漱石 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 7
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1. 夏目漱石全集 7

説 解 いたわけである。 写」という名でよび、それを自分の新しい描写方法と なおこの文の中で漱石が二葉亭の作中「共面影」だ ほこった。これに対して「客観描写」と「印象描写」 けにふれて、「平凡 , や、とくに「浮雲」にふれていな とは全然異質のもので、矛盾概念だと論じたのが、漱 いのは興味がある。「平凡」は読んだろうが、漱石の石の論旨である。この文章に対しては、さらに相馬御 歯に合わなかったと想像される。「浮雲」については、風が花袋に味方して、漱石の論理は形式になすんだへ 漱石はあるいは「浮雲」を読むに至らなかったのであリクツだといっているが、 ( 「漱石氏の描写論について」 ろうか。 四十二年三月「早稲田文学」 ) 論理的には漱石のほう に軍配が上がるのである。 以下の所収作品についてはかんたんに述べる。「日 英博覧会の美術品」と「東洋美術図語」とは、ともに「長塚節氏の小説『土』」は、この農民小説の代表作の 彼の美術に対する見識を窺うに足りるものである。漱生まれたのは、漱石が産婆役をつとめたのだという事 石は日本の古典文学には比較的興味をもたなかったか情を語っている。節は漱石の親友たる正岡子規の弟子 ら、「東洋美術図譜」のなかのある部分などは、ことにであった。 国文学の専門家などには異様な感じをあたえるかもし「文芸とヒロイック」と「艇長の遺書と中佐の詩」は れない。しかし西洋文学を収めた当時の新しい文学者対をなしている文章ともいえるが、前者はむしろ文壇 たちから見れば、それは共通した見解たった。 の自然主義文学運動に向って物を云った文章であり、 次に「客観描写と印象描写」は、田山花袋の描写論後者は人間もしくは行為によって、作品の巧拙まで判 の批評である。花袋は明治四十一年九月、「早稲田文断すべきでないことを論したものである。「軍神」と 学」にのせた、「生に於ける試み」と題する文章の中で、 う覆いなどに遠慮せず、ズ・ハズ・ハと物を云っている囲 客観的な描写であってしかも印象的な描写を「平面描のは、漱石の正直さを証するであろう

2. 夏目漱石全集 7

れから先の事を書いたからそれからである。『三四郎』の主人公はあの通り単純であるが、この主 人公はそれから後の男であるからこの点においても、それからである。この主人公は最後に、妙な 運命に陥る。それからさきはどうなるか書いてない。その意味に於てもまたそれからである」 と書いた一言葉は、しばしば引用されている。ここで重要なことは、「それから」を恋愛小説とし て捉える人が多いが、漱石自身はそういうことは一言も書いていない。 「三四郎」は大学生の稚い 恋ごころを取扱って印象的であったが、三四郎から先のことを書いた、という漱石の言葉には、な にも「大人の恋愛」を書くと予告した証拠はない。 漱石の気持については、臆測するほかはないが、彼は大学を卒業したあとの三四郎を描こうとし た、と私はおもう。つまり、この百四十回の連載がはじまって七十回くらいまでを占めている「高 等遊民、ニル・アドミラリ、趣味人」の間題である。漱石には、代助とその友人の妻三千代との恋 愛に重点を置くつもりだったかどうか、私は疑う。七十回くらいまでの間に、その布石がほとんど 「、 0 この作品を恋愛小説として考えれば、私はこれを失敗作と見做す。以下も当然推測だが、新聞掲 論載がはじまったとき、半分あるいは三分の二くらいの原稿が漱石の手もとに ( もしくは新聞社に ) あった。 作 その部分で、漱石は「代助」という新しい人間像をつくった。これが、当時の「白樺」派の作家 イ 07

3. 夏目漱石全集 7

二十六日、伊藤博文がハル。ヒンで殺されてもいる。そはじめてから、節のことばを漱石に手紙で伝えた。漱 ういうことから、「満韓ところみ、、ーが、新聞の読み物石の「土」の序文中の「北国の」というのは、この として、機宜を得たものだったとは想像される。新聞佐久間のことである。「厳粛という文字を以て形容し 社側も、この記事には相当以上の期待をかけたにちがて然るべき土」に対して、「満韓ところみ \ 」が不満た ったのは、「さもあるべきだ」 ( 「土」序文 ) も漱石自身 しかし、この文章の調子は、ある種の読者を面白が肯定しているが、このことは、この作品を書く時の意 らせたであろうが、ある種の読者を憤慨させた。その識的な態度を示すものであろう。しかしここにも、ユ ーモリストたる漱石の一面を見ることがでぎる。その 一人に長塚節がいた。 ューモアは、はけしい胃痛をうったえながら生まれて 佐久間政雄によれば、長塚節は、 ることに注意すべきであろう。 座蒲団に坐るとすぐに、懷中から朝日新聞を出さい れた。それには漱石先生の満韓ところみ、が載って「長谷川君と余」は、二葉亭についての印象記である。 いたのである。長塚さんはそれを示して盛んに攻撃二葉亭は漱石と同時に朝日新聞に籍を置いていたが、 した。不真面目だというのである。読者を愚弄して少なくとも小説を書く場合の待遇においては、両者の 間に、へだたりがあった。二葉亭は、漱石の小説が いるというのである。 「我々共は文章も下手であり書いたものもつまらな「具眼の読者のみを相手として執筆することを許さる 、併し真剣になって書くという事に誇りを持ってる」 ( 明治四十年七月十日渋川玄耳あて二葉亭の書簡 ) ことをうらやみ、自分の場合も、そのように処置され よい」というのである。 ( 略 ) ( 丘上の森のやうに たいと希望している。しかしそれは容れられなかった。 そののち佐久間は節が「土」を「朝日新聞」にのせ漱石は二葉亭よりも新聞社内でははるかに尊敬されて 「新小説」大正十四年十二月 ) 402

4. 夏目漱石全集 7

普通のものが結婚をしなければ、世間で何とおもうか大抵分かるだろう。そりや今は昔と違うから、 独身も本人の自由だけれど、独身のために親や兄弟が迷惑したり、はては自分の名誉に関係するよ うなことが持ち上ったりしたらどうする気だ」』 以上は、夏目漱石の「それから」からの引用である。ただし、七十年ほど前の作品であるから、 引用するとき少々辞句を変えた。それにしても、なんと世の中の人間たちの按配には変らない面が あることか、といまさらのことだが驚いた。このまま、今の時代に通用する事柄ばかりである。 「それから」というのは、良い題名である。少しも古びていないばかりか、いまの時代に置いて も新鮮さがある。 この作品は、明治四十一一年 ( 漱石・四十二歳 ) 五月三十一日から八月十四日までに執筆し、六月一一 十七日から十月十四日まで百四十回にわたって「朝日新聞ーに連載になった。現代の作家の新聞連 載のときには毎日々々の締切りに追われて ( 例外はあるが ) 書いているが、漱石は連載開始のとき には、すでにかなりの回数の原稿ができ上っていたわけである。それが何回かは分からないが、連 載開始日のあと一か月半余りで執筆終了日になるわけだから、半分前後あるいは三分の二くらいの 原稿ができていたのだろうか。 「それから」という題名については、漱石がこの作品の予告として、 「色々の意味においてそれからである。『三四郎』では大学生の事を書いたが、この小説ではそ

5. 夏目漱石全集 7

顕わすのに適当ではあろうが、代助と三千代を接近されは損なことだと思う。 せることになお適当であることが、事実らしくあるに しかしかく言うものの作者の注意が行渡っていて、 もかかわらず自分にはつくり物のような気がして、作考えれば考えるほどぬけめのないのには驚かざるを得 あまの の力を弱くしよしよ、、 。オし力とっこ 0 、 ったい人間は天ない、敬服しないではいられよ、 オし、かっ少しでも機会 さぐめ 探女にできている、あまりに都合のいい例を持って来があると、また巧みに機会を作ってまでも、作者の人 て話をされるとなんだか騙されているような気がする、生観、社会観を巧みなる文句をもって言い顕わすのに 漱石氏のアートにはこの欠点がありはしないだろうか。おこたらず、そうして読者に三考も四考もさせる点は こういう例はまだほかにもたくさんあるだろうと思う。敬服しないではいられない、漱石氏の思想家として得 代助が金とる手段を知らないのも少しあやしい。 やすからざる人だということを認めないわけにはゆか うらやま それに反して代助を皆に浦山しがられる位置に置い この点について一言することが漱石氏の価値を たこと、そうして代助の性格をあきらめのいい人にし明らかにするために必要なことではあるが、それは たこと、運命を恐れる人にしたことなそは作を強くし「それから」自身が明らかなる姿をも 0 て読者に証明 ている。なるべく都合の悪いような例を持って来て思しているからやめる。 ったことを証明さすと「これでもかなー」と読者は思終りに自分は漱石氏はいつまでも今のままに、社会 漱石氏にはこういうアートが少ないと思う。「野に対して絶望的な考を持 0 ていられるか、あるいは社 分」の終りも、「虞美人草」の終りもそれで失敗されて会との間の自然性の間にある調和を見出されるかを見 いる。「それから」の終りはそれ等に比するとはるか たいと思う。自分は後者になられるだろうと思ってい に優っているが、まだ読者が「とうとうさそいこまれる。そうしてその時は自然を社会に調和させようとさ たなー」という感じを全然なくすことはできない。 これず、社会を自然に調和させようとされるだろうと思 388

6. 夏目漱石全集 7

説 解 いうジットリッヒな考え方、道徳を形式論理から区別「満韓ところみ、」は、単純な紀行を、新聞の読者に するプラグマチックな思想も、また漱石に譜代のものできるだけ興味をもたせようとして、行った場所の客 であった。 観的なリポオトというよりも、印象に残ったものだけ ところで漱石は、青年的情熱と友情に駆られて、愛を点綴して行くという行き方をとっている。いたる所 する女性を友人にゆずったことから起る不幸を、「そで胃痛を訴えながら、そのしかめ面をなるべく読者に れから」に描いた。そののちの「こころ」は、同じよ見せないようにと気を配って、ユーモラスな書き方を うなケースの場合、女性を友人にゆずらなかったためしている。その結果、場所とか事件とかがそれほどく の不幸を扱った、「それから」を裏返しにした作品でつきりと浮かび上がらず、そういうものから触発され ある。作者の両面からおこなった実験は、どちらの場た時の感情や感覚が正面に出て来ている。 それだから、満韓の紀行文としてはあらずもがなだ 合も、ともに残酷な結果を産んでいるのである。 「満韓ところみ \ 」は「それから」を書いたのち、四が、他の彼の作品からは窺えない友人の面貌や、青年 十二年九月二日の夜、「小蒸気を出て鉄嶺丸の舷側を時の思い出やが、かなりな幅を占め、漱石を知るには 上る」ところからはじまって、約五十日間にわたり、 必要なものとなった。しかし紀行文として成功したも 満韓を旅行して東京に帰るまでの紀行文である。十月のと言えるかどうか疑わしい。 十七日に帰京した漱石は、同じく二十一日からこの紀 日露戦争の勝利が結果したものは韓国の独立とその 行文を新聞にのせた。そして十二月三十日まで連載し、保護領化、それに満州における権益の得であり、多 中途のままうち切った。のちに「文鳥」「夢十夜ー「永大の資本がこの方面に投ぜられ、国民の関心がそちら 日小品」と合せて、「四編」と題して、四十三年五月春に向いている時期であった。漱石が帰京したのちでは 陽堂から単行本として出版したのである。 あったが、この文章の新聞にのり出した数日後の十月 和 1

7. 夏目漱石全集 7

作品論 『それでも、ある事情があって、平岡の事はまるで忘れる訳には行かなかった。時々思い出す』 百四十回ほどの作品の十回目くらいのところに、そういう石が置いてある。どうにでも解釈でき る言葉である。 漱石は全体の構図がくわしく分かってから筆を把るタイプかどうかは不明だが、書いてゆくうち 分かってくるタイプの実作者にとってはよく使う手法である。そして、その作風から推測すれば、 漱石は後者とおもえる。 それからしばらく、三千代についての代助の心の動きを示すかとおもわれる部分は出てこない。 二十六回目くらいに、 『代助はこの細君を捕まえて、かって奥さんと云った事がない。何時でも三千代さん三千代さん と、結婚しない前の通りに、本名で呼んでいる』 という文章があるが、これもどうにでも説明できる。それから間もなくの部分では、漱石の筆致 は片寄っている。 『代助は、あの時、夫婦の間に何かあったか聞いて見ようと思ったけれども、まず已めにした。 から - 力い いつも 例なら調戯半分に、あなたは何か叱られて顔を赤くしていましたね、どんな悪い事をしたんですか 位言いかねない間柄なのであるが、代助には三千代の愛嬌が後からその場を取り繕う様に、いたま 9 しく聞えたので、冗談を云い募る元気も一寸出なかった』

8. 夏目漱石全集 7

日本語もなかなかいろいろのことをかくことができる一段落がっき、縁談を断るところでまた一段落がっき、 ことば 言葉だと漱石氏のものを読む時自分は感心する。しか平岡に絶交されることによってさらに一段落がっき、 し漱石氏は鏡花氏のように天才に委せて書きなぐられ父に勘当され、兄に絶縁され、三千代の生死はわから ひばく ることはないと思う。漱石氏は一方において学者であず、金を得る道はなくなることに至って飛瀑となり、 めいせき る、批評家である、明晰なる頭脳を有されるかたであ底知れぬ所におちつつあるところで終っている。 る。そのうえに神経質なかたである、筆とる前にでき人のわるい作者は読者に「滝つぼ」を知らせない。 るだけ注意されないと我慢のできないかたらしい。虞もう少し書けば事件がある落つきを得なければならな いことを知っている作者はおちつきを得る少し前で筆 美人草においてことにこの特色が発揮されていたよう に思う。そうして「それから」にも漱石氏のこの性質をとめた。これによって読者の頭に何か残そうとされ た、人のいい読者が「それからどうなるのですか」と は遺憾なく発揮されているように思う。 氏は「それから」をかく時にまずああいう形式に興聞いたら、知らないと作者は冷然と答えるに違いない 9 おもしろ 自分は「それから」のこの終り方を面白く思う。そ 味を持たれたらしい。それは加速度をもって進んでゆ く形式である、たとえば川を逆さにしたような書き方うして「野分」の終り方のようなむりに安心させるよ である。はじめは文体も事件もおちついていた、ゆるうな不安な終り方よりはるかに進んだ終り方と思う。 ゆると事件が流れてい 0 た。時々淀む所がないことは野分を書いた時よりも作者ははるかに人がわるくなっ 批ないが、ないといっていいほど事件はしだいに発展したように自分は思う。そうして自分はこの終り方をも - の流って「それから」の終り方として最も注意されたもの て行 0 た。代助の心はおちつきを失 0 て来た。川 と思う ( 誇大した書き方に不服はあるが ) 。「それか 時はますます急になり川「はますます狭くなってきた。 しかし深さはました。三千代に恋を打開けるところでら」は代助がすべてのものを三千代のために犠牲にし よど

9. 夏目漱石全集 7

夏目漱石全集 第七巻 それから他 昭和 49 年 7 月 15 日初版発行 夏 著作者 目漱石 江 藤淳 編集者 田精 【コ 角 川源義 発行者 印刷所 中光印刷株式会社 株式鈴木製本所 製本所 会社 私と式かどかわしよてん 発行所 会社角川書店 東京都千代田区富士見 2 ー 13 振替東京 195208 102 電話東京 ( 265 ) 7111 く大代表〉 Printed in Japan 落丁・乱丁本はお取替え致しませ 0393 ー 572707 946 ( の

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夏目漱石全集 角川書店