19 「ドメスチック・ハッピネス」 涼しさや松の落葉の欄による虚子 ・↓ ( 『子規居士と余』十 ) などゝいふのは其頃の実景であった。 明日保養院を出て松山に帰るという晩、子規は改った口調で虚子に訓戒を垂れ、自分は子供 がいないから虚子を「後継者」と心に決めている、しかしお前は秉公 ( 河東碧梧桐 ) といっし ふう ょにいるとどうも落着がなくなるから、「断して別居をして、静かに学間をする工夫」をしなけ ればならない、といった。虚子はおどろき、ただうなすきながら重苦しい気持で子規の昻奮し た言葉を聴いていた。 其夜は蚊帳の中に辷人ってからも居士は興奮してゐて容易に眠むれさうにも無かった。当日 の居士の句に、 蚊帳に人りて眠むがる人の別れかな ほとん とかいふのがあったかと思ふ。余は蚊帳に入ると殆ど居士の話も耳に入らぬゃうに睡ってし まった。 かや 須磨にて虚子の東帰を送る らん ねむ 2
くさく ひひやう しよくんびやうしゃうひ 手洗不迷等の諸君を病床に引きつけて、殪んど休む間もなしに句作をしたり批評をしたりした ものらしい ・↓ ( 高浜虚子『漱石氏と私』 ) 金之助が、まもなくこの「松風会」の仲間人りをしたのは、階下がやかましくて「兎に角自 分の時間といふものが無い」状態になったからてある。九月七日付で子規は、東京で日本新聞 あひなり うんざれんちゅう 社に人社したばかりの河東秉五郎にあてて、「夏目も近頃運坐連中の一人に相成候ーと報告して あぐら いる。運坐は万年床の上に胡坐をかいた子規をとりかこんでおこなわれ、師匠格の子規がめい めいの句の上に〇をつけた。子規は、足を投げ出したり、頬杖をついたりして、無作法なかっ こうで句作にふけっている松山の仲間とは「お前」とか「アシ」とかいう松山弁で呼びあった が、金之助とだけは「君・僕」で話した。しかし選句になると、彼は金之助の句にも容赦なく 丿。いかにも親分然とした態度で一座を主 批評を加えた。金之助は、病苦を忘れたように熱らこ、 宰している子規を、なかば不思議そうに、なかば感動したように、眺めていた。 九月の月給日に、金之助は書斎に上がる前に子規の枕もとに立ち寄って、 「君に小遣いをやろうか」 といいながら二、三枚の紙幣を蒲団の下に敷きこんだ。日本新聞社からもらう子規の月給は、 東京の留守宅にいる母と妹の生活費にあてられていた。彼が素寒貧の状態でいることは誰の眼 にもあきらかだったから、金之助は快気を出したのである。しかし子規は、あいかわらすの調 子で、金之助の心づかいにさほど感謝している素振りも見せすにいた。『芭蕉雑談』 ( 明治二十 ばしよう 六年ー二十七年 ) で芭蕉の偶像破壊を試みた彼は、のちに『俳人蕪村』 ( 明治三十年 ) として発 たらひふめいら やすま ほおづえ と 284
19 「ドメスチック・ハッビネス」 爺と婆淋しき秋の彼岸かな 馬に二人霧を出でたり鈴の音 便船や夜を行く雁のあとや先 などがそれである。そのほか、子規の添削に従った九月の作二十三首のうち、 肌寒や羅漢思ひ / \ に坐す 土佐で見ば猶近からん秋の山 などの七句が、「海南新聞」と「日本」の俳句欄のために子規が秀句を書きつけておいた選句 帖、「承露盤」に収められている。金之助の号は「愚陀仏」というのてあった。 当時子規は、蕪村に熱中していわゆる写生論にかたむき、俳句における「客観主義」を主張 してしたが、 ! 金之助が文字通り子規の理論を信奉していた形跡はない。彼は外界を写生するこ とよりも、むしろ内面を表現することを欲していたのである。 名月や故郷遠き影法師 の「影法師」に反映しているのは、おそらく彼自身の「生」の影絵である。そしてそのさら に奥底には、あの秘密に閉ざされた女の影があり、それはまさに消えていこうとしていた。彼
ぐさ 忽ち余の鼻を打ったのは血なま臭い匂ひであった。居士のロ中からとも無く布団の中からと おそ も無く一種の臭気が人を襲ふやうに広がった。余は憮然として立ちすくんだ。 うまをさ 个 : : ・実際、これで滋養灌腸が旨く収まらなかったら、駄目かも知れぬと医者は悲観してゐた。 かたむ その っと さいはひ が、幸なことには居士は其以後カめて営養物を取るやうな傾きが出て来た。 医師から今晩は特に気を附けなければならんと言はれた心細かった一夜は無事にしら / \ と あかつぎ やまひたうげ 白らんだ。恐らく其晩が病の峠であったらう。前日少し牛乳を取った為めてあらうか、其暁の ややまどは 血色は今迄よりはいくらかい、やうであった。其日から喀血も稍間遠になって来た ( 『子規居 士と余』九・十 ) かわひがしへぎごとう 東京から、河東碧梧桐が子規の母八重を連れてかけつけたのは、ちょうどこのころである。 碧梧桐は虚子とふたりで子規の看病にあたり、そのあい間に古白の自殺について詳しい話をし た。「其後は毎に人無き折々古白の事を想ひ出だしては我身にくらべて泣きたる事あり。骨と あや みなもとっ 皮とをのみ余したる我身の犱涙の源尽きざるを怪しみぬ」 ( 『藤野古白』 ) と子規は記している。 彼は古白がどこかて彼を待っているという幻想にとらわれはじめていた。 行子規の容態が安定して来たのは六月中旬にな 0 てからである。六月二十八日に彼はおそらく 虚子を供につけて母を松山に帰省させた。七月三日付で子規は松山滞在中の母にあてて書いて をり おひおひ 个 : : ・その後病気追々よろしく、時々は窓につかまりて庭をながめなどいたし居候。食物は何 277
もはや 俳句ーー文学は、子規にとっては彼の死後も継承されるべき公的な「事業、であった。「最早 あひをはまうすべく たもら′ あひなり 小生の事業は小生一代の者に相成候。三十有余年だに保ち得べからざる此一代にて相終り可申 候」と彼は書いている。「今迄でも必死なり。されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の ちかづ 念つよくなれり。死はます / 近きぬ。文学はやうやく佳境に人りぬ」。子規は焦りながら、 たんせき その「野心」のすべてを「旦タに迫」った命のなかに注人しなければならなかった。 虚子は子規とのいきさつを金之助に報告して、意見を求めたものと思われる。虚子が子規の てんたん 要求をしりぞけたのは、「野心名誉心」に恬澹としていたからというより、「後継者」として子 規に圧迫されるのがうとましかったからである。「居士に見放されたといふ心細さはもとより ゆる あった。が同時に東縛されて居った縄が一時に弛んて五体が天地と一緒に広がったやうな心持 がした」 ( 『子規居士と余』 ) と虚子はのちに回想している。金之助はそういう虚子にむしろ同情 的であった。彼はおそらく子規の絶望のなかに、抑制を知らぬ支配欲の挫折を嗅ぎつけていた。 にかいしたた わたくしつくゑ ひとりわたくしうちまへ あるひさうせぎし ^ 或日漱石氏は一人で私の家の前まで来て、私の机を置いてゐる二階の下に立って、 たかはまくん 「高浜君」 あをた おも そのころわたくしうちたまがはまちとうたん と呼んだ。其頃私の家は玉川町の東端にあったので、小さい二階は表ての青田も東の山も した せいやうてぬぐひ しゃうじ ゃう わうらいめん 見える様に往来に面して建ってゐた。私は障子をあけて下をのそくとそこに西洋手拭をさげて しょで まただうご をんせんい さうせきし ゐる漱石氏が立ってゐて、又道後の温泉に行かんかと言った。そこで一緒に出かけてゆっくり かへみちふたりしん のみちまつやまか ( をんせん ふたりてぬぐひさ 温泉にひたって二人は手拭を提げて野道を松山に帰ったのであったが、その帰り道に二人は神 じ ちひ ひがしやま 3 川
日ごろだったかは不明である。四日付の手紙には、「近日当主人 ( 引用者注・片岡機のことで こんびら まゐ ゅゑそのせつ おたちよりまうすべく あろう ) の案内にて金比羅へ参る都合故、其節一寸都合よくば御立寄可申」という一節が見え るが、この金比羅参詣が実現されたのかどうかも判然としない。しかし高浜虚子 ( 清 ) の『漱 石氏と私』は、当時松山中学の生徒だった彼の眼に映じた金之助と正岡の姿を回想している。 かぶ ^ 私が漱石氏に就いての一番旧い記憶はその大学の帽子を被ってゐる姿である。時は明治二十 四五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏 ひざ 休みかに子規居士が帰省してゐた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝を キチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山とよ ・こもくずしこしら その ばれてゐるところの五目鮓が拵へられて其大学生と居士と私との三人はそれを食ひっゝあった。 そのころ 他の二人の目から見たら其頃まだ中学生であった私はほんの子供であったらう。又十七八の私 ふたり ・ : その席上ではど の目から見た二人の大学生は遙かに大人びた文学者としてながめられた。 はうたんてき んな話があったか、全く私の記憶には残って居らぬ。たゞ何事も放胆的であるやうに見えた子 規居士と反対に、極めてつゝましやかに紳士的な態度をとってゐた漱石氏の模様が昨日の出来 ごと せいざ 規事の如くはっきりと眼に残ってゐる。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山の皿 ひとつぶ るを取上げて一粒もこほさぬ様に行儀正しくそれを食べるのであった。さうして子規居士はと見 病ると、和服姿にあぐらをかいてそんざいな様子て箸をとるのであった。それから両君はどうい そのとぎ かさ ふやうにして、どういふ風に別れたか、それも全く記憶に無い ゞ其時私は一本の傘を居士 しせん その の家に忘れて帰って来たことと、其次ぎ居士を訪間してみると赤や緑や黄や青やの詩箋に二十 ひざ あ また
贈るべき扇も持たすうき別れ子規 余は此の句に送られて東に帰った〉 ( 同上 ) 子規が松山に戻ったのは、八月二十五日である。彼は叔父大原恒徳方に二泊して、二十七日 に金之助の下宿に移った。同日付の金之助の手紙に、 すで こころえ 〈拝呈今朝鼠骨子 ( 引用者注・寒川鼠骨・俳人 ) 来訪、貴兄既に拙宅へ御移転の事と心得、御 ただちおい などとりまと たぎよしまうしをりさふらふあひだ 目にかゝり度由申居候間、御不都合なくば是より直に御出であり度候。尤も荷物抔御取纒め まづ だナごしゆっかういかが さふら 方に時間とり候はゞ、後より送るとして身体丈御出向如何に御座候ゃ。先は用事まで早々頓 首〉 ( 松山市湊町四丁目十九番戸大原方正岡常規宛 ) とあるところを見ると、子規は移転前から金之助の下宿を仮住居にすることに決めて、友人 たちに一方的に通知していたらしい。おそらく彼は、結核患者が大原家で歓迎されないことを 知っていた。さらに彼は、世間的にいえば社会の落伍者にすぎない自分が、叔父の眼にどう映 じているかをも知りすぎていたはすである。 △ : : : 子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、 自分のうちへも行かす親族のうちへも行かす、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうち あふぎ これ たく もっと
に、当人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合 と しき せて四間あった。上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病ださうだから伝染するといけない しぎ およしなさいと頻りにいふ。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいゝと、かまは ・↓ ( 『正岡子規』 ) すに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。 実は金之助は、自分がっかっていた階下の座敷を、病んている子規のために明けわたして二 階に移ったのである。階下は六畳と四畳半の次の間で、子規は六畳の座敷に万年床をとって寝 たり起きたりしていた。二階の金之助の書斎は六畳で、三畳の次の間がっき、正面の窓をあけ ると城山の緑の上に松山城の天守閣がそそり立っているのがよく見えた。彼はそこで、「朝起き ると洋服を着て学校に出かけ、帰って来ると洋服を脱いで翌日の講義の下調べをし」た。しか し金之助の勉強は、毎日のように階下の子規のところに集って来る俳句仲間の、騒々しい話し ネ声のためにしばしばさまたげられた。 ッ けんぎ ) しもむらゐざんくんちゅうしん をりふしぎせいちゅう しぎこじ かへ 子規居士が帰ったと聞いてから、折節帰省中であった下村為山君を中心として俳句の研究を ク なかむらあいしようのまそうりうばんりはんおほしまばいをくらせうがくけうゐんだんたいさっそくこじびやうしゃう ッしつゝあった中村愛松、野間叟柳、伴狸伴、大島梅屋等の小学教員団体が早速居士の病床につ , めかけて作句の話を聞くことになった。居士は従軍の果が一層褪をじ、最早や一図に こんてい このみじかし しかた 句にたづさはるよりほか、仕方がないとあきらめをつけ、さうでなくっても根柢から此短い詩 かんが しだうちからっく さらゆうまうしんふるおこ けんぎうふかちゅうい の研究に深い注意を払ってゐたのが、更に勇猛心を振ひ興して斯道に力を尽さうと考へてゐた ゃなぎはらぎよくだうむらかみせいげつみ キ一う - い、つ けうゐんだんたい やさき 矢先であったので、それ等の教員団体、睡びに旧友であるところの柳原極堂、村上霽月、御 はら
円を中根家に送った。 虚子のことについて、子規から手紙が来たのは、このようなやりとりが一段落しかけたころ である。子規の腰痛はリュウマチではなかった。それが脊椎カリエスであることを医者から知 ぼうぜん らされたとき、子規は、「五秒間」茫然としてわれを忘れ、やがてその自失状態のなかて、 〈世間野心多き者多し。然れども余れ程野心多きはあらじ。世間大望を抱きたるままにて地下 ゅ に葬らるゝ者多し。されど余れ程の大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句の上に於て のぞみ のみ多少野心を漏らしたり。されどそれさへも未だ十分ならす。縦し俳句に於て思ふまゝに望 れいあたひ むぎゅうだい ・↓ ( 三月 を遂げたりとも、そは余の大望の磆んど無窮大なるに比して僅かに零を値すのみ。 十七日付虚子宛 ) と思ったと記している。彼が虚子に「右等の事総て俗人に言ふなかれ」と念を押していると 。これ以後子 ころを見ると、金之助が子規の状態を正確に知っていたかどうかは明らかてない 規の虚子に対する態度はさらに酷烈をきわめ、金之助から月々学資の援助を受けはしめていた 虚子が、自分に相談せすに金之助に断っただけで大学撰科受験を一年延期したときには、激怒 して虚子を難詰した。金之助が受取った手紙は、この事件にふれた手紙である。それに対して 彼は書いている。 おもむぎごもっともぞんじ ^ 御紙面拝誦仕候。虚子の事にて御心配の趣御尤に存候。先日虚子よりも大兄との談判の はいしようつかまつり こと ひ せぎつい わづ よ 3
「リョウマチのやうだ」と居士は言った。けれども其はリヨーマチでは無かった。居士を病床 くぎづ けうくわん せぎずゐえうえん に釘附けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄腰炎は此時既に其症状を現はし来っゝあ ったのであった〉 ( 高浜虚子『子規居士と余』十 ) よしひさ そういう子規のところへ、彼が随行していた近衛師団の師団長北白川宮能久親王の訃報がも たらされた。近衛師団は金州半島から台湾平定のために転戦していたが、維新のとき輪王寺宮 公現法親王として関東にあり、天皇に対する忠誠を疑われたことのある能久親王は、雪辱のた こう めに高熱をおかして奮励し、ついに十月二十七日に薨じたのてある。子規は大原恒徳にあてて 書いている。 あそばされ もっと ^ 能久親王殿下御薨去被遊、何とも申様なき次第に御座候。尤も御発表は四日と相定まり申候。 おそばをり をり おんゑがほなど ふさ 私も従軍中は常に御側に居候事多く、御笑顔抔今に眼底に残り居候。之を思へば万感胸に塞が ぎぎよた ・↓ ( 十一月二日付 ) りて欷歔に堪へす候。 「松風会」の運坐連中に加わって以来、金之助はいつの間にか句作が面白くなりはじめていた。 九月中だけでも、子規の主宰している「海南新聞」の俳句欄に、彼の句は全部で十七句採用さ れている。 白露や芙蓉したゝる音すなり がんてい これ あひさだ ふほう 292