と澪というものを買ってきてもらう。晩に東と妻が いうと、へえいたずらを致しましたと答えた。膳を持 くる。 ってくる時には日本服を着てきた。どこかへ出ますか と聞 / 、と、 いえあたまを結いましたからと答えた。 ものよし 0 ニ十八日 ( 土 ) 。尻の穴の方のガーゼを取る。今晩夕方洗濯屋の物一一ーにある一列の洗い物がまた乾かな めんどう 帰ってもいいと言ったが面倒たから一週間いることに いと見えて物干から突き出したま、それなりになって ( 1 ) せんたくや うすあい する。隣は洗濯屋。 : へ行くなら着て行かしゃんせ。 いる。それが暮色を受けて薄藍に見える。とつぶり日 シッ / \ シ。むやみにうたをうたう。少しうるさくなが暮れて空の色が沈むといつのまにか白い色が浮き出 ってきたぜという。隣が洗濯屋でなければ、 しいという。して風に揺られていた。 夜に入って雨。毛布一枚で夜半寒し。 そう馬鹿に見えるかねという。洗濯屋は人間かいとい すぎ う。行徳が昼過くる。妻がよるくる。妻に富貴紙と巻 紙と状袋を買わす。 〇三十日 ( 月 ) 前夜の引っゞきにて雨降る。わびしき ( 3 ) 〇伊東栄三郎さんの死んた通知に対して弔詞を出す。日なり。今日は手術後五日目なれば順当にいけばはし めてガーゼを取替える日なり。うまく取り替られれば 〇ニ十九日 ( 日 ) 朝回診の時尻の瘡のところをつ、、かる。少々痛し。 回診の時医師はガーゼを取り除けてしごくい い具合 くちもと ガーゼを少し緩めてみたらまた血がにじみだすから一一です。出血も口元だけで奥の方はありませんという。 三日そっとしていないとわるいという。二三日すれば ほとにし 出血しても迸りはせぬから構わないという。 0 十月一日 ( 火 ) かんちょう 看護婦さんが銀杏返しに結う。髪を結いましたねと 十一時ごろ浣腸。ガーゼを取り替える。瓦斯多量に みおっくし いちょうがえ しり 、、 4 、 0
簡 〔絵はがき〕 八月十一日 ( 日 ) 午後一時ー二時牛込区早稲田南町 七番地より神奈川県鎌倉材木座紅ヶ谷田山別荘夏目栄子 大仏のなかはいったかい。中はくらいことだろう。 はちまん へ「絵はがき牡鶏の画」 八繙さまの鳩に餌をやったかい。 とう えい子さん御きげんはいかゞですか私はかわりも お父さまはまたじぎ行きます。まだ旅はしません。 ことによれば旅をやめて鎌倉へ行ったり来たりしようありません このとりがたまごをうみますからにてお上がんな かと思っています。 夏目父より 八月十一日 父より 四九鎌倉に避暑する子供たちへ ( 四 ) 八月十一日 ( 日 ) 午後一時ー一一時牛込区早稲田南町 七番地より神奈川県鎌倉材木座紅ヶ谷田山別荘夏目愛子 へ「絵はがき滑栴画。宛名に「夏目あい子さん」とあ り〕 あい子さんおにのえはがきをかってあげようとおも ったらあいにくありませんから、がまの御夫婦をお目 にかけます。 八月十一日 父より 四七鎌倉に避暑する子供たちへ ( 二 ) 八月十日 ( 土 ) 午前九時ー十時牛込区早稲田南町七番 地より神奈川県鎌倉材木座紅ヶ谷田山別荘夏目筆子へ 〔絵はがき上欄署名に「夏目父より」とあり〕 と ) 大仏のお腹のなかへはお父さまもまたはいったこと がない、お前がナーしし 、ことをした。お父さまも海へ はいりたい。東京のうちは静た、下飯坂さんの端書は 受取ったろう。 八月十日 四八鎌倉に避暑する子供たちへ ( 三 ) 9
学び、のち、東京南宗画会・日本南宗画会を組織した。 漱石先生に捧げ上ると書いてありたり恐縮」とあり、 ほくそうかんゅう 北窓の空間を友として親しむ、の意 ( 9 ) 北窓間友 また、ほかに『烟匹』というのも送られている。なお、 味。 四十四年 ( 1911 ) 二月十七日の書簡 ( 本巻一二六二ページ ) せんたくや 参照。 三五へ ( 1 ) 隣は洗濯屋。 第十三巻「明暗」百十四に 利用されている。 ( 3 ) 今度出版の拙著この年一月に春陽堂から出版 ( 2 ) 朝回診の時 : ・ された『門』のことか。 第十三巻「明暗」百十五に利 用されている。 ( 4 ) 拙稿「思い出す事など」 ( 全集第八巻所収 ) の こと。明治四十三年 ( 1910 ) 十月二十九日から四十四年 ( 3 ) 今日は手術後五日目なれば : 第十三巻「明 暗」百五十三に利用されている。 ( 1911 ) 二月二十日まで朝日新聞に連載された。 おしよう ( 4 ) ガーゼを取り替える。 第十三巻「明暗」 三六一 ( 1 ) 和尚さん鈴木三重吉が当時っとめていた成田 百五十三に利用されている。 中学校は、成田山新勝寺の経営による私立中学であった。 したがって、学校経営者である新勝寺の住職をさす。 てんぐ 書簡 明治四十四年 ( 1911 ) 二月一日の書簡に ( 2 ) 天狗 三六 0 ( 1 ) 修善寺にて病気の節漱石は、明治四十三年 書かれている「易者 . のことか。 ( 19 】 0 ) 八月六日、胃潰瘍の療養のために伊豆修善寺へ三六一一 ( 1 ) 平山金三正しくは「平山金蔵」。 出発、八月二十四日その地で危篤状態に . おちいったが、 ( 2 ) 森成大家森成造。長与胃腸病院の医員で漱 やがて回復、十月十一日に帰京して、麹町長与胃腸病院 石の治療を担当した。 おめでたきひと に再入院し、翌四十四年 ( 1911 ) 二月二十六日に退院し ( 3 ) 御目出度人武者小路実篤の小説「お目出たき 人」。明治四十四年 ( 1911 ) 二月、洛陽堂刊。 えんしん ( 3 貴著を給はり : 明治四十三年 ( 】 910 ) 十三六三 ( 1 ) 烟塵森外の短編集。明治四十四年 ( 一 91 一 ) 二月、春陽堂から出版された。 月十八日の日記に「鵐外漁史より『涓滴』を贈り来る。 こ 0
青木君の絵を久しぶりに見ました。あの人は天才とて新顏が二人っ ゞくのも妙ならず、時間さへあれに小 思います。あの室の中に立っておのずから故人を惜い 生も王稿を拝見し書き直しも請求いたすやも計られね と思う気が致しました。以上 ど今は小生も多忙、ことに大兄も病中なればいっそそ 三月十七日 夏目金之助 のま、、にて出し申すべく御異存なくば渋川君に承諾の 津田青楓様 むね御報くだされたく候。 だん / 、春暖の候好い心持に候。毎日小説を一回づ 三八「彼岸過迄」の「雨の降る日」 っ書いてゐるとそれが唯一の義務のやうな気がしてな 三月ニ十一日 ( 木 ) 午前十時ー十一時牛込区早稲田んにもほかのことをせす早く切り上げて遊んたり読書 南町七番地より府下北品川御殿山七百十八番地中村蓊へをしたりするのが楽みに候。 ごぐわしゃう うけたま ひとり 拝復二月より盲腸炎にて御臥床のよし承はり驚き「雨の降る日」につき小生一人感懐深きことあり、あ みさひ れは三月二日 ( ひな子の誕生日 ) に筆を起し同七日 入り候。ちっとも知らす見舞も申し上げず失礼御海恕。 ちゃうチフス 臼川も先日来腸窒扶期にて大学に人院、貧乏人の病気 ( 同女の百ケ日 ) に脱稿、小生は亡女のため好い供養を ほど困るものこれなく候。しかし順潮に御央方結構こしたと喜びをり候。 のうへなく候。 まづは右まで。艸々 小説の儀は小生の分今少々っゞき申すべく、それに 三月二十一日 金之助 大兄の六十回を加へれば御快癒までに十分間に合ひ申 わすれ すべく、あとはその時 / 、に御軾筆にて差支へなきこ 引札広告の件お忘なきゃう願ひ上げ候い とと存じ候し間に短編をはさむことも人選にちょっと 三九「彼岸過迄」引き延し了承 困るべくまた君の前に名前のさほどあがらぬ人を載せ そら
簡 臘月二十八日 如是閑様 = 三「彼岸過迄」着手 明治四十五年 ( 大正元年 ) 十ニ月ニ十八日 ( 木 ) 午後 ( 以下不明 ) 牛込区早稲 三三「彼岸過迄」執筆 ( 一 ) 田南町七番地より大阪市北区中之島朝日新聞社内長谷川 ニ月九日 ( 金 ) 午後八時ー九時牛込区早稲田南町七番 万次郎へ なが そろ 地より本郷区駒込西片町十番地笹川種郎へ 拝啓年も押しつまり候。いかヾお暮しにや。水ら かたじけ そら お手紙難有く拝見いたし候。御丁寧なる御招待辱 く御病気のよしちっとも知らす、失礼いたし候。もう ( 3 ) なく候。ことに横山画伯も御来会と承はり候へばぜひ 御全快のよし結構に存し候。小生は痔のはういまた治 うちあ 都合っけ参りたしと存じ候へども打明けたお恥づかし らす。隔日に医者の厄介になりをり候。 さふら いよ / 、、小説をかくことと相成り候へども健康を気きところを申すと目下御承知の小説に追はれ一日後れ 遣ひ日に一回くらゐの割にて亀の子のごとく進行するると社のはうで一日休まねばならぬ始末にて大弱りの ところに候。過日時々休んでくれと申し叱られ候。木 つもりに候。 あや 曜の面会日などはほとんど書き損はぬばかり危うき思 このあひだうちは東京のはうにごた / \ これあり小 生も一時は罷めようかと思ひ候へどもいろ / \ 他の勧ひをしば / \ 繰り返しをり候。もっとも旨い具合にゆ ぢゃうぶ 告もありまた御厄介になることとし候。丈夫になっけば一タの余裕くらゐはとれ申すべけれど十二日は朝 てまた大坂へ参り講演でも致して気炎をあげたく候。のうち参る人あり。ひるから四時くらゐのあひたには おにつか さう / ′、 やせうで 小生の痩腕にては一回書き上げること覚東なく候へば 右御返事まで。卿々 伝四様 奥さんへよろしく かめ らふげつ ありがた ”二こ 4 は 金之助
記 ルクリンの功能を書き立てているがごときもその例でれには及ばないから帰せというなんてえのがそれです。 あるそうである。開業の当時通信社のものなどが来て己が死んでもその代りお通夜なんどしなくても好いよ しらうと おもしろ ねすみ 素人には面白い事実がきっとあるたろうから、ぜひ新と言ったら、夜中に鼠でも出てきて鼻の頭でも食うで にお出しなさいと勧めたという しようというから、そうして痛いと言って生き返れば 結構だと答えた 十ニ月八日 ( 金 ) 「彼岸過迄」構想 0 佐藤さんへ行く痔が癒るのやら癒らぬのやら実もっ やっかい て厄介である。 十ニ月十五日 ( 金 ) きよう 0 今日ロンドンの天気のように往来が暗い。九段下か〇今日から小説を書こうと思ってまだ書かす。他から しをつ ; っ・つ かげ ら見ると燈籠やら燈明台がぼうっとして陰のごとく見見れば怠けるなり。終日なにもせざればなり。自分か える。 らいえばなにもすることができぬくらい幻説の趣向そ 〇佐藤氏日く屁は臭いが新らしい糞はそれほど臭いもの他が気にか、るなり ふ、がわはらまん あさくさかんのん のじゃない。 〇十四十五は川八幡の市、十八十九日は浅草観音、 し要あたご かんたみようじん 二十二十一日は神田明神、二十三二十四は之愛宕。 〇このあいた鈴木が先生が死んだら葬儀の意匠を私に てこまい 任せろと、う し。おれが死んたら芸者の手古舞をつけて きやりで送ってくれというとそうするとうかれて生き 明治四十五年 返るだろうと言ってみんなが笑った。 ある老妓の話 〇今朝妻があなたはなんでも世間に反対するつきあい のできないかただ。人が来てお通夜をすると一「ロえばそ〇五月六日 ( 月 ) の晩に市原君が約東のとおり老妓の なお くそ くだんした おれ ろうぎ 5
魯 」簡 そうで 仕舞の舟遊びは楽屋総出で賑かなことです 四月三日 ( 水 ) 午後零時ー一時牛込区早稲田南町七番 地より京橋区滝山町四番地東京朝日新聞社内渋川柳次郎 私は前後を通じてあなたが ( ? ) お筆という女と仮 へ〔はがき〕 の夫婦になって帰るところと、それからそのお筆の手 お手紙の趣承知しました。十五六日まではつなけ院。紙とがいちばん好きです。なか / \ うまいです。ちょ っと敬意を表します。頓一目 もっともその時になって具合がわるけれ。はもう少しつ 四月十八日 づけて書きたいと思います。大阪からは鳥居君がこの 、あいた聞きに寄こしました。寺尾君にはあなたからそ 四一寅彦へ詩と書を呈す ういってやってくたさい。 五月ニ十七日 ( 月 ) 午後二時ー三時牛込区早稲田南 四 0 虚子の「朝鮮」 町七番地より本郷区向ケ岡弥生町二番地寺田寅彦へ 四月十八日 ( 木 ) 牛込区早稲田南町七番地より高浜 このあひだは御老人わざ / \ 弊席へお出くだされ、 そろせまくる ありがた 清へ〔五月一日発行『ホトトギス』より〕 難有く存じ候。狭苦しくてさそかし御窮屈のことと存 拝啓久しく書物を読ますにおりましたところ、二じ候。 ちょうだい 久しぶりにて東京のお能お気に召し候ふよし満足こ 三日前あなたから頂戴した『朝鮮』を読む気になりま して、たゞいま読み切りました。私も朝鮮へ参りましれに過ぎす候。御多忙中御礼にお出などとは思ひも籥 たが、とてもあ、は書けません。お京さんというのがらぬことにこれあり、必ずさやう御心襯なきゃう君よ 天真楼のなんとかいう女中のような気がします。豊隆 り御伝へくだされたく候。 別封小包にて小生の詩と書を御覧に入れ候。これは は平壌のほうをくさしたように記憶していますが怪か わからすや 先ごろ君が僕も一つ書いてもらはうかといはれしゅゑ、 らん没分暁漢です。やはり結構です。 ( 3 )
ロレタリア文学の父とされ、その戯曲「どん底」はわが 一日は友引で縁喜が悪いというので二日にする」とある。 つやそう 国でも親しまれているものの一つ。 一三九 ( 1 ) 通夜僧明治四十四年 ( 19n ) 十二月二日の日 一一穴 ( 1 ) 雨の降る日明治四十四年 ( 】 9 一 1 ) 十一月末、 記にこの部分に照応することがらが言してある。 漱石は、末っ子雛子の死という不幸に出会った。この章 ( 2 ) 三部経仏教各宗で特に尊崇する三部の経で、 に書かれる幼女の死は、その際の出来事が材料とされた 「法華三部経ー「浄土三部経」などがある。 わさん ものである。なお三三 八ページ参照。 ( 3 ) 和賛仏や高僧の徳をたたえる詩で、とくに、 さかやき 。男が冠の下にあたる額際を半月形に剃っ 一三一 ( 1 ) 月イ 梵賛・漢賛に対し国語で行う和語賛歎をいう。七五調四 たことから起った言葉。 句を一連として連ねて行くもので、平安中期に盛んとな じんだいこ 一三一一 ( 1 ) 陣太鼓巴紋のついた陣太鼓は、忠臣蔵で討ち り、弘法大師作といわれる「いろは賛」もその一つであ る。 入りの際大石内蔵助が用いた山鹿流陣太鼓として知られ しんらんしようにん ( 4 ) 親鸞上人承安三年ー弘長一一年 ( 1173 ー 1262 ) 9 しきみ 鎌倉初期の名僧。浄土真宗開祖。 一三六 ( 1 ) 樒もくれん科の有毒常緑灌木。葉と樹皮から れんによしようにん 抹香をつくる。別名、仏前草。 ( 5 ) 蓮如上人応永二十二年ー明応八年に 5 ・↓ 4 きようかたびら 99 ) 。室町中期の名僧。本願寺第八世。真宗中興の祖。 一三七 ( 1 ) 経帷子死人に着せる白い着物。 そでびようふ 一四 0 ( 1 ) 火葬場新宿区上落合に現在もある落合の火葬場 一三〈 ( 1 ) 袖屏風袖をあげて顔をおおいかくすこと。 しろりんず をさす。 ( 2 ) 白綸子経・緯ともに生糸を用いた、厚く滑ら かしわぎステーション ( 2 ) 柏木の停車場甲武線の駅。現在の中央線東中 かで光沢がある紋織物が「綸子」で、その白いものを 「白綸子ーという。 野駅あたりにあった。新宿区柏木付近。 あなはちまん ともびきょ ( 3 ) 穴八幡新宿区高田町の高田八幡神社の俗称。 ( 3 ) 友引は善くない陰陽家でいう友引日で、俗信 ではこの日に葬式をすると北人を誘うといわれている。 ( 4 ) 諏訪の森新宿区諏訪町の諏訪神社の森。 さんばっ 明治四十四年 ( 1911 ) 十一月二十九日の日記に「十二月一四一一 ( 1 ) 散髪乱髪。ざんばら髪。 0 イ 28
之日本社から単行本として刊行された。 ( 3 ) 弊席漱石は、二十三日晩九段靖国神社能楽堂で、 池内信嘉主宰の能楽供楽部による「忠度ー「隅田川ーなど を観能している。「弊席」とは、その際のである。 三〈六 ( 1 ) 久米八市川九女八。初名、粂八。女役者。 ( 2 ) 不折中村不折。慶応二年ー昭和十八年 ( 1866 ー 1943 ) 。洋画家。 八 ( 1 ) 明治のなくなった明治天皇は、明治四十五年 ( 1912 ) 七月十九日夕刻尿毒症の発熱で臥褥してから、 病状日を追って悪化し、七月三十日午前〇時四十分に崩 御した。小説「こ & ろ」の先生の遺書に「すると夏の暑 はうぎよ い盛りに明治天阜が崩御になりました。その時私は明治 の精神が天阜に始まって天阜に終ったような気がしまし た。最も強く明治の影響を受けた私どもが、そのあとに ひつぎよう 生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく 私の胸を打ちました」 ( 第十一巻二一二。ヘージ ) とあり、 これは漱石の当時の気持を代弁したものと考えられてい る。 ( 2 ) 三山在世池辺三山は、東京朝日新聞主筆を辞 職して間もなく、明治四十五年 ( 1912 ) 一月に死去した。 ( 3 ) 国民徳富蘇峰が主筆していた「国民新聞」。 ぎゃうさん 大正元年 ( 1912 ) 八 ( 4 ) 極度に仰山すぎて : 月一日、「法学協会雑誌」の依頼でその誌上に載せた漱石 自身の「明治天皇奉悼之辞」は、以下のごときものであ る。「過去四十五年間に発展せる最も光輝ある我が帝国 の歴史と終始して忘るべからざる大行天皇去月三十日を もっ 以て崩ぜらる天皇御在位の頃学問を重んじ給ひ明治 三十一一年以降我が帝国大学の卒業式毎に行幸の事あり日 露戦役の折は特に時の文部大臣を召して軍国多事の際と その いへど おろそか 雖も教育の事は忽にすべからず共局に当る者克く励精せ たま そのかひ よとの勅諚を賜はる御重患後臣民の祈願共効なく遂 に崩御の告示に会ふ我等臣民の一部分として籍を学界に した かへり 置くもの顧みて天皇の徳を懷ひ天皇の恩を憶ひ謹んで哀 ちゅう 衷を巻首に展ふ」。 三凸 ( 1 ) 御大葬明治天皇御大葬。大正元年 ( 1912 ) 九 月十三日から十五日にかけて行なわれ、御霊は、京都伏 見桃山御陵に葬られた。 ( 2 ) 橋ロ貢画家。号、五葉。東京美術学校卒業。 ( 3 ) 高士伝晉の皇甫謐著。三巻本。古の隠士の事 跡を記したもので、原本では七十二人のものが収められ ている。漱石の蔵書中に見える。 じゅうじしゃ ( 4 ) 従轜車四四一ページ三契 ( 5 ) 参照。 ころ あい 446
評論家長谷川如是閑。 ・ : 」とある。 母のである。 三八一 ( 1 ) 長谷川万次郎 森田草平 ( 2 ) 笹川種郎評論家。号、臨風。「帝国文学」記者。 ( 2 ) 森田にやめてもらわなければ : は、当時、漱石の助手として朝日文芸欄の編集に当る一 ( 3 ) 横山画伯横山大観。明治元年ー昭和三十三年 方、紙上に「煤煙ー続編のようなかたちで「自叙伝」 ( 十 ( 1868 ー 1958 ) 。日本画家。本名、秀麿。水戸市に生れ、 一一月春陽堂より刊行 ) を連載していたが、これが社内で 東京美術学校日本画科卒業。日本美術院の創立者の一人。 評判悪く、また平塚雷鳥の母が漱石宅を訪間してその内 日本画壇の大御所として永い制作活動に従い、芸術院会 容に抗議を申し込んたことなどもあって問題化していた 員となって、文化勲章を受賞した。 が、九月二十日、主筆池辺三山と弓削田精一がこの作品三八 1 一一 ( ) 「凍」武定袗七 ( 巨石 ) の小説。 について激論をかわしたことから、精一が同夜、三山が ( 2 ) 伊予文当時、下谷にあった割烹店「伊予紋」。 二十二日に社へ辞表を提出 ( 三山の退社が認られたのは ( 3 ) 高等遊民食うための仕事にわずらわされず、 二十九日 ) する事態に至ったため、漱石は強く責任を感 好きな事のできる境遇のインテリ。「それから」 ( 第七巻 じて草平をやめさせ、文芸欄をも廃止することにしたと 所収 ) の主人公代助など漱石の小説にしばしば扱われる。 いわれ、さらに十一月一日には、みずからも辞表を提出三〈三 ( 1 ) 久保猪之吉歌人。九州大学教授。医学博士。 している。 ( 2 ) 長塚節明治十二年ー大正四年っ 879 ー】日 5 ) 。 conventionalist 央 ) 0 小説家。 三七九 ( 1 ) コンべンショナリスト 囚襲主義者。 三〈四 ( 1 ) 青木君青木繁。明治十五年ー同四十四年 (18 82 ー 1911 ) 。洋画家。 ( 2 ) 社長当時の朝日新聞社社長村山竜平。 そろ さないさカ 一穴 0 ( 1 ) 佐内坂新宿区市ヶ谷左内町の坂の名。正しくは 三会 ( 1 ) 十五六日まではつなげ候結局、四月一一十九 「左内坂」である。 日まで続けられた。 ( 2 ) 痔四三九ページ三三六 ( 3 ) 参照。 ( 2 ) 『朝鮮』高浜虚子の小説。明治四十四年っ 91 】 ) 5 東京・大阪朝日新聞に連載され、四十五年 ( 1912 ) 実業 ( 3 ) 半きれ半紙。