注 ( 6 ) 一中「一中節」の略。 もめ ( 7 ) 物集のお嬢さん姉妹物集高見 ( 第一巻五一 六ページ三一九 ( 新 ) 参照 ) の娘たち、和子および芳子。平 塚雷鳥を中心とする女流文学雑誌「青踏」の同人で、 「新小説」などにも小説を発表している。 ( 8 ) 高架正しくは「後架」。便所の異称。 ( 9 ) 文部省の絵画展覧会四一三。〈ージ一一会 ( 2 ) 参照。 RudoIph Ernest Reuter アメリカ ( ) ロイテル の音楽家。ドイツに留学後、明治四十三年 ( 1910 ) 日本 政府の招きで来日、三年間東京音楽学校の教師を勤め、 のち、シカゴ音楽大学教授などになった。 Heinrich Werkmeister ( Ⅱ ) エルグマイステル ドイツの音楽家。明治四十年 ( 1907 ) 来日。大正十年 ( 19 21 ) まで東京音楽学校教師を勤めた。 おさないかおる ) 小山内薫の催しで : ・小山内薫の主宰する自由劇 場が、旗上げ公演として明治四十二年十一月に興行した。 もりおうがい ( ) 訳は森鵐外鸛外は、 lbsen の "J0hn Gbriel Borkman ご ( 1896 ) 翻訳を明治四十二年 ( 1909 ) 七月か ら九月にかけて「国民新聞」に連載。同年十一月画報社 からこれが出版された。 語四 ( 1 ) 「それから」東京・大阪朝日新聞に連載後、明 治四十三年 ( 1910 ) 一月、春陽堂から出版された。 ( 2 ) 小説「門」をさす。二月二十二日に予告が出、 三月一日から六月十二日にかけて東京・大阪朝日新聞に 連載された。 ( 3 ) 理科大学東京帝国大学理学部の旧称。「三四 郎」に登場する野々宮宗八は、寺田寅彦がモデルで、そ の研究室の模様などもいろいろ描かれている。 ( 4 ) 正しくは「彗星」。「三四郎」第九章 ( 第 六巻一六〇。ヘージ ) に彗星に関する議論が出てくる。 みかわや ( 5 ) 三河屋赤坂表町にあった料亭。 ( 6 ) 美学会大塚保治を中心に東京帝国大学哲学科 の美学専攻生・卒業生によって作られていた研究会。な お、漱石は明治四十四年 ( 1911 ) 六月二十八日、この研 究会のために講演している。 ( 7 ) 休刊多きゅゑ朝日の文芸欄は設置以来ほとん ど毎日設けられていたが、この年一月二十八日から二月 五日までの九日間は、二月一日に漱石の「客観描写と印 象描写」が出ただけで、あとは休欄になっている。 ( 8 ) 原稿阿部次郎が、「癡郎」の匿名、「よせ鍋」 という題で文芸襴に投稿した文芸評論をさす。二月六日
黒区 ) にあったのであろう。 巻三六一ページ ) 参照 0 まさたけ てらうちとうかん ( 5 ) 神崎さん神崎恒子。神崎東蔵 ( 明治三十二年 ( 7 ) 寺内統監寺内正毅。嘉永五年ー大正八年 ( 一 8 〈 1899 〉東京帝国大学英法科卒業。弁護士。衆議院議員。 52 ー 19 】 9 ) 。伯爵。陸軍大将・元帥。明治三十五年 ( 19 牛込区横寺町に住む ) の夫人。 02 ) 陸軍大臣、韓国統監を兼任、同四十三年日韓併合後 ぐびじんそう 初代朝鮮総督に就任した。大正五年 ( 】 9 一 6 ) 寺内内閣の三四一一 ( 1 ) 虞美人草漱石の長編小説。明治四十一年 ( 】 9 08 ) 一月、春陽堂から出版された。 首相。 いけべよしかた ( 2 ) 池辺義象氏第一巻五二八。〈ージ三五五 ( 1 ) 参照。 三四 0 ( 1 ) ペコ = ャ begonia シウカイドウ科の草花。 もくあん ( 2 ) 木庵江戸時代初期の黄檗宗の高僧。 やまだびめうさい 書簡 品一 ( 1 ) 山田美妙斎明治元年 ( 0 巳生れ。小説家・ 詩人。本名、山田武太郎。大学予備門時代に漱石と同級。高 = ( 1 ) 寺田寅彦五高での漱石の教え子。物理学者。 ( 2 ) ヴェ = スからの書明治四十三年 ( 一日 0 ) 尾崎紅葉らと硯友社を組織して活躍したが、明治三十四 一月十七日の「東京朝日新聞」文芸欄に掲載された。 年大患で卒倒、晩年は、歴史小説なども発表したが、ほ 0 明治四十三年 ( 1910 ) 三月二日、五女雛 ( 3 ) 9 一 1 とんど国語辞典編纂に専念した。四十三年十月二十四日 子が生れている。 死亡。 ばいていきん がんしゅ ( 4 ) 七変人幕末の人情本・滑稽本作者梅亭金鵞が、 ( 2 ) 癌種正しくは「癌腫」と書く。 七人の遊び仲間のふざけた話を描いた『妙竹林話七偏 ( 3 ) 昨夜の菊あとで「君が遺愛の白き菊」と俳句 人』の略称。安政四年ー文久三年 ( 一 857 ー 1863 ) 刊。五 にも詠んでいるもので、十月三十日の日記に「晩に病院 編十五冊。 の園丁が手作りの菊二鉢を贈り来る。見事なる白菊なり。 ( 5 ) 行徳医学士行徳二郎。佐賀県生れ。明治四十 白菊は院長の遺愛の品のよし。院長は菊を愛せるよし」 一一年 ( 1909 ) 東京帝国大学医科大学卒業。のち、佐賀県 とある。 立病院に勤務、さらに佐世保に行徳病院を開いた。 ( 4 ) 目黒の里渋川玄耳の住所が目黒村 ( 現在、目 432
( 3 ) 万縷いろいろとくわしく。 品」「満韓ところん、」の四編が収められている。 毫一一 ( 1 ) 長塚節明治十一一年ー大正四年 ( 一 879 ー 19 こ ) 。 ( 4 ) 文鳥明治四十一年 ( 】 908 ) 六月十三日から一一 歌人・小説家。水戸中学を中退、郷里で農民として生活 十一日にかけて「大阪朝日新聞 , に連載され、同年十月 しながら作品を発表した。 号「ホトトギス」に再掲載された随筆。第五巻所収。 ねがひ ( 2 ) 突然なるお願「門」にひきつづいて明治四十三五四 ( 1 ) 橋田丑吾明治十九年 ( 1886 ) 高知県に生れ、 三年 ( 1910 ) 六月から十一一月まで「東京朝日新聞」に連 大正一一年 ( 】 9 こ ) 東京帝国大学経済学科卒業。のち、東 載された長編小説「土」に関しての依頼。 京日日新聞社・東京農業大学・農商務省・東洋拓殖会社 などに勤務した。 ( 3 ) 九十回実際には百四回にわたった。 ( 2 ) メジョ ペンデニス Ma 」 or Pendennis ( 4 ) 皆川正禧第一巻五三五ページ一元三 ( 5 ) 参照。こ Beowulf ご ( 3 ) ベオウルフ の時鹿児島第七高等学校で英文学を教えていた。 Plowman ( 4 ) ビャース・プロー ( 5 ) 野間君第一巻五三五べージ三九三 ( 4 ) 参照。この ( 5 ) プラックストーン William Blackstone ( 17 時、同じく鹿児島の旧制第七高等学校で英語教師であっ こ 0 23 ー 1780 ) 。 三三三 ( 1 ) 野村第一巻五三六ページ三九四 ( 9 ) 参照。鹿島中 ( 6 ) 菅虎雄彼は、禅の経験・知識が深く、また、 学のあと、愛知五中・大阪天王寺中・奈良桜井高女など 書道にもすぐれていた。 の教師をつとめた。 ( 7 ) 小説「門」 ( 2 ) 御批判 明治四十三年 ( 1910 ) 六月十八・一一 ( 8 ) われに三等の : 本巻一六六ページ下段五行。 だいとうこくし 十・二十一日の朝日文芸欄に掲載された阿部次郎の評論 ( 9 ) 大燈国師四 OI 二ページ一六六 ( 5 ) 参照。 むそうこくし 「『それから』を読む」 ( 第七巻所収 ) をさす。 ) 夢窓国師四〇三ページ一六六 ( 2 ) 参照。 ( 3 ) 四編明治四十三年 ( 1910 ) 五月、春陽堂から ( Ⅱ ) どっちだか新聞に発表した時には「大燈国師 出版された漱石の随笹集で、「文鳥」「夢十夜」「永日小 の遺誡」となっていたが、単行本では「夢窓国師の遣誡」 はんる
文で、一八六〇年に発表され、のち、「第一原理」「生物 十五日の日記 ( 本巻三四二ページ ) 参照。 学原理」「心理学原理」「社会学原理」「倫理学原理」の各一九六 ( 1 ) 忘るべからざる八月二十四日大吐血により 論を発表し、一八九六年に完成した。 危篤状態に陥ちいった日である。 きぐろ せんやく 一九三 ( 1 ) ハレー彗星イギリスの天文学者 Edmund ( 2 ) はじめは煎薬に似た黄黒い水を Halley が一六八二年にその軌道を決定した大彗星で、 十二日の日記 ( 本巻三二四ページ ) 参照。 長い尾をひいているので有名。周期は約七十六年。明治 ( 3 ) 注告ふつう「忠告」と書く。 せつぜん 四十二年 0909 ) 十月二十五、二十六日の「東京朝日新一九七 ( 1 ) 截然区分のはっきりしたさま。ここは、苦痛 聞」に「 ( レー彗星出現」の記事があり、同年十一月二 が明確で激烈なこと。 あたり さいじようほう 十三日の同新聞にその運行図が出ており、以後連日のよ ( 2 ) 臍上方三寸の辺へその三寸うえ、すなわち、 うにこの彗星に関する記事がみえる。翌四十三年四月十 胃のあたり。 おくび 六日太陽に最も近く、同五月十六日地球に最も近づいて ( 3 ) 噫ふつう「曖」と書く。 九月一一十二日の日記に未 ( 4 ) 円覚曾参棒喝禅・ : にんせん 一九四 ( 1 ) 盤旋まわること。 定稿がみえる。第一句は漱石が明治二十七年 ( 1894 ) 十 かつけい 一九五 ( 1 ) 活計生計。 二月、二十七歳の時、鎌倉の円覚寺で座禅修業に加わっ ひやくせきかんとう た体験をさす。 ( 2 ) 百尺竿頭到達すべき極点のことをいう。 ( 3 ) 中華もと、漢民族が自分たちの住む国土を世 ( 5 ) 瞎児片目の子。物ごとの一面たけを見て他面 を見ない思慮の浅い人。ここは、おろかな自分のことを 界の中央に位置する文化的土地であると誇り称した語。 さす。 disillusion ( 英 ) 。幻減。 ( 4 ) ジスイリュージョン ( 6 ) 庸人凡人。おろかもの。 ( 5 ) 大塚夫人美学者大塚保治夫人、楠緒子。明治 よみのくに ( 7 ) 九原墓地。黄泉国。 八年 ( 1875 ) 生れ。小説家・詩人・歌人。四十三年十一 月九日神奈Ⅱ、 丿県大磯の療養先で死んた。十一月十三日、 っしょに来るべき 八月六日の日記 ( 本 409
しんげんぶくろ ( 7 ) 信玄袋手さげ袋の一種。板または厚紙で底を ひも 作り、ロを紐でしぼりくくるようにしたもの。 十月十三日の日記にみえる。 I<O ( 1 ) 釣台に : ( 2 ) 掛けたふつう「打った」という。 すゞきていじ ( 3 ) 鈴木禎次漱石の妻の妹時子の夫。明治二十九 年 ( 1896 ) 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業、同三 十二年から四十年まで英仏伊米に留学、帰国後大正十年 ( 1921 ) まで名古屋高等工業学校教授をつとめた。 ( 4 ) 杉本副院長医学博士杉本東造。明治三十五年 ( 1902 ) 東京帝国大学医学科卒業。のち、胃腸病院に勤 務。当時副院長であった。 十月十五日の日記 ( 本巻一二三九 ( 5 ) 思ひけり : ペ 1 ジ ) にみえる。 ・ことう ( 6 ) 後藤さん後藤暸平。六月二十一日の日記に 「医員後藤氏来。わざ / \ 長与院長の伝言を述ぶ。院長 病気にて、面会の機なきを憾むとのこと」とある。 ( 7 ) 院長医学博士長与称吉 ( 慶応一一年ー明治四十 三年、 1866 ー 191e 。長崎県の生れ。明治十七年 ( 1884 ) ドイツに留学して同二十六年帰国、日本橋本町に開業、 同二十九年内幸町に胃腸病院を創設した。日本における 胃腸病の権威で、死後男爵に叙された。東京帝大教授・ 医学博士長与又郎の兄にあたる。なお、十月十二日の日 記 ( 本巻三三八ページ ) 参照。 ひがし 〈一 ( 1 ) 東さん東新。長崎県の生れ。明治四十二年 ( 1909 ) 東京帝国大学哲学科卒業。のち、内務省に入り、・ さらに法政大学教授となった。漱石の五高時代の教え子 と思われ、この時、漱石の看護や家事の手伝いにあたっ ていた。 ( 2 ) 社東京朝日新聞社。 そっちまうくん ( 3 ) 雪鳥君坂元三郎。明治十二年ー昭和十三年 ( 1879 ー 1938 ) 。明治四十年 ( 187 ) 東京帝国大学国文科卒業後 社会部記者として朝日新聞社に入社、おもに同紙の能評 を担当し、能評の権威とされた。漱石の朝日新聞入社の あっゼん 斡旋に努力、この時社から出張して漱石の面倒をみた。 ( 4 ) 容態ふつう「容体ーと書く。 公一 ( 1 ) 逝く人に : 十月十二日の日記 ( 本巻三三八 ページ ) にみえる。 てんこう ( 2 ) 天幸天から与えられたしあわせ。 十月十三日の日記に「鶏頭に後 ( 3 ) たゞ一羽 : れずある月夜の雁」の句がある。 ( 4 ) ジェームス教授第二巻四四五ページ五三 ( 2 ) 参 照。「文学論」 ( 全集第十四巻所収 ) 第二章「文学的内容
注 おんしゃ に改められた。 ( 3 ) 御社豊一郎は当時「国民新聞」の記者であっ たっちゅう - 一 0 ) 塔頭四〇一べージ一五一 ( 3 ) 参照。新聞に発表 した時には「塔中」となっていたが、単行本では「塔頭」三五七 ( 1 ) アプリルナール Aprilna 「「 ( 独 ) 。 に改められた。 三五八 ( 1 ) 戸川明三明治三年ー昭和十四年 ( 1870 ー】 939 ) 。 一六二。ヘージ下段十五行目参照。これは ) 室中 評論家・英文学者。号、秋骨。東京帝国大学英文科 ( 選 単行本でもこのまま。 科 ) に学んだ。 三吾 ( 1 ) 赤門前明治四十二年 ( 1909 ) 九月八日から十二 ( 2 ) 新潮明治四十三年 ( 1910 ) 七月号で諸家の夏 月一一十九日まで「国民新聞」に連載された野上豊一郎の 目漱石論を特集した。 むらお 小説。単行本としての出版は実現しなかった。 ( 3 ) ・フラフ君中村武羅夫。当時「新潮」の記者で ( 2 ) 新文芸月刊文芸雑誌。明治三十四年 ( 1901 ) あった。 一月創刊。新文芸社発行。 三五九 ( 1 ) 島へ行くところ「小鳥の巣」下巻第三章以下。 がけした この手紙については「思い出す事など」 ( 3 ) 崖下の家明治四十三年 ( 】 9 】 0 ) 六月号「新文三六 0 ( 1 ) ニ八 芸」に掲載された豊一郎の小説。 第二十五章 ( 本巻一三八べージ ) 参照。 まんてう よろすちょ ) ほう ( 4 ) 万朝日刊新聞「万朝報」 ( 明治二十五年〈 18 三六一 ( 1 ) 原稿第一回「思い出す事など」の第「一」章 92 〉創刊 ) の通称。明治四十三年六月十日の新作紹介欄 をさす。明治四十三年 ( 1910 ) 十月二十九日の「東京朝 日ー文芸欄に掲載された。 に「崖下の家」についてその荒筋をのべたあとで「大し た作でない」と書かれている。 ( 2 ) 渋川は病気十月二十六日の日記 ( 本巻三四 0 しゃうかくこくし ちよくし 三五六 ( 1 ) 正覚国師夢窓国師の勅諡 ( 死後、天皇によっ 。ヘージ ) 参照。 おくりな どっこ えられた諡 ) 。 三六一一 ( 1 ) 独鈷の湯修善寺温泉町を流れる桂川の瀬に湧 くわんざんこくし ( 2 ) 関山国師建治三年ー正平十五年 ( 1277 ー 1360 ) 。 き出ている湯のことで、弘法大師が発見したと伝える。 臨済宗の高僧。京都にある妙心寺の開基。 現在も簡素な共同露天浴場となっている。
- 召 " ( 5 ) こがらし ( 3 ) いなづま 1 ) しせん 素川の東上を送る ・京に行かば寺に宿かれ時鳥 ( 九月六日寺田寅彦あて葉書から ) 範風の一人をふくや海の上 ( 九月十九日の日記から ) なみ 稲妻の砕けて青し浪の花 空狭き都に住むや神無月 〔明治三十四年〕 ( 4 ) ( 二月二十三日高浜虚子あて葉書から ) 凩や吹き静まって喪の車 ( 明治三十三年〕 つ ととぎす ( 七月四日 ) ( 二月十六日村上霽月あて葉書から ) ( 6 ) 三階に独り寐に行く寒かな ( 十二月一日高浜虚子あて書簡から二句 ) 倫敦にて子規の訃を聞きて ( 7 ) つっそで 筒袖や秋の柩にしたがはす 霧黄なる畆に動くや影法師 〔明治三十六年〕 ( 8 ) 落ちし雷を盥に伏せて胙の石 ( 9 ) ( 六月十七日井上微笑あて書簡から二句 ) 蝙蝠や一筋町の旅芸者 いち・こ 玻璃盤に露のしたゝる苺かな 〔明治三十五年〕 りばん たらひ ひつぎ ( 五月 ) 317
( 2 ) 先だっての旅行の手紙スイス・ドイツの各 地を旅行した便りで、「漱石先生へ」と題して明治四十三 年 ( 19m ) 十月二十七・一一十八日の文芸に掲載された。 しはうだ 美三 ( 1 ) 四方太第一巻五三六・ヘージ三九四 ( 川 ) 参照。 ふつご ( 2 ) 仏語を勉強いたしをり候十月二十八日の日 記に「昨日東よりビカーの仏訳来る。二三頁譿む」、翌二 十九日の日記に「日課、例によりウアードのダイナミッ ク社会学、ビカーの仏訳」とある。「ビカーの仏訳」と は、イギリスの作家ゴールドスミスの小説『ウェークフ ィールドの牧師』 ( : The Vicar of Wakefield") のフ ランス語訳。 三六四 ( 1 ) 内丸四三一べージ三一元 ( 5 ) 参照。 三六五 ( 1 ) アンチシーシス antithesis ( 英 ) 。正反対。 ( 2 ) ビジュアリゼーション visualization 央 ) 0 目に見えるように描くこと。心中描写。 ( 吉田精一 ) イ 38
( 二月二十四日高浜虚子あて葉書から ) わせだ 鼓打ちに参る早稲田や梅の宵 ( 手帳から一一句 ) 真蒼な木賊の色や冴返る 旬春惜む人にしきりに訪はれけり ( 六月三十日松根東洋城あて葉書から ) 《ー ) つづみう 蕎麦太ぎもてなし振や鹿の靑 ( 十月一一十九日。「虞美人草」切抜帖 ) 萩の蚊の鳴かすなりたる書斎かな ( 手帳から一一句 ) りよ ( 2 ) わうばくさん 茶の花や黄檗山を出でて里余 わが 吾影の吹かれて長き枯野哉 〔明治四十一年〕 ・そばふと まっさを ( 5 一 ぶり ( 4 ) さえ かな ( 9 ) ゅ ( 6 ) こ ( 八月。手帳から ) 温泉の村に弘法様の花火かな ( 九月八日の日記から二句 ) 別るるや夢一筋の天の 青梅や空しき籠に雨の糸 此の下に稲妻起る宵あらん ( 十一一月二十二日杉田作郎あて書簡から ) たんぽ へや 一つ湯残りぬ室の隅 〔明治四十二年〕 ( 八月二十六日。「新春夏秋冬」秋之部序の末に ) 初秋の芭蕉動ぎぬ枕元 〔明治四十三年〕 ( 7 ) いなづま ( 九月 ) 319
求めず、身近にある真の道の出発点を見出すように努め よ、といういましめのことば。 こうせんおしよう ( 2 ) 洪川和尚文化十三年ー明治二十五年田 6 ー 1892 ) 。姓は今北氏。摂津 ( 大阪・兵庫の一部 ) 西成郡福 島村の人。はじめ藤沢東該に儒学を学び、十九歳で出家、 一一十五歳で大拙禅師について修行をし、明治八年 ( 1875 ) 鎌倉円覚寺管長となった。著書に『蒼竜広録』などがあ り、当時学生の間で人気を呼び、漱石もその愛読者の一 人であった。 一七 0 ( 1 ) 商量はかり考えること。 ( 2 ) 思議思いはかること。 てき 一七三 ( 1 ) 狄米開の人。野蛮人。 きんきよくとう 一七四 ( 1 ) 金玉糖寒天に砂糖を加えて煮つめ、ざらめ砂 糖をまぶした菓子。 思い出す事など 一七九 ( 1 ) 病院千代田区内幸町にあった長与胃腸病院。 院長は長与称吉。一〈 0 ( 7 ) 参照。漱石は胃潰瘍のため明治 四十三年 ( 1910 ) 六月十八日この病院に入院、七月三十 一日退院、転地療養のため八月六日から修善寺温泉菊屋 旅館に滞在したが、病状悪化、八月二十四日には大吐血 により一時人事不省の危篤状態に陥った。その後やや小 康を得て、十月十一日帰京、新橋駅から直接この病院に 0 再入院し、翌四十四年二月二十六日退院した。「思い出 す事など」は、この再入院中に執筆されたものである。 よしす ( 2 ) 葭簀芦を編んで作ったすだれ。明治四十三年 ( 以下注釈中の日付は、すべてこの年のものである ) 六 ひさし 月二十九日の日記に「庇のさきに葭簀を出す。柱を立て てすり て。その中央から直角に台を手摺の上から長く出してそ の上で仕事をする」とある。 こう ( 3 ) 是公中村是公。第一巻五〇一一ペ 1 ジ一一五七 ( 3 ) 参 照。このころ出張で内地に滞在していた。六月三十日の かえで 日記に「中村是公から楓樹の盆栽を見舞にくれる。なか なか見事のものなり」とあり、以後の日記にもしばしば この盆栽についての記述がある。 十月十一日の日記 ( 本巻三三七 ( 4 ) 帰る日は : 。ヘージ ) 参照。 とうの 「桐油合羽」の略。油桐の種子からしぼ ( 5 ) 桐油 る油を引いた防水用紙で作る合羽をいう。 もりなり ( 6 ) 森成さん森成麟造。胃腸病院医員。朝日新聞 社の依頼で病院から修善寺に派遣され、漱石に付き添っ て治療・看護にあたった。