならないそうである。女は言葉で邪魔にいる。 三四郎の下宿とはほとんど一丁ほどの距離である。 を否定したばかりではない。顔ではむしろな、せそんな ことを質間するかと驚いている。三四郎は店先の瓦斯野々宮がこ、〈移 0 てから、三四郎は二三度訪間した ことがある。野々宮の部屋は広い廊下を突き当って、 の光で、女の黒い目のなかに、その驚きを認めたと思 郎 0 た。真実としては、たゞ大きく黒く見えたばかりで二段ばかり真直に上ると、左手に離れた二聞である。 南向に余処の広い庭をほとんど椽の下に控えて、昼も ある。 夜もしごく静である。この離座嗷に立て籠「た野々宮 「 ' ハイオリンを買いましたか。 か」
郎 三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。そ 「知りません」 もど たやす う容易く下宿生活に戻るくらいなら、はじめから家を 「そう」 かまておけ 持たないほうが善かろう。第一鍋、釜、手桶などとい 「どうかしましたか」 しょたい う世帯道具の始末はどう付けたろうと、よけいなこと 「なに、その原口さんが、今日見に来ていらしってね、 みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、 まで考えたが、ロに出して言うほどのことでもないか 。ホンチに画かれるからって、野々宮さんがわざ / \ 注ら、べつだんの批評は加えなかった。そのうえ、野々 あともど 意してくだすったんです」 宮さんが一家の主人から、後戻りをして、ふた、び純 美子は傍へ来て腰を掛けた。三四郎は自分がいか書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさす にも愚物のような気がした。 家族制度から一歩遠退いたと同じことで、自分にとっ 「よし子さんはさんとい 0 しょに帰らないんですては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好 つごう 都合にもなる。その代りよし子が美子の家へ同居し おさま きよう、 「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんてしま 0 た。この兄妹は絶えす往来していないと治ら きのう ないようにでき上っている。絶えす往来しているうち は、昨日から私の家にいるんですもの」 三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮の御母さには野々宮さんと美禰子との関係も次第々々に移 0 て んが国へ帰 0 たということを聞いた。御母さんが帰るくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活 と同時に、大久保を引払 0 て、野々宮さんは下宿をすを永久に巳める時機がこないともかぎらない。 こういう疑ある未来を、描き 三四郎は頭のなかに、 る、よし子は当分美子の宅から学校へ通うことに、 っこうに気が乗 ながら、美禰子と応対をしている。 相談が極ったんたそうである。 あるじ
四郎 っゞみね 夫は細君の手柄たと聞いてさも嬉しそうである。三 「少し気が利きすぎているくらいた。これじゃ鼓の音 ていちょう 人のうちでいちばん鄭重な礼を述べたのは夫である。 のようにぼん / \ する画は描けないと自白するはす ひるすぎ 開会後第一の土曜の午過にはおおせいいっしょに来だ」と広田先生が評した。 た。ーー広田先生と野々宮さんと与次と三四郎と。 「なんですぼん /. \ する画というのは よったり よそあとまわ 四人は余所を後回しにして、第一に「森の女」の部屋「鼓の音のように間が抜けていて、面白い画の事さ」 に。いった。与次郎が「あれだ、あれた」と言う。人 二人は笑った。二人は技巧の評ばかりする。与次郎 たかっ ちゅうちょ がたくさん集ている。三四郎は入口でちょっと躊躇しが異を樹てた。 た。野々宮さんは超然としてはいっこ。 「里見さんを描いちゃ、誰が描いたって、間が抜けて のぞこ おおせいのうしろから、覗き込んだたけで、三四郎るようには描けませんよー しるしつけ 。退いた。腰掛に倚ってみんなを待ち合わしていた。 野々宮さんは目録へ記号を付るために、隠袋へ手を 「すてきに大きなもの描いたな」と与次郎が言った。 入れて鉛筆を探した。鉛筆がなくって、一枚の活版摺 ひらう 「佐々木に買ってもらうつもりだそうたーと広田先生 の端書が出てきた。見ると、美子の結婚披露の招待 が言った 0 状であった。披露はとうに済んた。野々宮さんは広田 「僕より」と言い掛けて、見ると、三四郎はむすかし先生といっしょにフロックコートで出席した。三四郎 は帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。時期 い顔をして腰掛にもたれている。与次郎は黙ってしま はすでに過ぎていた。 ( 1 ) 「色の出し方がなか / 、 \ 洒落ていますね。むしろ意気 野々宮さんは、招待状を引き千刧って床の上に棄て な画だーと野々宮さんが評した。 た。やがて先生とともにほかの画の評に取り掛る。学 さが すり 223
めがねふ らしかったとみえて、その男はわざ / 、眼鏡を拭き直るだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだか ら仕方がない。美子と与次郎のあいだには、時々談 して、なるほど / ( 、と言って見ていた。 すると、幕の下りた舞台の前を、向うの端からこっ話が交換されつ、あるらしい。野々宮さんもおり / \ こばしり 口を出すと思われる。 ちへ向けて、小走に与次郎が走て来た。三分の二ほど のぞ の所で留った。少し及び腰にな 0 て、土間の中を覗きすると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎 と並んでしきりに土間の中を覗き込む。ロはむろん動 込みながら、何か話している。三四郎はそれを見当に 覘いを付けた。 舞台の端に立った与次郎から一直かしているのだろう。野々宮さんは相図のような言を ひらて たて 竪に振った。その時原口さんはうしろから、平手で、 線に二三間隔てて美子の横顔が見えた。 その併にいる男は背中を三四郎に向けている。三四与次郎の背中を叩いた。与次郎はくるりと引っ繰り返 すそもぐ って、幕の裾を潛ってどこかへ消え失せた。原口さん 郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかして は、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮 こっちを向いてくれれば好いと念じていた。旨い具合 ( 1 ) ますしきり にその男は立った。坐り疲びれたとみえて、枡の仕切さんの傍まで来た。野々宮さんは、腰を立てて原口さ に腰を掛けて、場内を見回しはじめた。その時三四郎んを通した。原口さんはぼかりと人の中へ飛込んだ。 あたり は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めるこ美子とよし子のいる辺で見えなくなった。 この連中の一挙一動を演芸以上の興味をもって注意 とができた。野々宮さんが立っとともに、美子のう 郎しろにいたよし子の姿も見えた。三四郎はこの三人のしていた三四郎は、この時急に原口流の所作が茨まし くなった。あ、いう便利な方法で人の傍へ寄ることが ほかに、また連がいるかいないかを確めようとした。 けれども遠くから見ると、たゞ人がぎっしり詰ってい できようとは毫も思い付かなかった。自分も一つ真似 つれ たしか うらや
四郎 あいさっ が暮れた。三四郎はもう帰ろうと思って挨拶をしかけ すか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒そう るところへ、どこからか電報が来た。野々宮君は封を な顔をして、 「なに実はなんでもないですよ」と言った。三四郎は切 0 て、電報を読んだが、ロのうちで、「困 0 たな」と 言った。 たゞ「はあ」と言った。 三四郎は澄しているわけにもゆかず、といってむや 「それでわざ / 、来てくれたんですか」 みに立入った事を聞く気にもならなかったので、たゞ、 「なに、そういうわけでもありません」 ( 3 ) せがれ 「何かできましたか」と棒のように聞いた。すると野 「実はお国の御母さんがね、倅がいろ / く、お世話にな るからと言って、結構なものを送ってくださったから、野宮君は、 「なにたいしたことでもないのです」と言って、手に ちょっとあなたにもお礼を言おうと思って : : : 」 「はあ、そうですか。何か送ってきましたかー 特 0 た電報を、三四郎に見せてくれた。すぐ来てくれ さかなかすづけ とある。 「え、赤い魚の粕漬なんですがね」 「じやひめいちでしよう」 「どこかへお出になるのですか」 三四郎はつまらんものを送ったものだと思 0 た。し「え \ 妹がこのあいだから病気をして、大学の病院 かし野々宮君はかのひめいちについていろ / 、、な事をにはいっているんですが、そいつがすぐ来てくれと言 けしき ( 2 ) かす うんです」といっこう騒ぐ気色もない。三四郎のほう 質間した。三四郎は特に食う時の心得を説明した。粕 さらうつ はかえって驚いた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大 ごと焼いて、いざ皿へ転すという時に、粕を取らない 学の病院をいっしょに纏めて、それに池の周囲で浄っ と味が抜けると言って教えてやった。 た女を加えて、それを一どきに掻き回して、驚いてい 二人がひめいちについて問答をしているうちに、日
( 2 ) うわみ のぞ った。三四郎は戸の前まで来て室の中を覗いた。する目をつけた。穴が蟒蛇の目王のように光っている。野 と野々宮君はもう橇子へ腰を掛けている。もう一遍野宮君は笑いながら光るでしようと言った。そうして、 こういう説明をしてくれた。 「こっちへ」と言った。こっちへと言うところに台が ひるま ある。四角な棒を四本立てて、その上を板で張ったも「昼間のうちに、あんな準備をしておいて、夜になっ のである。三四郎は台の上〈腰を掛けて初対面の挨て、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静な暗 い穴倉で、望遠鏡のなかから、あの目玉のようなもの をする。それからなにぶんよろしく願いますと言った。 のぞ 野々宮君はたゞはあ、はあと言って聞いている。そのを覗くのです。そうして光線の圧力を試験する。此年 すいみつとう 様子がいく・ふんか汽車の中で水蜜桃を食った男に似ての正月ごろから取り掛ったが、装置がなか / \ 面倒な こうじよう いる。ひととおり口上を述べた三四郎はもうなにも言のでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的 う事がなくなってしまった。野々宮君もはあ、はあ言堪え易いが、寒夜になると、たいへん凌ぎにくい。外 とう えりまき わなくなった。 套を着て襟巻をしても冷たくて遣り切れない。・ かしテーイル 部屋の中を具回すと真中に大きな長い樫の机が置い 三四郎は大いに驚いた。驚くとともに光線にどんな こみい ふとはりがね てある。その上にはなんだか込入った、太い針線だら圧力があって、その圧力がどんな役に立つんだか、ま ようりようう わき ガラス けの器械が乗っかって、その傍に大きな硝子の鉢に水 ったく要領を得るに苦んだ。 ナイプ ( 1 ) えりかざり が入てある。そのほかにやすりと小刀と襟飾が一つ落 その時野々宮君は三四郎に、「覗いてごらんなさい」 みかげ おもしろ 郎ちている。最後に向の隅を見ると、三尺ぐらいの花崗と勧めた。三四郎は面白半分、石の台の二三間手前に ふくじんろけかん 石の台の上に、福神漬の罐ほどな複雑な器械が乗せてある望遠鏡の側へ行って右の目をあてがったが、なん よこつばら にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますかー ある。三四郎はこの罐の横腹に開いている二つの穴に いれ こらやす にぶ ( 3 ) や しの ことし
四郎 もど 「一人と思っていらしったの」 戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立ぬくらいに、 「え、」と言って、呆やりしている。やがて二人が顔自分のロを三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語 いた。三四郎には何を言ったのか、少しも分らない。 を見合した。そうして一度に笑いだした。美子は、 驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちた聞き直そうとするうちに、美藩子は二人の方へ引き返 してい 0 た。もう挨携をしている。野々宮は三四郎に んと調子を落した小声になって、 「すいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずん / ( 、向って、 先へ行ってしまった。三四郎は立ち留ったまミもう「妙な連と来ましたね」と言った。三四郎が何か答え 一遍べニスの掘割を眺めだした。先へ抜た女は、このようとするうちに、美藩子が、 時振返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先「似合うでしよう」と言った。野々宮さんはなんとも へ行く足をびたりと留めた。向から三四郎の横顏を熟言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには 視していた。 畳一枚ほどの大きな画がある。その画は肖像画である。 「里見さん」 そうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別ので ぎないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い だしぬけに誰か大きな声で呼だ者がある。 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と顔は瘠せて、頬の肉が落ちている。 ( 1 ) 「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原 書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立ってい る。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮ロは今しきりに美子に何か話している。 さんが立っている。美子は呼ばれた原口よりは、原会である。来観者もたいぶ減った。開会の初めには毎 あと ロより遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二三歩後日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顏を出さ よん