ぶふうりゅう その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、 と余は必ず去年の病気を憶い出す。 むか あた 余は去年の病気とともに、新らしい天井と、新らし前後を切り捨てたうえ、中間たけを、自暴に夜陰に向 ( 1 ) おおしましようぐん い床の間に懸けた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そって擲き付けるように、ぶつきら棒な鳴り方をした。 そっけ なんべん うしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返したそうして、一つどんと素気なく鳴るとともにばたりと とま そば 当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らし留った。余は耳を峙だてた。一度静まった夜の空気は あけたて い床の間と、新らしい柱と、新らしすぎて開閉の不自容易に動こうとはしなかった。や、しばらくして、今 由な障子は、今でも目の前にあり / ( 、と浮べることがのは錯覚ではなかろうかと思い直すころに、また一つ できるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島どんと鳴った。そうして愛想のない音は、水に落ちた 将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今で石のように、急に夜のなかに消えたぎり、しんとした は白壁のように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走表になんの活動も伝えなかった。寐られない余は、待 おがしら って、尾頭ともにぶつりと折れてしまう黒い線を認めち伏せをする兵士のごとく次の音の至るを思い詰めて けんげき るだけである。句にいたっては、はじめの剣戟という 待った。その次の音はやはり容易には来なかった。よ ひゞき 二字よりほか憶い出せない。 うやくのこと第一第二と同じくきわめて乾び切った響 ・か , ー。・ー響とよ、 。黒い空気のなかに、突然無 余は余の鼓膜の上に、想像の太鼓がどんーーーどんと 響くたびに、すべてこれ等のものを憶い出す。これ等遠慮な点をどっと打ってすぐ筆を隠したような音が、 あと しり なのもののなかに、じっと仰向いて、尻の痛さを紛らし余の耳朶を叩いて去る後で、余はつくんと夜を長い よあけ っ \ のっそっ夜明を待ち侘びたその当時を回顧するものに観した。 出 もっとも夜は長くなるころであった。暑さもしだい と、修禅寺の太鼓の音は、一種いうべからざる連想を もって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。 に過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い あおむ 237
できないうちに病人は退院してしまったのである。そ言う。それから一日二日して自分はその三人の病症を のうち自分も退院した。そうして、かの音に対する好看護婦から確めた。一人は食道癌であった。一人は胃幻 がん 癌であった。残る一人は胃潰瘍であった。みんな長く 奇の念はそれぎり消えてしまった。 ら は持たない人ばかりだそうですと石護婦は彼等の運命 ひとまと 下 を一纏めに予言した。 三か月ばかりして自分はまた同じ病院にた。室自分は縁側に置いたべゴ = アの小さな花を見暮らし はまえのと番号が一つ違うだけで、つまりその西隣でた。実は菊を買うはずのところを、植木屋が十六貫た と言うので、五貫に負けろと値切っても相談にならな あった。壁一重隔てた昔の住居には誰がいるのだろう かったので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと言っ と思って注意してみると、終日かたりという音もしな ことし ( 2 ) みず 、。空いていたのである。もう一つ先がすなわち例のてもやつばり負けなかった、今年は水でが高いのだ へコニアを持ってきた人の話を思い出し 異様の音の出たところであるが、こゝには今誰がいると説明した、。。 からだ わか て、賑やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどし のだか分らなかった。自分はその後受けた身体の変化 はげ のあまり劇しいのと、その劇しさが頭に映って、このてみた。 あいだからの過去の影に与えられた動揺が、絶えす現やがて食道癌の男が退院した。胃癌の人は死ぬのは わさびおろし むか 在に向 0 て波紋を伝えるのとで、山葵卸のことなどは諦めさえすればなんでもないと言 0 て美しく死んだ。 とんと思い出す暇もなかった。それよりはむしろ自分潰瘍の人はだん / 、悪くなった。夜半に目を覚すと、 つきそい に近い運命を持った在院の患者の経過のほうが気に掛時々東のはずれで、付添のものが氷を摧く音がした。 その音が已むと同時に病人は死んだ。自分は日記に書 った。看護婦に一等の病人は何人いるのかと聞くと、 ふたり 「三人のうち二人死んで自分だけ残っ 三人だけたと答えた。重いのかと聞くと重そうですとき込んだ。 ひとえ すまい へや あきら たしか ひとり しよくどうがん し ~ いト宀、つ . よなか さま
いことを歯くううえに、それほど歳月を掛けなけ 痛んで腰が立たなくなって、厠へ上るおりなどは、や じようじゅ からだ っとのこと壁伝いに身体を運んだのである。その時分れば成就できないものなら、自分はなにしにこの山の や うれ ( 1 ) けんしよう の彼は彫刻家であった。見性した日に、嬉しさのあま中まで遣ってきたか、それからが第一の矛盾であった。 あが ( 2 ) そうもくこくどしつかいじようぶつ り、裏の山へ馳け上って、草木国土悉皆成仏と大きな「決して損になる気遣はございません。十分坐れば、 声を出して叫んだ。そうしてついに頭を剃ってしまっ十分の功があり、二十分坐れば二十分の徳があるのは むろんです。そのうえ最初を一つ奇麗に打ち抜いてお この庵を預かるようになってから、もう二年になるけば、あとはこういうふうに始終こ、にお出にならな いでも済みますから」 が、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寐たこ 宗助は義理にもまた自分の室へ帰って坐らなけれは とはないと言った。冬でも着物のま、壁に倚れて座睡 するだけだと言った。侍者をしていたころなどは、老ならなかった。 ふんどし こんな時に宜道が来て、 師の犢鼻褌まで洗わせられたと言った。そのうえ少し ていしよう ぬす 「野中さん提唱ですーと誘ってくれると、宗助は心か の暇を偸んで坐りでもすると、後から来て地の悪い はげあたまつら うれ こやま どくら 邪魔をされる、毒吐かれる、頭の剃り立てにはなんのら嬉しい気がした。彼は禿頭を捕まえるような手の着 因果で坊主になったかと悔むことが多かったと言った。けどころのない難題に悩まされて、坐ながらじっと頃 「ようやくこのごろになって少し楽になりました。し悶するのを、いかにも切なく思った。どんなに精力を しようこう かしまだ先がございます。修業は際苦しいものです。消耗する仕事でも可いから、もう少し積極的に身体を ーたくしどもば そう容易にできるものなら、いくら私共が馬鹿たって、働らかしたく思った。 いっそうあん 提唱のある場所は、やはり一窓庵から一町も隔って こうして十年も二十年も苦しむ訳がございません」 れんち ( 3 ) ぼうぜん いた。蓮池の前を通り越して、それを左へ曲らずにま 宗助はたヾ惘然とした。自己の根気と精力の足らな こ 0 かわやのぼ きろかい へや ら 5
ようなものの、その晩主人がなにかの機会に、つい自えるようにできた、重宝で健康な男であった。 しわ 分の名を二人に洩らさないとは限らなかった。宗助は 「なに実をいうと、二十年も三十年も夫婦が皺たらけ へんみよう 後暗い人の、変名を用いて世を渡る便利を切に感じた。 になって生きていたって、別にお目出度くもありませ むか わたくし わたくし 彼は主人に向って、「貴方はもしや私の名を安井の前んが、そこが物は比較的なところでね。私はいっか清 たま おど でロにしやしませんか」と聞いてみたくて堪らなかっ水谷の公園の前を通って驚ろいたことがある」と変な た。けれども、それたけはどうしても聞けなかった。方面へ話を持っていった。こういうふうに、それから 下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。それへと、客を飽かせないように引張ってゆくのが、 とうふ ( 1 ) きんぎよくとう 一丁の豆腐ぐらいな大きさの金王糖の中に、金魚が一一社交になれた主人の平生の調子であった。 べんけいし 疋透いて見えるのを、そのま、包丁の刃を入れて、元彼のいうところによると、清水谷から弁慶橋へ通じ なかれ の形を崩さすに、皿に移したものであった。宗助は一る泥溝のような細い流の中に、春先になると無数の蛙 目見て、たゞ珍らしいと感じた。けれども彼の頭はむが生れるのたそうである。その蛙が押し合い鳴き合っ しろほかの方面に気を奪われていた。すると主人が て生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で 「どうです一つ」と例のとおります自分から手を出し成立する。そうしてそれ等の愛に生きるものが、重な こ 0 らないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、 ひましん 「これはね、昨日ある人の銀婚式に呼ばれて、貰って互に睦まじく浮いていると、通り掛りの小僧たの閑人 ぎたのだから、すこぶるお目出度いのです。貴方も一 が、石を打ち付けて、無残にも蛙の夫婦を殺していく きれ あやか 切ぐらい肖っても可いでしよう」 ものだから、その数がほとんど勘定し切れないほど多 あまた 主人は肖りたい名の下に、甘垂るい金玉糖を幾切か くなるのたそうである。 おば 頼張った。これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食「死屍累々とはあのことですね。それが皆夫婦なんだ ぎのう かしざら いくきれ ひと みすだに むつ すきま ちょう日う ひつば みんな かえる し 174
医師は病の遠ざかるにつれて、ほとんど五日目ぐらい 合がきわめて少ない。ほんとうに嬉しかった、ほんと たっと しようがい ごとに、余のために食事の献立表を作った。ある時は うに難有かった、ほんとうに尊かったと、生涯に何度 三とおりも四とおりも作って、それを比較していちば思えるか、勘定すれば いくばくもない。たとい純潔で ん病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反なくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余 まんなか 故にした。 はそのま、長く余の心臓の真中に保存したいと願って 医師は職業である。君護婦も職業である。礼も取れ いる。そうしてこの感情が遠からず単に一片の記憶と ば、報酬も受ける。たゞで世話をしていないことはも変化してしまいそうなのをせつに恐れている。ーー好 ちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るがゆえ意の干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちな く感ずるからである。 に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに ふた ( 1 ) 0 0 0 0 0 0 0 0 0 器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義 天下自多事。被吹天下風 ( 2 ) 0 0 0 0 0 0 0 0 0 務のうちに、半分の好意を溶き込んで、それを病人の 高秋悲鬢白。衰病夢顔紅 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 目から透かしてみたら、彼等の所作がどれほど鶤とく 送鳥天無尽。看雲道不窮 なるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意に 残存吾骨貴。珈跏 よって、急に生きてくるからである。余は当時そう解 うれ 釈して独りで嬉しかった。そう解釈された医師や護 こども え 婦も嬉しかろうとう。 小供のとき家に五六十幅の画があった。ある時は床 子供と違 0 て大人は、なまじい一つのものを十観一一の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干の みきわ 十筋の文からでぎたように見窮める力があるから、生おりに、余は交るる、それを見た。そうして懸物の前 うす すご 活の基礎となるべき純潔な感情を恣お & に吸収する場に独り蹲踞ま 0 て、黙念と時を過すのを楽とした。今 あや わか ひと よ み よ えら ひと よ かわ 0 0 ぐ 0 たのしみ かけもの 226
うと思う。それほど劇と彼等の間には興味の間隔があ実になられたのを深く遣憾に思うのである。我等の心 はゞか 理上また習慣上要求する言語は一つも採用の栄を得ず ったのだと余は憚りなく信じている。 へんげんせつく それではその間隔を説明しろと坪内博士が言われるして、片言隻句の末に至るまで、ことる、く沙翁の言 なら、余は英国が劇と我等の間に挾まっていると答えうがまゝに無理な日本語を製造された結果として、こ おちいっ たい。三百年の月日が挾まっていると答えたい。使いの矛盾に陥たのはいかにも気の毒に堪えない。沙翁劇 ことま 慣れない詩的な言葉がのべつに挾まっているとも答えはその劇の根本性質として、日本語の翻訳を許さぬも さおう たい。要するに沙翁という一人の男が間へ立って、すのである。その翻訳をあえてするのは、これをあえて じゃま べて鑑賞の邪魔をしているのだと憚なく言い切りたい。すると同時に、我等日本人を見棄たも同様である。翻 さしつかえ すきま 訳は差支ないが、その翻訳を演じて、我等日本人に芸 我等と劇の間に寸分の隙間なく、二つがびたりと合う ぶどうしゅ ( 1 ) まさむね ならば、その劇に英国だの、三百年の昔だの、詩的な術上の満足を与えようとするならば、葡萄酒を正宗と あまとう めんどう 言葉だのという面倒な形容詞は要らぬはずである。交換したから甘党でも飲めないことはなかろうと主張 「ハムレット」はたゞの「ハムレット , で十分通用しすると等しき不条理を犯すことになる。博士はたゞ忠 実なる沙翁の翻訳者として任ずる代りに、公演を断念 なければならないはずである。 坪内博士の訳は忠実の模範とも評すべき丁重なものするか、または公演を遂行するために、不忠実なる沙 ほねおり と見受けた。あれだけの骨折は実際翻訳で苦しんだ経翁の翻案者となるか、二つのうち一つを選ぶべきであ 験のあるものでなければ、ほとんど想像するさえ困難った。 である。余はこの点において深く博士の労力に推服す る。けれども、博士が沙翁に対してあまりに忠実なら んと試みられたがため、ついに我等観客に対して不忠 はさ 下 あきら さおうさくぶつ 沙翁の作物が自然の鏡に映る明かなる影のごとくに みすて 290
くつろ らるべきである。しかもその優劣が判然と公衆の目にすに、たヾ雑誌を飾る作家だけが寛容ぐ利益のあるこ 映らなければならない。 この必要条件を具備しない国とたから、一雑誌に載る小説の数がむやみに殖える気 家的保護と奨励とはなきに優ると寛仮するよりも、むにない。も 0 とも自分で書いて自分で雑誌を出す道 ます しろあるに劣る ( もしそういう言葉が意味をなすなら楽な文士は多少増かもしれないが、それは実施のうえ に ) と非難するほうが当然である。 になってみなければ分らない。 さくふつ 作物の現状と文士の窮状とはすでに上説のごとくで 余は以上のごとく根本において文芸院の設置に反対 じゃっかん あって、こ、に保護のために使用すべき金が若干でもを唱うるものであるが、もし保護金の使用法について、 るとすれば、それを分配すべき比較的無難な方法はさいわいにも文芸委員がこの公平なる手段を講ずるな たゞ一つあるだけである。余は毎月刊行の雑誌に掲載らば、その局部に対しては大いに賛成の意を表するに やふさ されるすべての小説とは言わないつもりであるが、そ吝かならざるつもりである。その他の企画についても の大部分、すなわちある水平以上に達したる作物に対ことる、く非難する必要はむろん認めない。けれども あて してはこの保護金なり奨励金なりを平等に割り宛て、 だいたいの筋からいって、すべてこれ等は政府から独 当分原稿料の不足を補うようにしたら可かろうと思う。 立した文芸組合または作家団というような組織の下に わず ちがい もとより各人に割り宛てれば、僅かなものに違ないけ案出され、またその組織の下に行政者と協商されべき る れども、一つの短編について、三十円ないし五十円ぐである。惜いかな今の日本の文芸家は、時間からいっ す らいな賞与を受けることができたなら、賞与に伴う名ても、金銭からいっても、また精神からいっても、同 誉などはどうでも可いとして、実際の生活上に多少の類保存の途を講する余裕さえ持ち得ぬほどに貧弱なる よりあい 芸便宜はあることと信ぜられるからである。こうすれば孤立者またはイゴイストの寄合である。自己の画した 、 - ノこ - っ こ、ろえ かんない 雑誌の編集者とか購買者とかにはまるで影響を及ぼさる檻内に呵哮して、互に噛み合う術は心得ている。一 まさ かんか みち
はきっと別の音が大根卸のように自分に聞えるのにき うちさと まっていると、すぐ心の裡で覚ったようなものの、さ % てそれならはたしてどこからどうして出るのだろうと わか 考えるとやッばり分らない。 自分は分らないなりにして、もう少し意味のあるこ とに自分の頭を使おうと試みた。けれども一度耳に付 いたこの不可思議な音は、それが続いて自分の鼓膜に たゝ うと / \ したと思ううちに目が覚めた。すると、隣訴えるかぎり、妙に神経に祟って、どうしても忘れる へや の室で妙な音がする。はじめはなんの音ともまたどこわけにいかなかった。あたりはしんとして静かである。 むね あわ から来るともはっきりした見当が付かなかったが、聞この棟に不自由な身を託した息者は申し合せたように いているうちに、だん / 、耳の中へ纏まった観念がで黙っている。寐ているのか、考えているのか話をする わさびおろ きてきた。なんでも山葵卸しで大根かなにかをごそごものは一人もない。廊下を歩く看護婦の上草履の音さ たしか え聞えない。そのなかにこのごし / 、、と物を擦り減ら そ擦っているに違ない。自分は確にそうだと思った。 ひヾき それにしても今ごろなんの必要があって、隣りの室ですような異な響だけが気になった。 だいこおろしこしら 自分の室はもと特等として二間っゞきに作られたの 大根卸を拵えているのだか想像が付かない。 ひばち まかない しい忘れたがこゝは病院である。賄ははるか半町もを病院の都合で一つずつに分けたものだから、火鉢な ひとり 離れた二階下の台所に行かなければ一人もいない。病どの置いてある副室のほうは、普通の壁が隣の境にな すいじかっぽう っているが、寝床の敷いてある六畳のほうになると、 室では炊事割烹はむろん菓子さえ禁じられている。ま して時ならぬ今時分なにしに大根卸を拵えよう。これ東側に六尺の戸様があ 0 て、その傍が蕉布の襖で 変な音 ちがい さ まと とな ね うわぞうり す
「織屋、 お前そうして荷を背負って、外へ出て、時分 くと、幾割か値安に買える便宜を説いた。そうして、 うけあ どきになったら、やつばり御膳を食べるんだろうね」 「なにお払はいつでも可いんです」と受合ってくれた。 めいせん いったん と細君が聞いた。 宗助はとう / \ お米のために、銘仙を一反買うことに 「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減るした。主人はそれをさんる、、値切って三円に負けさし あと ことちゅうたら」 た。織屋は負けた後でまた、 「どんな所で食べるの」 「まったく値じゃねえね。泣きたくなるね」と言った おおぜい 「どんな所で食べるちゅうて、やつばり茶屋で食うだので、大勢がまた一度に笑った。 ひな ね」 織屋はどこへ行っても、こういう鄙びた言葉を使っ 主人は笑いながら茶屋とはなんだと聞いた。織屋は、て通しているらしかった。毎日馴染みの家をぐる / \ 飯を食わす所が茶屋たと答えた。それから東京へ出立回って歩いているうちには、背中の荷がだん / 、軽く ふろしきさなだひも には、飯が非常に旨いので、腹を据えて食いだすと、 なって、しまいに紺の風呂敷と真田紐だけが残る。そ たいていの宿屋は叶わない。三度々々食っちや気の毒 の時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国 みんな だというようなことを話して、また皆を笑わした。 元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた よりいとつむぎ たんものしょ 織屋はしまいに撚糸の紬と、白絽を一匹細君に売り新らしい反物を背負えるだけ背負って出てくるのだと せわ はじめ 付けた。宗助はこの押し詰った暮に、夏の絽を買う人言った。そうして養蚕の忙しい四月の末か五月の初ま を見て、余裕のあるものはまた格別たと感じた。するでに、それをすっかり金に換えて、また富士の北影の むか こむら と、主人が宗助に向って、 焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそう あなた 「どうです貴方も、ついでになにか一つ。奥さんの不である。 だんぎ うち 断着でもーと勧めた。細君もこういう機会に買ってお 「宅へ来だしてから、もう四五年になりますが、いっ お しろろ でたて へ かろ 川 3
して「脳膜炎」という。 哭 ( 1 ) 変化る変化する。山梨地方などの方言にいわれ うしゅう る。 三六 ( 1 ) 房州漱石は、二十二歳で第一高等中学本科在学 中の明治一一十二年 ( 1889 ) 八月七日から三十日にかけて 四九 ( 1 ) 歯医者明治四十二年 ( 1909 ) 六月三日の日記に 房州旅行をし、漢文による紀行文「木屑録」を書いてい 「急に歯痛起る。歯医者へ行く」と記され四五日の間通 る。 っている。 あこぎ せいこう 岩 ( 1 ) 阿漕あっかましく胴欲なこと。 五つ ( 1 ) 「成功」明治三十一年 ( 1898 ) 「成功」雑誌社か きいち 四一 ( 1 ) 其一寛政六年ー安政五年 ( 一 794 ー一 858 ) 。江戸 ら発刊された雑誌の名。 かへぎらく 末期の画家。本名、鈴木元長。字は子淵。後注抱一の弟子。 『禅林句集』に所収され ( 2 ) 風碧落を火いて : ほういっ ( 2 ) 抱一宝暦十一年ー文政十一年 ( 1761 ー 1828 ) 。 ている句で、もろもろの迷いを脱けきった清澄な心境を 江戸末期の画家。姓、酒井。鶯村・雨華庵などと号した。 自然風景に托したもの。ただし『句集』では「東山」は たださね 姫路城主酒井忠以の弟で、真宗の僧となり、宗達風の絵 「青山」となっている。 を書くかたわら俳諧・狂歌をよくした。 五一 ( 1 ) 工ソ「壊疽」。身体の組織の一部の機能がとまり、 がんく ( 3 ) 岸駒宝暦六年ー天保九年 ( 1756 ー 1838 ) 。江戸 その部分がくさり、たたれる病気。 じんぜんさかい 後期の画家。越中の人で富山侯に仕え、のち朝廷の絵所五四 ( 1 ) 荏苒の境「荏苒」は長引くさま。物事の処置を に出仕した。狩野派ほかの諸画風を折衷して独自な写生 ぐずぐずのばしている、どっちつかずの境地。 画法をひらいた。 scotch ( 英 ) 。スコッチ・ツィード 五七 ( 1 ) スコッチ がんたい ( 4 ) 岸岱天明二年ー元治一一年 ( 1782 ー 1865 ) 。前注 (Scotch tweeds) の略称。スコットランド産緬羊の毛 岸駒の長男。 織物。 ほっす 四一一 ( 1 ) 短兵急な ここは、せつかちな、の意味。 五九 ( 1 ) 払子僧が持つ、獣毛・麻などをたばねて柄をつ すゝだけ 五 ( 1 ) 煤竹すすけて赤黒くなった竹。 けた仏具の一つ。煩悩を払うものとして用いられる。 まるうち うらがね 七 ( 1 ) 丸打丸く打った紐。「丸打紐」。 ( 2 ) 唐金青鋼の異称。唐から伝わったためこう呼ば へんけ 397