致 - みる会図書館


検索対象: 漱石とその時代 第一部
363件見つかりました。

1. 漱石とその時代 第一部

るるまうしのべるべく 猶委細の事は御面会の上にて縷々可申述候。 そのけん しゆったいいたし 个 : ・ : 其件に連帯してだ御気の毒の事出来致候は、本年度学校の経費中旅費の部先日一 ゃうあひなりよし つかまっ おはい 文もなき様に相成候由、本日始めて校長より承知仕り、大に不都合の次第と存じ候へども如 せんかた よっ ごげかう くだされたく 何せん詮方なく、因て今回の御下向には、だ我儘のには候へども私費にて御出向被下度哀 願致候。 くらゐ ^ 就ては甚だ差出たる事ながら、一時の御間に合せの為め、弐拾円位に候へば旅費の一分にて くださる まうしあぐべくあひだそのむね くだされ も御使用被下べく願上候。若し御人用に候へば電報為替にて御送可申上候間、其旨御伝へ被下 度候。 そして二十三日付の手紙に、金之助は次のように書いている。 まうしあア 个 : ・ : 最後に一言申上保は、小生は年末 ( 二十七八日頃 ) より来年三四日頃迄何方へか旅行致 これありもっと ごらいゅう あるひ す心算に有之、尤も大兄御来熊の日限により又御間合せ等の有無により或は全然旅行を廃する ゅゑ ~ 」いゅ - っ′ 決心故御下向の御日取びに御打合せ上小生の滞熊を必要と御認めの上は、此手紙到着次第御 わづら たしぞんじ 打電を煩はし度と存候。小生は旅行をやめても大兄の早く御着になる事を希望爨候。 まで また ・ : 二十八日午前中に何等の御打電なきときは、来年六日頃迄には当地へ御着なきもの、又 そのかん いたすべく みな まで 小生に其間御用なきものと見傚し旅行可致候。もし当地御着の節は門司より池田停車場迄御乗 一と あて くだされ まで 車の事、門司にて小生宛電報御出し被下候へば、同停車場迄御迎ひに参上可致候。御不案内の ゅゑ まで 土地故御遠慮は却て御損に御座候。順路は東京より徳山迄通し切符御買求めの上、徳山より門 かへつ いたすべく まで この 356

2. 漱石とその時代 第一部

いう月給に対する評価だったことはいうまでもない。月給があまりのこらなかったのはそのた めである。文部省 ~ の貸費返済分七円五十銭と、父小兵衛直克への仕送り分十円を差引いた手 取り六十二円五十銭は、二十八歳の独身文学士にとっては過分な収入のはすであったが、金之 助は「えらい先生」らしい体面を保っために、衣服や住居をしかるべくととのえる必要に迫ら れたからである。五月二十八日付で彼は、帰国の船中で喀血し、神戸県立病院に収容されてい た子規にあてて書いている。 かんしん ^ 拝呈、首尾よく大連湾より御帰国は奉賀候へども、神戸県立病院はちと寒心致候。長途の遠 うちこん こんこん いたしわけ 征旧患を喚起致候訳にや心元なく存候。小生当地着以来昏々俗流に打混じ、アッケラ閑として とりあっか これなく いちへうせいとら せうくわう 消光、身体は別に変動も無之候。 : : : 東都の一瓢生を捉へて大先生の如く取扱ふ事、返すん はんさママ かうむをり いたり 恐縮の至に御座候。八時出の二時退出にて、事務は大概御免蒙り居候へども、少々煩鎖なるに みつっその いたし へぎちしいう は閉ロ致候。僻地師友なし、面白き書あらば東京より御送を乞ふ。結婚、放蕩、読書三の者其 ぞんじ しんばう いちえら 一を択むにあらざれば、大抵の人は田舎に辛防は出来ぬ事と存候。当地の人間阯分小理窟を云 いっ ところ ふ処のよし、宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し。大兄の生国を悪く云ては済ます失敬 々々。 个・ = = 古白氏自殺のよし、当地に風聞を聞き驚候。随分事情のある事と存候〈ども惜しき に候。 さらに彼は、

3. 漱石とその時代 第一部

まとまるべく あらまし さて 〈 = ・・・・偖小生儀、今般愛媛県尋常中学〈赴任の事と粗決定し、十中八九迄は相談も可纒と かれこれかひととの さだま ぞんじさふらふあひだ 存候間、貴校の方は失礼ながら御断り申上候。右につき愈出発と定り候上は、彼是買調へ候 よっまよよ いたしかた これありとこら 品物も有之候処御存しの文なしにては如何とも致方なく、因てだ御迷惑ながら貴方にて金五 これ もっと くだされまじく 十円御融通被下間鋪候ゃ。尤も貴兄も随分貧の字なるべければ ( 是は失敬 ) 、御手許になきは ま もっと ごさんだんあひねが 承知なれど、そこの所を友達の好みと思ひ、何とか御算段相願はれ間じくや。尤も返済の儀は、 いたす そのまま いたさざること つかまっ ぎっとかいさいいたすべくも 赴任後両三ヶ月中に屹度皆済可致、若し又赴任不致事と決定仕り候へば、すぐに其儘御返却可 ゅゑまづ おしらせくだされたくも はばかりながら 致候。右裔や乍憚電報にて御報被下度 ( 若し出来なければ外に奔走せねばならぬ故 ) 、先は用 事のみ早々頓首〉 ( 明治二十八年三月十八日付在山口菊池謙二郎宛 ) 金之助に約東された俸給は月額八十円である。これは校長の俸給より二十円高く、前任者の 新学士の誕生にともな 米人教師カメロン・ジョンソンの給与の枠をそのままひきついでいた。 って、お雇い外国人が次第に淘汰されて行く傾向は、ようやく四国の松山にまで及びはじめて いたのである。 しかし金之助は八十円の月給のためにだけ松山に行く気になったわけではない。彼はなによ 行 りも遠い所に行きたかったのである。「罪」からのがれるために、そして「生 , に出逢うために。 山 一い場所に行くことによっ 松それはまた自己流謫でもあり、かつ自己回復への希求でもあった。 て、それだけ深く自己の内部に下降し、そのなかから「生」の根源の力をさぐりあてたいとい う暗黙の衝動に、彼はとらえられていたものと思われる。 るたく とうた いかん ひん しよいよ

4. 漱石とその時代 第一部

かでおそらく金之助は、れんと夫婦になって塩原家を継ぐことになっていた。そのイメージを 破壊された空虚感が、「互に不実不人情に相成らざる様」という要求となってあらわれたのてな 。このことを知った夏目小兵衛が激怒したのは当然である。四月一一十日付塩原 いとはいえない 昌之助・かっ宛の彼の抗議状の文面は左の通りである。 サダ モッマウシイレサフラフサレ < 手紙ヲ以テ申人候。然バ先般示談の上、金之助養育金弐百四拾円ト定メ、内金百七拾円差 フグセキイタ - シサフラフ アヒナリ トリカハシ ッカ 遣ハシ、残金七拾円月賦 = 差遣ハシ申ス可ク、一札取為替離縁ニ相成、本人実家へ復籍致候。 サフラフ サシイダ モッ アッカヒ プサタ シカ 然ル上ハ拙者江無沙汰 = 致シ、金之助不服ナル扱、人ヲ以テ本人ョリ別段一札ヲ差出サセ候 オョサフラフ トリハカラヒ アヒカナハサフラファヒダママカウサイディリ オモムウケタマハ 趣キ承リ、右 ( 意外ノ取計ト存ジ意相叶ズ候間、示後交際出人等、一切御断リ = 及ビ候。右 ソノムネッウチイタシサフラフデウコノダンマウシイレサフラフナリ マタ オモムキ ノ趣和三郎金之助へモ申シ聞カセ、カッ亦親戚一同江其旨通知致候条此段申人候也〉 もし所有欲を「愛情」と呼ぶなら、これもまた老父の金之助に対する「愛情」の表現だった かも知れない。しかしこのとき、夏目小兵衛の側に、「人情」が他日金にかえられるのを警戒す る気持があったことは確実である。七十一歳の小兵衛直克は、かなり徹底した倹約家になって こんびら かならす芝の金比羅様に参詣する習慣てあった。その帰途将監橋の高 。彼ま毎月十日に、 の、し / / 家橋長左衛門方〈立ち寄 0 て、昼食をとることにしていたが、義姉の鶴が仕出屋から刺身をとっ 夏てもてなそうとすると、 「あたしのために、こんなものを取るなんて、無駄な話だ。あたしはいつもの通り、ばっくら 焼でたくさんだ」 サシッカ ・ヘッダン 133

5. 漱石とその時代 第一部

ところ さうのなき小生故、直ちに医師の診察を受け候処、只今の処にては心配する程の事はなく、矢 おこた 張り平生の如く勉学致してもよろしく、只日々滋養物を食し身体の栄養を怠らぬ様にする事専 などこれなく ところさいは それ 一なりとて、夫より検痰を試み候処幸ひバチルレン抔は無之、去れば肺病なりとするも極初 いたすべく 期にて、今の内に加摂生すれば全治可致との事に御座候。小生身体上の自覚も至極爽快にて、 いたしをり なるべく 目下は毫も平日と異なる所無之候へども、可成滋養物を食し運動をカめ、「ノンキ」に消光致居 つも 候。今暑中休暇には海水浴か温泉にて充分保養を加ふる積りに御座候。尤も人間は此世に出づ るよりして日々死出の用意を致す者なれば、別に咯血して即席に死んだとて驚く事もなけれど、 いたしをり 先づ二つとなき命故使へる丈使ふが徳用と心得、医師の忠告を容れ精々摂生致居候。 何となう死に来た世の惜まるゝ〉 ( 明治二十七年三月九日付山口県山口高等中学校菊池謙 一一郎宛 ) この日はちょうど明治天皇大婚一一十五年の祝典がおこなわれた日で、あいにくの小雨の中を 市中はお祭り気分でにぎわっていた。柳橋の料理屋・船宿・芸妓連中は、大川に数十艘の伝馬 船を浮べ、カ持にその上て軽業を披露させ、終日花火を打ち上げた。鉄道馬車会社は一輌の馬 車を青葉で飾って両面に菊の御紋章をつけ、銀で「奉祝銀婚」という四つの文字をあらわし、 屋根には大小の国旗をなびかせ、車中では市中音楽隊の奏楽を行い、二頭の白馬にひかせて新 橋・浅草間を往復した。下町一帯の大きな商店も、趣向をこらした飾りつけをきそった。二重 橋前では午前に百一発の祝砲がはなたれ、夜は「奉祝万歳」の仕掛け花火があげられた。 ゅゑ ゅゑ こと だけ っと もっと 248

6. 漱石とその時代 第一部

という一節が見えるからである。「巣を替へ」たくなった理由には、松山に「愛想が尽き」た ほかに、東京から結婚の相手をむかえることに決めたという事情もあったかも知れない。すて ゃうや に菊池にあてた手紙で、彼は「結婚の事も漸く落着致候。 : : : 矢張東京より貰ふ事に致候」と 報告している。十月末に子規に送った句稿のなかには、 ふゅごもり 淋しいな妻ありてこそ冬籠 菊の香や故郷遠き国ながら というような句がある。 十一月下旬になって、彼が『愚見数則』という猛烈な文章を愛媛県尋常中学校「保恵会雑誌」 ス に発表したのは、おそらくこのときまでに、県や学校の当局者と喧嘩をしてでも松山を飛び出 ネ してどこかほかの土地に移る覚悟をかためていたからである。 ッ もとおちっ むか ぎふお ク ッ ^ 昔しの書生は、笈を負ひて四方に遊歴し、此人ならばと思ふ先生の許に落付く、故に先生を これ また チうやま ス敬ふ事、父兄に過ぎたり、先生も亦弟子に対する事、真の子の如し、是でなくては真の教育と レ」よノり・、つ しば メ りよをく いふ事は出来ぬなり、今の書生は学校を旅屋の如く思ふ、金を出して暫らく逗留するに過ぎす、 厭になればすぐに宿を移す、かゝる生徒に対する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚 くんたうどころ なり、主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならす、況んや番頭丁稚をや、薰陶所 やはり もら ゅゑ いたし -0 0 )

7. 漱石とその時代 第一部

学界にはらわせるようになったことは確実である。新婚早々の鏡子に彼は宣言した。 「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまってはいられない。それは 承知していてもらいたい 東京では、前年一月から文科大学の教官と学生を中心とした「帝国文学」が発刊され、金之 ちよぎゅう 助より三期後輩の高山林次郎 ( 樗牛 ) などが、『近松巣林子が人生観』その他の評論を続々発表 して華々しく活躍しはしめていた。高山はこの夏 ( 明治二十九年 ) 新学士になって、九月から 仙台の第二高等学校教授に就任するはすであ 0 た。樗牛の出現に対して金之助が、「何の高山 の林公抔と思ってゐた」 ( 『処女作追懐談』 ) のは、彼のなかに一個の軽薄才子がいるのを嗅ぎつ けていたからてある。しかしまたそういう軽薄才子が、「帝国文学」や「太陽、のような一流の 舞台の脚光を浴びているという時流も否定しがたかった。時代は彼を置き去りにして進みはし めているのかも知れなかった。 ドイツ留学中の大塚保治にあてて、彼は書いている。 いよいよごせいてぎごべん まさ つかまつり 个 : : ・大兄の御近況何に御座候ゃ。先日は独乙着の御手紙正に拝受仕候。愈御清適御勉 つかまつり ごふんれいこれありたくせつ ぞんじ の御模様、結構の事に存候。国家の為め御奮励有之度、切に希望仕候。次に小生当四月よ おめでたく あひかはらず そのひ り当地高等学校に転任、矢張り英語の教授に其日 / \ をくらし居候。不相変御無事に御目出度、 ほと などこれありおほい のんきに御座候。当地は菅法師抔も有之、大に都合よく御座候へども、暑気のはげしきには殆 さふら たしぞんじ んど閉ロ致候。丸て蒸風呂に入りたらんが如く、実に御苦悩の程御覧に人れ度と存候。独身に候 つき かね・こふいちゃうおき ちくでんいたすべきはずところ へば疾に避暑とか何とか名をつけて逐電可致筈の処、当六月より兼て御吹聴申上置候女房附と をり

8. 漱石とその時代 第一部

正岡への手紙 ( 前記八月三日付 ) に金之助は書いている。 これなく しかう 拿 : : 外の作ほめ候とて図らすも大兄の怒りを惹き、申訳も無之、是も小子嗜好の下等なる わづ ひたすらざんぎいたしをりさふらふ まで さふ 故と只管慚愧致居候。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて、全体を窺ふ事かたく候 らへども いっか・、、 ぞんじをり こころ けっこう 得共、当世の文人中にては先づ一角ある者と存居候ひし。試みに彼が作を評し候はんに、結構を その かうぶん たいせい はいたい わぞく こんかう ぞんじさふらふ 泰西に得、思想を其学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸 あひあつま ちんうつぎが ゃう もっと しかう 分子相聚って、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候。尤も人の嗜好は行き掛り たと さまざま ぞんじ の教育にて ( 仮令ひ文学中にても ) 種表なる者故、己れは公平の批評と存候ても他人には楓め さふらへ へんくっ しんすゐいたし て偏窟な議論に見ゆる者に候得ば、、 る生自身は洋書に心酔致候心持ちはなくとも、大兄より見 ごもっと しかうこれまどちが くらゐ れば左様に見ゆるも御尤もの事に御座候。全体あの時君と僕の嗜好は是違ふやと驚き候位。 しかしりぞ これまへ 然し退いて考ふれば、是前にも云へる如く、元来の嗜好は畆じきも、従来学問の行き掛りにて なるべく へんへぎおちいら こころがけをり かゝる場合に立ち到り候事と存し、夫よりは可成博覧をつとめ、偏僻に陥ざらん様に心掛居 さふらふ 金之助が読んだという外の「二短篇」がなんであったかは明らかでない。もしそれが『文 づかひ』であったとすれば、鵰外はこの作品を本郷駒込千駄木町五十七番地の借家で書いた。 のりよし 彼は最初の妻である男爵赤松則良の長女登志子を離別し、弟二人とともにこの家に移り住んて いたからである。金之助が『文づかひ』『舞姫』というような作品に惹きつけられたのは、お そらくそこに「西洋」があり、しかもその「西洋ーが、雅文体という彼の感受性に直截に訴え ま それ おの これ 0

9. 漱石とその時代 第一部

まへにまうしあげさふらふとほ 个 : : 贅沢と知りながらことさら贅沢したる汽車代遊覧費等ハ、前申上候通り母様に対し ぜんとまた あひさふらひあんぜん しばしば ての寸志にして、前途又花さかぬ此身の上を相考へ候て黯然たりしことも屡々に御座候 この手紙には十一月二十二日の日付が見える。それよりさき、十八日付の手紙で正岡は次の ように追伸している。 をは あひ 个 : ・ : 右手紙書き畢らぬ処へ陸より呼びに来り、参り候処いよいよ毎日出社之事ニ相きまり候。 しか ござなくゆゑ いたさず 併し別にこれといふ程の職業も無御座候故、いやな時ハ出勤不致ともよろしくと申候。其かはり あひ 月俸十五円に御座候。これは陸一人よりいへば大ニ気之毒がる処なれども、社の経済上予算相 さだ をりさふらふゅゑ あひなりまうすべく 定まり居候故、本年中ハ致シ方無之、来年になれば五円カ十円ノ処 ( ともかくも相成可申ト まうしをり ひぎうけまうすべぎよしこんこんとまうし もっとも 申居候。それまての処足らねば自分が引受可申由、懇々申くれ候。 ・ : 尤我社の俸給にて不 た ぐらゐ 足ならば、他ノ国会トカ朝日新聞トカノ社へ世話致し候はゞ、三十円乃至五十円位之月俸ハ得 つぎそのこころざし まうしさふら らるべきに付、其志あらバ云々と申候へども、私ハまづ幾百円くれても右様の社へハはい つもり また こまう をりをりこれあるべく らぬ積に御座候。父新聞の外チョイノ \ の小儲けハ、折々可有之、心あたりも御座候。先づ今 ところ つきぜんと めあて まうしあげ 日之処で ( 右之次第 = 付、前途の目当 ( 来年にならねばとも申上かね候〉 十五円の月給ては一家三人の暮しが立ち行かないので、八重と律は松山にいたとき同様に裁 縫をして家計を助けなければならなかった。正岡は十二月一日を期してはじめて「日本」に出 ところ ところくが これなく この ぎた ところ みぎゃう その

10. 漱石とその時代 第一部

あ・つか おぎぎおよ 御聞及びにも候はん、小生終に落第の栄典に預り候故、 ほととぎす 水無月の虚空に涼し時鳥 ・↓ ( 七月二十日付五百木良三宛 ) 辞世めきたりとて大笑ひ致候。 前掲の手紙に「小生夏目と共に」とあるように、金之助はこの夏帰省する正岡に同行して京 ふやまちひいらぎや 都・堺・大阪などに遊んだ。京都では二人は麩屋町の柊屋という旅館に泊った。夜、街を見物 に出ると、ところどころの軒下に大きな小田原提燈がぶら下っていて、赤い肉太な字で「せん ざい」と書いてあるのが眼にとまった。金之助はなせかその赤い字を下品だと感じた。正岡が どこかから買って来た夏みかんを食べながら、人通りの多い街を行くうちに、二人は遊廓のな かにまぎれこんた。金之助は、幅一間ほどの小路の左右にならんだ家の覗き窓から、女が声を かけているのがなにを意味するのか気がっかすにいた。彼が正岡を顧みて、「なんだこれは」と めぶんりゃう いうと、正岡はこともなげに「妓楼だ」と答えた。当惑した金之助は、「目分量て一間幅の道 ふ ( んふたう つなわた 子 路を中央から等分して、其の等分した線の上を、綱渡りをする気分て、不偏不党に」歩いて行 病った。制服の裾をつかまえられたら一大事と思ったのである。そんな金之助を、正岡は苦笑し て見ていた。 岡山は亡兄臼井栄之助の妻かっ ( 小勝 ) の実家、片岡家のあるところである。金之助の岡山 いたし つひ ゅゑ 223