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検索対象: 夏目漱石全集 8
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1. 夏目漱石全集 8

( 3 ) 万縷いろいろとくわしく。 品」「満韓ところん、」の四編が収められている。 毫一一 ( 1 ) 長塚節明治十一一年ー大正四年 ( 一 879 ー 19 こ ) 。 ( 4 ) 文鳥明治四十一年 ( 】 908 ) 六月十三日から一一 歌人・小説家。水戸中学を中退、郷里で農民として生活 十一日にかけて「大阪朝日新聞 , に連載され、同年十月 しながら作品を発表した。 号「ホトトギス」に再掲載された随筆。第五巻所収。 ねがひ ( 2 ) 突然なるお願「門」にひきつづいて明治四十三五四 ( 1 ) 橋田丑吾明治十九年 ( 1886 ) 高知県に生れ、 三年 ( 1910 ) 六月から十一一月まで「東京朝日新聞」に連 大正一一年 ( 】 9 こ ) 東京帝国大学経済学科卒業。のち、東 載された長編小説「土」に関しての依頼。 京日日新聞社・東京農業大学・農商務省・東洋拓殖会社 などに勤務した。 ( 3 ) 九十回実際には百四回にわたった。 ( 2 ) メジョ ペンデニス Ma 」 or Pendennis ( 4 ) 皆川正禧第一巻五三五ページ一元三 ( 5 ) 参照。こ Beowulf ご ( 3 ) ベオウルフ の時鹿児島第七高等学校で英文学を教えていた。 Plowman ( 4 ) ビャース・プロー ( 5 ) 野間君第一巻五三五べージ三九三 ( 4 ) 参照。この ( 5 ) プラックストーン William Blackstone ( 17 時、同じく鹿児島の旧制第七高等学校で英語教師であっ こ 0 23 ー 1780 ) 。 三三三 ( 1 ) 野村第一巻五三六ページ三九四 ( 9 ) 参照。鹿島中 ( 6 ) 菅虎雄彼は、禅の経験・知識が深く、また、 学のあと、愛知五中・大阪天王寺中・奈良桜井高女など 書道にもすぐれていた。 の教師をつとめた。 ( 7 ) 小説「門」 ( 2 ) 御批判 明治四十三年 ( 1910 ) 六月十八・一一 ( 8 ) われに三等の : 本巻一六六ページ下段五行。 だいとうこくし 十・二十一日の朝日文芸欄に掲載された阿部次郎の評論 ( 9 ) 大燈国師四 OI 二ページ一六六 ( 5 ) 参照。 むそうこくし 「『それから』を読む」 ( 第七巻所収 ) をさす。 ) 夢窓国師四〇三ページ一六六 ( 2 ) 参照。 ( 3 ) 四編明治四十三年 ( 1910 ) 五月、春陽堂から ( Ⅱ ) どっちだか新聞に発表した時には「大燈国師 出版された漱石の随笹集で、「文鳥」「夢十夜」「永日小 の遺誡」となっていたが、単行本では「夢窓国師の遣誡」 はんる

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注 ( 7 ) 山田という奥さん四一〇ページ一一 0 一 ( 2 ) 参照。 佐木弘綱 ( 歌人・国学者 ) が庭に竹柏を植えて「竹柏園」 ( 8 ) 虎屋港区赤坂表町に現在もある有名な菓子屋。 と号したのを継承したもので、歌壇の一派「竹柏会」を 江戸時代の創業で、羊羹が名物。 設立した。ここは、その「竹柏会」をさしている。なお、 ( 9 ) お産四三一一。ヘージ三四三 ( 3 ) 参照。 当時大塚楠緒子は佐佐木信綱に師事していた。 もん 三四九 ( 1 ) 題は門というので : 小宮豊隆著『漱石の三五 0 ( 1 ) 千葉県成田町当時、鈴木三重吉はこの地の成 芸術』によれば、漱石は、朝日から予告に必要とする新 田中学の英語教師をしていた。 小説の題名をしきりに催促されたが、内容の構想を練る ( 2 ) 小鳥の巣明治四十三年 ( 19 】 0) 三月から十月 ことに多忙だったため、「文芸欄」下働きの草平に適当に まで「賦民新聞」に連載された小説。大正元年 ( 】日 2 ) 見つけることを依頼、草平は豊隆に相談したが、二人は 十一月、春陽堂から出版された。 窮した余りたまたま机上にあった『ツアラトッストラ』 ( 3 ) 一回「朝日」に連載中の「門」一回分。 しらかば のページを開いて出て来た「門」という言葉に決定、漱 ( 4 ) 白樺一号雑誌「白樺」は、武者小路実篤・志 石はその翌日の明治四十三年 ( 1910 ) 二月二十二日、朝日 賀直哉ら学習院出身者によって明治四十三年 ( 19 】 0 ) 四 紙上に出た予告文で、はじめて、これから自分が書こう 月に創刊された。廃刊は、大正十一一年 ( 1923 ) 九月。 とする小説の題名を知ったという。 ( 5 ) 「それから , 評「白樺」創刊号に掲載された武 ( 2 ) 林原 ( 当時岡田 ) 耕三鳥取県の生れ。松山 者小路実篤の評論「『それから』に就て」 ( 第七巻所収 ) を さす。 中学での漱石の教え子で、のち漱石をたより、漱石もか なりまめに面倒をみている。大正七年 ( 1918 ) 東京帝国 ( 6 ) 畔柳都太郎 本巻四一七ページ一一三九 ( 2 ) に前 出。 大学英文科を卒業し、のち松山高女・明治大学などで英 ごたく 文学を講じ、俳句も作った。 三五一 ( 1 ) 誤詫正しくは「御託」と書く。 ( 3 ) 印学校の保証人の印。 ちくはくゑん ( 2 ) 小鳥の巣に至って燕の巣の描写が出てくる跖 ( 4 ) 竹柏園歌人・国文学者佐佐木信綱の号。父佐 「小鳥の巣」第八章をさす。

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注 そばみち 七ページ ) にみえる。二兄の死については第一巻五一二 ( 4 ) 岨道けわしい道。「そわみち . とも読む。 たんかん ページ三只 ( 6 ) 参照。 一一四 0 ( 1 ) 単簡「簡単」と同じ。 ひがし ( 2 ) コスモスは干菓子に似ている十月九日の日二四一 ( 1 ) ヴァージニ・ハス・ビュエリスク "Virginibus 記に「コスモスを活けて東が持って来る。コスモスは干 Puerisque" 『若き人々のために ( ラテン語 ) 』 ( 1881 ) 。 菓子に似ていると言ったら東はなぜですかと聞いた。な イギリスの小説家スティーヴンソン (Robert Louis ぜと聞いちや仕方がないと答えた」とある。 Stevenson, 1850 ー 1894 ) の随筆。なお、スティーヴン のりより ソンは幼時から病弱で肺結核を病み、健康すぐれず、し ( 3 ) 範頼平安末期っ武将。源義朝の六男。兄の頼 ばしば各地を旅行、晩年は南洋のサモア島に住み、その 朝、弟の義経と協力して源平合戦に活躍したが、のち、 地で早世した。 義経追討を頼朝に拒絶したため修禅寺信功院に幽閉され、 十月二十五日の日記に 自殺した。その墓は、温泉街の西北のはずれにあり、明一一四一一 ( 1 ) 桃花馬上少年時 : 治になってから土地の小山清三という人に発見されたと 未定稿があり、第三句中の「至」は「如」、第四句は「空 いわれ、ここにいわれる墓守は、この人物か、あるいは 留明月照秋思」となっている。 その親類の今井幸三という人と思われる。九月二十七日 ( 2 ) 迢逓遠くはるかなさま。 の日記 ( 本巻一一一三四。ヘージ ) 参照。 Heinrich Heine ( 1797 ー 1856 ) 。ドイ 一一四三 ( 1 ) ハイネ しろあと ( 4 ) 畠山の城址畠山氏のよった修善寺城の旧跡で、 ツの詩人。一八二七年、イギリスに旅行し、数か月ロン 菊屋旅館のすぐ近くの裏山にあった。現在は、「城山」と ドンに瀞在した。イギリスの国家や国民の美点・長所に いう呼称だけに名残りをとどめている。十月六日の日記 は好感を抱きつつも、ロンドンの貧民の状態などに注目 ( 本巻一二三六ページ ) 参照。 する「イギリス断章」がある。 十月一日の日記に記されてい ( 5 ) 日似三春永 : ( 2 ) 第二の葬式十月十一日の日記 ( 本巻三三七ペ るもの。 ージ ) には「わが第一の葬式のごとし」とある。 七言律詩。十月四日の ( 6 ) 兄を二人失った九月十四日の日記 ( 本巻一一三 一語 ( 1 ) 万事休時一息回 : : : ふたり 417

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る ( 第一巻五一一三・ヘージ三公 ( 4 ) 参照。 一一三三 ( 1 ) コムト ( 2 ) 商買ふつう「商売」と書く。 明治一一十七年 ( 1894 ) 一一三四 ( 1 ) 小石川のある寺に : : ・ 十一月一日の正岡子規あて書簡 ( 第一巻三三 0 ページ ) 参照。 さんぎぜいちく ( 2 ) 算木と筮竹占いに用いる六個の木と五十本の 竹。 = 三五 ( 1 ) 松山に行った第一巻五〇一ページ一一五一 ) 参 照。 ( 2 ) 熊本に移った同右 ( 4 ) 参照。 第一巻四七四。ヘージ一六一 ( 3 ) ロンドンに向った ( 1 ) 参照。 第一巻四五三ページ六 ( 4 ) 参照。 ( 4 ) 母は : ( 5 ) 父の死第一巻四五四べージ一 0 ( 1 ) 参照。 十月十日の日記 ( 本巻 一一三六 ( 1 ) 客夢回時一鳥鳴 : 三三七。ヘージ ) にみえる。 ( 2 ) 紅暾くれない色の朝日。 ( 3 ) 寺の名である修善寺にある寺の名は二三七ペ ージ上段十八行にあるように、正しくは修禅寺である。 ( 4 ) 太鼓九月十九日の日記 ( 本巻三二八。〈ージ ) 参照。 おおしましようぐん 一一三七 ( 1 ) 大島将軍大島義昌 ( 嘉永三年ー大正十五年、 一 850 ー 26 ) 。陸軍大将。子爵。日露戦争後、関東〔州〕 都督府の長官。 十月二日の日記 ( 本巻 一実 ( 1 ) 夢繞星満法露幽・ : 三三五ペ , ージ ) に未定稿がみえる。 ( 2 ) 星満天上の池。 ( 3 ) 炫露落ちる露。 ( 4 ) 旗亭やどや。旅館。 ( 5 ) 一槐疎鐘窓辺に聞く間をおいた鐘の音。 ( 6 ) 九秋秋の九十日間。すなわち、秋。 一一三九 ( 1 ) 聖書にある野の百合『新約聖書』マタイ伝第 六章第二十八節などに出てくる。なお、七月六日の日記 に「善衛君聖書の百合の話をする」とあり、七月二十二 日の日記に「昨日芥舟が来て床の花を見て、あれは唐菖 蒲というものだと教えた。・ ( イ・フルにある野の百合とい うのはあのことだと言った」とある。 かいしゅうくん 畔柳都太郎。明治一一十九年 ( 1896 ) 東 ( 2 ) 芥舟君 京帝国大学英文科卒業。のち、第一高等学校教授。 ひおうぎ ( 3 ) 檜扇アヤメ科の草花。山野に自生し、夏には 濃い紫色の斑点のある花を咲かせる。 416

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おがしら である。 ( 3 ) 尾頭もない夢はじめもおわりもはっきりしな IIC 六 ( 1 ) 捌けない 区別できない。かたづけられない。 ゃなぎちょう ( 4 ) 柳町文京区柳町。 ( 2 ) 天明夜明け。 たね さいこゝろおぼえ IIO 三 ( 1 ) お種さん草平の妻 ( 名は、さく ) か。女中の名か。 八月二十四日から九 ( 3 ) 妻の心覚に付けた日記 はんきれ ( 2 ) 半切「半切紙」の略。横に長い和紙。 月七日までの日記 ( 本巻三二五ページ以下 ) 参照。 たろうかじゃ はとば ( 3 ) 太郎冠者狂言に登場する男の召使い 九月 ( 4 ) 余はその時さっと迸しる血潮を : ( 4 ) やるまいそ、やるまいそ狂言の結末はたい 二十六日の日記 ( 本巻三三三ページ ) 参照。 十月五日の日記に記さ てい太郎冠者などの失敗によって終るものが多く、「や二 0 七 ( 1 ) 淋漓絳血腹中文 : るまいそ、やるまいぞ」というセリフで主人に追いまわ れている。未定稿には、第一句中の「絳血」が「鮮血」、 される。待て、待て、の意。 第三句中の「空疑身」が「通身渾」となっている。第一 humour ( 英 ) 。ューモア。 lla ( 1 ) ヒューモー 句は、したたりあふれるような勢いの真赤な血が腹の中 ( 2 ) ふんだんな過度な、大けさな、の意味。 で渦のように模様をなしている、という意味。 すいか IIC}# ( 1 ) 水瓜ふつう「西瓜」と書く。 一天 ( 1 ) カンフル Kampfer ( 独 ) 。樟脳液。重病者の・ こうぼうさま ( 2 ) 弘法様「修禅寺」の俗称。温泉町の中央にあり、 心臓麻痺を防ぐために注射で打 ( 強心剤。 ばんきん 空海 ( 弘法大師 ) が修業した霊跡に建てられたので「弘三 C ( 1 ) 輓近最近。 フみーゼス 法様のお寺ーともいわれる。弘法忌は四月二十一日であ ( 2 ) 象面 phases ( 英、複数形 ) 。局面。位相。 るが、修禅寺では八月二十一日をも弘法忌として、観光 ( 3 ) ゼノ Zenon の英語読み。紀元前五世紀ごろの 行事をも兼ね前後三日間花火をあげてお祭りをする。八 ギリシアの哲学者。エレア学派に属し、運動の矛盾を証 月二十一日の日記 ( 本巻三二五ページ ) 参照。 明した「飛ぶ矢は飛ばずーや「アキレウスと亀」の論法 おおひと で有名。 ( 3 ) 大仁現在の伊豆箱根鉄道修善寺線大仁駅。な アキレウス ( 4 ) アキリス Achilleus の英語読み。伝説上の人 お、修善寺まで線が延長されたのは大正十三年 ( 1924 )

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巻一一三三ページ ) 参照。 ごてんば ( 2 ) 御殿場当時の東海道線は現在の御殿場線を経 由していたので、修善寺へ行くには、新橋ー国府津ー御 殿場ー沼津 ( 私鉄の軌道線に乗換え ) ー三島 ( 私鉄の軽 便鉄道に乗換え ) ー大仁 ( 人力車などに乗換え ) ー修善 寺の道順であった。 から ~ 、 , も。やっと 0 ( 3 ) からく きたしらかわみや ( 4 ) 北白川の宮もと皇族の一家。明治三年 ( 1870 ) 創設、初代能久親王のあと成久王・永久王と続いたが、 ここは二代目成久王。昭和二十二年 ( 1947 ) 皇族を離れ て北白川家となった。 八月八日の日記 ( 本 ( 5 ) 殿下からあなたに : 巻三二三べージ ) 参照。 まさか 一究 ( 1 ) 真逆にまっさかさまに。 かつらがわ 狩野川の支流。修善寺温泉の旅館は、西 ( 2 ) 桂川 方の達磨山から発するこの川の渓谷の両側に立ち並んで ( 3 ) どことかでは家がまるで流されて : 月十二日の日記 ( 本巻三二四ページ ) 参照。 こうずい 一一 00 ( 1 ) 都には今洪水が : この時は全国的に大水 害があり、八月十四日に隅田川が氾濫し、東京でも明治 年間最大の水害に見舞われた。 できばえ ( 2 ) 出来栄病状。 さき この時、漱石の子どもたちは、 ( 3 ) 茅が崎で : 六月下旬から神奈川県の茅が崎海岸へ避暑に出かけてい こ 0 八月一一十一日 一一 0 一 ( 1 ) 長距離電話を掛けられて : ・ の日記 ( 本巻三二五ページ ) 参照。 さぶろう ( 2 ) 山田の奥さん法学博士山田三良の妻繁子。三 良は、明治一一十九年 ( 1896 ) 東京帝国大学法科大学英法 科卒業、翌年ヨーロッパへ留学して三十四年帰国、昭和 五年 ( 1930 ) まで東京帝国大学教授を務めた。なお、「山 田の奥さんの所から掛けた」というのは、早稲田南町の 漱石の家にまだ電話がなかったので、隣り町の弁天町に あった山田氏の家の電話を借りたものである。 じつけんざかした ( 3 ) 十間坂下茅が崎市の地名。 ( 4 ) 矢来新宿区矢来町。早稲田南町・弁天町に近 う - めこ IIC 二 ( 1 ) 梅子漱石の妻の二番目の妹。 たふさはふくすみ ( 2 ) 塔の沢の福住箱根の塔の沢温泉にある旅館福 住楼。ミ。、、 / ゴノ月十九日の「東京朝日新聞」に「箱根水 害惨状実記」があり、福住楼のことが出ている。 4 和

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の基本成分」に「心理学原理」からの引用があるほかし ばしば漱石が関心を示している心理学者で、影響が著し い。十月十三日の日記に「ジェームスの死を雑誌で見る。 八月末のこと、六十九歳」とある。 一公一 ( 1 ) 多元的宇宙 "A Plu 「 alistic Unive 「 se" ( 一 89 ) 。 八月七日の日記に「独りでジェームズの多元的宇宙を読 む。なんだか意味がわからず」とあるほか九月二十日の 日記 ( 本巻三二九ページ ) 、同二十三印の日記 ( 本巻三三 〇。ヘージ ) で触れられている。 あなた 九月二十日の ( 2 ) 妻がいったい貴方の頭は : 日記 ( 本巻三二九ページ ) 参照。 一会 ( 1 ) ・ヘルグソン第十一巻三八二ページ一一六一 l(n ) 参照。 Henry 「 James ( 1843 ー 1916 ) 。イギリ ( 2 ) ヘンリー スの小説家。前出ジェームズの弟。内容・文章ともに難一、 解な心理主義的作品が多い。作品に : The Portrait of a Lady 「こ ( 188 】ノ : Daisy Miller" ( 1878 ) などがある。 1 ミュンステルベルグ Hugo Münsterberg ( 1863 ー 1916 ) 。ドイツ生れのアメリカの心理学者。ヴン トに学び、ウィリアム・ジェームズに認められて渡米、 一八九二年ハーヴァード大学教授となる。応用心理学、 哲学を専攻し、精神治療、裁判心理の方面で先駆的業績 を残した。著書に : G 「 undzüge der PsychoIogie ( 198 ) などがある。 ほうてい ( 2 ) 法庭ふつう「法廷」と書く。 いけべさんざんくん ( 3 ) 池辺三山君元治元年ー明治四十五年 ( 1864 ー 1912 ) 。本名、吉太郎。熊本県の生れ。慶応義塾に学び、 のち、大阪で「経世評論」の主筆となる。明治二十六年 ( 1893 ) 旧熊本藩主細川氏に従いフランスに留学、同二十 九年「大阪朝日新聞」主筆、翌三十年以後「東京朝日新 聞」主筆をつとめた。十月二十六日同氏あて書簡に「病 そろ 気療養中執筆無用のお叱り敬承いたし候。しかし医者の 許諾を得て時々の寄稿は退屈凌ぎの一種、平生の娯楽ぐ らゐのところとお認めのうへ御勘弁にあづかりたく候」 とある。 はじめ / 六 ( 1 ) 宮本博士医学博士宮本叔 ( 慶応三年ー大正八 年、 1867 ー 1919 ) 。東京帝国大学医科大学卒業。明治三 十年 ( 1897 ) 同助教授となって市立駒込病院長を兼任、 俳句を子規に学び鼠禅と号した。三十二年から四年間ド ィッに留学、同四十二年永楽病院長となった。 けねん 一八七 ( 1 ) 掛念ふつう「懸念」と書く。 ふっていおもむき ( 2 ) この陳腐ながら払底な趣非常に古風ではあ るが、ために現代にはほとんど残っていない趣き。漢詩・ しの 400

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しんげんぶくろ ( 7 ) 信玄袋手さげ袋の一種。板または厚紙で底を ひも 作り、ロを紐でしぼりくくるようにしたもの。 十月十三日の日記にみえる。 I<O ( 1 ) 釣台に : ( 2 ) 掛けたふつう「打った」という。 すゞきていじ ( 3 ) 鈴木禎次漱石の妻の妹時子の夫。明治二十九 年 ( 1896 ) 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業、同三 十二年から四十年まで英仏伊米に留学、帰国後大正十年 ( 1921 ) まで名古屋高等工業学校教授をつとめた。 ( 4 ) 杉本副院長医学博士杉本東造。明治三十五年 ( 1902 ) 東京帝国大学医学科卒業。のち、胃腸病院に勤 務。当時副院長であった。 十月十五日の日記 ( 本巻一二三九 ( 5 ) 思ひけり : ペ 1 ジ ) にみえる。 ・ことう ( 6 ) 後藤さん後藤暸平。六月二十一日の日記に 「医員後藤氏来。わざ / \ 長与院長の伝言を述ぶ。院長 病気にて、面会の機なきを憾むとのこと」とある。 ( 7 ) 院長医学博士長与称吉 ( 慶応一一年ー明治四十 三年、 1866 ー 191e 。長崎県の生れ。明治十七年 ( 1884 ) ドイツに留学して同二十六年帰国、日本橋本町に開業、 同二十九年内幸町に胃腸病院を創設した。日本における 胃腸病の権威で、死後男爵に叙された。東京帝大教授・ 医学博士長与又郎の兄にあたる。なお、十月十二日の日 記 ( 本巻三三八ページ ) 参照。 ひがし 〈一 ( 1 ) 東さん東新。長崎県の生れ。明治四十二年 ( 1909 ) 東京帝国大学哲学科卒業。のち、内務省に入り、・ さらに法政大学教授となった。漱石の五高時代の教え子 と思われ、この時、漱石の看護や家事の手伝いにあたっ ていた。 ( 2 ) 社東京朝日新聞社。 そっちまうくん ( 3 ) 雪鳥君坂元三郎。明治十二年ー昭和十三年 ( 1879 ー 1938 ) 。明治四十年 ( 187 ) 東京帝国大学国文科卒業後 社会部記者として朝日新聞社に入社、おもに同紙の能評 を担当し、能評の権威とされた。漱石の朝日新聞入社の あっゼん 斡旋に努力、この時社から出張して漱石の面倒をみた。 ( 4 ) 容態ふつう「容体ーと書く。 公一 ( 1 ) 逝く人に : 十月十二日の日記 ( 本巻三三八 ページ ) にみえる。 てんこう ( 2 ) 天幸天から与えられたしあわせ。 十月十三日の日記に「鶏頭に後 ( 3 ) たゞ一羽 : れずある月夜の雁」の句がある。 ( 4 ) ジェームス教授第二巻四四五ページ五三 ( 2 ) 参 照。「文学論」 ( 全集第十四巻所収 ) 第二章「文学的内容

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物で、ホメロスの叙事詩『イリアス』の中心人物。トロ ャ戦争におけるギリシアの英雄。 十月十六日の日記に未定稿が 三一 ( 1 ) 縹緲玄黄外 : ・ みえ、翌十七日の日記にその改作があり、さらに翌十八 日の日記でも手を加え、これをさらに作りかえたのがこ の詩である。 ( 2 ) 玄黄天の色と地の色、すなわち、天地のこと で、「天地玄黄ーともいう。 ( 3 ) 交謝交代。 ( 4 ) 査窘はるかなさま。 ( 5 ) 粛瑟秋風のさびしく火く音。 ( 6 ) 澹我執のなく、淡々としていること。 ようたい 八月一一十五日の日記 ( 本 ( 7 ) 容体を聞くと : 巻三二五ページ ) 参照。 九月一一十六日の日 ( 8 ) 人間は脈の中の血を : 記 ( 本巻三三三ページ ) 参照。 えりえりかざり 三一一 ( 1 ) 襟と襟飾カラーとネクタイ。 morphine ( オランダ衄じ。アルカ ( 2 ) モルヒネ ロイドの一種。麻酔剤・鎮痛剤として用いる。 Andrew Lang ( 1844 二三 ( 1 ) アンドリュ・ラング ー 1912 ) 。イギリス ( スコットランド ) の歴史・古典・民 俗学者。『スコットランドの歴史』 ( 四巻 ) 、神話・民間 伝承の研究、ホメロスの『イリアス』英訳などで知られ る。 The Book of Dreams and ( 2 ) 夢と幽霊 Ghosts ご ( 1899 ) ( 3 ) 霊妙なる心力 "Les force natu 「 elles incon ・ ご ( 1907 ) Camille FIammarion ( 18 ( 4 ) フランマリオン 42 ー 1925 ) 。フランスの天文学者。平易な解説書で天文 学を普及させ、同時に、心霊的現象の探究にも関心を示 Sir Oliver Joseph ( 5 ) オリヴァー Lodge ( 1851 ー 1940 ) 。イギリスの物理学者。 ガム大学教授。電磁気学を研究、電磁誘導無線電信を発 明した。一九一〇年以後、心霊学にこって科学と宗教と を結びつけようと試み、また、死者との通信の可能性を 信じた。 ( 6 ) 死後の生 "The Su 「 vival of Man-A Study in Un 「 ecognised Human FacuIty" ( 189 ) をさす。霊媒を通 じて死者と通信を交わすことについて述べたものである。・ ( 7 ) マイエル Frederic 舅「 illiam Henry Meyers nues 2

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注 現在もなおその伝統を引き継いでいる L'Académie 一月、漱石は約二年三か月にわたったロンドン留学を終 えて日本に帰国した。 Frangaise ( フランス学士院 ) をさす。 ( 4 ) 鹿見島の高等学校鹿児島市にある現在の鹿 博士間題とマードック先生と余 児島大学の前身、第七高等学校造士館をさす。 William Edwart Glad- 一一〈 0 ( 1 ) グラッドストーン 一一七一 ( ( 1 ) 伊予にいる一旧友森円月をさす。 stone ( 1809 ー 1898 ) 。ヴィクトリア女王時代のイギリス ( 2 ) 御退院四 0 四ページ一七九 ( 1 ) 参照。 の政治家。 ( 3 ) マードック先生 James Murdoch ( 1856 ー 19 21 ) 。明治二十二年 ( 1889 ) イギリスから米日、第一高等 ( 2 ) カーライル第一巻四八〇ページ一八 0 ( 4 ) 参照。 Herbert Spencer ( 1820 ー 1903 ) 。 学校などで英語を教えるかたわら日本史の研究に従い ( 3 ) スペンサー イギリスの哲学者。本巻一九一 ) に前出。 のち、メルポルン大学教授として日本紹介に尽した。 bohemianism ( 英 ) 。十五世 ( 4 ) 日本歴史 "A H ( 0 「 ) 「 Japan ・ ) ( 3V0 一 . 一 9 一一七七 ( 1 ) ポ〈ミアニズム 03 ー 1925 ) をさす。漱石は、この文章のすぐのち、別に 紀ごろフランス人がジ。フシ 1 ーをポヘミアン (bohémien) 「マードック先生の日本歴史」という短文を書いて本書 と呼んたことから、一般社会の秩序や作法を無視した自 の紹介にあたっている。 由放縦な芸術家気質をいう。 JOhn Morley ( 1838 ー 1923 ) 。 一一七九 ( 1 ) アラス、アラック 三餝及び alack いず一穴一 ( 1 ) ジョンモーレー トーノ広』の れも感嘆詞。 イギリスの政治家・著作家。『グラッドス 名著がある。 ( 2 ) べイン Alexander Bain ( 一 8 一 8 ー、 1903 ) 。イギ リスの心理学者。主著に『感覚と知性』 C' The Senses 文芸委員は何をするか and the lntellect" , 1855 ) 『情緒と意志』 C" The Emo- tions and the Will", 1859 ) などがある。 公一 ( 1 ) 小刀細工漱石が好んで用いる表現で、狡猾で いやしい行為。夏目鏡子述『漱石の思い出』二〇章「小 ( 3 ) 外国から帰った当時明治三十六年 ( 1903 ) 421