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検索対象: 夏目漱石全集 8
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1. 夏目漱石全集 8

注 ( 6 ) 一中「一中節」の略。 もめ ( 7 ) 物集のお嬢さん姉妹物集高見 ( 第一巻五一 六ページ三一九 ( 新 ) 参照 ) の娘たち、和子および芳子。平 塚雷鳥を中心とする女流文学雑誌「青踏」の同人で、 「新小説」などにも小説を発表している。 ( 8 ) 高架正しくは「後架」。便所の異称。 ( 9 ) 文部省の絵画展覧会四一三。〈ージ一一会 ( 2 ) 参照。 RudoIph Ernest Reuter アメリカ ( ) ロイテル の音楽家。ドイツに留学後、明治四十三年 ( 1910 ) 日本 政府の招きで来日、三年間東京音楽学校の教師を勤め、 のち、シカゴ音楽大学教授などになった。 Heinrich Werkmeister ( Ⅱ ) エルグマイステル ドイツの音楽家。明治四十年 ( 1907 ) 来日。大正十年 ( 19 21 ) まで東京音楽学校教師を勤めた。 おさないかおる ) 小山内薫の催しで : ・小山内薫の主宰する自由劇 場が、旗上げ公演として明治四十二年十一月に興行した。 もりおうがい ( ) 訳は森鵐外鸛外は、 lbsen の "J0hn Gbriel Borkman ご ( 1896 ) 翻訳を明治四十二年 ( 1909 ) 七月か ら九月にかけて「国民新聞」に連載。同年十一月画報社 からこれが出版された。 語四 ( 1 ) 「それから」東京・大阪朝日新聞に連載後、明 治四十三年 ( 1910 ) 一月、春陽堂から出版された。 ( 2 ) 小説「門」をさす。二月二十二日に予告が出、 三月一日から六月十二日にかけて東京・大阪朝日新聞に 連載された。 ( 3 ) 理科大学東京帝国大学理学部の旧称。「三四 郎」に登場する野々宮宗八は、寺田寅彦がモデルで、そ の研究室の模様などもいろいろ描かれている。 ( 4 ) 正しくは「彗星」。「三四郎」第九章 ( 第 六巻一六〇。ヘージ ) に彗星に関する議論が出てくる。 みかわや ( 5 ) 三河屋赤坂表町にあった料亭。 ( 6 ) 美学会大塚保治を中心に東京帝国大学哲学科 の美学専攻生・卒業生によって作られていた研究会。な お、漱石は明治四十四年 ( 1911 ) 六月二十八日、この研 究会のために講演している。 ( 7 ) 休刊多きゅゑ朝日の文芸欄は設置以来ほとん ど毎日設けられていたが、この年一月二十八日から二月 五日までの九日間は、二月一日に漱石の「客観描写と印 象描写」が出ただけで、あとは休欄になっている。 ( 8 ) 原稿阿部次郎が、「癡郎」の匿名、「よせ鍋」 という題で文芸襴に投稿した文芸評論をさす。二月六日

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文で、一八六〇年に発表され、のち、「第一原理」「生物 十五日の日記 ( 本巻三四二ページ ) 参照。 学原理」「心理学原理」「社会学原理」「倫理学原理」の各一九六 ( 1 ) 忘るべからざる八月二十四日大吐血により 論を発表し、一八九六年に完成した。 危篤状態に陥ちいった日である。 きぐろ せんやく 一九三 ( 1 ) ハレー彗星イギリスの天文学者 Edmund ( 2 ) はじめは煎薬に似た黄黒い水を Halley が一六八二年にその軌道を決定した大彗星で、 十二日の日記 ( 本巻三二四ページ ) 参照。 長い尾をひいているので有名。周期は約七十六年。明治 ( 3 ) 注告ふつう「忠告」と書く。 せつぜん 四十二年 0909 ) 十月二十五、二十六日の「東京朝日新一九七 ( 1 ) 截然区分のはっきりしたさま。ここは、苦痛 聞」に「 ( レー彗星出現」の記事があり、同年十一月二 が明確で激烈なこと。 あたり さいじようほう 十三日の同新聞にその運行図が出ており、以後連日のよ ( 2 ) 臍上方三寸の辺へその三寸うえ、すなわち、 うにこの彗星に関する記事がみえる。翌四十三年四月十 胃のあたり。 おくび 六日太陽に最も近く、同五月十六日地球に最も近づいて ( 3 ) 噫ふつう「曖」と書く。 九月一一十二日の日記に未 ( 4 ) 円覚曾参棒喝禅・ : にんせん 一九四 ( 1 ) 盤旋まわること。 定稿がみえる。第一句は漱石が明治二十七年 ( 1894 ) 十 かつけい 一九五 ( 1 ) 活計生計。 二月、二十七歳の時、鎌倉の円覚寺で座禅修業に加わっ ひやくせきかんとう た体験をさす。 ( 2 ) 百尺竿頭到達すべき極点のことをいう。 ( 3 ) 中華もと、漢民族が自分たちの住む国土を世 ( 5 ) 瞎児片目の子。物ごとの一面たけを見て他面 を見ない思慮の浅い人。ここは、おろかな自分のことを 界の中央に位置する文化的土地であると誇り称した語。 さす。 disillusion ( 英 ) 。幻減。 ( 4 ) ジスイリュージョン ( 6 ) 庸人凡人。おろかもの。 ( 5 ) 大塚夫人美学者大塚保治夫人、楠緒子。明治 よみのくに ( 7 ) 九原墓地。黄泉国。 八年 ( 1875 ) 生れ。小説家・詩人・歌人。四十三年十一 月九日神奈Ⅱ、 丿県大磯の療養先で死んた。十一月十三日、 っしょに来るべき 八月六日の日記 ( 本 409

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注 おんしゃ に改められた。 ( 3 ) 御社豊一郎は当時「国民新聞」の記者であっ たっちゅう - 一 0 ) 塔頭四〇一べージ一五一 ( 3 ) 参照。新聞に発表 した時には「塔中」となっていたが、単行本では「塔頭」三五七 ( 1 ) アプリルナール Aprilna 「「 ( 独 ) 。 に改められた。 三五八 ( 1 ) 戸川明三明治三年ー昭和十四年 ( 1870 ー】 939 ) 。 一六二。ヘージ下段十五行目参照。これは ) 室中 評論家・英文学者。号、秋骨。東京帝国大学英文科 ( 選 単行本でもこのまま。 科 ) に学んだ。 三吾 ( 1 ) 赤門前明治四十二年 ( 1909 ) 九月八日から十二 ( 2 ) 新潮明治四十三年 ( 1910 ) 七月号で諸家の夏 月一一十九日まで「国民新聞」に連載された野上豊一郎の 目漱石論を特集した。 むらお 小説。単行本としての出版は実現しなかった。 ( 3 ) ・フラフ君中村武羅夫。当時「新潮」の記者で ( 2 ) 新文芸月刊文芸雑誌。明治三十四年 ( 1901 ) あった。 一月創刊。新文芸社発行。 三五九 ( 1 ) 島へ行くところ「小鳥の巣」下巻第三章以下。 がけした この手紙については「思い出す事など」 ( 3 ) 崖下の家明治四十三年 ( 】 9 】 0 ) 六月号「新文三六 0 ( 1 ) ニ八 芸」に掲載された豊一郎の小説。 第二十五章 ( 本巻一三八べージ ) 参照。 まんてう よろすちょ ) ほう ( 4 ) 万朝日刊新聞「万朝報」 ( 明治二十五年〈 18 三六一 ( 1 ) 原稿第一回「思い出す事など」の第「一」章 92 〉創刊 ) の通称。明治四十三年六月十日の新作紹介欄 をさす。明治四十三年 ( 1910 ) 十月二十九日の「東京朝 日ー文芸欄に掲載された。 に「崖下の家」についてその荒筋をのべたあとで「大し た作でない」と書かれている。 ( 2 ) 渋川は病気十月二十六日の日記 ( 本巻三四 0 しゃうかくこくし ちよくし 三五六 ( 1 ) 正覚国師夢窓国師の勅諡 ( 死後、天皇によっ 。ヘージ ) 参照。 おくりな どっこ えられた諡 ) 。 三六一一 ( 1 ) 独鈷の湯修善寺温泉町を流れる桂川の瀬に湧 くわんざんこくし ( 2 ) 関山国師建治三年ー正平十五年 ( 1277 ー 1360 ) 。 き出ている湯のことで、弘法大師が発見したと伝える。 臨済宗の高僧。京都にある妙心寺の開基。 現在も簡素な共同露天浴場となっている。

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の基本成分」に「心理学原理」からの引用があるほかし ばしば漱石が関心を示している心理学者で、影響が著し い。十月十三日の日記に「ジェームスの死を雑誌で見る。 八月末のこと、六十九歳」とある。 一公一 ( 1 ) 多元的宇宙 "A Plu 「 alistic Unive 「 se" ( 一 89 ) 。 八月七日の日記に「独りでジェームズの多元的宇宙を読 む。なんだか意味がわからず」とあるほか九月二十日の 日記 ( 本巻三二九ページ ) 、同二十三印の日記 ( 本巻三三 〇。ヘージ ) で触れられている。 あなた 九月二十日の ( 2 ) 妻がいったい貴方の頭は : 日記 ( 本巻三二九ページ ) 参照。 一会 ( 1 ) ・ヘルグソン第十一巻三八二ページ一一六一 l(n ) 参照。 Henry 「 James ( 1843 ー 1916 ) 。イギリ ( 2 ) ヘンリー スの小説家。前出ジェームズの弟。内容・文章ともに難一、 解な心理主義的作品が多い。作品に : The Portrait of a Lady 「こ ( 188 】ノ : Daisy Miller" ( 1878 ) などがある。 1 ミュンステルベルグ Hugo Münsterberg ( 1863 ー 1916 ) 。ドイツ生れのアメリカの心理学者。ヴン トに学び、ウィリアム・ジェームズに認められて渡米、 一八九二年ハーヴァード大学教授となる。応用心理学、 哲学を専攻し、精神治療、裁判心理の方面で先駆的業績 を残した。著書に : G 「 undzüge der PsychoIogie ( 198 ) などがある。 ほうてい ( 2 ) 法庭ふつう「法廷」と書く。 いけべさんざんくん ( 3 ) 池辺三山君元治元年ー明治四十五年 ( 1864 ー 1912 ) 。本名、吉太郎。熊本県の生れ。慶応義塾に学び、 のち、大阪で「経世評論」の主筆となる。明治二十六年 ( 1893 ) 旧熊本藩主細川氏に従いフランスに留学、同二十 九年「大阪朝日新聞」主筆、翌三十年以後「東京朝日新 聞」主筆をつとめた。十月二十六日同氏あて書簡に「病 そろ 気療養中執筆無用のお叱り敬承いたし候。しかし医者の 許諾を得て時々の寄稿は退屈凌ぎの一種、平生の娯楽ぐ らゐのところとお認めのうへ御勘弁にあづかりたく候」 とある。 はじめ / 六 ( 1 ) 宮本博士医学博士宮本叔 ( 慶応三年ー大正八 年、 1867 ー 1919 ) 。東京帝国大学医科大学卒業。明治三 十年 ( 1897 ) 同助教授となって市立駒込病院長を兼任、 俳句を子規に学び鼠禅と号した。三十二年から四年間ド ィッに留学、同四十二年永楽病院長となった。 けねん 一八七 ( 1 ) 掛念ふつう「懸念」と書く。 ふっていおもむき ( 2 ) この陳腐ながら払底な趣非常に古風ではあ るが、ために現代にはほとんど残っていない趣き。漢詩・ しの 400

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黒区 ) にあったのであろう。 巻三六一ページ ) 参照 0 まさたけ てらうちとうかん ( 5 ) 神崎さん神崎恒子。神崎東蔵 ( 明治三十二年 ( 7 ) 寺内統監寺内正毅。嘉永五年ー大正八年 ( 一 8 〈 1899 〉東京帝国大学英法科卒業。弁護士。衆議院議員。 52 ー 19 】 9 ) 。伯爵。陸軍大将・元帥。明治三十五年 ( 19 牛込区横寺町に住む ) の夫人。 02 ) 陸軍大臣、韓国統監を兼任、同四十三年日韓併合後 ぐびじんそう 初代朝鮮総督に就任した。大正五年 ( 】 9 一 6 ) 寺内内閣の三四一一 ( 1 ) 虞美人草漱石の長編小説。明治四十一年 ( 】 9 08 ) 一月、春陽堂から出版された。 首相。 いけべよしかた ( 2 ) 池辺義象氏第一巻五二八。〈ージ三五五 ( 1 ) 参照。 三四 0 ( 1 ) ペコ = ャ begonia シウカイドウ科の草花。 もくあん ( 2 ) 木庵江戸時代初期の黄檗宗の高僧。 やまだびめうさい 書簡 品一 ( 1 ) 山田美妙斎明治元年 ( 0 巳生れ。小説家・ 詩人。本名、山田武太郎。大学予備門時代に漱石と同級。高 = ( 1 ) 寺田寅彦五高での漱石の教え子。物理学者。 ( 2 ) ヴェ = スからの書明治四十三年 ( 一日 0 ) 尾崎紅葉らと硯友社を組織して活躍したが、明治三十四 一月十七日の「東京朝日新聞」文芸欄に掲載された。 年大患で卒倒、晩年は、歴史小説なども発表したが、ほ 0 明治四十三年 ( 1910 ) 三月二日、五女雛 ( 3 ) 9 一 1 とんど国語辞典編纂に専念した。四十三年十月二十四日 子が生れている。 死亡。 ばいていきん がんしゅ ( 4 ) 七変人幕末の人情本・滑稽本作者梅亭金鵞が、 ( 2 ) 癌種正しくは「癌腫」と書く。 七人の遊び仲間のふざけた話を描いた『妙竹林話七偏 ( 3 ) 昨夜の菊あとで「君が遺愛の白き菊」と俳句 人』の略称。安政四年ー文久三年 ( 一 857 ー 1863 ) 刊。五 にも詠んでいるもので、十月三十日の日記に「晩に病院 編十五冊。 の園丁が手作りの菊二鉢を贈り来る。見事なる白菊なり。 ( 5 ) 行徳医学士行徳二郎。佐賀県生れ。明治四十 白菊は院長の遺愛の品のよし。院長は菊を愛せるよし」 一一年 ( 1909 ) 東京帝国大学医科大学卒業。のち、佐賀県 とある。 立病院に勤務、さらに佐世保に行徳病院を開いた。 ( 4 ) 目黒の里渋川玄耳の住所が目黒村 ( 現在、目 432

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- 召 " ( 5 ) こがらし ( 3 ) いなづま 1 ) しせん 素川の東上を送る ・京に行かば寺に宿かれ時鳥 ( 九月六日寺田寅彦あて葉書から ) 範風の一人をふくや海の上 ( 九月十九日の日記から ) なみ 稲妻の砕けて青し浪の花 空狭き都に住むや神無月 〔明治三十四年〕 ( 4 ) ( 二月二十三日高浜虚子あて葉書から ) 凩や吹き静まって喪の車 ( 明治三十三年〕 つ ととぎす ( 七月四日 ) ( 二月十六日村上霽月あて葉書から ) ( 6 ) 三階に独り寐に行く寒かな ( 十二月一日高浜虚子あて書簡から二句 ) 倫敦にて子規の訃を聞きて ( 7 ) つっそで 筒袖や秋の柩にしたがはす 霧黄なる畆に動くや影法師 〔明治三十六年〕 ( 8 ) 落ちし雷を盥に伏せて胙の石 ( 9 ) ( 六月十七日井上微笑あて書簡から二句 ) 蝙蝠や一筋町の旅芸者 いち・こ 玻璃盤に露のしたゝる苺かな 〔明治三十五年〕 りばん たらひ ひつぎ ( 五月 ) 317

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博士間題 博士問題の成行 (i) 博士問題の成行 (ll) ードック先生と余 博士問題とマ 文芸委員は何をするか 坪内博士とハムレット 学者と名誉 俳句 日一記 ( 明治四十三年 ) 圭冖簡 ( 明治四十三年 ) 1 ごロ 三一一三 三当 一一七三 一一七六 一一九三

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しんげんぶくろ ( 7 ) 信玄袋手さげ袋の一種。板または厚紙で底を ひも 作り、ロを紐でしぼりくくるようにしたもの。 十月十三日の日記にみえる。 I<O ( 1 ) 釣台に : ( 2 ) 掛けたふつう「打った」という。 すゞきていじ ( 3 ) 鈴木禎次漱石の妻の妹時子の夫。明治二十九 年 ( 1896 ) 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業、同三 十二年から四十年まで英仏伊米に留学、帰国後大正十年 ( 1921 ) まで名古屋高等工業学校教授をつとめた。 ( 4 ) 杉本副院長医学博士杉本東造。明治三十五年 ( 1902 ) 東京帝国大学医学科卒業。のち、胃腸病院に勤 務。当時副院長であった。 十月十五日の日記 ( 本巻一二三九 ( 5 ) 思ひけり : ペ 1 ジ ) にみえる。 ・ことう ( 6 ) 後藤さん後藤暸平。六月二十一日の日記に 「医員後藤氏来。わざ / \ 長与院長の伝言を述ぶ。院長 病気にて、面会の機なきを憾むとのこと」とある。 ( 7 ) 院長医学博士長与称吉 ( 慶応一一年ー明治四十 三年、 1866 ー 191e 。長崎県の生れ。明治十七年 ( 1884 ) ドイツに留学して同二十六年帰国、日本橋本町に開業、 同二十九年内幸町に胃腸病院を創設した。日本における 胃腸病の権威で、死後男爵に叙された。東京帝大教授・ 医学博士長与又郎の兄にあたる。なお、十月十二日の日 記 ( 本巻三三八ページ ) 参照。 ひがし 〈一 ( 1 ) 東さん東新。長崎県の生れ。明治四十二年 ( 1909 ) 東京帝国大学哲学科卒業。のち、内務省に入り、・ さらに法政大学教授となった。漱石の五高時代の教え子 と思われ、この時、漱石の看護や家事の手伝いにあたっ ていた。 ( 2 ) 社東京朝日新聞社。 そっちまうくん ( 3 ) 雪鳥君坂元三郎。明治十二年ー昭和十三年 ( 1879 ー 1938 ) 。明治四十年 ( 187 ) 東京帝国大学国文科卒業後 社会部記者として朝日新聞社に入社、おもに同紙の能評 を担当し、能評の権威とされた。漱石の朝日新聞入社の あっゼん 斡旋に努力、この時社から出張して漱石の面倒をみた。 ( 4 ) 容態ふつう「容体ーと書く。 公一 ( 1 ) 逝く人に : 十月十二日の日記 ( 本巻三三八 ページ ) にみえる。 てんこう ( 2 ) 天幸天から与えられたしあわせ。 十月十三日の日記に「鶏頭に後 ( 3 ) たゞ一羽 : れずある月夜の雁」の句がある。 ( 4 ) ジェームス教授第二巻四四五ページ五三 ( 2 ) 参 照。「文学論」 ( 全集第十四巻所収 ) 第二章「文学的内容

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( 3 ) 万縷いろいろとくわしく。 品」「満韓ところん、」の四編が収められている。 毫一一 ( 1 ) 長塚節明治十一一年ー大正四年 ( 一 879 ー 19 こ ) 。 ( 4 ) 文鳥明治四十一年 ( 】 908 ) 六月十三日から一一 歌人・小説家。水戸中学を中退、郷里で農民として生活 十一日にかけて「大阪朝日新聞 , に連載され、同年十月 しながら作品を発表した。 号「ホトトギス」に再掲載された随筆。第五巻所収。 ねがひ ( 2 ) 突然なるお願「門」にひきつづいて明治四十三五四 ( 1 ) 橋田丑吾明治十九年 ( 1886 ) 高知県に生れ、 三年 ( 1910 ) 六月から十一一月まで「東京朝日新聞」に連 大正一一年 ( 】 9 こ ) 東京帝国大学経済学科卒業。のち、東 載された長編小説「土」に関しての依頼。 京日日新聞社・東京農業大学・農商務省・東洋拓殖会社 などに勤務した。 ( 3 ) 九十回実際には百四回にわたった。 ( 2 ) メジョ ペンデニス Ma 」 or Pendennis ( 4 ) 皆川正禧第一巻五三五ページ一元三 ( 5 ) 参照。こ Beowulf ご ( 3 ) ベオウルフ の時鹿児島第七高等学校で英文学を教えていた。 Plowman ( 4 ) ビャース・プロー ( 5 ) 野間君第一巻五三五べージ三九三 ( 4 ) 参照。この ( 5 ) プラックストーン William Blackstone ( 17 時、同じく鹿児島の旧制第七高等学校で英語教師であっ こ 0 23 ー 1780 ) 。 三三三 ( 1 ) 野村第一巻五三六ページ三九四 ( 9 ) 参照。鹿島中 ( 6 ) 菅虎雄彼は、禅の経験・知識が深く、また、 学のあと、愛知五中・大阪天王寺中・奈良桜井高女など 書道にもすぐれていた。 の教師をつとめた。 ( 7 ) 小説「門」 ( 2 ) 御批判 明治四十三年 ( 1910 ) 六月十八・一一 ( 8 ) われに三等の : 本巻一六六ページ下段五行。 だいとうこくし 十・二十一日の朝日文芸欄に掲載された阿部次郎の評論 ( 9 ) 大燈国師四 OI 二ページ一六六 ( 5 ) 参照。 むそうこくし 「『それから』を読む」 ( 第七巻所収 ) をさす。 ) 夢窓国師四〇三ページ一六六 ( 2 ) 参照。 ( 3 ) 四編明治四十三年 ( 1910 ) 五月、春陽堂から ( Ⅱ ) どっちだか新聞に発表した時には「大燈国師 出版された漱石の随笹集で、「文鳥」「夢十夜」「永日小 の遺誡」となっていたが、単行本では「夢窓国師の遣誡」 はんる

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しん あひなもっちゃうせい 全うすること相済し以て長生すべし。天その真を得るが ( 9 ) 大倉書店漱石の「吾輩は猫である」「文学論」 故に長く、地その真を得るが故に久しく、人その真を得 などを出版した本屋。 いのちなが るが故に寿し。 三一一七 ( 1 ) Essen ( 独 ) 。食うこと。食事。 うち しん 静これが性となれば心その中に ( 4 ) 静為之性・ : ( 2 ) 梅林温泉街西北のはずれにある梅の名所。現 しん 在り。動これが心となれば性その中に在り。心生じて性 在修善寺公園となり、漱石の句碑がある。 ′こと げん 減し、心減して性生ず。現ずること空の象なきが如く、 ( 3 ) 大和堂野田洪哉。修善寺大和堂医院の院長。 たん懸ん かうかうくわんぐわしよう 湛然として円満なり。 三一穴 ( 1 ) 耕香館画縢滝和亭 ( 日本画家。明治三十四 年合 9 日〉没 ) の画集。明治四十三年大倉書店刊。「耕三三一 ( 1 ) 会話の本当時、漱石はドイツ語、フランス語 工の号。漱石の蔵書中にある。 の勉強をしていた。 香館」は、和亭のアトリ さくう そしいんぶ ( 2 ) 蘇氏印譜漱石の蔵書中にみえる『蘇氏印略』。 ( 2 ) 咋雨やかましい音を立ててふる雨。 もと、皇室の祭典の行われる日の称。 明治四十一一年 ( 1909 ) 光風楼書房刊。 三三一一 ( 1 ) 大祭日 うちしふゐ ここは、秋季皇霊祭。 三一一九 ( 1 ) 宇治拾遺鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』 の略称。 ( 2 ) Croce Benedett0 C 「 oce 0866 ー】 952 ) 。イタ かくわい リアの哲学者。著書に『美学』『論理学』などがあり、漱 ( 2 ) 遐懐はるかなおもい 石の蔵書中にこの『美学』の英訳本がある。 ふつう「神々しい」と書く。 ( 3 ) 高々しい そしんくわん ( 3 ) 楚人冠明治五年ー昭和一一十年 ( 一 872 ー 1945 ) 。 いたっき「病気」の古語。 三三 0 ( 1 ) ぬかだ 本名杉村広太郎。明治三十六年 ( 1903 ) 以後、朝日新聞 ( 2 ) 額田さん額田豊。明治三十九年 ( 一 906 ) 東京 記者として活躍した。 帝国大学医科大学卒業後ドイツに留学、大正一一年 ( 1913 ) ~ 、、わい・か、 三三三 ( 1 ) 里碍さまたげ。 医学博士となり、額田内科病院を開設。 ゅゑ そむしゃう 其の無象の象を養ふが故三三四 ( 1 ) インダルジェンス ( 3 ) 養其無象象故 : ・ まった まにさせること。恩恵。 に常に其の無体を存守するなり。故に真を全うす。真を indulgence ( 英 ) 。気ま イ 30