平岡 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 7
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1. 夏目漱石全集 7

ひとばん 取った時であった。それには、第一に着京以来お世話岡の端書が着いた時、おりあしく巻支できたからと になって難有いという礼が述べてあった。それから、 言って散歩のついでに断わりに寄ったのである。その まんなかひっく はうゆう かたじけの その後いろ / 、朋友や先輩の尽力を辱うしたが、時平岡は座敷の真中に引繰り返って寐ていた。昨夕ど 近ごろある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者こかの会へ出て、飲み過ごした結果だと言って、赤い こす 目をしぎりに摩った。代助を見て、突然、人間はどう にならぬかとの勧誘を受けた。自分も遣ってみたいよ うな気がする。しかし着京の当時君に御依頼をしたこしても君のように独身でなけりや仕事はできない。僕 ともあるから、無断ではよろしくあるまいと思って、 も一人なら満州へでもアメリカへでも行くんだがと大 あと 一応御相談をするという意味が後に書いてあった。代 いに妻帯の不便を鳴らした。三千代は次の間で、こっ 助は、その当時平岡から、兄の会社に周旋してくれとそり仕事をしていた。 依頼されたのを、そのま、にして、断わりもせず今日 三遍目には、平岡の社へ出た留守を訪ねた。その時 えん まで放っておいた。ので、その返事を促されたのだと は用事もなにもなかった。約三十分ばかり縁へ腰を掛 うけと 受取った。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡すけて話した。 ぎるという考えもあったので、翌日出向いて行って、 それから以後はなるべく小石川の方面へ立ち回らな ( 1 ) たけはやちょう いろ / 、兄のほうの事情を話して当分、こっちは断念 いことにして今夜に至ったのである。代助は竹早町へ あが してくれるように頼んだ。平岡はその時、僕もおおか上って、それを向うへ突き抜けて、二三町行くと、平 たそうだろうと思っていたと言って、妙な目をして一一一岡という軒燈のすぐ前へ来た。格子の外から声を掛る ラソプ 千代のほうを見た。 と、洋燈を持って下女が出た。が平岡は夫婦とも留守 ひきかえ いま一遍は、いよ / 、新聞のほうが極まったから、 であった。代助は出先も尋ねずに、すぐ引返して、電 かんだ 一晩ゆっくり君と飲みたい。何日に来てくれという平車へ乗って、本郷まで来て、本郷からまた神田へ乗り ほう ありがた や こんにち ひとり けき ほん・こう こいしかわ こうし ね ゅうべ ノ 20

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ところを、中途から転がして、元の家庭へ滑り込ませはいえなかった。まして、その他の談話に至ると、始 うえん るのが、代助の計画であった。代助はこの迂遠で、まめから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ落し しゆったってん たもっとも困難の方法の出立点から、ほど遠からぬ所込もうと、たくらんで掛った、打算的のものであった。 ) 1 ) さてつ したがって平岡をどうすることもできなかった。 で蹉跌してしまった。 ひきあい もし思い切って、三千代を引合に出して、自分の考 その夜代助は平岡とついにぐず / で分れた。会見 たす の結果からいうと、なんのために平岡を新聞社に訪ねえどおりを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もっと ゆすふ わか たのだか、自分にも分らなかった。平岡のほうから見強いことが言えた。もっと平岡を動揺ることができた。 ちがい ひつぎよう れば、なおさらそうであった。代助は必竟なにしに新もっと彼の朧腑に入ることができた。に違ない。その そこな 聞社まで出掛て来たのか、帰るまでついに問い詰めず代り遣り損えば、三千代に迷惑がかゝってくる。平岡 けんか に済んでしまった。 と喧嘩になる。かもしれない。 ゅうべありさま 代助は翌日になってひとり書斎で、昨夕の有様を何代助は知らず / \ の間に、安全にして無能力な方針 ふがい 遍となく頭の中で繰り返した。二時間もいっしょに話を取って、平岡に接していたことを腑甲斐なく思った。 まじめ しているうちに、自分が平岡に対して、比較的真面目もしこういう態度で平岡に当りながら、一方では、三 であったのは、三千代を弁護した時だけであった。け千代の運命を、全然平岡に委ねておけないほどの不安 があるならば、それは論理の許さぬ矛盾を、厚顏に犯 れどもその真面目は、単に動機の真面目で、ロにした 言葉はやはり加な出任せにすぎなか 0 た。厳酷にしていたと言わなければならない。 うそ ふめいりよう ら 言えば、嘘ばかりと言っても可かった。自分で真面目代助は昔の人が、頭脳の不明瞭な所から、実は利己 れだと信じていた動機でさえ、必竟は自分の未来を救う本位の立場におりながら、自らは固く人のためと信じ 手段である。平岡から見れば、もとより真摯なものとて、泣いたり、感じたり、激したり、して、その結果 しんし わか 161

3. 夏目漱石全集 7

れることを、今日までそれなりに為てあるのは、三千えて、そうは信することができなかった。彼はこの結 代の腹の中に、なんだか話しにくいある蟠まりがある果の一部分を三千代の病気に帰した。そうして、肉体 からだと思わずにはいられなかった。自分は三千代を、上の関係が、夫の精神に反響を与えたものと断定した。 またその一部分を子供の死亡に帰した。それから、他 平岡に対して、それだけ罪のある人にしてしまったと ゅうとう 代助は考えた。けれどもそれはさほどに代助の良心をの一部分を平岡の遊蕩に帰した。また他の一部分を会 螫すには至らなかった。法律の制裁はいざ知らず、社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一 ほうらっ あきら 自然の倒裁として、平岡もこの結果に対して明かに責部分を、平岡の放埒から生じた経済事状に帰した。す べてを概括したうえで、平岡は貰うべからざる人を買 を分たなければならないと思ったからである。 とっ 、三千代は嫁ぐべからざる人に嫁いだのだと解決し 代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねてみた。三 千代は例によって多くを語ることを好まなかった。した。代助は心の中でいたく自分が平岡の依頼に応じて、 しうち 三千代を彼のために周旋したことを後悔した。けれど かし平岡の妻に対する仕打が結婚当時と変っているの は明かであった。代助は夫婦が東京へ帰った当時すでも自分が三千代の心を動かすがために、平岡が妻から にそれを見抜いた。それから以後改まって両人の腹の離れたとは、どうしても思いえなかった。 同時に代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現 中を聞いたことはないが、それが日ごとに好くないほ ひっす うに、速度を加えて進行しつ、あるのはほとんど争う在の関係を、必須条件として募りつ、あることもまた べからざる事実と見えた。夫婦の間に、代助という第一方では否み切れなかった。三千代が平岡に嫁ぐ前、 あいだがら そかく ら 三者が点ぜられたがために、この疎隔が起ったとすれ代助と三千代の間柄は、どのくらいの程度まで進んで むか いたかは、しばらく措くとしても、彼は現在の三千代 れば、代助はこの方面に向って、もっと注意深く働らい たかもしれなかった。けれども代助は自己の悟性に訴には決して無頓着でいるわけにはゆかなかった。彼は わだか ふたり よ せめ ・刀いかっ いな うち

4. 夏目漱石全集 7

情があって、三千代がわざと来ないのか、または平岡は大曲のところで、電車を下る平岡の影を半町ほど手 がはじめからお世辞を使ったのか、疑間であるが、そ前から認めた。彼はたしかにそうに違ないと思った。 ( 2 ) あげば れがため、代助は心のどこかに空虚を感じていた。しそうして、すぐ揚場の方へ引き返した。 かし彼はこの空虚な感じを、一つの経験として日常生彼は平岡の安否を気にかけていた。まだ坐食の不安 活中に見出したまでで、その原因をどうするの、こう な境遇におるに違ないとは思うけれども、あるいはど するのという気はあまりなかった。この経験自身の奥の方面かへ、生活の行路を切り開く手掛りができたか を覗き込むと、それ以上に暗い影がちらついているよもしれないとも想像してみた。けれども、それを確め うに思ったからである。 るために、平岡の後を追う気にはなれなかった。彼は それで彼は進んで平岡を訪間するのを避けていた。 平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想す えどがわ 散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜のるようになった。といって、たゞ三千代のためにのみ、 よっ 散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋をこち平岡の位地を心配するほど、平岡を悪んでもいなかっ むこう らから向へ渡り、向からまたこちらへ渡り返して、長た。平岡のためにも、やはり平岡の成功を祈る心はあ どて ちっ ったのである。 、 - カその桜はとくに故てしま 、堤を縫うように歩した。 : りよくいん まんなか って、今は緑蔭の時節になった。代助は時々橋の真中 こんなふうに、代助は空虚なるわが心の一角をい まっすぐ らんかんほおづえ まくら ( 3 ) くよ に立って、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、真直て今日に至った。いま先方門野を呼んで括り枕を取り ひるねなさ はつらっ に通っている、水の光を眺めつくして見る。それから寄せて、午寐を貪ぼった時は、あまりに剌たる宇宙 めじろたい その光の細くなった先の方に、高く聳える目白台の森の刺激に堪えなくなった頭を、できるならば、蒼い色 みあげ こいしかわ を見上てみる。けれども橋を向へ渡って、小石川の坂の付いた、深い水の中に沈めたいくらいに思った。そ を上ることはやめにして帰るようになった。ある時彼れほど彼は命を鋭く感じすぎた。したがって熱い頭を そび ( 1 ) おおまがり さきがた おり ちがい てがか あお 4

5. 夏目漱石全集 7

ひとみ あや ・て、平岡は代助を見た。代助はその眸の内に危しい恐しも変っていやしない」 もど れを感じた。ことによると、この夫婦の関係は元に戻「だって、僕は家へ帰っても面白くないから止方がなお おのさ 、じゃないか」 せないなと思った。もしこの夫婦が自然の斧で割ききし 「そんなはずはない」 りに割かれるとすると、自分の運命は取り帰しの付か 平岡は目をまるくしてまた代助を見た。代助は少し ない未来を目の前に控えている。夫婦が離れれば離れ せま ・るほど、自分と三千代はそれたけ接近しなければなら呼吸が逼った。けれども、罪あるものが褓火に打たれ たような気はまったくなかった。彼は平生にも似す論 ないからである。代助は即座の衝動のごとくに言った。 理に合わないことをたゞ衝動的に言った。しかしそれ 「そんなことが、あろうはすがない。い くら、変った は目の前にいる平岡のためだとかたく信じて疑わなか たより って、そりやたゞ年を取っただけの変化だ。なるべく った。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便 なが 帰って三千代さんに安慰を与えてやれ」 に、自分を三千代から永く振り放そうとする最後の試 「君はそう思うかーと言いさま平岡はぐいと歙んた。 みを、半ば無意識的に遣っただけであった。自分と三 ( 1 ) ことさく 代助は、たゞ、 千代の関係を、平岡から隠すための、糊塗策とは毫も 「思うかって、誰だってそう思わざるを得んじゃない 考えていなかった。代助は平岡に対して、さほどに不 こうしよう か」と半ば口から出任せに答えた。 信な言動をあえてするには、あまりに高尚であると、 「君は三千代を三年前の三千代と思ってるか。たい・ふ優に自己を評価していた。しばらくしてから、代助は 変ったよ。あゝ、だいぶ変ったよ」と平岡はまたぐい また平生の調子に帰った。 どうき ・と飲んだ。代助は覚えず胸の動悸を感じた。 「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然金も おんな 「同なじだ、僕の見るところではまったく同しだ。少要る。したがって家の経済もうまく行かなくなる。た うち

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それから らして、もう君と交際するわけこよ、 冫。し力ない。今日か 「もしだね。もし万一のことがありそうだったら、そ ぎり絶交するからそう思って呉れたまえ」 のまえにたった一遍たけで可いから、浄わしてくれな 「仕方がない」と代助は首を垂れた。 、、。ほかには決してなにも頼まない。たゞそれだけ 「三千代の病気は今言うとおり軽いほうじゃない。 だ。それだけをどうか承知してくれたまえ」 の先どんな変化がないとも限らない。君も心配たろう。 平岡はロを結んだなり、容易に返事をしなかった。 たな・こころ あか しかし絶交した以上は已を得ない。僕の在不在にかゝ代助は苦痛の遣り所がなくて、両手の掌を、垢の綯 わらず、宅へ出入りすることだけは遠慮してもらいたれるほど揉んだ。 い」 「それはまあその時の場合にしよう」と平岡が重そう 「承知した」と代助はよろめくように言った。その頬に答えた。 あお はます / 、蒼かった。平岡は立ち上がった。 「じゃ、時々病人の様子を聞きに遣っても可いかね」 「君、もう五分ばかり坐ってくれ」と代助が頼んた。 「それは困るよ。君と僕とはなんにも関係がないんだ 平岡は席に着いたま、無言でいた。 から。僕はこれから先、君と交渉があれば、三千代を 「三千代さんの病気は、急に危険な虞でもありそうな 引き渡す時たけだと思ってるんだから」 のかい」 代助は電流に感じたごとく椅子の上で飛び上がった。 「さあ」 「あっ。解った。三千代さんの死骸たけを僕に見せる ひど 「それだけ教えてくれないか」 つもりなんだ。それは苛い。それは残酷たー テー・フルふち 「まあ、そう心配しないでも可いだろう」 代助は洋卓の縁を回って、平岡に近づいた。右の手 せびろ 平岡は暗い調子で、地に息を吐くように答えた。代で平岡の背広の肩を抑えて、前後に揺りながら、 助は堪えられない思いがした。 「苛い、苛い」と言った。 おそれ ほお わか おさ 幻 5

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「そりや」 ない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君に あや 詫まる。しかし僕の行為そのものに対しては矛盾もな 「そりやよけいなことだけれども、僕は言わなければ にも犯していないつもりだ」 ならない。今度の事件についてすべての解決者はそれ ふたり 「じゃ」と平岡はやゝ声を高めた。「じゃ、僕等二人だろうと思う」 かな は世間の掟に叶うような夫婦関係は結べないという意「君には責任がないのか」 見だね」 「僕は三千代さんを愛している」 代助は同情のある気の毒そうな目をして平岡を見た。「他の妻を愛する権利が君にあるかー けわ まゆ 平岡の瞼しい眉が少し解けた。 「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれど 「平岡君。世間から言えば、これは男子の面目にかも物件じゃない人間たから、心まで所有することは誰 わる大事件だ。だから君が自己の権利を維持するためにもできない。本人以外にどんなものが出て来たって、 故意に維持しようと思わないでも、暗にその愛情の増減や方向を命令するわけこよ、 冫冫しかない。夫の やむ 心が働らいて、自然と激して来るのは巳を得ないが、権利はそこまでは届きやしない。だから細君の愛をほ けれども、こんな関係の起らない学校時代の君に かへ移さないようにするのが、かえって夫の義務だろ なって、もう一遍僕の言うことをよく聞いてくれない う」 か」 「よし僕が君の期待するとおり三千代を愛していなか おのれおさ 平岡はなんとも言わなかった。代助もちょっと控え ったことが事実としてもーと平岡はしいて己を抑える たばこひとふき ていた。烟草を一吹吹いたあとで、思い切って、 ように言った。拳を握っていた。代助は相手の言葉の 「君は三千代さんを愛していなかった」と静かに言っ尽ぎるのを待った。 こ 0 「君は三年前のことを覚えているだろう」と平岡はま ひとさい しかた こぶし 212

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アクショノ んだん家庭が面白くなくなるだけじゃないか」 活動としての行為そのものを求めていたか。それは代 助にも分らなかった。 平岡は、白襯衣の袖を腕の中途まで捲り上けて、 「家庭か。家庭もあまり下さったものじゃない。家庭「僕のように精神的に敗残した人間は、やむをえず、 どくしんもの を重く見るのは、君のような独身者に限るようだね」あ、いう消極な意見も出すが。 元来意見があって、 のっと と一一 = ロった。 人がそれに則るのじゃない。人があって、その人に適 この言葉を聞いたとぎ、代助は平岡が悪くなった。 したような意見が出てくるのだから、僕の説は僕に通 あからさまに自分の腹の中を言うと、そんなに家庭が用するだけだ。決して君の身の上を、あの説で、どう きらい 嫌なら、嫌でよし、その代り細君を奪っちまうぞとはしようのこうしようのというわけじゃない。僕はあの ふたり つきり知らせたかった。けれども二人の間答は、そこ時の君の意気に敬服している。君はあの時自分で言っ まで行くには、まだなか / \ 間があった。代助はもう たごとく、まったく活動の人だ。ぜひとも活動しても し子ーし」 一遍ほかの方面から平岡の内部に触れてみた。 「むろん大いに遣るつもりだ」 「君が東京へ来たてに、僕は君から説教されたね。な 平岡の答はたゞこの一句ぎりであった。代助は腹の にか遣れって」 中で首を傾けた。 「うん。そうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろい た」 「新聞で遣るつもりかね」 ちゅうちょ 力やがて、はっきり言 代助は実際平岡が驚ろいたろうと思った。その時の平岡はちょっと躊躇した。 ; 、 アクションかわ 、ら 平岡は、熱病に罹った人間のごとく行為に渇いていた。い放った。 アクション こいねが れ彼は行為の結果として、富を冀っていたか、もしくは「新聞にいるうちは、新聞で遣るつもりだ」 しようがい 名誉、もしくは権勢を冀っていたか。それでなければ、「大いに要領を得ている。僕だって君の一生涯のこと や しろンヤッ わか 159

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とっ 竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、すでに自分に嫁いでい た。忙しそうに、 しばら たの電同じことだと考え詰めた時、彼は堪えがたき重「やあ、暫く」と言って代助の前に立った。代助も相 5 いものを、胸の中に投げ込まれた。彼はその重量のた手に唆かされたように立ち上がった。二人は立ちなが めに、足がふらついた。家に帰った時、門野が、 らちょっと話をした。ちょうど編集のいそがしい時で 「たいへん顏の色が悪いようですね、どうかなさいまゆっくりどうすることもできなかった。代助は改めて あお したか」と聞いた。代助は風呂場へ行って、蒼い額か平岡の都合を聞いた。平岡はポッケットから時計を出 ら奇麗に汗を拭き取った。そうして、長く延びすぎたして見て、 髪を冷水に浸した。 「失敬たが、もう一時間ほどして来てくれないかーと ふつか それから二日ほど代助はまったく外出しなかった。 言った。代助は帽子を取って、また暗い埃たらけの階 みつかめ 三日目の午後、電車に乗って、平岡を新聞社に尋ねた。段を下りた。表へ出ると、それでも涼しい風が吹いた。 彼は平岡に逢って、三千代のために十分話をする決心代助はあてもなく、そこいらを逍淦いた。そうして、 ほこり うけっ であった。給仕に名刺を渡して、埃だらけの受付に待いよ / \ 平岡と逢ったら、どんなふうに話を刧り出そ ハンケチ くふう っている間、彼はしば / 、袂から手帛を出して、鼻をうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、 掩うた。やがて、二階の応接間へ案内された。そこは少しでも与えたいためにほかならなかった。けれども、 風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭い部屋であった。 それがために、かえって平岡の感情を害することがあ 代助はこ、で烟草を一本吹かした。編集室と書いた戸るかもしれないと思った。代助はその悪結果の極端と 口が始終開いて、人が出たりはいったりした。代助のして、平岡と自分の間に起りうる破裂をさえ予想した。 せん 逢いにきた平岡もその戸口から現われた。先だって見しかし、その時はどんなぐあいにして、三千代を救お あいたい た夏服を着て、相変らす奇麗な襟とカフスを掛けてい うかという成案はなかった。代助は三千代と相対すく おお きれい ふろば たもと カラ しつけい そゝの ぶらっ

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まえおき 「いや前置をすると言訳らしくなって不可ないから の時平岡はようやく三千代の言葉に一種の意味を認め た。するとタ方になって、門野が代助から出した手紙僕もなるべくなら率直に言ってしまいたいのだが、少 きらい こいしかわ し重大な事件だし、それに習慣に反した嫌もあるので、 の返事を聞きにわざ / 小石川まで遣って来た。 「君の用事と三千代の言うこととなにか関係があるのもし中途で君に激されてしまうと、はなはだ困るから、 かい」と平岡は不思議そうに代助を見た。 ぜひ仕舞まで君に聞いてもらいたいと思って」 「まあなんだい。その話というのは」 平岡の話はさっきから深い感動を代助に与えていた つま が、突然この思わざる間に来た時、代助はぐっと詰っ 好奇心とともに平岡の顔がます / \ 真面目になった。 た。平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の胸に応「その代り、みんな話したあとで、僕はどんなことを うつむ おとな えた。彼はいつになく少し赤面して俯向いた。しかし君から言われても、やはり大人しく仕舞まで聞くつも ふた、び りだ」 再顔を上げた時は、平生のとおり静かな悪びれない めがね 態度を回復していた。 平岡はなんにも言わなかった。たゞ倶鏡の奥から大 す きな目を代助の上に据えた。外はぎら / 、する日が照 「三千代さんの君に詫まることと、僕の君に話したい えんがわ こととは、おそらく大いなる関係があるだろう。あるり付けて、縁側まで射返したが、二人はほとんど暑さ おんな いは同じことかもしれない。僕はどうしても、それをを度外に置いた。 君に話さなければならない。話す義務があると思うか代助は一段声を潜めた。そうして、平岡夫婦が東京 きよう ゅうぎ ら話すんだから、今日までの友誼に免じて、快よく僕へ来てから以来、自分と三千代との関係がどんな変化 を受けて、今日に至ったかを、詳しく語り出した。平 の義務を果さしてくれたまえ」 くらびる 「なんたい。改たまって」と平岡ははじめて眉を正し岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。代 た。 助はすべてを語るに約一時間余を費やした。そのあい や しまい こんにち いわけ ふたり まじめ け 210