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検索対象: 夏目漱石全集 8
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1. 夏目漱石全集 8

うれ やら銀座へ出かける。病院で時々原稿をか。人のくもお父さまのことを心ばいしてくれて嬉しく思います。 しゅんし このあいだはわざ / \ 修善寺まで見舞に来てくれて るのはいいが床の上に横になりたくなる。北海道では ありがと 山が破裂して大騒ぎ、このあいだ友人がノボリべツの難有う。びよう気でロがきけなか 0 たからお前たちの 顔を見ただけです。 温泉へ行けと勧めたがこれじゃ危険のようだ。 このごろはだい・ふよくなりました。いまに東京へ帰 君の病気はいかヾ。涼しい所だからいいだろうと思 。手のシビレるのはどうも気にな 0 てならん、ぜん 0 たらみんなであそびましよう。 わか お母さまも丈夫でこ、においでです。 たいなんの病気だかそれが分らないのは変である。ぜ るすのうちはおとなしくしてお祖母さまの言うこと ひとも療治の必要があるように思う。 今九月御上京の節にお目にか、ろう。せ 0 かく摂生をきかなく 0 てはいけません。 そう / 、、 三人とも学校がはじまったらべんきようするんです を祈る。艸々 金之助 七月二十九日 お父さまはこの手紙あおむけにねていて万年ふでで 耕三様 かきました。 ニ八修善寺より子供たちへ からだがっかれて長い御返事が書けません。 きょ お祖母さまや、おふささんや、お梅さんや清によろ 九月十一日 ( 日 ) 静岡県修善寺菊屋本店より牛込区 早稲田南町七番地夏目筆子、夏目恒子、夏目栄子へ〔手しく。 今こに野上さんと小宮さんが来ています。 帳の紙一枚の表と裏とに〕 東京へついでのあった時修善寺のお見やげをみんな 九月十一日 きえ に送ってあげます。 けさお前たちから呉れた手紙をよみました。三人と せっせい とう かあ じようぶ ばあ うめ 360

2. 夏目漱石全集 8

夏目漱石全集 第八巻 昭和 49 年 5 月 15 日 初版発行 漱石 著作者 編集者 発行者 印刷所 製本所 発行所 夏 江 士 角 目 藤淳 田精 川源義 中光印刷株式会社 株式鈴木製本所 会社 株こにかどかわしよてん 会社角川書店 東京都千代田区富士見 2-13 振替東京 195208 ⑩ 102 電話東京 ( 265 ) 7111 く大代表 > Printed in Japan 落丁・乱丁本はお取替え致します 0393 ー 572708 ー 0496 ( の

3. 夏目漱石全集 8

それにしても、《門〉と私との出会いは。ヒッタリ行ったというべきであろう。何のさまたげもなく、 私自身の一歩をその一段に置きたくなるような促しが湧いてきた。 大学時代にも私は再読三読しているが、高等学校の時読んだのと較べて、それほど解釈が深まっ たわけではない。ただ、特に好きな部分はお。ほえ込なほどになって行った 0 そして、好きな部分と はほとんど全部といってもいい。 しかし、神経にさわり、なくもがなと思える表現もないわけでは なかったが、そうした部分については後で述べよう。 学生時代の私が《門》に惹かれていた証拠には、影響されて、自ら一編の小説を試みるというこ とがあった。二、三十枚のごく短いものであった。題は《すみ》といって、東京で高いポルテージ の恋に疲れた若い男女が、大井川の河畔で地味な静かな生活をいとなむという筋であった。二人の 生活の場を、私の郷里である大井川のほとりにしたわけだ。 田舎出の文学青年の試みとして、そのほうが書きやすかったが、では私が、《門》で漱石が描い た東京を私の筆にそぐわないものとして意識していたのかといえば、そうでもなかった。勿論東京 と私の郷里の町が特に似ているなどということはないが、彼が描いたような風景ならば、私の町に ) 」うもり →だ 0 て感じられた。住居や衣服など生活様式に関しては、私も見聞きしているものが多か 0 たし、 時計屋とか蝙蝠傘屋、風呂屋、道具屋、歯医者、家主と借家人など、東京の街よりも小規模で時に 作 は見すぼらしいにしても、それらは田舎の町にもあったし、それに、四季おりおりの空気が流れこ 385

4. 夏目漱石全集 8

注 ( 6 ) 一中「一中節」の略。 もめ ( 7 ) 物集のお嬢さん姉妹物集高見 ( 第一巻五一 六ページ三一九 ( 新 ) 参照 ) の娘たち、和子および芳子。平 塚雷鳥を中心とする女流文学雑誌「青踏」の同人で、 「新小説」などにも小説を発表している。 ( 8 ) 高架正しくは「後架」。便所の異称。 ( 9 ) 文部省の絵画展覧会四一三。〈ージ一一会 ( 2 ) 参照。 RudoIph Ernest Reuter アメリカ ( ) ロイテル の音楽家。ドイツに留学後、明治四十三年 ( 1910 ) 日本 政府の招きで来日、三年間東京音楽学校の教師を勤め、 のち、シカゴ音楽大学教授などになった。 Heinrich Werkmeister ( Ⅱ ) エルグマイステル ドイツの音楽家。明治四十年 ( 1907 ) 来日。大正十年 ( 19 21 ) まで東京音楽学校教師を勤めた。 おさないかおる ) 小山内薫の催しで : ・小山内薫の主宰する自由劇 場が、旗上げ公演として明治四十二年十一月に興行した。 もりおうがい ( ) 訳は森鵐外鸛外は、 lbsen の "J0hn Gbriel Borkman ご ( 1896 ) 翻訳を明治四十二年 ( 1909 ) 七月か ら九月にかけて「国民新聞」に連載。同年十一月画報社 からこれが出版された。 語四 ( 1 ) 「それから」東京・大阪朝日新聞に連載後、明 治四十三年 ( 1910 ) 一月、春陽堂から出版された。 ( 2 ) 小説「門」をさす。二月二十二日に予告が出、 三月一日から六月十二日にかけて東京・大阪朝日新聞に 連載された。 ( 3 ) 理科大学東京帝国大学理学部の旧称。「三四 郎」に登場する野々宮宗八は、寺田寅彦がモデルで、そ の研究室の模様などもいろいろ描かれている。 ( 4 ) 正しくは「彗星」。「三四郎」第九章 ( 第 六巻一六〇。ヘージ ) に彗星に関する議論が出てくる。 みかわや ( 5 ) 三河屋赤坂表町にあった料亭。 ( 6 ) 美学会大塚保治を中心に東京帝国大学哲学科 の美学専攻生・卒業生によって作られていた研究会。な お、漱石は明治四十四年 ( 1911 ) 六月二十八日、この研 究会のために講演している。 ( 7 ) 休刊多きゅゑ朝日の文芸欄は設置以来ほとん ど毎日設けられていたが、この年一月二十八日から二月 五日までの九日間は、二月一日に漱石の「客観描写と印 象描写」が出ただけで、あとは休欄になっている。 ( 8 ) 原稿阿部次郎が、「癡郎」の匿名、「よせ鍋」 という題で文芸襴に投稿した文芸評論をさす。二月六日

5. 夏目漱石全集 8

一四長塚節へ「土」の朝日連載承諾を謝す 四月ニ十九日 ( 金 ) 午後三時ー四時牛込区早稲田南 「門執筆の退儀さ 町七番地より茨城県結城郡岡田村長塚節へ そろ 五月十一日 ( 水 ) 牛込区早稲田南町七番地より鹿児 拝啓その後は御無沙汰に打ち過ぎ候。さて先般は ねがひ さふらふ 島市春日町三十九番地浜崎方皆川正禧へ 森田草平氏を通じて突然なるお願に及び候ところ、さ ごぶさた そろ いたり 拝啓その後は御無沙汰謝し奉り候。お手紙難有く っそくお聞き届けくだされ候段、感謝の至に候。その 後草平君より再度の照会に対する御返事まさに拝見い拝見いたし候。近来は東京朝日に文芸欄を設け諸君子 たし候。小生の小説はいっ完結するや実のところ本人の文芸上の意見を紹介いたしをり候。独文のはうはな さふら にも不明に候へどもごく短かくても九十回にはなるべかなか活躍英文のはうは少々振はす候。ちと御投稿い さふらふ かがに候ゃ。 。たゞいま六十回ゅゑ今より きかと予想いたしをり候 うたひ 御起草くたされ候へば小生も安心。万々一のことにて謡は小生も熱心に候。この夏御上京の節は御相手い それよりも早く片付き候ても毫も心配これなきゅゑ失たしたく候。 かへり 「門」御愛読くたされ候よし難有く存じ候。近ごろ身 礼をも顧みす伺ひ候次第に候。御返事の趣にていった ひきうけ かたづ ありがた んお引受のうへは不都合なきよしお申し聞け難有く候。体の具合あしく書くのが退儀にて困り候。早く片付け いばらき かけへだたり けねん 東京と茨城とは少々懸隔をり候ゅゑ、自然の懸念もて休養いたしたし。今度はあるひは胃腸病院にでも入 きいうあひえい 相生じ杞憂相洩し候ゃうの訳、あしからす御高免願ひって十分療治せんかと存じ候。四十を越すと元気がな くなり申し候。 上げ候。右御挨拶かた / ぐ、、お願までかやうに候。草々 とんしゅ ( 5 ) 頓百 野間君も健在のことと存じ候。よろしく かたろさふらひ ( 3 ) 四月二十九日 長塚様 ふる 夏目金之助 ありがた から 352

6. 夏目漱石全集 8

しんげんぶくろ ( 7 ) 信玄袋手さげ袋の一種。板または厚紙で底を ひも 作り、ロを紐でしぼりくくるようにしたもの。 十月十三日の日記にみえる。 I<O ( 1 ) 釣台に : ( 2 ) 掛けたふつう「打った」という。 すゞきていじ ( 3 ) 鈴木禎次漱石の妻の妹時子の夫。明治二十九 年 ( 1896 ) 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業、同三 十二年から四十年まで英仏伊米に留学、帰国後大正十年 ( 1921 ) まで名古屋高等工業学校教授をつとめた。 ( 4 ) 杉本副院長医学博士杉本東造。明治三十五年 ( 1902 ) 東京帝国大学医学科卒業。のち、胃腸病院に勤 務。当時副院長であった。 十月十五日の日記 ( 本巻一二三九 ( 5 ) 思ひけり : ペ 1 ジ ) にみえる。 ・ことう ( 6 ) 後藤さん後藤暸平。六月二十一日の日記に 「医員後藤氏来。わざ / \ 長与院長の伝言を述ぶ。院長 病気にて、面会の機なきを憾むとのこと」とある。 ( 7 ) 院長医学博士長与称吉 ( 慶応一一年ー明治四十 三年、 1866 ー 191e 。長崎県の生れ。明治十七年 ( 1884 ) ドイツに留学して同二十六年帰国、日本橋本町に開業、 同二十九年内幸町に胃腸病院を創設した。日本における 胃腸病の権威で、死後男爵に叙された。東京帝大教授・ 医学博士長与又郎の兄にあたる。なお、十月十二日の日 記 ( 本巻三三八ページ ) 参照。 ひがし 〈一 ( 1 ) 東さん東新。長崎県の生れ。明治四十二年 ( 1909 ) 東京帝国大学哲学科卒業。のち、内務省に入り、・ さらに法政大学教授となった。漱石の五高時代の教え子 と思われ、この時、漱石の看護や家事の手伝いにあたっ ていた。 ( 2 ) 社東京朝日新聞社。 そっちまうくん ( 3 ) 雪鳥君坂元三郎。明治十二年ー昭和十三年 ( 1879 ー 1938 ) 。明治四十年 ( 187 ) 東京帝国大学国文科卒業後 社会部記者として朝日新聞社に入社、おもに同紙の能評 を担当し、能評の権威とされた。漱石の朝日新聞入社の あっゼん 斡旋に努力、この時社から出張して漱石の面倒をみた。 ( 4 ) 容態ふつう「容体ーと書く。 公一 ( 1 ) 逝く人に : 十月十二日の日記 ( 本巻三三八 ページ ) にみえる。 てんこう ( 2 ) 天幸天から与えられたしあわせ。 十月十三日の日記に「鶏頭に後 ( 3 ) たゞ一羽 : れずある月夜の雁」の句がある。 ( 4 ) ジェームス教授第二巻四四五ページ五三 ( 2 ) 参 照。「文学論」 ( 全集第十四巻所収 ) 第二章「文学的内容

7. 夏目漱石全集 8

なものの、この間題はその都度しだい / 、に背景の奥が極まったとき、宗助は客を置いて、 に遠ざかってゆくのであった。 「お米、とう / 、東京へ行けるよ」と言った。 むつ 夫婦がこんなふうに淋しく睦まじく暮らしてきた二 「まあ結構ね」とお米が夫の顏を見た。 年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代にはた東京に着いてから二三週間は、目の回るように日が すぎはら しょたい い〈ん懇意であ 0 た杉原という男に偶然出 0 た。杉経 0 た。らしく世帯を有 0 て、新らしい仕事を始め 原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでにある人に、あり勝ちな急忙しなさと、自分達を包む大都 はげ しんとう る省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張の空気の、日夜劇しく震盪する刺激とに駆られて、何 ひま することになって、東京からわざ / \ 遣ってきたので事をもじっと考える閑もなく、また落ち付いて手を下 ある。宗助は所の新聞で、杉原のいっ着いて、どこにす分別も出なかった。 泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての 夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の せいこうしゃ 自分に顧みて、成効者の前に頭を下げる対照を恥すか顔を見たが、夫婦とも灯のせいか晴れやかな色には宗 しく思ったうえに、自分は在学当時の旧友に逢うのを、助の目に映らなかった。途中に事故があって、着の時 たす おく 特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ね 間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失でで もうとう まちくたび る気は毛頭なかった。 もあるかのように、待草臥れた気色であった。 ところが杉原のほうでは、妙な引掛りから、宗助の 宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、 こに燻ぶっていることを聞き出して、しいて面会を「おや宗さん、しばらくお目に掛からないうちに、た 希望するので、宗助も巳を得ず我を折った。宗助が福 い〈んおけなす 0 たこと」という一句であ 0 た。お 岡から東京へ移れるようになったのは、まったくこの米はそのおりはじめて叔父夫婦に紹介された。 かげ ためら 杉原のお蔭である。杉原から手紙が来て、いよ / 、事「これがあの : ・ : ・」と叔母は逡巡って宗助の方を見た。 やむ ひっか乂 けしき

8. 夏目漱石全集 8

の同欄に、「次郎」の本名、「自ら知らざる自然主義者」三四七 ( 1 ) コンシート conceit ( 英 ) 。自負。自惚。 ーし力しー」 という題に変えて掲載された。 三哭 ( 1 ) 俳諧師明治四十一年 ( 1908 ) 二月から九月に ちろう ( 9 ) 本名の峙楼阿部次郎が「次郎」をもじって自 かけて「国民新聞」に連載された高涙虚子の自叙伝的長 分でつけた号で、前年十二月十日の文芸欄にもこの号で 編小説。 「驚嘆と思慕」を投稿している。 ( 2 ) 民友社明治一一十年 ( 1887 ) 、徳富蘇峰が創立し さつまじる 三四五 ( 1 ) 薩摩汁文芸欄に、「愚翁」の匿名で、この題を た出版社。雑誌「国民の友ーや「国民新聞」のほかに単 付された文芸その他に関する雑感がしばしば掲載されて 行本も出版した。 いる。一月二十七日の文芸欄もこれである。 ( 3 ) 山田という人山田耕筰。明治十九年 ( 1886 ) くわたいはうめい ( 2 ) 花袋泡鳴の件「自ら知らざる自然主義者」に 東京に生れ、同四十一年東京音楽学校卒業。同四十三年 たすさ は「 : : : 今の文壇 ( 並に文壇に携わる人の生活 ) はまだ ベルリン高等音楽学校に留学、大正三年 ( 1914 ) に帰国 自然主義になって居ない。・ ・ : 生活から趣味から思想か ( 4 ) 岩崎山田耕筰は大正三年 ( 1914 ) の帰国直後、 ら本当に自然主義になっていたのは ( 勿論それそれの意 味で ) 岩野泡鳴氏と田山花袋氏ぐらいの者だろうと思う。 岩崎小弥太男爵の依嘱で臨時交響団を編成、翌五年その ・ : 」とある。 後援で東京フィルハ ーモニー管絃楽団を組織し、日本交 ( 3 ) フリードム freedom ( 英 ) 。自由。勝手。 響楽界の基礎を築いた。 ( 4 ) ・ハイタル vital ( 英 ) 。致命的。 ( 5 ) 幸田幸田延子 ( 明治三年ー昭和二十一年、 18 三四六 ( 1 ) 議会帝国議会のこと。一月二十二日から本会 70 ー 1946 ) であろう。幸田露伴の妹で、。ヒアニスト。洋 議が始まり、そのため、国内政治の記事と同じページに 楽界最初の芸術院会員。明治一一十一一年 ( 1889 ) から六年 設けられていた文芸欄は、その会議に関する記事のため 間欧州に留学、同四十一一年まで東京音楽学校教授。この 体欄がつづいていた。 ころドイツに外遊していたのであろう。 ( 2 ) フォーマル formal ( 英 ) 。形式的。 ( 6 ) 中島さん中島太郎。漱石の長女のビアノ教師。

9. 夏目漱石全集 8

思い出す事など ぎた。 えていないが、山の中を照す日がまだ山の下に隠れな 長い雨がようやく歇んで、東京への汽車がほヾ通ずい午過であったと思う。その山の中を照す日を、床を あわ るようになったころ、裸連は九人とも申し合せたよう離れることのできない、また室を出ることの叶わない ため に、どっと東京へ引き上けた。それと入れ代りに、森余は、朝から晩までほとんど仰ぎ見た試しがないのだ せっちょうくん ひさし 成さんと雪鳥君と妻とが前後して東京から来てくれた。 から、こういうのも実は廂の先に余る空の端たけを目 ふたっき そうして裸連のいた部屋を借り切った。その次の部屋当に想像した刻限である。ーー・余は修善寺に二月と五 もまた借り切った。しまいには新築の二階座敷を四間 日ほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か ゅう ともにわが有とした。余は比較的閑寂な月日の下に、 どれが伊東へ越す山で、どれが下田へ出る街道か、ま すいのみ 吸飲から牛乳を飲んで生きていた。一度は匙で突き砕るで知らすに帰ったのである。 ( 1 ) すいか しる いた水瓜の底から湧いて出る赤い汁を飲ましてもらっ杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少し ( 2 ) こうにうさま あが すいのみ た。弘法様で花火の揚った宵は、縁近く寐床を摺らしまえに、妻の手から吸飲を受け取って、細長い硝子の はつあき なまぬる て、横になったまミ初秋の天を夜半近くまで見守っ 口から生温い牛乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、 おきて ていた。そうして忘るべからざる二十四日の来るのを安静状態と流動食事とは固く守らなければならない掟 無意識に待っていた。 のようになっていたからである。そのうえできるだけ 萩に置く露の重きに病む身かな 病人に営養を与えて、体力の回復のほうから、潰瘍の 出血を抑え付けるという療治法を受けつ、あった際た から、いやおうなしに飲んだ。実をいうとこの日は朝 すぎもと きざ その日は東京から杉本さんが診察に来る手筈になっ から食欲が萌さなかったので、吸飲の中に、動くこと ( 3 ) おおひと ていた。雪鳥君が大仁までに出たのは何時ごろか覚のできぬほど濁 0 た白い色の漲ぎるさまを見せられた はぎ わ や ちか ねどこす てはす あて よ ひるすぎ おさ へや ガラス め

10. 夏目漱石全集 8

あ ( 2 ) でき 生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声ども、不安な未来を目先に控て、その日その日の出来 うれ を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨に栄を案じながら病む身には、決して嬉しい便りではな幻 とざ からだ かった。夜中に胃の痛みでしぜんと目が覚めて、身体 鎖された山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、 くるし とぎばなし おきどころ つな うそまことわか 嘘か真か分らないことを聞かされたときは、お伽噺での置所がないほど苦い時には、東京と自分とを繋ぐ交 こども も読んた子供の時のような気がして、なんとなく古め通の縁が当分切れたそのころの状態を、多少心細いも にお、 のに観じないわけにゆかなかった。余の病気は帰るに かしい香に包まれた。そのうえ家が流されたのがどこ はげ はあまり劇しすぎた。そうして東京の方から余のいる で、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをい うちこわ っこう構わずに、それが当然であるごとくに話してゆところまで来るには、道路があまり打壊れすぎた。の つか く様子が、いかにも自分の今いる温泉の宿を、浮世かみならず東京そのものがすでに水に浸っていた。余は さき がけ くす ( 3 ) ち ほとんど崖とともに崩れるわが家の光景と、茅が崎で ら遠くへ離隔して、どんな便りも噂のほかにははいっ てこられない山里に変化してしまったところに一の海に押し流されつゝあるわが子供等を、夢に見ようと あて おもしろみ 面白味があった。 した。雨のした、か降るまえに余は妻に宛て手紙を出 とかくするうちにこの楽い空想が、不便な事実となしておいた。それには好い部屋がないから四五日した くるし らわ って現れはじめた。東京から来る郵便も新聞もことごら帰ると書いた。また病気が再発して苦んでいるとい おく うことはわざと知らせすにおいた。そうしてその手紙 とく後れたした。たま / \ 着くものは墨が煮染むほど しめ びしょ / 、に濡れていた。湿った頁を破けないようにも着いたか着かないか分らないくらいに考えて寐てい こうすい 開けて見て、はじめて都には今洪水が出盛っていると あざ そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力 いう報道を、鮮やかな活字の上にまのあたり見たのは、 おぼえ 何日のことであったか、今たしかには覚ていないけれを費して、やっとのこと無事に宛名の人に通するやい はまべ はりだ ーたなか たのし たよ うわさ ゅ え こ 0 わか ひかえ あてな さ ね