男 - みる会図書館


検索対象: 夏目漱石全集 9
438件見つかりました。

1. 夏目漱石全集 9

ら認めたくない一種独特なエゴイズムのためである。このエゴイズムは、彼の、例の性格、世の中 と接触する度に内へとぐろを捲き込む性質、のためにどうしても生じてくる一見矛盾した、相剋す る魂であり、須永自身もこれを、自分という正体がそれ程解り悪い怖いものなのたろうか、と承知 していながらどうすることも出来ないでいる。 このような須永を相手にして、 「何故嫉妬なさるんです」 とつめ寄ってみても、はっきりした答えが得られないのはわかりさっている。そのために千代子 ははげしく泣き出すのだが、涙がかわくと、須永に対して、あなたは卑怯た、ときめつける。 この勝負は、千代子の方に分があるのでもなく、まして須永の方が有利なわけでもない。須永と 千代子の勝負は簡単にどちらが勝ちとも負けとも決められない。そういうところが深刻かっ面倒な 問題である。 須永と千代子の関係は、男と女の関係の一つの新しい典型であり、二人の恋愛は一方では対立し ながら又、一方では愛しあう男と女の永遠の課題でもある。 この場合の男即ち須永は、考えすぎる男であり、自分の限の前に自分の手で次々と障害物を置い てしまって、それを乗り越える困難に茫然としてしまう男である。 一方、女は男のこうした懊悩を理解出来ずにいる。理解出来ないから、いつも男の真意をはかり 416

2. 夏目漱石全集 9

第いさつやりとり 1 トの倨を踏まえないばかりに引き摺って車掌台の上っていた。車は動きたした。二人の間に挨拶の交換が に足を移した。しかしあとからすぐ続くと思った男は、もう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓 あがけしき 力しし」 - っ 案外上る気色もなく、足を揃えたま、、両手を外套のを南の方へ運び去った。男はこの時口に銜えた葉巻を むき かど 隠袋に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ッ角 男がわざ / 、こ、まで足を運んだのだということによの交差点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋の前で とま ステッキ うやく気が付いた。実をいうと、彼は男よりも女のほ留った。そこは敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖 うによけい興味を持っていたのである。男と女がこ、を取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男 あと で分れるとすれば、むろん男を捨てて女の先途だけをの後を見え隠れにこ、まで跟いてきて、また見たくも シルク 見届けたかった。けれども自分が田口から依託された ない唐物屋の店先に飾ってある新柄の襟飾だの、絹 のぞ かわじまひざかけ のは女と関係のない黒い中折帽を被 0 た男の行動だけ幗たの、変り縞の掛だのを覗き込みながら、こう遠 ひか たんてい なので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控え慮をするようでは、探偵の興も覚めるたけたと考えた。 女がすでに離れた以上、自分の仕事に飽が来たといっ ては済まないが、前同様であるべき窮屈の程度が急に 著るしく感ぜられてならなかった。彼の依頼されたの 女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、そは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限 ていさっ れぎり中へはいってしまった。冬の夜のことだから、 られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだ 窓硝子はことん \ く締め切ってあった。女はことさらものとして、下宿へ帰って寐ようかとも思った。 亠のい、」ト : っ にそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌も見せなか そこへ男の待っている電車が来たとみえて、彼は長 った。それでも男はのっそり立って、寧の動くのを待い手で鉄の棒を握るやいなや瘠せた身体を体よく留ま まどガラス こ 0 そろ せんど さ ふたり しんがら からたて、 と ) ぶつや

3. 夏目漱石全集 9

「あれって。たヾあれじや分らない」 「あんなもの今こゝに持ってるもんかね」と男が言っ こ 0 「ほらあれよ。こないたの。ね、分ったでしよう」 「ちっとも分らない」 「誰もこ、に持ってるって言やしないわ。たヾ頂戴っ あなた ていうのよ。今度で可いから」 「失敬ね。貴方は。ちゃんと分ってるくせに」 敬太郎はちょっと振り向いて後が見たくなった。そ「そんなに欲しけりや遣っても可い。が : : : 」 うれ の時階段を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客「あッ嬉しい」 あが ひとり がどや / \ と一度に上ってきた。そのうちの一人はカ敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男 ながぐっは ーキー色の服に長靴を穿いた軍人であった。そうしての顏もついでに見ておきたかった。けれども女と一直 床の上を歩く音とともに、腰に釣るした剣をがちゃが線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考え ると、この際そんな盲動は慎しまなければならないの ちゃ鳴らした。三人は上って左側の室へ案内された。 この物音が例の男と女の会話を攪き乱したため、敬太で、目の遣り所に困るというふうで、たヾ正面をぼか くち おちっ 郎の好奇心もちらっく剣の光が落付くまで中途に停止んと見回した。すると勝手の上り口の方から、給仕が していた。 白い皿を二つ持って入ってきて、それを古いのと引き 「このあいだ見せていたゞいたものよ。分って」 更えに、二人の前へ置いていった。 「小鳥だよ。食べないか」と男が言った。 男は分ったとも分らないとも言わなかった。敬太郎 にはむろん想像さえ付かなかった。彼は女がなぜ淡泊「妾もうたくさん」 に自分の欲しいというものの名をは 0 きり言 0 てくれ女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その 岸ないかを恨んだ。彼はなんとはなしにそれが知りたか代り暇のできたロを男よりはよけい動かした。二人の ったのである。すると、 間答から察すると、女の男に呉れと逼ったのは珊瑚樹 はし・こだん わか や あか さんゴじゅ 9 、 かんが

4. 夏目漱石全集 9

もう少し聞いているうちにはあるいは中りが付くか 「今夜は不可ないよ、少し用があるから」 さらワッ 「どんな用 ? 」 もしれないと思って、敬太郎は自分の前に残された皿 ころ にんじんひときれなが そば 「どんな用って、大事な用さ。なか / \ そう安くは話の上の肉刀と、その傍に転がった赤い仁参の一切を眺 し や せない用た」 めていた。女はなお男を強いることを巳めない様子で さんあった。男はそのたびになんとかかとかいって逃れて 「あら好くってよ。妾ちゃんと知ってるわ。 ざっぱら他を待たしたくせに」 、た。しかし相手を怒らせまいとする優しい態度はい あおえんどう 女は少し拗ねたようなものの言い方をした。男は四つも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青助豆 辺に遠慮するふうで、低く笑った。二人の会話はそれが運ばれる時分には、女もとう / \ 我を折りはじめた 9 ~ こうじよう ぎり静かになった。やがて思い出したように男の声が敬太郎は心のうちで、女がどこまでも剛情を張るか、 でなければ男が好加減に降参するか、どっちかになれ おそ り口いがと、ひそかに祈っていたのだから、隸ったほ 「なにしろ今夜は少し遅いから止そうよ」 「ちっとも遅かないわ。電車に乗っていきゃあじきじど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気 ゃありませんか」 がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものと はすみ ちゅうちょ 女が勧めていることも男が躊躇していることも敬太して略されつ、あった目的地たけでも、なにかの機会 よ / \ 話が纏まら 郎にはよく解った。けれども彼等がどこへ行くつもり に小耳に挾んでおきたかったが、い かんじん なのだか、その肝心な目的地になると、彼にはなんらないとなると、男女の問答はしぜんほかへ移らなけれ の観念もなかった。 ばならないので、当分その望みも絶えてしまった。 ちょうだい 「じや行かなくって可いから、あれを頂戴」と、や がて女が言いたした。 わか わたし よ い、かげん ふたり なんによ あた っ

5. 夏目漱石全集 9

ちゅうらよ り切らない車台の上に乗せた。今まで躊躇していた敬時々伸ばして、あるものを確かめたいように、窓の外 み のぞ 太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、を覗きだした。敬太郎もつい釣り込まれて、見悪い外 ひゞき なが すぐ同じ車台に飛び上った。車内はそれほど込みあつを透かすように眺めた。やがて電車の走る響のなかに、 み、、もと ていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕窓硝子にあたって摧ける雨の音が、ぼつり / \ と耳元 ステッキ を十分持っていた。敬太郎は箱の中に身体を入れるとでしはじめた。彼は携えている竹の洋杖を眺めて、こ 同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集の代りに雨傘を持ってくれば可かったと思いだした。 められた。そのうちには今坐ったばかりの中折の男の 彼は洋食店以後、中折を 0 た男の人柄と、世の中 めつき も交っていたが、彼の敬太郎を見た目のうちには、おにまるで疑を掛けていないその目付とを注意した結果、 この時ふと、こんな窮屈な思いをして、入らざる材料 やという認識はあったが、付け覘われているなという むきだし いっそ露骨にこっちから話し掛けて、 疑惑はさらに現われていなかった。敬太郎はようやくを集めるよりも、 伸び / \ した心持になって、男と同じ側を択って腰を当人の許諾を得た事実だけを田口に報告したほうが、 おそまき いまさら遅蒔のようでも、まだ気が利いていやしない 掛けた。この電車でどこへ連れて行かれることかと思 ( 1 ) ・ヘんぼう えどわゆき って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。彼かと考えて、自分で自分を彼に紹介する便法を工夫し は男が乗り換えさえすれば、自分もさっそく降りるつはじめた。そのうち電車はとう / 、終点まで来た。雨 とま はげ もりで、停留所へ来るごとに男の様子を窺がった。男はます / 烈しくなったとみえて、車が留るとざあと かくし いう音が急に彼の耳を襲った。中折の男は困ったなと は始終隠袋へ手を突き込んたま、、多くは自分の正面 ズ飛ノすそ 力、とうえり ひざ 言いながら、外套の襟を立てて洋袴の倨を返した。敬 かわが膝の上かを見ていた。その様子を形容すると、 あが 岸なんにも考えずになにか考え込んでいるというふうで太郎は洋杖を突ぎながら立ち上った。男は雨のなかへ おく 0 ) くるまひきつら あった。ところが九段下へ掛ったころから、長い言を出ると、すぐ寄って来る俥引を捕まえた。敬太郎も後 しようかく っ ねら まどガラス おま 1 っ ひとがら

6. 夏目漱石全集 9

ありいた 人がやっと今電を降りたのだと断定しないわけに、 どちらにも見出すことができなかった。男は帽子の縁 めんどう かなかった。彼は例刻の五時がとうの昔に過ぎたのに、 に手を掛ける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はそ つば むか 妙な酔興を起して、やはり同じ所にぶら付いていた自の鍔の下にあるべきはすの大きな子を面と向ってぜ しあわ 分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自ひ突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の 分の好奇心を釣りに若い女が偶然出てきてくれたのを上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、 彼はつか / \ と男の前へ進んでいって、なんでも好い 有難く思った。さらにその若い女が自分の探す人を、 自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ちおおせから、たヾ口からでまかせの質間を掛けたかもしれな たのを幸運の一つに数えた。彼はこの x という男につ 。それでなくても、たヾちに彼のへ近寄って、満 のぞ いて、田口のために、ある知識を供給することができ足のゆくまでその顔を覗き込んたろう。この際そうい るとともに、同じ知識がという女に関する自分の好う大胆な行勳を妨たげるものは、男の前に立っている 奇心をいくぶんか満足させ得るだろうと信じたからで例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったか ある。 どうかは間題として、彼の挙動に不審を抱いた様子は、 男と女はまるで敬太郎の存在に気が付かなかったと同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく峡したとこ けしき みえて、前後左右に遠慮する気色もなく、なお立ちなろである。それを承知しながら、再びその視線のうち がら話していた。女は始終微笑を洩らすことを巳めな に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的で ふたり けんぎ かった。男も時々声を出して笑った。二人がはじめてないうえに、嫌疑の火の手をわざと強くして、自分の あいさっ 顔を合わした時の挨拶の様子から見ても彼等は決して目的を自分で打ち毀すと同じ結果になる。 あいだら 疎遠な間柄ではなかった。異性を県ぎ合わせるようで、 こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会 いんぎん なんによかん その実両方の仲を堰く、肱一懃な男女間の礼儀は彼等のが回って来るまでは、黒子のあるなしを見届けるだけ っ せ ェックス

7. 夏目漱石全集 9

こんな結論にはかえって到着しないほうが幸であった でしようか。。ヒン / \ しているのは、皆嘘の学者たと 真というものは、知らないうちは知りたお 中しては語弊があるが、まあどっちかといえば神経衰のでしよう。 いけれども、知ってからはかえってア、知らないほう 弱に罹るほうが当り前のように思われます。学者を例 パサンの に引いたのは単に分り易いためで、理屈は開化のどのが宜かったと思うことが時々あります。モー 方面へも応用できるつもりです。 小説に、ある男が内縁の妻に厭気がさしたところから、 すでに開化というものがしカ冫、 、こ進歩しても、案外そ置手紙かなにかして、妻を置き去りにしたま、友人の たまもの の開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもの家へ行って隠れていたという話があります。すると女 で、競争その他からいら / ( 、しなければならない心配のほうではたいへん怒ってとう / \ 男の所在を捜し当 てぎれきん を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りてて怒鳴り込みましたので男は手切金を出して手を切 はなさそうであることは前お話ししたとおりであるうる談判を始めると、女はその金を床の上に叩きつけて、 こんなものが欲しいので来たのではない、もしほんと えに、今いった現代日本が置かれたる特殊の状況によ って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるため うにあなたが私を捨てる気ならば私は死んでしまう、 とびお ふんば にたゞ上皮を滑ってゆき、また滑るまいと思って踏張そこにある ( 三階か四階の ) 窓から飛下りて死んでし るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気まうと言った。男は平気な顔を装ってどうぞといわぬ あわ の毒といわんか憐れといわんか、まことに言語道断のばかりに女を窓の方へ誘う所作をした。すると女はい 窮状に陥ったものであります。私の結論はそれたけにきなり馳けていって窓から飛下りた。死にはしなかっ かたわ すぎない。あゝなさいとか、こうしなければならぬと たが生れも付かぬ不具になってしまいました。男もこ 力いうのではない。・ とうすることもできない、実に困れほど女の赤心が目の前へ証拠立てられる以上、普通 ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります。の軽薄な売女同様の観をなして、女の貞節を今まで疑 うわかわ

8. 夏目漱石全集 9

僕の頭や羽二重の足袋で包んだ僕の足よりも難有がらど強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は ないだろう。要するに彼女からいえば、美くしいもの僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人であ を僕のうえに永久浪費して、しだい / 、に結婚の不幸る。だから恐れる僕を軽蔑するのである。僕はまた感 けつまずき 情という自分の重みで蹴爪付そうな彼女を、運命のア を嘆くにすぎないのである。 僕は自分と千代子を比較するごとに、必す恐れないイロニーを解せざる詩人として深く憐むのである。 ことば な時によると彼女のために戦慄するのである。 女と恐れる男という言葉を繰り返したくなる。しま、 にはそれが自分の作った言葉でなくって、西洋人の小 説にそのま . 、、出ているような気を起す。このあいた講 釈好きの松本の叔父から、詩と哲学の区別を聞かされ須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。 て以来は、恐れない女と恐れる男というと、たちまち事実をいえば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者ともい しろうとくもん い得る男なのかもしれなかった。しかしそれは傍から 自分に縁の遠い詩と哲学を想い出す。叔父は素人学問 おもしろ ことば ながらこんな方面に興味を有っているだけに、面白い彼を見た目の評する言葉で、敬太郎自身は決してどっ ことをいろ / \ 話して聞かしたが、僕を捕まえて「おちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とか まえ いう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のよ 劇のような感情家は」と暗に詩人らしく僕を評したの うなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見 は間違っている。僕に言わせると、恐れないのが詩人 の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思い切限っていた。そのうえ彼は理屈が大皦いであった。右 ったことのできずにぐす / 、しているのは、なにより か左へ自分の身体を動かし得ないたゞの理屈は、 歩んそうしへい レ」りこー」び、をつ - っ さぎに結果を考えて取越苦労をするからである。千代ら旨くできても彼には用のない費造紙幣と同じ物であ ( 2 ) っし ふるま った。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう辻 子が風のごとく自由に振舞うのは、さきの見えないほ はふたえ せんりつ いちにん

9. 夏目漱石全集 9

と答えた。彼等の食事がようやく終りに社付いた合図 の珠かなにからしい。月はこういうことに精通してし とも目 ~ られるこの簡単な間答が、今までうつかりと二 るというロ調で、いろ / \ な説明を女に与えていた。 人の話に釣り込まれていた敬太郎に、たちまち自分の それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない ねり・もの 、こ。皮よこの料岬トオリー こすぎなかった。練物で作った夢務を注意するように「→、 辱第家の嬉しがる知識 ( あと のヘ指先の紋を押し付けたりして、時々旨く胡魔化し後の二人の行動をも観察する必要があるものとして、 てざわ ョんふつ た賢物があるが、それは手障りがどこかざら / \ する自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と 同時に二階を下りることの不得策を初めから から、ほんとうの古渡りとはすぐ区別できるなどと丁 あとさきすべあ いた。後れて席を立つにしても、巻新を一本及つよ 寧に女に教えていた。敬太郎は前後を綜合わして、な さっとう いさきに、夜と人と、雑沓と暗のなかに、彼等の姿 んでもよほど貴とい、またたいへん珍らしい、今時そ 「」見失なうのは慥であった。もし聞違いなく彼等の影 う容易くは手に人らない時代の付いた珠を、女が男か あと リ」、つしこ を踏んで後から喰付いて行こうとするなら ら買う約東をしたということが解った。 まえ 一 - 遣るには遣るが、お前あんなものを買ってなんにすも一足先へ出て、相手に気の付かない物陰かなにかで る気たい」 待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は 「貴方こそなんになさるの。あんな物を持ってて、男早く勘定を済ましておくに若くはないという気になっ のくせに」 て、さっそく給仕を呼んでビルを請求した。 おちっ 男と女はまた落付いて話していた。しかし二人の間 になにという極った題目も起らないので、それを種こ し・宀ーり しばらくして男は「お前お ~ 果子を食べるかい、菓物意見や博の交換も始まる機会はなく、たヾたらしの にするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ。ない雲のようにそれからそれへと流れていくだけにす っ

10. 夏目漱石全集 9

は差し控えたほうが得策たろうと判断した。その代り あとっ 見え隠れに二人の後を跟けて、でき得るならば断片的 はさ でも可いから、彼等の談話を小耳に挾もうと覚悟した。「だってあんまりだわ。こんなに人を待たしておい 彼は先方の許諾を待たないで、彼等の言動を、ひそかて」 ことば にわが胸に畳み込むことの徳義的価値について、別に敬太郎の耳に沁った第一の言葉は、女の口から出た 良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自こういう意味の句であったが、これに対する男の答は ほわおり 分の骨折から出る結果は、世故に通じた田口によって、まったく聞き取れなかった。それから五六間行ったと ふたり 必ず善意に利用されるものとたヾ淡泊に信じていた。 思うころ、二人の足が急に今までの歩調を失って、並 やがて男は女を誘なうふうをした。女は笑いながらんだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞がりそうに むこ それを拒むように見えた。しまいに半ば向き合ってい した。敬太郎のほうでも、後から向うに突き当らない そろ のきば た二人が、肩と肩を揃えて瀬戸物屋の軒端近く歩き寄かぎりは先へ通り抜けなければ跋が悪くなった。彼は あともど った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東二人の後戻りを恐れて、急ににあった菓子屋の店先 - の方へ歩きだした。敬太郎は二三間早足に進んで、すへ寄り添うように自分を片付けた。そうしてそこに並 ガラスつぼ ぐ彼等の背後まで来た。そうして自分の歩調を彼等とんでいる大きな硝子壷の中のビスケットを見詰めるふ あら 同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑うをしながら、二人の動くのを待った。男は外套の中 まぬ を免かれるために、彼は決して彼等の後姿には目を注へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体 かなか「た。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行を横にして、下向きに右手で持 0 たものを店の灯に くもののごとくに、わざとあらぬ方を見て歩いた。 した。男の顔の下に光るものが金時計であることが その時敬太郎に分った。 わか ばっ ふさ