生れ - みる会図書館


検索対象: 漱石とその時代 第一部
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1. 漱石とその時代 第一部

て金之助とは腹違いであった。佐和は弘化三年 ( 一八四六 ) 五月二十五日の生れだからこのと き二十一歳で、すでに内藤新宿仲町 ( 現在の新宿二丁目 ) の遊女屋伊豆橋の跡取り息子福田庄 兵衛に嫁いていた。房は嘉永五年 ( 一八五一 D 三月七日の生れで、当時十五歳である。 長姉の佐和は金之助の記憶にのこっている通りの美しい女で、尾張侯の御殿女中になってい たことがある。その頃富裕な町家では、娘を諸侯の奧向きに奉公させて行儀作法を見習わせる のが例だったから、夏目家でもこの習慣にしたがったのである。奉公するにあたっては芸能の たんのう 試験があり、堪能とみとめられて召し抱えられると「お首尾したり」といって至上の名誉とし ちゅうげん 佐和が宿下りのときに中間を連れて馬場下の家に帰って来ると、近所のものが袖をひきあ って、まるでお軽のようたとその美貌をたたえたという。 いとま 个 : : その女中、年々三月より四月へかけて御暇たまい親許へ下がる。これを宿下がりという。 女子宿下がりにて二親の許へ来たるや、二親の喜ひ譬うるに物なく、且つは世間への自負、奥 奉公の姿にて親類へつれ行き、墓参りに上がり、さては芝居見物、または日としては御殿髷を 町方風に結い直し、衣類も同しく町家の風に仕立つるなど、または宿下がり在宅中は日々親族 もてな を始め、知るべより目出たきを祝する来客足を絶たす、馳走・持成しに忙わしく、また到来の 人 土産の返礼、この月はこのことにのみいそいそするも、少しも苦にせす。勿論この御殿奉公は の たん わぎま たちい も身に品位を修め、起居の正しく辞儀の作法を弁え、胆力をして強からしめ、堪忍・耐任を知る。 女子が一家の妻となりて子を育するより、江戸ッ子も出来しなるべし〉 ( 菊池貴一郎『絵本江 戸風俗往来』 ) たと

2. 漱石とその時代 第一部

19 「ドメスチック・ハッビネス」 そを咎むべき、誰一人 億万人を容るるべき 浮世は、古白てふ汝が 大文学者てふ汝が 住むとはいかで知り得べき。 自ら許す文学者 古白を人はさは言はす。 人正しきか。あらす、あらす。 あらす。古白は文学者。 汝は詩人と生れ来て、 詩人たらんとせしが、且っ 途半ばにてためらひっ、 ひとり自ら。かへり見て。 塵の浮世を汝はさは 買ひかぶりしよ。価無き 287

3. 漱石とその時代 第一部

12 ある厭世御 らである。あと十年そこそこの寿命のうちにどれだけ本が読めるか、読書するあいだにも時は 過ぎて行くではないか、と歯がみしたにちがいない正岡は、そのとき金之助にあてて、「僕あに わがてんしん こじんゐしょ み・つかっと 天才有りと計はんや。ただ自ら勉めて我天真を発揮す。かならすしも古人の遺書に依頼せざる のみ」と書いていた。 つまり病む正岡は、健康な金之助の知らない希望というものにとり憑かれていたのである。 逍遙以下の新文学は彼の希望であった。それだけがいまとなっては彼の「天真」を発揮し、松 山から東京までの距離と落差をとびこえて、一挙に「近代」を獲得するためにのこされた可能 性てある。肉体は蝕ばまれていたが、正岡は獲得すべき時間を生きていた。この時間はまた、 どこかで明治日本の国家的興隆の時間と結びついてもいた。しかし金之助にとっての「近代」 は、獲得すべきものというよりむしろ強制されたものであった。彼はすでに、崩壊しつつある 過去の文化—culture の時間のなかにいた。彼は若かったが、いわばうしろ向きに未来に進 んで行くほかない人間であり、もし「希望」というものがあるとすれば、それは彼の肩先に感 じられるうすら寒い空気の振動のようなもののはすであった。 ある厭世観 つねのり 夏目金之助と正岡常規が、それそれ東京帝国大学文科大学に進んだのは、明治二十三年 ( 一 八九〇 ) 七月である。金之助は英文科に進学して文部省貸費生となった。年額八十五円が貸与

4. 漱石とその時代 第一部

が子規に贈った送別の句は、 此タ野分に向いてわかれけり である。 「霧」が晴れはじめてみると、彼は意外に孤独な場所におり、子規が去ってからのちは語るべ き友もいなかった。金之助は松山を去ることを考えはじめていた。 帰京したばかりの子規にあてた手紙で、彼は告白している。 ゅゑ す 个 : ・ : 十二月には多分上京の事と存候。此頃愛媛県には少々愛想が尽き申候故、どこかへ巣を いままで しんばう つも 替へんと存候。今迄は随分義理と思ひ辛防致し候へども、只今では口さへあれば直ぐ動く積り じんぎ に御座候。貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候〉 ( 十一月七日付 ) しかし金之助は、それまでに再三山口高等学校からの招聘を断っているから、少くとも十月 初旬までは松山にとどまる心境でいたものと推測される。十月八日付菊池謙二郎宛の手紙には、 ャたりゆゑ ふたた ところ そのご をり 个 : : 山口は其後当参事官宛にて再び申し来候故同様辞退致し候処、今度は岡田氏より折を見 まうしぎたり ゆくさぎ つもゆゑそのこころ て呼ぶ積り故其心にて居てくれと申来候。無論往先の事などは当には致さす、風船玉主義に 御座候呵々 > あて っ

5. 漱石とその時代 第一部

二十八日に死んだ登世の一周忌が済む前である。ちょうどこの十日前、明治二十五年四月五日 付で、金之助は分家して北海道岩内郡吹上町十七番地浅岡仁三郎方に本籍を送った。これはお そらく兄の仕打ちに対する拒否の表現であり、亡き嫂登世への深い思慕のために、新しい嫂と 戸籍を同しくすることをいさぎよしとしなかったためと思われる。 个 : : ・三度目の妻を迎へる時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。然し弟に あね いちごん は一言の相談もしなかった。それがため我の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉の 方に迄影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だと主張して、気の弱い兄 を苦しめた。 「なんて捌けない人たらう」 陰で批評のロに七る斯うした言葉は、彼を反省させるよりも却って頑固にした。 草』三十六 ) みよは本郷区湯島切通坂町三十八番地の平民山口寅五郎の長女で、明治九年八月十四日に生 嫂 れている。夏目家に嫁したときには数え年て十七歳、満では十六歳に足りなし若さであった。 直矩はこのとき安政六年生れの数え年三十四歳 ( 満三十二歳 ) である。みよの生母の名は不明 登であり、山口家がなにを業とする家であったかも判然としない。『道草』にいわゆる「教育も 身分もない」がなにを意味しているかは明らかでないが、和三郎直矩が登世の在世中からみよ くろうと と親しんでいて、そのために結婚をいそいだのだとすれば、みよはあるいは玄人筋の女性だっ かへ かたくな ・↓ ( 『道

6. 漱石とその時代 第一部

仮位牌焚く線香に黒む迄 もくぎよ こうろげの飛ぶや木魚の声の下 たえま つやそう 通夜僧の経の絶間やきりみ \ す ( 三首通夜の句 ) はてこつあげ 骸骨や是も美人のなれの果 ( 骨揚のとき ) なにごとたむけ 何事そ手向し花に狂ふ蝶 ちりまこり ぬしゆくへ 鏡台の主の行衛や塵埈 ( 二首初七日 ) かたみわけ ますら男に染模様あるかたみかな ( 記念分 ) 聖人の生れにりか桐の花 ( 其人物 ) たれみたて 今日よりは誰に見立ん秋の月 ( 心気清澄》 俳句はあきらかに金之助の喪失感の深みから生れているのであり、恋をしていたとすれば彼 はうたがいもなく死んだ嫂に恋をしていたのである。「 : : : 子は闇より闇へ、母は浮世の夢廿五 年を見残して冥土へまかり越し」という語調には、ほとんど父親の哀惜に近い感懐がこめられ これなく ており、「そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共」や、「一片の精魂もし宇宙 ちぎ かたはら はうふつ に存するものならば、「一世と契りし夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴たらんか : : : 」 には三角関係の自覚が暗示されている。一方和三郎にこの自覚がなかったことは、彼がおそら く妻の存命中からほかの女を愛しはじめていたという事実から推測される。それは彼の三人目 の妻となった山口みよである。 みよが夏目直矩に婚姻人籍されたのは、明治二十五年 ( 一八九一 l) 四月十五日で、前年七月 かりゐまいた まで その

7. 漱石とその時代 第一部

追いつめられていたのてある。 ところで『七艸集』の巻末に書き加えた漢文の評のなかで、金之助ははじめて「漱石」とい う雅号を用いている。「明治己丑五月念五日辱知漱石妄批」と記されているのがそれであ しんじよ る。「漱石」が『晉書』「孫楚伝」の「漱石枕流」の故事からとった号で、「頑固」あるいは「変 物」の意味であることはよく知られているが、果して金之助が深く考えてこの雅号を選んだも のかどうかについては疑間の余地がある。五月二十七日付正岡宛の手紙の追伸に、次のような 弁解が見えるからである。 つう さら おそ さすがそれがし 个・ : ・七草集には流石の某も、実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて、当座の間に合せ ゃう したたはべ のち に漱石となんしたり顔に認め侍り。後にて考ふれば、漱石とは書かで漱石と書きし様に覚へ候。 くだされたくまづそのた このだん 此段御含みの上御正し被下度先は其為め口上左様。 ^ 米山大愚先生より、自己の名さへ書けぬに人の文を評するとは「テモ恐シイ頓馬ダナー」 チョン々六々々々〉 聞一方正岡の『筆まかせ』に収められている「雅号」という断片には次のような一節がある。 の と み・つかたくさんえら 子〈此頃余は雅号をつける事を好みて自ら沢山択みし中に、「走兎」「風簾」「漱石」などのあるだ Ⅱけ記憶しゐれど其他は忘れたり。走兎とは余卯歳の生れ故、それにちなみてつけ、漱石とは高 慢なるよりつけたるものか〉 このごろ 757

8. 漱石とその時代 第一部

やすんわろ 个 : ・ : 古人の 如く、小成に安じ僅か一国中の儒者とならんは貧賤却て優れるや否やは知らざれ ところさふらはず 共、今日の開化世界に出でて天下の人に駕帙せんとするは、中々我們貧生の成し得る処に不」候 ぞんじたてまつり と奉」存候。 自分は貧乏だけれど「貧を以て功名を博するの心を抑制する」ことは不可能である。功名は またこうけい 「富貴の人のみの専ら占有」すべきものではない。学べば「庶人の子も亦公卿となるべく、私共 は仮令公卿となるを欲せざるも、社会の上流に立つを願ふ者」である。 また せうき いかん 个 : : 鳴呼光陰を如何せん。日子を如何せん。松山に一日の日子を消輝せば東京も亦一日二十 しかう 四時間を経過せり。而して同時に多分の智識を養成せんとするは果して何れか勝るや。 かならず 金之助に「必無用の人と、なることなかれ」という強迫観念をあたえた新しい学校制度は、 その半面正岡の渇望と焦躁感にあらわれているようなおびただしい向上のエネルギイを解放し ていた。それは明治という新時代を推進させていたエネルギイである。明治十六年六月、よう やく許されて上京し、向島木母寺に叔父の加藤恒忠を訪ねたとミ正岡は、「汝は朝に在ては 太政大臣となり野に在りては国会議長となるや」と笑いながらたすねた叔父に、半ば本気で 「然り」と答えていた。 正岡の政治家志望が哲学志望にかわったのは、明治十八年、大学予備門に人学してからであ る。それ以前の彼が、詩文を好みながら「漢学者の臭気を帯びし故、詩人画師などは一生の目 たとへ につし いかん かてつ かへつ われら あっ 754

9. 漱石とその時代 第一部

にととぎす 一時頃迄の間に時鳥といふ題にて発句を四五十吐きました。尤もこれは脳から吐いたので肺か らではありませぬから、御心記なき様イヤ御取違へなき様願ひます。これは旧暦でいひますと まへ 卯月とかいって卯の花の盛りてございますし、且つ前申す通り私は卯の年の生れですから、ま んざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして、 卯の花をめがけて来たか時鳥 卯の花の散るまで鳴くか子規 などとやらかしました。子規といふ名も此時から始りました。箇様に夜をふかし脳を使ひ し故か翌朝父々喀血しました。喀血はそれより毎晩一度づっときまってゐましたが、朝あった のは此時ばかりです〉 けったん 喀血は一度に五勺ぐらいすっ、一週間つづき、その後いつまでも血痰が消えなかった。五月 とぎわ 十三日、正岡の郷里愛媛県松山出身の学生を収容している本郷真砂町の営盤会寄宿舎に、米山 逢 保三郎、童ロ了信と連れ立って見舞に出かけた金之助は、その晩次のような手紙を病友に書い 出 の 規 子 たちょ まかりいで さらそのみぎ ^ 今日は大勢罷出失礼仕候。然ば其砌り帰途山崎元修方へ立寄り大兄御病症並びに療養方等 よ・ あひたづね めんくわいをえずふほんいながらとりつぎ ゐぎよく つかまつりところ 委曲質間比候処、同氏は在宅ら取込有之由にて不得面会、乍不本意取次を以て相尋申候処、 えひめ つかまつり ほととぎす ほととぎす ほっく これあるよし もっと まさ・こ かやう ノ 49

10. 漱石とその時代 第一部

助は天保十年 ( 一八三九 ) 一月二十二日生れであるから、これは嘉永六年 ( 一八五三 ) のこと になる。つまり夏目家と塩原家の関係は、決して一朝一タのものてはなかったのである。 名主から年寄というサラリ ーマンに転落して浅草三間町に引越したとぎ、昌之助は三十歳に なっていた。その妻やすも同い年の三十歳であった。彼らの結婚がいつであり、金之助を養子 にむかえたとき彼らが何年間子のない結婚生活を送っていたのかはよくわからない。だが塩原 家が寛延年間 ( 一七四八ー五一 ) にはすでに四谷に土着していた家であったのに対して、やす が「田舎」から嫁に来た女であったことは知られている。 すまひ 个 : : 健三は小供の時分能く聞かされた彼女の生家の話を思ひ出した。田舎にあったその住居 じゅうわう ゆか も庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。床の下を水が縦横に 流れてゐるといふ特色が、彼女の時でも繰り返す重要な点てあった。南天の柱 , ーーさういふ言 葉もまだ健三の耳に残ってゐた。然し小さい健三は其宏大な屋敷が何処の田舎にあるのか丸で 知らなかった。それから一度も其所へ連れて行かれた覚がなかった。彼女自身も、健三の知っ おぼろげ てゐる限り、一度も自分の生れた其大きな家へ帰った事がなかった。彼女の性格を朧気ながら 見抜くやうに、彼の批評眼がだん / \ 肥えて来た時、彼はそれも亦彼女の空想から出る例の法 螺てはないかと考へ出した〉 ( 『道草』六十一 l) さと しかしやすが語ってきかせたという「生家の話」は、美化されているとしてもまったく根拠 えのぎど 。この「田舎」は武州多摩郡榎戸新田 ( 現在の国分寺市光町 ) のないものだったとはいえない おにえ まる