に少なくって、かえってないつもりの借金がだいぶあについて、いっさいのことを叔父に一任してしまった。 ったに驚ろかされた。叔父の佐伯に相談すると、仕方早くいうと、急場の金策に対する報酬として、土地家 やしき がないから邸を売るが好かろうという話であった。妾屋を提供したようなものである。叔父は、 「なにしろ、こういうものは買手を見て売らないと損 は相当の金を遣ってすぐ暇を出すことに極めた。小六 だからね」と言った。 は当分叔父の家に引き取って世話をしてもらうことに せき かんじん した。しかし肝心の家屋敷はすぐ右から左へと売れる道具類も積ばかり取って、金目にならないものは、 かけるの わけにはゆかなかった。仕方がないから、叔父に一時ことみ \ く売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の さが こっとうひん の工面を頼んで、当座の片を付けてもらった。叔父は骨董品だけは、やはり気長に欲しがる人を探さないと 損だという叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む 事業家でいろ / 、なことに手を出しては失敗する、 てもと ありがね やまぎ わば山気の多い男であった。宗助が東京にいる時分も、ことにした。すべてを差し引いて手元に残った有金は、 よく宗助の父を説き付けては、旨いことをいって金を約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちのい 引き出したものである。宗助の父にも欲があったかもくぶんを、小六の学資として、使わなければならない かねだか しれないが、この伝で叔父の事業に注ぎ込んだ金高は、と気が付いた。しかし月々自分の方から送るとすると、 今日の位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい 決して少ないものではなかった。 父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元とあま結果に陥りそうなので、苦しくはあったが、思い切っ よろ り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、て、半分だけを叔父に渡して、なにぶん宜しくと頼ん しくじ またこういう男の常として、いざという場合には比較だ。自分が中途で失敗ったから、せめて弟だけはもの 的融通の付くものとみえて、叔父は快よく整理を引ぎにしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあと 受けてくれた。その代り宗助は自分の家屋敷の売却方は、またどうにか心配もできようし、またしてくれる おど かた こ、ろ しかた
執ることができない。 「それから」は代助と三千代とが姦通する小説であつ新 た。「門は姦通して夫婦となった宗助とお米との小 説である。この二編はいろいろの点から見て、切り放 して読むことのできない理由を持っている。もちろん 先生はその後の代助三千代を書くつもりで、「門」を 作られたのであろう。そこで僕も始終「それから」と 比較して自分の考を言おうと思う。 谷崎潤一郎 誰やらが「漱石は自然主義に近くなった」と言った 僕は漱石先生をもって、当代にズバ抜けた頭脳と技と覚えている。もし「門ーを読んでなおこの言をなす 倆とを持った作家だと思っている。多くの欠点と、多人があれば、それは大なる謬りといわねばなるまい。 くの批難とを有しつつなお先生は、その大たるにおい 「門」は「それから」よりも一層露骨に多くのうそを描 いている。そのうそは、一方においては作者の抱懐す て容易に他の企及すべからざる作家だと信じている。 紅葉なく一葉なく二葉亭なき今日において、僕は誰にる上品なるーーしかし我々には縁の遠い理想である。 遠慮もなく先生を文壇の第一人と認めている。しかも一方においては先生の老獪なる技巧である。以下僕は 従来先生の評判は、その実力と相伴わざる恨があった。逐一そのうそを指摘してみたい。 それたけ僕は、先生について多くの言いたい事論じた 宗助とお米とは姦通によってでき上った夫婦である。 い事を持っている。「門」を評するにあたりて、まず「宗助は当時を憶い出すたびに、自然の進行が其所で これたけの断り書きをしておかないと、安心してをはたりと留まって、自分もお米も忽ち化石してしまっ 同時代人の批評
たにしても、羸ち得る当人の愉快はたヾ二三同好の評 過程がまた嬉しい。ようやく成ったあかっきには、形 あと 判だけで、その評判を差し引くと、後に残るものは多のない趣をはっきりと目の前に創造したような心持が 量の不安と苦痛にすぎないことに帰着してしまう。 してさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価 いとま ところが病気をするとだいぶ趣が違ってくる。病気値があるかないかは顧みる遑さえない。 の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から おおめ 自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれ懇刧な見舞を受けた。衰弱の今の身ではそのいち / \ そむ る。こちらには一人前働かなくても済むという安心が にいち / 、の好意に背かないほどに詳しい礼状を出し でき、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒たとて、自分がつい死にもせず今日に至った経過を報する ( 4 ) しようじよう いう遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めなわけにもゆかない。 「思い出す事など」を牀上に書き い長閑かな春がそのあいだから湧いて出る。この安ら始めたのは、これがためである。ーー各々に向けて言 ぐう ( 5 ) かな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、 い送るべぎはすのところを、略して文芸欄の一隅にの できばえ 出来栄のいかんはまず措いて、できたものを太平の記み載せて、余のごときもののために時と心を使われた ありがた たっとわか 念と見る当人にはそれがどのくらい貴いか分らない。 難有い人々にわが近況を知らせるためである。 病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いら したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句を挾一 のが れた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、 むのは、単に詩人俳人としての余の立場を見てもらう 本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た つもりではない。実をいうとその善悪などはむしろど ゅうぜんみ ( 3 ) てんらい さいもん われ 時、油然と漲ぎり浮かんだ天来の彩紋である。吾とも うでも好いとまで思っている。たゞ当時の余はかくの とら うれ なく興の起るのがすでに嬉しい、その興を捉えて横に ごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一 咬み竪に砕いて、これを句なり詩なりに仕立上る順序の迅きうちに、読者の胸に伝われば満足なのである 9 むこ ひと はさ
思い出す事など てんめん に纏綿してぎた。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水 仙も、雑煮も、 あらゆる尋常の景趣はことム \ く 消えたのに、たゞ当時の自分と今の自分との対照だけ がはっきりと残るためたろうか。 ( 明治四四・四・一 lll) 2 イ 7
注 ( 7 ) 山田という奥さん四一〇ページ一一 0 一 ( 2 ) 参照。 佐木弘綱 ( 歌人・国学者 ) が庭に竹柏を植えて「竹柏園」 ( 8 ) 虎屋港区赤坂表町に現在もある有名な菓子屋。 と号したのを継承したもので、歌壇の一派「竹柏会」を 江戸時代の創業で、羊羹が名物。 設立した。ここは、その「竹柏会」をさしている。なお、 ( 9 ) お産四三一一。ヘージ三四三 ( 3 ) 参照。 当時大塚楠緒子は佐佐木信綱に師事していた。 もん 三四九 ( 1 ) 題は門というので : 小宮豊隆著『漱石の三五 0 ( 1 ) 千葉県成田町当時、鈴木三重吉はこの地の成 芸術』によれば、漱石は、朝日から予告に必要とする新 田中学の英語教師をしていた。 小説の題名をしきりに催促されたが、内容の構想を練る ( 2 ) 小鳥の巣明治四十三年 ( 19 】 0) 三月から十月 ことに多忙だったため、「文芸欄」下働きの草平に適当に まで「賦民新聞」に連載された小説。大正元年 ( 】日 2 ) 見つけることを依頼、草平は豊隆に相談したが、二人は 十一月、春陽堂から出版された。 窮した余りたまたま机上にあった『ツアラトッストラ』 ( 3 ) 一回「朝日」に連載中の「門」一回分。 しらかば のページを開いて出て来た「門」という言葉に決定、漱 ( 4 ) 白樺一号雑誌「白樺」は、武者小路実篤・志 石はその翌日の明治四十三年 ( 1910 ) 二月二十二日、朝日 賀直哉ら学習院出身者によって明治四十三年 ( 19 】 0 ) 四 紙上に出た予告文で、はじめて、これから自分が書こう 月に創刊された。廃刊は、大正十一一年 ( 1923 ) 九月。 とする小説の題名を知ったという。 ( 5 ) 「それから , 評「白樺」創刊号に掲載された武 ( 2 ) 林原 ( 当時岡田 ) 耕三鳥取県の生れ。松山 者小路実篤の評論「『それから』に就て」 ( 第七巻所収 ) を さす。 中学での漱石の教え子で、のち漱石をたより、漱石もか なりまめに面倒をみている。大正七年 ( 1918 ) 東京帝国 ( 6 ) 畔柳都太郎 本巻四一七ページ一一三九 ( 2 ) に前 出。 大学英文科を卒業し、のち松山高女・明治大学などで英 ごたく 文学を講じ、俳句も作った。 三五一 ( 1 ) 誤詫正しくは「御託」と書く。 ( 3 ) 印学校の保証人の印。 ちくはくゑん ( 2 ) 小鳥の巣に至って燕の巣の描写が出てくる跖 ( 4 ) 竹柏園歌人・国文学者佐佐木信綱の号。父佐 「小鳥の巣」第八章をさす。
なや、その宛名の人をして封を切らぬさきに少しはっ と思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害で こちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞と平 信をかねたものにすぎなかった。出した局の名が本郷 とあるのを見てこれは草平君を頃わしたものと知った。妻の手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであっ 雨はます / \ 降り続いた。余の病気はしだいに悪い た。冒頭に東洋城から余の病気の報知を受けた由と、 しる すくな ほうへ傾いていった。その時、余は夜の十二時ごろ長それがため少からす心を悩ましている旨を記して、看 距離電話を掛けられて、硬い胸を抑えながら受信器を病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめ 耳に着けた。茅が崎の子供も無事、東京の家も無事とて電話たけでもと思って、その日のうちには通じかね ( 2 ) いうことだけがかすかに分った。しかしその他はまつるところを、無理な至急報にしてもらって、夜半に山 ふとくようりよう たく不得要領で、ほとんど風と話をするごとくに纏ま田の奥さんのところから掛けたという説明が書いてあ こども ひとかた らない雑音がぼう / \ と鼓膜に響くのみであった。第った。茅が崎にいる子供の安否についても一方ならぬ ( 3 ) しつけんざかした 心配をしたものらしかった。十間坂下という所は水害 一掛けた当人がわが妻であるということさえ覚らずに あなた なんべんくりかえ 、まの恐れがないけれども、もし万一のことがあれば、郵 こちらから貴方という敬語を何遍か繰返したくらし ( たより こう亠 , い んやりした電話であった。東京の音信が雨と風と洪水便局から電報で宅まで知らせてもらうはずになってい りようせん なのなかに、悩んでいる余の目にはじめて瞭然と映ったると、余に安心させるため、わざ / 、断ってあった。 ひらち うけ すのは、坐る暇もないほど忙しい思いをした妻が、当時そのほか市中たいていの平地は水害を受て、現に江戸 がわどおり ( 4 ) やらい ありまゝしたゝ 出 の事情を有の儘に認めた巨細の手紙がようやく余の手川通などは矢来の交番の少し下まで浸ったため、舟に似 ゆきき に落ちた時のことであった。余はその手紙を見て自分乗って往来をしているという報知も書き込んであった。 かたぶ こさい おさ よ さと の病を忘れるほど驚いた。 病んで夢む天の川より出水かな しかた でみづ つか
説 解 うち立てることを意味せず、むしろ個々のものにあた 子規の画の場合には、筆端に自ずから批判をもふくめ って、趣味の統一を要求するまでのことである、と説 ているが、ケーベル先生の方は、客観的に叙しながら、 いている。 自然にこの世外の人に似た人格をなっかしげに見守っ この三編ともに、ほとんど評論壇を独占していた自 ているけはいがある。 然主義論客を横目でにらみ、それらにあてて立言して いることはいうまでもあるまい 「鑑賞の統一と独立」は鑑賞が主観的なものであり、 次に「博士間題」と以下の四編について云うと、前 したがって個別的なものであるべきだが、その背後に 芸術論上の の二つは談話筆記であり、あとの二つは筆をとって書 客観を予想し、統一性を要請するという、 いたものであるが、内容は読めば明らかでとくに解説 大間題にサッとふれただけのものたが、間題が間題だ するまでもない。当時の学位には推薦によるものと、 けに興味ふかい。 「好悪と優劣」と「イズムの功過」とは、いわばそれ論文審査の結果学位を与えられるものと二種があり、 を更に追求して敷衍したものである。「イズムの功過」漱石は二月二十一日、佐佐木信綱、幸田成行 ( 露伴 ) 、 では、一つの型をつくって、その中に個別的な現実を森泰次郎 ( 槐南 ) 、有賀長雄らとともに、文学博士の学 強いてはめこむことを否定する。これはある意味では、位を授与されることになった。しかし漱石は「一国の 鑑賞の統一を否定することになる。それでおいかけて学者を挙げてことみ \ く博士たらんがために学間をす 「好悪と優劣」によって、好悪を優劣に置きかえることるというような気風」を慨し、また「学間は少数の博 が、主観を客観化する所以であることを説き、そこに、士の専有物となって、僘かな学者的貴族が、学権を掌 鑑賞上の普遍性と統一性を望む志向を見出そうとして握し尽すに至る」 ( 博士間題の成行 ) ことをおそれて、 いる。といっても、それは芸術上のカノン ( 法則 ) をそれを辞退したのである。当時の博士は今日とちがい、 と 81
道義上切り離すことのできない一つの有機体になった。じがる心を、自分でしかと認めることがあった。その としつきさか 二人の精神を組み立てる神経糸は、最後の繊維に至る場合には必す今まで睦まじく過ごした長の歳月を溯の あが ぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえて まで、互に抱き合ってでき上っていた。彼等は大きな したかという当時を憶い出さないわけこよ、 水盤の表に滴たった二点の油のようなものであった。 ふくしゅう っしょに集まったというより , も、 水を弾いて二つがい た。彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐 ひざま いきおい 水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れることの下に、戦きながら跪すいた。同時にこの復讐を受け るために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の杳を ができなくなったと評するほうが適当であった。 むちう 彼等はこの抱合のうちに、尋常の夫婦に見出しがた焚くことを忘れなかった。彼等は鞭たれつ、死に赴く むち そな ものであった。たゞその鞭の先に、すべてを癒やす甘 い親和と飽満と、それに伴なう倦怠とを兼ね具えてい ものう い蜜の着いていることを覚ったのである。 た。そうしてその倦怠の慵い気分に支配されながら、 宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼 自己を幸福と評価することたけは忘れなかった。倦怠 ねむり は彼等の意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をう等に共通な派出な嗜好を、学生時代には遠慮なく充た かす っとり霞ますことはあった。けれども簓で神経を洗わした男である。彼はその時服装にも、動作にも、思想 おもかげみなぎ にも、ことみ \ く当世らしい才人の面影を漲らして、 れる不安は、決して起しえなかった。要するに彼等は 世間に疎いたけそれだけ仲の好い夫婦であったのであ昂い首を世間に擡げつゝ、行こうと思う辺りを濶歩し る。 た。彼の襟の白かったごとく、彼の洋袴の裾が奇麗に きよう くった かわ むつ 彼等は人並以上に睦ましい月日を渝らずに今日から折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴足 きやしゃ もよういり 明日へと緊いでいきながら、常はそこに気が付かすに袋が模様入のカシミヤであったごとく、彼の頭は垂奢 顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まな世間向きであった。 たち た び えり おの、 ズ飛ノすそ かっ・は おもむ み 114
簡 大兄は冒頭より漱石党と名乗って出でられ候御厚意 ニ六再び「小鳥の巣」を賞す 御奮発に対して小生とくに他の諸君以上にお礼を申さ 七月ニ十一日 ( 木 ) 午前八時ー九時な町区内幸町胃 ねばならぬ義務これあり候。しかるところ御批評のな つきあ 腸病院より千葉県成田町鈴木三重吉へ〔はがき〕 かに漱石は付合ひにくい男とこれあり。これも貴意を ありがたそろ さふら 諒し候へどもはなはだ心細く候。小生から申せば大兄拝啓このあひだはお見舞難有く候。お手紙も拝見 つきあび いんぎん いたし候。もう少しで退院くらゐできさうに候。小鳥 は小生に対しあまりに慇懃すぎて付合にくく候。これ を両方で撤回してもっと無遠慮になったらもっとお互の巣島へ行くところからたいへんよろしきゃう存ぜら が楽になるだらうと存じ候。小生は御評を拝見せぬまれ候。あの調子ではじめから行かなかったのがはなは さう / 、、 へより常にさう考へをり候ところあれを見ていよ ~ くだ残念に候。右まで。艸々 思ひ当り候ゃうな心持に候。私はいつでも無遠慮にな ニ七病院より岡田耕三へ れる男に候。大兄はみんなから淡泊な人と評されてを 七月ニ十九日 ( 金 ) 午後八時ー九時麹町区内幸町胃 らるる紳士に候。御相談のうへこれから交際法を変化 腸病院より北海道小樽区量徳町五十八番地林原 ( 当時岡 してみたらどうだらうかと存じ候。貴意いかに。と申 田 ) 耕三へ したからといって別に御返事を予期するわけにもこれ なし。まづ病中のいたづらとお聞き流しくださるべく 手紙をもらって返事を出そうと思っても人がたえず さう・′、とんしゅ 候。艸々頓首 来るのと瀬いのとではなはだ失礼した。 七月三日 金之助 測瘍の療治は一段落ついて今は消化試験やら胃液 秋骨先生 の試験やらをやっている。もう少ししたら退院の許可 が出るだろうと思う。時々散歩を許されたので日比谷 だる 359
修善寺で病気がぶり返して、社から見舞のため森成 仕切はだいぶいほうでしたが、近来また少し寒くな ったものですから : : : と言う答たったので、余はどうさんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病 よろ あいさっ ぞお逢いの節は宜しくと挨拶した。その晩はそれぎり院の都合上とても長くはと言っているその晩に、院長 あくるひ なんの気も付かずに寐てしまった。すると明日の朝はわざ / \ 直接森成さんに電報を打って、できるたけ あなた まくらもとすわ が来て枕元に坐るやいなや、実は貴方に隠しておりま余の便宜を計らってくれた。その文句は寐ている余の まくらもと ( 3 ) せっちょう ながよ したが長与さんは先月五日に亡くなられました。葬式目にはむろん触れなかった。けれども枕元にいる雪鳥 おん ( 1 ) ひがし には東さんに代理を頼みました。悪くなったのは八月君から聞いたその文句の音だけは、いまだに好意の記 憶として余の耳に残っている。それは当分その地に留 末ちょうど貴方の危篤だった時分ですと言う。余はこ つきそい の時始めて付添のものが、院長の計をことさらに秘しまり、十分護に心を尽すべしとかいう、森成さんに おごそ とってはずい・ふん厳かに聞える命令的なものであった 9 て、余に告けなかったことと、またその告げなかった ( 4 ) ようだい 意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長の容態が悪くなったのは余の危篤に陥ったのと ぼうぜん 院長やらをとかく比較して、しばらくは茫然としたま ほゞ同時だそうである。余が鮮血を多量に吐いて傍人 ま黙っていた。 からとうてい回復の見込がないように思われた二三日 ことし あと ぜん 院長は今年の春から具合が悪かったので、この前入後、森成さんが病院の用事だからと言って、ちょっと みあわ 院した時にも六週間のあいだついそ顔を見合せたこと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、そ ながなかった。余の病気のよしを聞いて、それは残念た、れから十日ほど経って、また病院の用事ができて二度 もど ナ自分が健康でさえあれば治療に尽力してあげるのにと東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそ ことづて 山田 いう言伝があった。その後も副院長を通じて、よろしうである。 くという言伝が時々あった。 当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配を しきり よ た ( 2 ) ぼうしん 787