( 3 ) 大塚保治第一巻五二九ページ三六四 ( 3 ) 参照。 名、片上伸。甓評家。ロシア文学者。 くすおこ ( 4 ) 奥さん大塚医治の誕大塚楠緖子。 ( 6 ) 小説明治四十二年 ( 1909 ) 六月二十七日から十 = さ ( 1 ) 小宮の評論前出小宮豊隆の「アンドレーフ論」 月十四日まで朝日新聞に連載された小説「それから」を のこと。 さす。 ( 2 ) 森田の 前出「煤煙ーをさす。 ( 7 ) バザンの小説 René FranSois Nicolas Ma 「 ie ・ かっふしゃ ( 3 ) 鰹節屋を見たら明治四十二年 ( 1909 ) 三月十 Bazin ( 1853 ー 1932 ) 。バザンはフランスの小説家。カト 四日の日記 ( 第六巻三一八ページ ) 参照。 リック信者で、田園を背景にして道徳問題・社会問題を 三六一 ( 1 ) 原稿料 : 明治四十二年 ( 1909 ) 四月二十四 扱った小説を書いた。明治四十二年 ( 1909 ) 三月三日の 日の日記 ( 第六巻三二五ページ ) 参照。 日記に「丸善ニテ・フルジェの小説と・ハザンの小説を買 ( 2 ) 大塚氏三五九 ( 4 ) 参照。 う」同年五月八日の日記に「・ : ハザンの小説を読む。 下らぬものなり」と書かれている。 ( 3 ) 山本君当時東京朝日新聞社社会部長山本松之 助。 ( 8 ) 橋ロ清第二巻五〇四ページ三九九 ( 3 ) 参照。 三六一一 ( 1 ) 日糖事件四二五ページ八一 l(— ) 参照。 三六四 ( 1 ) このあいだとう / 、行って芝居を見ました っ】ワー 長谷川如是閑が明治四十一一年 ( 一 909 ) 大阪朝 六月十一日虚子などとともに歌舞伎座で観劇したことを たいこうき 日新聞に連載した小説。同年七月政教社より「額の男」 さす。漱石は、その翌日虚子へ、その際に観た「太功記」 よわなさけうきなのよこぐし と改題して出版され、漱石は同年九月五日の大阪朝日に、 十段目、「与話情浮名横櫛」などについての感想を書き送 「額の男」を読む、と題してこれを評論している。 り、それが、十五日・十六日の「国民新聞」に「虚子君 ( 3 ) 宇宙明治四十一年 ( 1908 ) 発行された三宅雪嶺 へ」と題されて発表された。 ふせつ ( 第十一巻三七九ページ一一三 ( 3 ) 参照 ) の代表作。 ( 2 ) 不折中村不折。第二巻五 0 四ページ一元九 ( 2 ) 参 ( 4 ) 帝文雑誌「帝国文学」。 照。 ( 5 ) 天弦明治十七年ー昭和三年 088 、ー一 928 ) 。本三六五 ( 1 ) 内田栄造明治一一十一一年 ( 一 889 ) 生れ。号、百閒。 4 引
帰国の途中、明治四十二年五月十日インド洋上の船中で 長谷川君と余 没した。 はせがわくん かんだがわ 小説家一一葉亭四迷 ( 元治元年ー明治 神田区台所町 ( 現在千代田区外神田一一 三一一 ( 1 ) 長谷川君 ( 2 ) 神田川 四十二年、 1864 ー 1909 ) 。本名、長谷川辰之助。 丁目 ) にあった蒲焼料理屋。 うち ( 2 ) 阿部の屋敷内漱石は明治三十九年 ( 1906 ) 十 ( 3 ) ダンチェンコ Nemirovich Danchenko ( 1858 一一月の末から四十年九月米まで、本郷区 ( 現在文京区 ) ー 1943 ) 。ロシアの演出家・劇作家。一八九八年スタニ 西片町十番地に居住し、そのあたりは、旧福山藩 ( 広島 スラフスキーとともに「モスクワ芸術座を設立、ロシ 県福山市一帯 ) 十一万石の領主阿部氏の屋敷あとであっ ア近代劇の革新に貢献した。 こ 0 ( 4 ) 物集のお嬢さん物集和子。国学 ~ 一「物集高見 ( 3 ) 鳥居君鳥居素川。当時大阪朝日新聞主筆。 ( 第一巻五一六・ヘージ三一九 ( 炻 ) 参照 ) の娘。 いけべくん ( 4 ) 池辺君池辺三山。当時東京朝日新聞主筆。 おもかげ 日英博覧会の美術品 三三 ( 1 ) 「その面影」明治三十九年 ( 1906 ) 十月十日 から十二月三十一日まで「東京朝日新聞」に連載された、三一七 ( 1 ) 日英博覧会明治四十三年 ( 1 日 0) ロンドンで 「浮雲」「平凡」と並ぶ四迷の代表作。 開催された博覧会で、それに出品する日本の美術品を選 抜し、同四十二年東京などで前もって一般に公開した。 三一三 ( 1 ) 々ものに倦まないさま。話の長いさま。 みつこし 三一四 ( 1 ) 西片町を引き上げて : 明治四十年 ( 1907 ) 三一〈 ( 1 ) 三越三越呉服店。第三巻五一四べージ三四一 ( 1 ) 参照。 九月末、漱石は本郷西片町から牛込区 ( 現在新宿区 ) 早 びようしゃ 稲田南町七番地へ居を移した。 ( 2 ) 日光の廟舎寛永十三年 ( 1636 ) 、徳川三代将軍 三 ( 1 ) ロシアへ行くこと四迷は、明治四十一年 ( 19 家光によって社殿の造築された日光東照宮。華麗精巧を 尽した建築美で知られる。 08 ) 六月、朝日新聞社のロシア特派員としてロシアに渡 かんのんさま かのうにうがい り、首都。〈テルス・フルグに半年余り滞在するうち病を得、 ( 3 ) 狩野芳崖の観音様狩野芳崖 ( 文政十一午・・・明
艇長の遺書と中佐の詩 「それから」予告 断片 ( 明治四十二年 ) 日記 ( 明治四十二年九月 ) 圭冖簡 ( 明治四十二年 ) 同時代人の批評 「それから」評一 「それから」評一一 「それから」評三 解説 作品論「世紀末」と「明治人間」 注釈 三天 武者小路実篤三七〈 阿部次郎三九 0 芥川龍之介三九六 吉田精一三九〈 吉行淳之介四 0 五 吉田精一四一九 三三四 三三五 三五三
用をつとめて発展した。 一四一一 ( 1 ) 清教徒 Pu 「 itan ( 英 ) 。キリスト教の一派。す こうとくしゅうすい ( 2 ) 幸徳私水明治四年ー明治四十四年 ( 】 871 ー 19 べての娯楽を罪悪とし、華美・豪奢を排斥して、清浄な 1 こ。評論家。本名、伝次郎。明治三十六年 ( 】 903 ) 「社 生活を主義とする。 会主義真髄」を出版し、日露戦争に反対して堺枯川とと 一哭 ( 1 ) 揣摩推量。 とせつ に「万朝報」記者をやめ「平民新聞」を発刊。三十八 ( 2 ) 杜絶と絶えること。 年 ( 】 905 ) アメリカに渡ってアナーキストと交わり、翌 一四七 ( 1 ) 半鐐明治四十二年 ( 】 909 ) 四月二十九日の日記 年帰国。無政府主義運動の中心人物として、明治四十一 に「起きると三つ半が鳴る。たゞしどこだか分らず。こ 年 ( 】 908 ) 六月の赤旗事件以後、警察当局の厳しい追求 のごろの火事はたいてい半鐘が代理をつとめるだけであ を受け、のち四十三年 ( 】 910 ) 大逆事件 ( 明治天阜暗殺 る」とある。 かゆ ひょうのう 未遂事件 ) で起訴され、翌年ついに死刑に処せられた。 「靴を隔てて痒きを掻く」 一四〈 ( 1 ) 氷嚢を隔てて : ・ ( 3 ) 卒然にわかなさま。 と同じ。 いひょう むじよう 一五七 ( 1 ) 意表な意外な。 ( 2 ) 無定ふつう「無常」と書く。 ことさく はりもの 一咒 ( 1 ) 張物洗濯した布にのりをつけ、板に張りつけ一五〈 ( 1 ) 糊塗策ごまかすための策略。 くだらないものだ。 一発 ( 1 ) 下さったものじゃない たり、細い竹串で張りひろげたりして乾燥させること。 ひろせ 一六 0 ( 1 ) 軍神広瀬中佐広瀬武夫。明治元年ー明治三十 一五一 ( 1 ) 螫す毒虫が針で射し咬むこと。 こうふん 七年 ( 1868 ー 1904 ) 。明治一一十一一年 ( 1889 ) 海軍兵学校卒 一五一一 ( 1 ) ロ吻ロぶり。言いよう。 じゅんじよう 業。三十年 ( 1897 ) から四年間駐在武官としてロシアに よ、きそく、てほん。こ 一五三 ( 1 ) 準繩の埓「ーー 留学、のち、日露戦争で旅順港閉塞隊の指揮にあたって こは、道徳の範囲・限界の意味。 きんし ひっちゅう 戦死。死後中佐に進級、金鵄勲章を与えられ、小学唱歌 一五五 ( 1 ) 筆誅文章によって非難し、罰すること。 おおくらぐみ にまで謳・われた。 一五六 ( 1 ) 大倉組大倉喜八郎が設立した会社。貿易・土 へいそくたい ( 2 ) 閉塞隊日露戦争の旅順港ロ閉塞作戦における 木・鉱山などを営業、日清・日露の両戦争で陸海軍の御 イ 31
注 治二十一年、 1828 ー 1888 ) は、明治初期の日本画壇の重 長塚節氏の小説「土」 鎮。狩野勝川の門に入って狩野派の伝統を学び、のち、 あぶ フェノロサに認められて、日本画復興運動の先駆者とし三一一六 ( 1 ) 青木健作氏の「虻」明治四十三年 ( 】 9 】 0) 閂 て活躍した。ここにいわれるのは、その代表作「悲母 月に「ホトトギス」に発表された小説。 ながっかたかし 観音」のことである。 三毛 ( 1 ) 長塚節氏の「土」明治四十三年 ( 】 910 ) 六月 かんざんじっとく ( 4 ) 寒山拾得第十巻四二四。ヘージ三五 ( 3 ) 参照。 から十二月まで「東京朝日新聞」に、漱石の「門」 ( 全集 第八巻所収 ) のあとを継いで連載された小説。漱石は、 東洋美術図譜 節に森田草平を通してこの連載を依頼した ( 第八巻所収、 明治四十三年四月二十九日の書簡参照 ) 。 = 三一 ( 1 ) 東洋美術図譜明治四十二年 ( 1909 ) 、滝精一 編集によって国華社から発刊された美術図譜。 ( 2 ) 佐渡記行明治四十年 ( 】 907 ) 十・十一月の「ホ、 トトギス」に発表された紀行文「佐渡が島」。 ( 2 ) 滝君相一 ( 明治六年ー昭和二十年、 1873 ー 1945 ) 。東洋美術学者。文学博士。号、拙庵。東京帝国 John stuart Mill 第三巻五ニ〇べージ・ 三盒 ( 1 ) 参照。 大学で東洋の美術史を講義、わが国美術史学の基礎をき 文芸とヒロイック せんたいひら : かまとうざんまえかけ 客観描写と印象描写 三一一〈 ( 1 ) 仙台平の襭と唐桟の前掛「仙台平」は伊達正 むね 宗の命によって仙台で産出された絹の袴地で、「唐桟」は 「三三 ( 1 ) 金貨本位と銀貨本位金貨および銀貨が、そ あさぎ 紺地に赤・浅葱などの竪縞を織出した綿織物。対照的な れそれ一国の貨幣制度の基礎単位とされるもの。 なものの例としてあげられている。 ( 2 ) わが文芸欄明治四十二年 ( 1909 ) 十一月二十 むじゅんかんかく ( 2 ) 矛盾扞格互にくいちがって相容れぬこと。 五日から四十四年十月まで、東京朝日新聞に続けられた さくまていちょう 石主宰担当の文芸鬮。 三元 ( 1 ) 佐久間艇長の遺書佐久間艇長は、海軍大尉佐
質で種々の色を帯びる。 ( 3 ) チャタートン Thomas Chatte 「 ton っ 752 ー 四 ( 1 ) 松根東洋城 1770 ) 。イギリスの詩人。ローマン主義の魁としてワー ( 3 ) 参照。 ズワース等に注目されたが、貧窮の果に自殺、十八歳で ( 2 ) 伸六 明治四十一年 ( 1908 ) 十二月次男伸六が 夭折した。 生れた。 ( 4 ) ロンプロゾーの「天才と狂気」イタリアの ( 3 ) 夢十夜のようなもの全部で二十五編の小品 精神病学者 Cesare Lombroso ( 1836 ー 1909 ) が一八六 を含む「永日小品」 ( 全集第六巻所収 ) のことで、明治四 四年に発表した主著 : Genio e follia ご。 十二年一月 ( 1909 ) 十四日から東京・大阪朝日新聞に連 ( 5 ) サンデー 当時太平洋通信社から刊行されてい 載された。 た週刊雑誌。明治四十一年 ( 1908 ) 十一月創刊。 ( 4 ) 黒髪明治四十二年 ( 198 ) 一月の「国民新聞」 ( 6 ) 安成二郎明治二十一年 ( 1888 ) 生れ。歌人。ロ に発表された小説。 語によって社会主義的な思想を歌った『貧乏と恋と』な ばいえん 轟五 ( 1 ) 煤煙四二三ページ契 ( 2 ) 参照。 どの歌集がある。当時「サンデー」の編集に従っていた。 ( 2 ) 二葉亭二葉亭四迷。四四四ページ三一五 ( 1 ) 参照。三五〈 ( 1 ) アンドレーフをならひてより四一三。〈ージ ( 3 ) 四方太俳人坂本四方太。第一巻五三六ページ 三六 ( 1 ) 参照。 三九四 ( 川 ) 参照。 三五九 ( 1 ) 好男子惜むらくは遠近を知らず頼山陽の 三毫 ( 1 ) ューゴの島流しヴィクトール・ユゴーが、そ 『日本外史』にある「好男子、惜しむらくは未だ兵法を の晩年、博愛主義的・自由主義的思想の下に政治的関心 知らず」という大江匡房が源義家を評した一句をもじっ たもの。 を深め、一八五一年、ナポレオン三世の王政復古に強く 反対して国外に追放され、その後十八年間イギリス海峡 ( 2 ) アンドレーフ論豊隆は、明治四十二年 909 ) のゲルンジー島などで亡命生活を送ったことをさす。 四月の「ホトトギス」付録に、「レオニド・アンドレイ ( 2 ) マータヤー martvr ( 英 ) 。殉教者。 フ論」を発表している。 俳人。第十一巻三八五ページ一一会 450
注 ( 4 ) 国葬明治四十二年十一月四日、日比谷公園で ( 3 ) 営ロへ行った時営ロは遼河口にある遼東湾に 執行された伊藤博文の国葬。 のそんだ町。「満韓ところん \ 」一一六六ページ上段十六 ( 5 ) 大演習例年秋季に行われることになっていた 行目以下参照。 陸軍の大演習。 ( 4 ) ある所熊岳城をさす。「満韓ところみ、」一一 三七三 ( 1 ) 文芸欄四四五ペ 1 ジ三一一三 ( 2 ) 参照。 八五。ヘージ上段十四行目以下参照。 ( 2 ) スペシャル・コントリビューター ( 5 ) それから会明治四十二年 ( 1909 ) 十月十日の contributor ( 英 ) 。特別寄稿家。 日記に「それから会のためにから歌三首を作る。」とあり、 「高麗百済新羅の国を我行けば / 我行く方に秋の白雲」 ( 3 ) 寺田寅彦寅彦は、明治四十一年 ( 1908 ) 理学 博士、翌年東大助教授となって、宇宙物理学研究のため 以下三首の歌が記されている。 独英に留学、四十四年に帰国した。 一毛一一 ( 1 ) 鏡花子「東京朝日新聞」に、明治四十一一年 ( 19 aristocratic ( ~ 央 ) 0 亠只 ( 4 ) アリストクラチック 09 ) 十月から十二月まで連載された泉鏡花の小説「白鷺」 をさす。 ( 2 ) 伊藤公が死ぬ明治四十二年 0909 ) 十月、時三七四 ( 1 ) 松根は式部官松根東洋城は、東京帝大を経て 京都帝大法科を卒業したのち、宮内省に式部官として十 の枢密院議長伊藤博文は満州巡遊旅行の途中、ハルビン 数年間勤務した。 駅頭で、日韓合併政策に反感を持つ一韓人によって狙撃 ( 2 ) ロイテル氏第三巻五〇一ページ一一 0 三 ( 8 ) 参照。 されて没した。 Werkmeister チェロ ( 3 ) ヴェルグマイステル ( 3 ) キチナーが来る HO 「 a ( 一 0 He 「 be 「 ( Kichene 「 奏者。 ( 1850 ー一 916 ) 。イギリスの将軍。明治四十二年十月末 ( 4 ) 幸田の姉さん。ヒアニスト幸田延子のこと。 ( 1909 ) 、インド軍総司令官の地位にあって、秋の大演習 参観のため来日した。第一次大戦勃発後陸相となったが、 ( 5 ) 神戸さん音楽家の神戸恂子のこと。 小山内薫は、二世市川左団次 搭乗巡洋艦の沈没によって戦死。 三七五 ( 1 ) 自由劇場の興行 special イ 53
この後漱石門下となって、随筆家として名をなすにいた ( 6 ) エリスのセックスの心理工リスは、イギリ っこ 0 スの心理学者・性科学者 Henry Havelock Ellis ( 1859 ( 2 ) 玉稿「老猫」と題する作品。 ー 1939 ) 。セックスの、い理は、 "Studies in the Psycho ・ 三六六 ( 1 ) 斎藤阿具第一巻五一一〇ページ一一一一一 0(n ) 参照。 logy 0f Sex" ( 7V0 一 s. 1898 ー 1928 ) の一部をさすか ( 2 ) 森な吉第一巻五三八。ヘージ四 0 一 ( 2 ) 参照。 ( 7 ) 関東に大地震がこれあり候「関東」は「関 ( 3 ) 井上十吉氏文久一一年ー昭和四年 ( 1862 ー 1929 ) 。 西」の誤りか。この年の八月十四日に滋賀県姉川地方に 英文学者。東京大学予備門・第一高等学校などで英語・ 大地震があった。 英文学を講じた後、外務省に入り、退官後は各種英語辞 当時、漱石の長女筆子に。ヒアノ教授 . ( 8 ) 中島六 典の編纂に当って、英語学界に貢献した。 をしていた人物。 菅虎雄。第一巻五二九。ヘージ三六三 ( 1 ) 参照。 三六七 ( 1 ) 菅 漱石は、満鉄 ( 9 ) 満州旅行は友人の勧めで : ( 2 ) 大倉という爺さん明治・大正の実業家大倉喜八 総裁中村是公にこの旅行を勧められた。 うがひ 郎 ( 天保八年ー昭和三年、 1837 ー】 928 ) 。当時東京朝日新一一禿 ( 1 ) 日川君の鵜飼臼川は、野上豊一郎の号。「鵜 聞に載せられていた「実業家回り」に書かれた話である。 飼」は、明治四十二年 ( 1909 ) 九月の「ホトトギス」に . 〈 ( 1 ) 氷魂先生「実業家回り」の筆者。 発表された。 しすか ( 2 ) 笹川臨風第十一巻三八六ページ = 九一 ) 参照。三七 0 ( 1 ) 鈴木穆漱石夫人の妹聟鈴木禎次の弟。当時、朝 ( 3 ) 田岡嶺雲明治三年ー大正元年 ( 1870 ー 1912 ) 。 鮮総督府の度支 ( 会計を司る官 ) 部長をしていた。 本名、佐代治。文芸評論家・中国文学者。 一毛一 ( 1 ) 君の小説「槍と釣針」。明治四十一一年 ( 1909 ) ( 4 ) 姉崎嘲風明治六年ー昭和二十四年 ( 1873 ー 19 十月の「ホトトギス」に掲載された。 49 ) 。本名、正治。宗教学者。 ( 2 ) 小宮安倍などの論文明治四十二年 ( 1909 ) ( 5 ) 樋口竜峡明治八年ー昭和四年 ( 1875 ー 1929 ) 。 十月の「ホトトギス」に、小宮豊隆「刺激に生きんとす・ 本名、秀雄。評論家。のち、衆議院議員。 る文芸」、安店能成「九月の評論」が発表された。
とうぶつ ( 2 ) 唐物もと、中国から渡来した物品をさしてい ったが、当時においては、もつばら西洋からの輸人品の ことをさしていった。 たいぎげんん ( 3 ) 大疑現前現象的なことがらをすべて仮象にす ぎないとみなし疑う禅の思想。 ( 4 ) ダヌンチオの主人公たとえば、有名な『死 の勝利』 ("Trionfo della morte", 1894 ) の主人公ジョ ルジョ・アウリス。ハは、快楽主義者で、イツポリタとい う女の情熱のとりことなって理性と意志をやきつくし、 女を抱いて海に飛び込む。また、草平の「煤煙」では、 主人公小島要吉が真鍋朋子にこの「死の勝利」を貸した のが彼らの狂恋のきっかけとなっており、「煤煙」全体に わたってこの小説の影響がいちじるしい。なお、「煤煙 . の主人公について、漱石は明治四十二年 ( 1909 ) 三月六 日の日記 ( 第六巻三一七ページ参照 ) にも感想を記して おおくまはく 五〈 ( 1 ) 大隈伯大隈重信 ( 天保九年ー大正十一年、 1838 ー 1922 ) 。 わせだ ( 2 ) 早稲田明治十五年 C882 ) 、大隈重信によって 創設された東京専門学校は、明治三十五年 ( 1902 ) に早 稲田大学と改称された。 ( 3 ) チョコレート ア」といっているもの。 発 ( 1 ) 抜けない抜け目がない。 えこういん ( 2 ) 回向院第一巻四六二ペ 1 ジ六九 ( 1 ) 参照。 六 0 ( 1 ) なけなしのあるかないかの。ほんのわずかの。 ( 2 ) あたじけなくけちくさく。 六四 ( 1 ) 刻下現在。目下。 にほん 明治社会の最大課 六六 ( 1 ) 日本対西洋の関係が : 題であり、漱石の文明批評の根本的テーマとなっている 間題でいたるところで言及されているが、とくに、明治 四十四年 ( 1911 ) 八月の講演「現代日本の開化」 ( 全集第 九巻所収 ) の中で論じられている。 かえる イソッ。フの寓話にある、 ( 2 ) 牛と競争をする蛙 蛙が牛に負けまいとして水を飲んで、腹の皮を破ってし まう話。分不相応なことをしてはならないという教訓と される。 せいちゅう 充 ( 1 ) 制肘干渉して自由に行動させないこと。 かん 七 0 ( 1 ) お烱風呂の湯加減を酒のそれにたとえていっ たもの。 Ernst Heinrich Weber ( 1795 ー・ ( 2 ) ウェ・ハ 1878 ) 。ドイツの生理学者。ウェパーの法則 ( 刺激と感 chocolate ( 英 ) 。現在「ココ イ 24
注 覚との間の相関関係についての法則 ) の発見者として有大 ( 1 ) 車屋人力車ひき。 名。 ( 2 ) 異見ふつう「意見」と書く。 かたあけ めい′ー、うち 七一一 ( 1 ) 肩上成人前の少女が、衣服の肩のあたりを縫 ( 3 ) 冥々の裡に知らず知らずのうちに。 けんべい い上げておくこと。 芫 ( 1 ) 権柄ずく権勢をもって他人をおさえつけよう 七四 ( 1 ) 短兵急に突然に。 とすること。 あおやまごしょ ( 2 ) 青山御所港区青山にある御所。明治七年 ( 18 ・はかに十・ . る 0 ち - やか亠 , 。 0 ( 1 ) 茶にする かぐらざか 74 ) 、昭憲皇太后のために造設された。 一 ( 1 ) 神楽坂新宿区神楽坂 ( もと牛込区内 ) にある つなびき ( 3 ) 綱曳ふつう、人力車は一人の車夫が引くが、 坂。明治四十二年 ( 1909 ) 三月十四日の日記 ( 第六巻三 かじぼう 急ぎの場合には梶棒に綱をつけて、それをもう一人の車 一八ペ 1 ジ ) に神楽坂で地震にあったことが記されてい 夫がいっしょになって引いた る。 七五 ( 1 ) ヘクター Hector トロイ王プリアモスの子。 〈一一 ( 1 ) 日糖事件明治四十二年 ( 1909 ) 四月に起った なお、漱石は、のち宝生新からもらって飼った犬にこの 大日本製糖株式会社の日糖疑獄事件をさす。この前後の 名をつけている。「硝子戸の中」 ( 全集第十二巻所収 ) 三、 新聞には毎日のようにこの事件に関する記事が大きく取 四、五参照。 り扱われている。漱石の当時の日記にも「日糖会社破綻。 七六 ( 1 ) ヴァルキイル Valkyrie 北欧神話にでてくる 重役拘引、代議士拘引。天下に拘引になる資格のないも のは人間になる資格のないようなものじゃないかしら 知・詩・戦の神オディン ()d 一 n ) につかえる十二少女の ん」 ( 明治四十二年四月十六日 ) 、「日糖社長酒匂常明ビ ひとり。戦場の空を飛び、戦死すべき者を選んで天国に ストルフモッテ自殺ス。会社の都合ヲ自己ノ責任ト解し 案内するという。 たるなり。新聞紙同情ス。」 ( 同七月十二日 ) とある。 ( 2 ) マニラ Manila フィリ。ヒンの首都マニラ地方 で作られる葉巻きタ・ハコ。 ( 2 ) 東洋汽船明治二十九年 ( 1896 ) 、浅野総一郎を幻 ふえん 耄 ( 1 ) 布衍の・ヘひろげること。 社長として創設された汽船会社。