寐 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 8
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1. 夏目漱石全集 8

その時次の間の柱時計が二時を打った。その音で二 「音は一遍したぎりなのかい」 人ともちょっと言葉を途切らして、黙ってみると、夜 「だって今したばかりなのよ」 二人はそれで黙った。たゞじっと外の様子を伺ってはさらに静まり返ったように思われた。二人は目が冴 しすか いた。けれども世間はしんと静であった。いつまで耳えて、すぐ寐付かれそうにもなかった。お米が、 けしき そばだ を峙てていても、再び物の落ちてくる気色はなかった。「でも貴方は気楽ね。横になると十分経たないうちに、 かぶ 宗助は寒いと言いながら、単衣の寐巻の上へ羽織を被もう寐ていらっしやるんだから」と言った。 のぞ って、縁側へ出て、雨戸を一枚繰った。外を覗くとな「寐ることは寐るが、気が楽で寐られるんじゃない。 んにも見えない。たゞ暗いなかから寒い空気がにわかつまり疲れるからよく寐るんだろう」と宗助が答えた。 だせま こんな話をしているうちに、宗助はまた寐人ってし に腿に逼ってきた。宗助はすぐ戸を閉てた。 かきがねおろ 鉷を卸して座敷へ戻るやいなや、また蒲団の中へ潛まった。お米は依然として、のっそっ床の中で動いて いた。すると表をがら / \ としい音を立てて車が一 り込んだが、 よあけ 「なんにも変ったことはありやしない。たぶんお前の台通った。近ごろお米は時々夜明まえの車の音を聞い 夢だろう」と言って、宗助は横になった。お米は決して、驚ろかされることがあった。そうしてそれを思い ひきよう て夢でないと主張した。たしかに頭の上で大きな音が合わせると、いつも似寄った刻限なので、必竟は毎朝 したのだと固執した。宗助は夜具から半分出した顏を、同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。たぶん牛 乳を配達するためかなどで、あ急ぐに記いと極め お米の方へ振り向けて、 「お米、お前は神経が過敏になって、近ごろどうかしていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、 こゝろじようふ ているよ。もう少し頭を休めて、よく寐る工夫でもし隣人の活動が始ったごとくに、心丈夫になった。そう とり し洋【ら′、、、 6 こうしていると、どこかで鶏の声が聞えた。また少時 なくっちや不可ない」と言った。 いつべん ひとえ おど

2. 夏目漱石全集 8

もて 勘定した。そうしてようやく不安の色を面に表わした。での様子を聞くと、実はあまり眠いので、十一時半ご ゅうべ 昨夕までは寐られないのが心配になったが、こう前後ろ飯を食って寐たのだが、それまではお米もよく熟睡 不覚に長く寐るところを眼のあたりに見ると、寐るほしていたのだという。 うがなにかの異状ではないかと考えたした。 「医者へ行ってね、昨夜の薬を戴いてから寐たして、 ふとん さしつかえ 宗助は蒲団へ手を掛けて二三度軽くお米を揺振った。今になっても目が覚めませんが、差支ないでしようか くゝりまくら お米の髪が括枕の上で、波を打つように動いたが、おって聞いてきてくれ」 「はあ」 米は依然としてすう / \ 寐ていた。宗助はお米を置い ながもと こおけ ちやわん て、茶の間から台所へ出た。流し元の小桶の中に茶碗 月六は簡単な返事をして出ていった。宗助はまた座 ぬりわん げじよべや のぞ と塗椀が洗わないま、浸けてあった。下女部屋を覗く敷へ来て、お米の顔を熟視した。起してやらなくって と、清が自分の前に小さな膳を控えたなり、お胝に倚は悪いような、また起しては身体へ障るような、分別 つつぶ - どいし′ りかゝって突伏していた。宗助はまた六畳の戸を引い の付かない惑を抱いて腕組をした。 かけふとん て首を差し込んだ。そこには小六が掛蒲団を一枚頭か まもなく小六が帰ってきて、医者はちょうど往診に ひっかぶ ら引被って寐ていた。 出掛けるところであった、訳を話したら、では今から 宗助は一人で着物を着換えたが、脱ぎ捨てた洋服も、一二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と告げた。宗助は おしいれしま ほう 人手を借りすに自分で畳んで、押入に仕舞った。それ医者が見えるまで、こうして放っておいて構わないの ひばち から火鉢へ火を継いで、湯を沸かす用意をした。二三かと月 ~ / 冫し、 、、こ司、返したが、小六は医者が以上よりほ、 分は火鉢に倚れて考えていたが、やがて立ち上がって、になんにも語らなかったというだけなので、已を得す まくらべ ます小六から起しに掛かった。次に清を起した。二人元のごとく枕辺にじっと坐っていた。そうして心の中 とも驚ろいて飛び起きた。小六にお米の今朝から今まで、医者も小六も不親刧すぎるように感じた。彼はそ おど ひとり っ ま ゆすぶ はちょ ふたり ゅうべ からださわ うら

3. 夏目漱石全集 8

り合わせたので、宗助は周囲の刺激に気を使う必要が 夜は錐のような霜を挾さんで、からりと明け渡った。 え それから一時間すると、大地を染める太陽が、遮ぎるほとんどなかった。それで自由に頭の中へ現われる画 あおそらはゞか のぼ もののない蒼空に憚りなく上 ( - た。お米はまだすやすを何枚となく眺めた。そのうちに、電車は終点に来た。 うちかどぐち や寐ていた。 宅の門口まで来ると、家の中はひっそりして、誰も あさけ そのうち朝餉も済んで、出勤の時刻がようやく近づ いないようであった。格子を開けて、靴を脱いで、玄 さ いた。けれどもお米は眠りから覚める気色もなかった。関に上がっても、出てくるのはなかった。宗助はい ねいき 宗助は枕辺に曲んで、深い寐息を聞きながら、役所へ つものように縁側から茶の間へ行かすに、すぐ取付の ふすまあ 行こうか休もうかと考えた。 襖を開けて、お米の寐ている座敷へはいった。見ると、 まくらもと お米は依然として寐ていた。枕元の朱塗の盆に散薬の 袋と洋杯が載っていて、その洋杯の水が半分残ってい 朝のうちは役所で常のごとく事務を執っていたが、 るところも朝と同じであった。頭を床の間の方へ向け はおからし : えりもと おり / 、、昨夕の光景が目に浮ぶにつれて、しせんお米て、左の頬と芥子を貯った襟元が少し見えるところも き の病気が気に罹るので、仕事は思うように運ばなかっ朝と同じであった。呼息よりほかに現実世界と交通の まちがい ひる た。時には変な間違をさえした。宗助は午になるのをないように思われる深い眠も朝見たとおりであった。 けさでがけ 待って、思い切って宅へ帰ってきた。 すべてが今朝出掛に頭の中へ収めていった光景と少し 力し - っ 電車の中では、お米の目がいつごろ覚めたろう、覚も変っていなかった。宗助は外套も脱がすに、上から あと ねいき めた後は心持がたいぶ好くなったろう、発作ももう起曲んで、す う / \ いうお米の寐息をしばらく聞いてい きづかい る気遣なかろうと、すべて悪くない想像ばかり思い浮 た。お米は容易に覚めそうにも見えなかった。宗助は いつもと違って、乗客の非常に少ない時間に乗昨夕お米が散薬を飲んでから以後の時間を指を折って きり まくらべ ゅうべ さ コップ が さ ねむり あ とつつき

4. 夏目漱石全集 8

いわけでもなかったとみえて、それなり黙ってしまっ た。しばらくすると今度は細君のほうから、 「ちっと散歩でも為ていらっしゃい」と言った。しか なまへんじ しその時は宗助がたゞうんという生返事を返しただけ そうすけ えんがわざぶとん ひあた 宗助はさっきから縁側へ座蒲団を持ち出して、日当であった。 よ あぐら りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいてみたが、やが 二三分して、細君は障子の硝子の所へ顔を寄せて、 りよう のぞ て手に持っている雑誌を放り出すとともに、ごろりと縁側に寐ている夫の姿を覗いて見た。夫はどういう了 あきびより けんりようひざ 横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、 見か両膝を曲げて海老のように窮屈になっている。そ ひゞき げた 往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らか うして両手を組み合わして、そのなかへ黒い頭を突っ ひじまくら みあげ に聞えてくる。肱枕をして軒から上を見上ると、奇麗込んでいるから、肱に択まれて顔がちっとも見えない。 あお あなた な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寐てい 「貴方そんな所へ寐ると風邪引いてよ」と細君が注意 こと、 4 る縁側の、窮屈な寸法に較べてみると、非常に広大でした。細君の言は東京のような、東京でないような、 ある。たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけで現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。 まゆ だいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎ宗助は両肱の中で大きな目をばち / \ させながら、 まぼ らする日をしばらく見詰めていたが、眩しくなったの「寐やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。 ねがえ ( 1 ) ゴムぐるま で、今度はぐるりと寐返りをして障子の方を向いた。 それからまた静かになった。外を通る護謨車のベル しごと あと 障子の中では細君が裁縫をしている。 の音が二三度鳴った後から、遠くで鶏の時音をつくる したておろ ( 2 ) ほうせきおり 「おい、好い天気だな」と話しけた。細君は、 声が聞えた。宗助は仕立卸しの紡績織の背中へ、自然 「えゝ」と言ったなりであった。宗助も別に話がした と浸み込んでくる光線の暖味を、衣の下で貪ぼるほ よ くら にが こ し たいじようぶ し あに、かみ かせひ ガラス むさ っ じねん

5. 夏目漱石全集 8

うちじゅうひとまわり あと ふとん お米は家中を一回回った後、すべてに異状のないこ てそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団の上 もど りようひじ はらば、 で滑らした。しまいには腹這になったま、、両肱を突とを確かめたうえ、また床の中へ戻った。そうしてよ ねむ まぶた あが うやく目を眠った。今度は好い具合に、眼蓋のあたり いて、しばらく夫の方を眺めていた。それから起き上 ふだんぎ に気を遣わないで済むように覚えて、しばらくするう って、夜具の裾に掛けてあった不断着を、寐巻の上へ ちに、うと /. 、とした。 羽織ったなり、床の間の洋燈を取り上けた。 まくらもと あ あなた′、 するとまたふと目が開いた。なんだかずしんと枕元 「貴方々々」と宗助の枕元へ来て曲みながら呼んだ。 いびき その時夫はもう鼾をかいていなかった。けれども、元で響いたような心持がする。耳を枕から離して考える がけ たち のとおり深い眠から来る呼吸を続けていた。お米はまと、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達 ふすまあ た立ち上って、洋燈を手にしたまミ門 日の襖を開けての寐ている座敷の縁の外へ、転がり落ちたとしか思わ てもとひ 茶の間へ出た。暗い部屋がぼんやり手元の灯に照らされなかった。しかも今目が覚めるすぐまえに起った出 きごと たんす れた時、お米は鈍く光る簟笥の環を認めた。それを通来事で、決して夢の続じゃないと考えた時、お米は急 そば り過ぎると黒く燻ぶった台所に、腰障子の紙たけが白に気味を悪くした。そうして傍に寐ている夫の夜具の そで まじめ まんなか く見えた、お米は火の気のない真中に、しばらく佇す袖を引いて、今度は真面目に宗助を起しはじめた。 げじよべや 宗助はそれまでまったくよく寐ていたが、急に目が んでいたが、やがて右手にあたる下女部屋の戸を、音 かざ のしないようにそっと引いて、中へ洋燈の灯を翳した。覚めると、お米が、 もぐら 下女は縞も色もはっきり映らない夜具の中に、土竜の「貴方ちょっと起きてくださいーと揺っていたので、 ね のぞ 半分は夢中に、 ごとく塊まって寐ていた。今度は左側の六畳を覗いた。 「おい、好し」とすぐ蒲団の上へ起き直った。お米は がらんとして淋しいなかに、例の鏡台が置いてあって、 さっき こた 小声で先刻からの様子を話した。 鏡の表が夜中たけに凄く目に応えた。 すそ ねむり さみ こゞ ねまき っゞき ふとん ころ ゆす で ( 0

6. 夏目漱石全集 8

こおりぶくろ 小六とで受持 0 た。宗助は手拭の上から氷嚢を額の上せいだろうと思って、わざ / \ 鬢の毛を掻き上げてや った。そうして、 に当てがった。 とかくするうち約一時間も経った。医者はしばらく「少しは可いだろう」と聞いた。 すわ 経過を見てゆこうと言って、それまでお米の枕元に坐「え、よ 0 ぽど楽にな 0 たわ」とお米はいつものとお り微笑を洩らした。お米はたいてい苦しい場合でも、 っていた。世間話もおり / は交えたが、おおかたは ふたり 無言のまミ二人ともにお米の容体を見守ることが多宗助に微笑を見せることを忘れなか 0 た。茶の間では、 いびき つつぶ しずかふ 清が突伏したま、鼾をかいていた。 かった。夜は例のごとく静に更けた。 「だいぶ冷えますな」と医者が言 0 た。宗助は気の毒「清を寐かしてや 0 てください」とお米が宗助に頼ん になったので、あとの注意をよく聞いたうえ、遠慮なだ。 小六が薬取りから帰ってきて、医者の言い付けどお く引き取ってくれるようにと頼んだ。その時お米はさ り服薬を済ましたのは、もうかれこれ十二時近くであ つきよりはたいぶ軽快になっていたからである。 「もう大丈夫でしよう。頓服を一回上けますから今夜 0 た。それから二十分と経たないうちに、病人はすや 飲んでごらんなさい。たぶん寐られるだろうと思いますや寐入 0 た。 あんばい 「い塩梅た」と宗助がお米の顏を見ながら言った。 すーと言って医者は帰った。小六はすぐその後を追っ あによめ 小六もしばらく嫂の様子を見守っていたが て出ていった。 「もう大丈夫でしよう」と答えた。二人は氷嚢を額か 小六が薬取に行ったあいだに、お米は、 ら卸ろした。 「もう何時」と言いながら、枕元の宗助を見上けた。 ランプ やがて小六は自分の部屋へはいる。宗助はお米の傍 宵とは違って頬から血が退いて、洋燈に照らされたと ころが、ことに蒼白く映った。宗助は黒い毛の乱れたへ床を延べていつものごとく寐た。五六時間の後冬の うけも ほお あおじろ びん

7. 夏目漱石全集 8

た。彼等は毎晩こう暮らしてゆくうちに、自分達の生「鰹船で儲けたら、そのくらいわけなさそうなもんじ みいだ 命を見出していたのである。 ゃないか」 みやげ この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産に買って 「ほんとうね」 かん さん きたという養老昆布の罐をがら / \ 振って、中から山 お米は低い声で笑った。宗助もちょっとロの端を動 やつよ とぎ 椒入りの小さく結んた奴を選り出しながら、ゆっくり かしたが、話はそれで途刧れてしまった。しばらくし てから、 佐伯からの返事を語り合った。 こづかい 「しかし月謝と小遣ぐらいは都合してやってくれても「なにしろ小六は家へ来ると極めるよりほかに道はあ 好さそうなもんじゃないか」 るまいよ。後はそのうえのことだ。今じや学校へは出 「それができないんだって。どう見積っても両方寄せているんだね」と宗助が言った。 ると、十円にはなる。十円という纏ったお金を、今の 「そうでしよう」とお米が答えるのを聞き流して、彼 ところ月々出すのは骨が折れるって言うのよ は珍らしく書斎にはいった。一時間ほどして、お米が のぞ ふすま 「それじゃ此年の暮まで一一十何円ずつか出してやるのそっと襖を開けて覗いてみると、机に向って、なにか も無理じゃないか」 読んでいた。 「だから、無理をしても、もう一二か月のところだけ「勉強 ? もうお休みなさらなくって」と誘われた時、 は間に合せるから、そのうちにどうかしてくださいと、彼は振り返って、 安さんがそう言うんだって」 「うん、もう寐よう」と答えながら立ち上った。 ねまき へこおび 「実際できないのかな」 寐る時、着物を脱いで、寐巻の上に、絞りの兵児帯 わたし 「そりや私には分らないわ。なにしろ叔母さんが、そをぐる / \ 巻きつけながら、 う一『一口 ) つのよ」 「今夜は久しぶりに論語を読んだ」と言った。 ことし まとま うち あが

8. 夏目漱石全集 8

0 病まさに軽快に移らんとして、いまさら病を慕ふの然たるものあり。危篤の電報方々へかけたるよし。妻 情に堪へず。本復の後はか、る寛容ある、 stress なきは五六日なにも食はなかったよし。森成さんも四五日 しゃうがい 生涯、自己の好むま、の心の働きを尽して朝よりタに ほとんど飯も食はすに休息せざりしよし。顧みれば細 至る時間、朝夕余の周囲に奉侍してすべて世話と親刧き糸の上を歩みて深い谷を渡ったやうなものである。 まう、う を尽す社会の人、知人胼もしくは余を雇ふ人のイン〇看護婦を呼ぶとき杉本さんが早く行かないと間に合 ダルジェンス。 これ等はことみ、く一朝の夢と消はないといったよし。吐血後一週間は危険なりしよし。 え去りて、残るものは鉄のごとき堅き世界と、磨き澄杉本氏帰る時もう一度吐血すれば助からぬよしを妻に いへるよし。 まさねばならぬ意志と、戦はねばならぬ社会だけなら 九月ニ十七日 ( 火 ) ん。余は一日も今日の幸福を棄るを欲せず。 くもり せつに考ふれば希望三分二は物質的状況にあり。金〇曇。床の上に起きて顔洗、食事。 ね 〇昨夜もよく寐ず。寐れば必ず夢を見る。しかし寐て を欲するや切なり。 〇床に就きたる人の天地は床の上に限られることむろゐることがたいへん楽になった。 んなり。されどもわが病甚しき時の天地は狭き布団〇寐られぬ夜 へやあか ながさ ともし置いて室明き夜の長かな の上の一部分に限られたり。足の付く背の触るるとこ ろ腰の据わるところだけにてその他はわが領分にあら〇午腹減りてほとんど起ぎ直ること能はず。食後疲れ ぬ心なり。衰弱甚しければ容易に動きもならぬゅゑなて熟睡三十分、薬の時間に看護婦に起さる。 ( 2 ) あさひだき まくら ちさ り。小き枕にてもわが領分と領分でなきところありき。〇妻君と森成さんと東と朝日滝へ行ったらしい。午院 閑寂 頭を動かすはたいへんな事業なり。 ( 4 ) がんびしおり 0 病床のつれム \ に妻より吐血の時の模様をきく。慄〇反物屋が雁皮紙織と、真綿織を持ってくる。真綿織 せつ はなはた すっ っ みがす ふとん りつ ひる まわたおり ( 3 )

9. 夏目漱石全集 8

必ず遣ってもらう葬式を、余だけはどうしても二返執生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうか ひと きのう ′、い 1 し 行しなければ済まないと思ったからである。 と想像して独り楽しんだ。同時に昨日まで彼徊した藁 へや おがわ 舁かれて室を出るときは平であったが、階子段を降蒲団も鶺鴒も秋草も鯉も小河もことんく消えてしま っこ 0 りる際には、台が傾いて、急に輿から落ちそうになっ よっかく ( 1 ) 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 た。玄関に来ると同宿の浴客がおおぜい並んで、左右 万事休時一息回。余生豈忍比残灰。 0 0 ( 2 ) 0 0 0 0 0 0 ( 3 ) 0 0 0 0 から白い輿を目送していた。いずれも葬式の時のよう 風過古澗秋声起。日落幽篁瞑色来。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 に静かに控えていた。余の寐台はその間を通り抜けて、 漫道山中三月滞。詛知門外一天開。 かっ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ( 4 ) 0 0 ( 5 ) 0 雨の降る庇の外に担ぎ出された。外にも見物人はたく 帰期勿後黄花節。恐有羇魂夢旧苔。 さんいた。やがて輿を竪に馬車の中に渡して、前後相 ( 明治四三・一〇・二九ーー・・四四・二・二〇 ) 対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取って拵 おさま らえたので、輿はきっしりと旨く馬車の中に納った。 ほろ しようかい 馬は降るなかを動きだした。余は寐ながら幌を打っ雨正月を病院で為た経験は生涯にたった。一遍しかない。 の音を聞いた。そうして、御者台と幌の間に見える窮松飾りの影が目先に散らっくほど暮が押し詰 0 たこ ありがた めす 屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片を難有くゑ余ははじめてこの珍らしい経験を目前に控えた自 たけやぶ かきもみじ むくげがき 拝した。竹藪の色、柿紅葉、やの葉、槿垣、熟した稲分を異様に考えだした。同時にその考が単に頭だけに ・こう の香、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなもの働らいて、毫も心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不 の有るべき季節であると、生れ返ったように憶い出し思議に思った。 うれ ては嬉しがった。さらに進んでわが帰るべきところに 余は白い寝床の上に寐ては、自分と病院と来るべき あた をいかなる新らしい天地が、寐ほけた古い記憶を蘇春とをかくのごとくいっしょに結び付ける運命の酔興 きわ ひさし たいら はしごだん はた 244

10. 夏目漱石全集 8

たしか ′」いム〃し 東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、行徊しつ \ 予定のとおり二週間の過ぎ去るのを待っ あくる 今二週間の後にという挨携であ 0 た。挨拶があ 0 た翌た。 日から余は自分の寐ている地と、寐ている室を見捨る その二週間は待ち遠い歯掻さもなく、またあっけな のが急に惜しくなった。約東の二週間がなるべくゆっ い不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二 ねが くり回転するようにと冀った。かって英国に居たころ、週間のごとくに去った。そうして雨の濛々と降る暁を せいいつばい英国を悪んだことがある。それはハイネ最後の記念として与えた。暗い空を透かして、余は雨 しん・こう が英国を悪んだごとく因業に英国を悪んだのである。 かと聞いたら、人は雨だと答えた。 まぎわ うず けれども立っ間際になって、知らぬ人間の渦を巻いて 人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものを拵 ら うちか 流れているロンドンの海を見渡したら、彼等を包む鳶らえて、それを座敷の中に舁き入れた。長さは六尺も 色の空気の奥に、余の呼吸に適する一種の瓦斯が含まあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かっ れているような気がしだした。余は空を仰いで町の真た。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上に反 なかたゝ 中に佇すんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、り返るように工夫してあった。そうして全部を白い布 からだよこた ひとたゝ そっ 病む驅を横えて、床の上に独り佇ずまざるを得なかつで捲いた。余はかれて、この高く反た前方に背を託 た。余は特に余のために造ってもらった高さ一尺五寸して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だ わらぶとん せきばく ことば ほどの偉大な藁蒲団に佇ずんだ。静かな庭の寂寞を破なと思った。生きたものに葬式という言葉は穏当でな ゃねがわら ねだい ねかん かたっ なる鯉の水を切る音に佇ずんだ。朝露に濡れた屋根瓦の いが、この白い布で包んだ寐台とも寐棺とも片の付か おちこち うご せきれい まくらもとか とむら す上を遠近と尾を揺かし歩く鶺鴒に佇ずんだ。枕元の花ないものの上に横になった人は、生きながら葬われる 瓶にも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろ / 、と流れるとしか余には受け取れなかった。余はロの中で、第二紹 思 水の音にも佇ずんだ。かくわが身を繞る多くのものにの葬式という言葉をしきりに繰り返した。人の一度は ふたり あ つ へや とび うち