( 3 ) 大塚保治第一巻五二九ページ三六四 ( 3 ) 参照。 名、片上伸。甓評家。ロシア文学者。 くすおこ ( 4 ) 奥さん大塚医治の誕大塚楠緖子。 ( 6 ) 小説明治四十二年 ( 1909 ) 六月二十七日から十 = さ ( 1 ) 小宮の評論前出小宮豊隆の「アンドレーフ論」 月十四日まで朝日新聞に連載された小説「それから」を のこと。 さす。 ( 2 ) 森田の 前出「煤煙ーをさす。 ( 7 ) バザンの小説 René FranSois Nicolas Ma 「 ie ・ かっふしゃ ( 3 ) 鰹節屋を見たら明治四十二年 ( 1909 ) 三月十 Bazin ( 1853 ー 1932 ) 。バザンはフランスの小説家。カト 四日の日記 ( 第六巻三一八ページ ) 参照。 リック信者で、田園を背景にして道徳問題・社会問題を 三六一 ( 1 ) 原稿料 : 明治四十二年 ( 1909 ) 四月二十四 扱った小説を書いた。明治四十二年 ( 1909 ) 三月三日の 日の日記 ( 第六巻三二五ページ ) 参照。 日記に「丸善ニテ・フルジェの小説と・ハザンの小説を買 ( 2 ) 大塚氏三五九 ( 4 ) 参照。 う」同年五月八日の日記に「・ : ハザンの小説を読む。 下らぬものなり」と書かれている。 ( 3 ) 山本君当時東京朝日新聞社社会部長山本松之 助。 ( 8 ) 橋ロ清第二巻五〇四ページ三九九 ( 3 ) 参照。 三六一一 ( 1 ) 日糖事件四二五ページ八一 l(— ) 参照。 三六四 ( 1 ) このあいだとう / 、行って芝居を見ました っ】ワー 長谷川如是閑が明治四十一一年 ( 一 909 ) 大阪朝 六月十一日虚子などとともに歌舞伎座で観劇したことを たいこうき 日新聞に連載した小説。同年七月政教社より「額の男」 さす。漱石は、その翌日虚子へ、その際に観た「太功記」 よわなさけうきなのよこぐし と改題して出版され、漱石は同年九月五日の大阪朝日に、 十段目、「与話情浮名横櫛」などについての感想を書き送 「額の男」を読む、と題してこれを評論している。 り、それが、十五日・十六日の「国民新聞」に「虚子君 ( 3 ) 宇宙明治四十一年 ( 1908 ) 発行された三宅雪嶺 へ」と題されて発表された。 ふせつ ( 第十一巻三七九ページ一一三 ( 3 ) 参照 ) の代表作。 ( 2 ) 不折中村不折。第二巻五 0 四ページ一元九 ( 2 ) 参 ( 4 ) 帝文雑誌「帝国文学」。 照。 ( 5 ) 天弦明治十七年ー昭和三年 088 、ー一 928 ) 。本三六五 ( 1 ) 内田栄造明治一一十一一年 ( 一 889 ) 生れ。号、百閒。 4 引
や、芥川龍之介や、大学生たちにショックと深い影響を与えた。しかし、新しい人間像をつくり上 げる作業にかかわり合い過ぎると、小説的起伏がとかく乏しくなる。半分まで書いたところで、漱 石の筆が渋りはじめたのかもしれない。あるいは当時の新聞小説といまの新聞小説とはずいぶん性 格が異なっていて、自由にどんな小説でも書いてよいということになっていたと聞いている。しか しそれはタテマエであって、 「センセイ、このお作はたいへん結構ですが、ちと色気が足りませんなあ。前にお書きになった あの『三四郎』のように、なにか色模様をひとっ」 と、新聞社の人に強く頼まれて、その気になったかどうか、それは分かることではないが、取っ てつけたように、三千代との恋がはじまる。 もうすこし、具体的に指摘しよう。 代助と三千代とのあいだの情緒的交流をおもわせる叙述がまったく無いわけではない。 たとえば、三千代の夫の平岡との会話。 『「細君はまだ貰わないのかい」 代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になった。 「妻を貰ったら、君の所へ通知位する筈じゃないか。それよりか君の」と云いかけて、びたりと 已めた』 408
ことば から」に動かされたものが多いらしい。その動かされにいそうだくらいの心もちを含んだ言葉である。人々 しようこう たという中でも、自分がここに書きたいのは、あのト はその主人公が、手近に住んでおらぬところに、悄況 説の主人公長井代助の性格に惚れこんだ人々のことでの意味を見出すのであろう。そうしてまたその主人公 ある。その人々の中には惚れこんだどころか、みずかが、どこかに住んでいそうなところに、悄愰の可能性 ら代助を気取った人も、少くなかったことと思う。しを見出すのであろう。だから小説が人生に、人間の意 かしあの主人公は、我々の周囲を見回しても、めった欲に働きかけるためには、この手近に住んでいない、 にいなそうな人間である。「それから」が発表されたしかもどこかに住んでいそうな性格を創造せねばなら 当時、世間にはやっていた自然派の小説には、我々のぬ。これが通俗にいう意味では、理想主義的な小説家 周囲にも大勢いそうな、その意味では人生に忠実な性が負わねばならぬ大任である。カラマゾフを書いたド 格描写が多か 0 たはずである。しかし自然派の小説中、スト = フスキイは、にこの大任を果している。今 「それから」のように主人公の模倣者さえ生んだもの後の日本ではそもそも誰が、こういう性格を造り出す ひと は見えぬ。これは独り「それから」には限らず、ウェであろう。 ( 一月十三日 ) ( 大正一〇・一一「新潮」 ) ルテルでもルネでも同じことである。彼等はいずれも 一代を動揺させた性格であるが、いかに西洋でも、彼 等のような人間は、めったにいぬのに相違ない。めつ 批たにいぬような人間が、かえって模倣者さえ生んだの は、めったにいぬからではあるまいか。むろんめった 時にいぬということは、どこにもいぬという意味ではな どこにもいるとはいえぬかもしれぬ、が、どこか 397
二十六日、伊藤博文がハル。ヒンで殺されてもいる。そはじめてから、節のことばを漱石に手紙で伝えた。漱 ういうことから、「満韓ところみ、、ーが、新聞の読み物石の「土」の序文中の「北国の」というのは、この として、機宜を得たものだったとは想像される。新聞佐久間のことである。「厳粛という文字を以て形容し 社側も、この記事には相当以上の期待をかけたにちがて然るべき土」に対して、「満韓ところみ \ 」が不満た ったのは、「さもあるべきだ」 ( 「土」序文 ) も漱石自身 しかし、この文章の調子は、ある種の読者を面白が肯定しているが、このことは、この作品を書く時の意 らせたであろうが、ある種の読者を憤慨させた。その識的な態度を示すものであろう。しかしここにも、ユ ーモリストたる漱石の一面を見ることがでぎる。その 一人に長塚節がいた。 ューモアは、はけしい胃痛をうったえながら生まれて 佐久間政雄によれば、長塚節は、 ることに注意すべきであろう。 座蒲団に坐るとすぐに、懷中から朝日新聞を出さい れた。それには漱石先生の満韓ところみ、が載って「長谷川君と余」は、二葉亭についての印象記である。 いたのである。長塚さんはそれを示して盛んに攻撃二葉亭は漱石と同時に朝日新聞に籍を置いていたが、 した。不真面目だというのである。読者を愚弄して少なくとも小説を書く場合の待遇においては、両者の 間に、へだたりがあった。二葉亭は、漱石の小説が いるというのである。 「我々共は文章も下手であり書いたものもつまらな「具眼の読者のみを相手として執筆することを許さる 、併し真剣になって書くという事に誇りを持ってる」 ( 明治四十年七月十日渋川玄耳あて二葉亭の書簡 ) ことをうらやみ、自分の場合も、そのように処置され よい」というのである。 ( 略 ) ( 丘上の森のやうに たいと希望している。しかしそれは容れられなかった。 そののち佐久間は節が「土」を「朝日新聞」にのせ漱石は二葉亭よりも新聞社内でははるかに尊敬されて 「新小説」大正十四年十二月 ) 402
かく俗に客観的な事柄と言うのは、我々の頭の中に峡 る現象のうちで、甲にも乙にも丙にも共通の点だけを 引き抽いて、便宜名づけた約束にすぎない。言い直す と、主観のうちの一般に共通な部分がすなわち客観な のである。自分の頭の中に花が赤く映る事実はもちろ ことば ひと これは近ごろの小説家のよく用いたがる言葉であるん主観である ( 自分の頭の中に起る現象で他人の頭の からむろん小説の描写すなわち書き方に関した術語に中に起る現象でないから ) 、けれどもこの赤という事 ち謇し ばう 違ないが、むやみに用いる割合に使用方がすこぶる茫実について、十人が十人、百人が百人ことみ \ く一致 としているので、了解に苦しまされるものがだいぶした時には、甲なる自分と乙なる他人を離れて、赤い 多い。中には客観描写と印象描写を両刀のごとく心得花が独立して存在するものと見做すことができる。す ことわ て同時に振り回すことができるように説いているもの なわち漱石の頭に映る花は赤いと断る必要がなくなっ もあるようだが、これはあたかも金貨本位と銀貨本位て、たゞ花が赤いと言えば済むから、それを客観の価 を同時に採用すると一般で、はなはだしき乱暴である。値が生じたと称するのである。ところが印象描写印象 っ ( 2 ) わが文芸欄の読者の多数はとうから気が付いているだ描写としきりに振回されている印象という字は、まっ かげんでたらめ 描ろうとは思うが、世間には批評家の好い加減な出鱈目たく反対の性質を帯びたものである。印象とあるから だれ すくな には必す誰の印象と付加しなくては意味が完全しない 印術語に迷わされて困るものも少くなさそうだからちょ 言葉である。もと印象という語はイムプレッションの 写っと弁じたい。 なんびと 元来純客観な描写と称するものは厳密に言うと小説訳であって、印象と二字並べて使う以上は、何人もこ幻 のうえで行われべきはずのものでないが、それはとにの裏面に原語のイムプレッションを繰返さないものは 客観描写と印象描写 ことら みな
セオリイ にあったのかもしれない。しかしその理論は、現実の 三千代への愛情は、作者みずから云っているように、 官能を越えたものである。あくまでも精神的な恋愛で問題として事実に裏ぎられることになる。策でも、三和 いやおう 千代が欲しくてならなくなる。それは、彼が否応なく ある。 彼女に対する深い同情と、憐憫とから発した情愛で結婚をせまられ、父に何とか挨拶しなければならなく よよ具体的に結婚の ある。肉体に欠陥のある三千代は、あるいは代助の抱なった時においてであった。いい 擁に堪えないかもしれない。すでに結末近くの場所で対象をきめるということになると、彼の脳裏には、三 は、彼女の死すら暗示されていると見られないでもな千代の姿が大写しに浮かんで来るのであった。 このような筋のはこびからいって、この作品は「三 アービター 墨レガンツアルム 代助は a 「 bite 「 elegantiarum である。「精神的に四郎」とちがった意味で、恋愛小説といえる。三千代 敗残した人間」 ( 十三 ) とみずから名乗りつつも、「あに対する感情がじつに巧みな按配と盛り上りの仕方に らゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来すよって、自然に高まって行く。武者小路実篤がそれを 見地か「運河、にたとえたのは、漱石も肯定しているように、 もの」 ( 十一 ) と考える男である。彼はこういう らでぎるだけ多くの美に接触するために、独身生活を的を軆た批評であ 0 た。かって「無恋愛小説」の一代 かわ つづけている男である。「渝らざる愛を、今の世にロ表作家 ( 早稲田文学 ) と称された漱石は、「三四郎」 にするものを偽善家の第一位に置」 ( 同 ) く人間である。や、とくに「それから」で、自然主義の人々とちがっ このように「肉体と精神において真の類別を認めて、肉臭のない、恋愛小説に成功したといえよう。 そのほか、代助の日本の現代文化に対する批評、彼 る」彼は、三千代に対する愛情のうちに「渝らざる愛」 の文明論などは、ことごとく漱石その人のものである。 を自覚せざるを得なかった。彼が三千代を友人に譲っ セオリイ た時にも、右のような彼の理論が、ひそかに彼の脳裏「道徳の出立点は社会的事実よりほかにない」 ( 九 ) と
それから 満〈年ところ / ド、 長谷川君と余 日英博覧会の美術品 東洋美術図譜 客観描写と印象描写 長塚節氏の小説「土」 文芸とヒロイック 目次 一三三 三一一 0
「それから」の予告別紙認め候。しかるべくお取り うへ客など参ると一日つぶされる。昨日なども音楽の なまへ はからひ 計願ひ上げ候。大阪へは小説の名前通知いたしおか先生が朝から晩までをつたため今日はせめて一回でも さふらふ うめあは いらだ ず候ゅゑ予告文とともにお回し願ひ上け候。 埋合せをせねばならぬと気を焦ち候。 原稿は十八九日までにできたたけ差し出すべく候。 あなたの招いてくださる時はなにか故障があってい こ、ろ おえ 草々 つでも快よく参上した覚がない。私もはなはだ遺憾に 十二日夜 夏目金之助 思っています。が今度も右の訳ゆえ断念します、もう 社会部主任 一か月もすると小説を書き上げてしばらくは楽になり 山本様 ます。その時もし機会でもあったらお目にかゝりたい と思っています。 かふき ニ 0 「それから」起稿 あなたに歌舞伎へさそわれたことがあるがこのあい ( 2 ) ふせつ 七月一日 ( 木 ) 午前十一時ー十二時牛込区早稲田南だとう / 、行って芝居を見ました。不折も行きました。 しろうと おもしろ 町七番地より横浜市元浜町一丁目一番地渡辺和太郎へ 不折も私も素人だから面白い。ツン求が蓄音機を買う ごふさた その後は意外の御無沙汰ます / \ 御健勝のことと存ようなものですな。草々 そろ 七月一日 じ候。横浜は開港五十年祭でたいへんな賑はひのよし、 金之助 おもしろ でかけ だいぶ面白からうとたゞでさへ出掛てみたき心持に候。 渡辺和太郎様 昨日はお招きのお手紙を頂戴、御親切の段鳴謝いた ニ一保治の「文学評論」評 し候。家のもの ( 書生 ) は行ってごらんなさいと勧め候。 「国民文学」へ送る 小生も行きたく候。しかるに例のごとくたゞ今小説起 七月八日 ( 木 ) 午則六時ー七時牛込区早稲田南町七 草の低気圧を感じ新聞より肉薄を受けをる最中、その ちゃうだい
れから先の事を書いたからそれからである。『三四郎』の主人公はあの通り単純であるが、この主 人公はそれから後の男であるからこの点においても、それからである。この主人公は最後に、妙な 運命に陥る。それからさきはどうなるか書いてない。その意味に於てもまたそれからである」 と書いた一言葉は、しばしば引用されている。ここで重要なことは、「それから」を恋愛小説とし て捉える人が多いが、漱石自身はそういうことは一言も書いていない。 「三四郎」は大学生の稚い 恋ごころを取扱って印象的であったが、三四郎から先のことを書いた、という漱石の言葉には、な にも「大人の恋愛」を書くと予告した証拠はない。 漱石の気持については、臆測するほかはないが、彼は大学を卒業したあとの三四郎を描こうとし た、と私はおもう。つまり、この百四十回の連載がはじまって七十回くらいまでを占めている「高 等遊民、ニル・アドミラリ、趣味人」の間題である。漱石には、代助とその友人の妻三千代との恋 愛に重点を置くつもりだったかどうか、私は疑う。七十回くらいまでの間に、その布石がほとんど 「、 0 この作品を恋愛小説として考えれば、私はこれを失敗作と見做す。以下も当然推測だが、新聞掲 論載がはじまったとき、半分あるいは三分の二くらいの原稿が漱石の手もとに ( もしくは新聞社に ) あった。 作 その部分で、漱石は「代助」という新しい人間像をつくった。これが、当時の「白樺」派の作家 イ 07
いろ / \ な意味においてそれからである。「三四郎」 には大学生のことを描たが、この小説にはそれから先 のことを書いたからそれからである。「三四郎」の主 人公はあのとおり単純であるが、この主人公はそれか あと ら後の男であるからこの点においても、それからであ おちい る。この主人公は最後に、妙な運命に陥る。それから この意味においてもま さきどうなるかは書いてない。 たそれからである。 ・二こ「東京朝日新聞」 ) ( 明治四一一・六 「それから」予告 334