中根 - みる会図書館


検索対象: 漱石とその時代 第二部
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1. 漱石とその時代 第二部

彼はこの句を短冊に書いて、鏡子の部屋の床の間に掛けたりもした。 金之助が「西征の途に上」ったのは、明治三十三年九月八日である。その日の未明、彼は鏡 子や岳父中根重一ら数人に伴われて、牛込矢来町中ノ丸の中根家を出た。まだ赤痢の予後を養 っていた鏡子の母は、辛うじて玄関まで見送りに出た。横浜の波止場に着いてみると、やはり 寅彦は来ていた。船はドイツ・ロイド社のプロイセン号という客船で、乗客中日本人は金之助 と芳賀矢一、それに藤代禎輔の三人だけであった。同行するはすだった第二高等学校教授高山 かつけっ ちよぎゅう 林次郎 ( 樗牛 ) は、七月におびただしく喀血し、胸部疾患のために留学を断念していた。 船が汽笛を鳴らして解纜するとき、芳賀と藤代の二人は大きく帽子を振って見送り人に景気 げんそく のよいあいさつを送っていたが、金之助だけは一人はなれて舷側によりかかり、身動きもしな いでじっと波止場を見下していた。船が動き出すのと同時に、寅彦は鏡子が顔に白いハンカチ をあてるのを見た。 4 蒼海の夢 の を九月十日、神戸港碇泊中のプロイセン号船上から、金之助は岳父中根重一にあてて書いてい る。 ていはく

2. 漱石とその時代 第二部

浪人になった中根重一は、内証で相場に手を出し、すでにかなりの穴をあけていた。 そんな事情を知らすにいた金之助たちは、ひとます以前祖父のいた中根家の離れに旅装を解 いた。この離れは独立家屋で、玄関が二畳、次が四畳半、座敷が八畳になっており、そのほか に女中部屋を含めて三畳が二間ついていた。庭一つをへだてて母屋と対しながら、入口は別に 門があり、台所道共一式も備っていたので優に別世帯がいとなめた。家賃は只である。しかし、 年額三百円の留守宅手当は月割りにすると二十五円にしかならす、さらにそこから一割の建職 費二円五十銭を差っ引かれると手取りは二十二円五十銭にとどまった。これに加えて年額三円 の所得税があるので、実際の月収は二十二円二十五銭にすぎぬこととなる。夫婦は、金之助留 学中の不足分を中根の父の補助に仰ごうとしたが、相場をしくじってあせっていた中根ははか ばかしい返事をあたえなかった。このとき以来、金之助の留学費と鏡子の受ける休職給は、動 かしがたい枠をはめられた。 この年、中根家の人々は金之助ら親子三人に留守を託して大磯に避暑に出かけたが、八月中 ぎゅうせい 句にいたって末娘の豊子が赤痢のために急逝した。それにつづいて鏡子の母も赤痢にかかり、 ゅうもん 一時は重態になって中根家は憂色につつまれた。金之助の憂悶もまた晴れることがなかった。 すぐ 再会した子規の病状は勝れす、彼のなかの不安と不快の念もつのる一方たったからてある。彼 は無題の漢詩に表白している。 ぞくふんしゃ △君病んで風流俗紛を謝し らうらく こうぐん 吾は愚にして牢落鴻群を失ふ

3. 漱石とその時代 第二部

いに金之助は転居通知がわりの葉書を出して、「其後御無事の事と存候。其許よりは一向書信 これなく 無之、或は公使舘辺に滞停致し居るやと存候」 ( 八月十日付 ) と安否をたすねている。八月十七 日付で出した返事では、彼は次のようにいっている。 そこもと 个 : ・ : 中根父上の手紙、其許及び梅子どのゝ手紙拝見致候。 ^ 父上には目下御休職御閑散のよし結構に存候。 しかるべし そこもと < 其許御病気のよし、目下は定めて御全快の事猶御注意可然と存候。小児両人とも健康のよし なさるべく 結構に候。御梅様華族女学校へ御通学のよしよく御勉強可被成候。御梅さんの手紙はよく出来 くださるべく くださるべく て居候。時々御通信可被下候。小生至極丈夫、御安心可被下候。 この文面から推して、当時の金之助が、あらゆる兆候にもかかわらす自分と鏡子の状態につ いて、きわめて不正確な認識しか持っていなかったことは明らかである。中根の父は退官以後 悠々閑居していたわけではなく、鏡子と二人の女児も安心して羽根を伸ばしていたわけではな かった。第四次伊藤内閣は、蔵相渡辺国武の公債処理の失敗から五月二日に総辞職していた。 それとともに、伊藤の女婿である内相末松謙澄の政治生命も大打撃を受け、この打撃は記下の 、い 地方局長中根重一に及ばざるを得なかったからである。 る かつら 病一カ月後の六月二日、桂太郎がようやく後継首班に推されたとき、中根はすでに老後の平穏 間を棒に振っていた。末松への義理すくでつきあった伊藤内閣がわすか半年で瓦解したのは、彼 の不運というほかない。さらに北清事変の戦後恐慌は、熊本第九銀行からはじまった全国的な をり たいてい ほくしん そこもと ノ 6 ノ

4. 漱石とその時代 第二部

ちよぎゅう 授高山林次郎 ( 樗牛 ) も審美学研究のためにヨーロッパにおもむくことになっていた。留学中 の手当は年額千八百円、家族に支給された留守手当は年額三百円である。夏のはじめごろ、ひ おおっかやすじ と足さきにドイツに留学していた大塚保治が帰朝した。 七月中旬に、九州全土にわたって例のない豪雨がつづいた。十六日には熊本で出水し、大洪 とぜっ 水になって鉄道連絡が杜絶した。帰京の出鼻をくじかれた金之助の一家が、ようやく出発でき るようになったのは七月二十日ごろである。まだいたるところ列車は不通で、歩いて連絡しな ければならぬ箇所が多かった。鏡子は三たび妊娠していた。荷物になるというので、彼女は家 財道具をほとんど知人たちへの置土産にした。彼女が白月。 ーこ身を投げたとき、事件をもみ消し えいぎ てくれた五高の舎監浅井栄熙は、まわりと脚が竹でできている机をゆずられた。これは金之助 が松山時代から愛用していた机である。しかし、貯えのない一家は引越の費用に窮し、岳父中 しげかず 根重一に百円を無心しなければならなかった。 東京に着いた鏡子は、女の夏帯に錦の絽織が流行しているのに眼をみはった。熊本に嫁いで から四年一カ月が経過し、彼女は二十三歳になっていた。牛込矢来町の中根家の様子も一変し ていた。四月には矢来町の家を隠居所にしていた鏡子の祖父が亡くなり、父の重一も貴族院書 記官長を辞して虎ノ門の官舎から引き移っていたからである。中根重一が辞職を余儀なくされ おおくま 学 たのは、明治三十一年六月に成立した大隈内閣に忠勤をはげみすぎたためと推測される。この 留内閣は、文部大臣尾崎行雄のいわゆる「共和演説」事件をきっかけにしてわすか四カ月で自壊 やまがた したが、超然主義をかかげた第二次山県内閣になっても現職にとどまっていた中根に対する圧 このえあつまろ 迫ははなはだしく、ついに貴族院議長近衛篤麿から辞任をすすめられるにいたったのである。 ろおり

5. 漱石とその時代 第二部

前述の通り、鏡子の手許に文部省から月々支給されていたのは、休職給の二十五円から建艦 費の二円五十銭を差引いた二十二円五十銭だけである。これでは中根家に家賃を払うのはおろ か、女児二人に女中を加えた四人家族を維持して行くことすら、ほとんど不可能に近かった。 くださるべく しかしまた鏡子は、「小生至極丈夫、御安心可被下候」と書いて来た金之助が、ロンドンの孤独 な宿舎に「立籠」って、いいようのない敗北感と悔恨にひたっていることを知らなかった。 个・ : : そこで私もその気になって日蔭者のやうな暮らしをいたしました。第一着物などはこし らへるどころか、普段着なんそはいつの間にやら着破ってしまひ、あとでは自分の着物はかり 取付けさわぎに発展し、経済状態もいちじるしく悪化していた。元老内閣が少壮官僚内閣に交 替した一大転換期にまきこまれて、中根は気がついたときには地位も財産もなくしていたので ある。 个 : ・ : それからといふもの運が向いてまゐりません。職はなし、前の相場の穴はあり、それを 何とかして埋めなければといふので、手を出せば出すほどよくない。さうなればいよいよあせ るといったわけで、その頃の父の懐加減は、最初のうちはわからなかったのですが、もう私に も大体わかってゐて、たとへ零細な金でも借りられないほど気の毒な状態になってをりました。 しかしそこを何とかして弥はして出てをりました〉 ( 『漱石の思ひ出』ー一五「留守中の生 活」 ) びまう 762

6. 漱石とその時代 第二部

<BrockwelI Park ニ至ル。帰途 shower ニ出逢ヒ、ビショ濡トナル。帰リテ「シャッ」及 ビ其他ヲ着換ュ。夜入浴。此夜妄想ヲ夢ム。浴後寝ニ就キタル故カ〉 鏡子の手紙は依然として到着せす、彼は重ねて三月九日付の手紙に書いている。 そのご たより 其後国から便があるかと思っても一向ない。二月二日に横浜を出た「リオデャネイロ」と云 あて ふ船が桑港沖で沈没をしたから、其中におれに当た書面もありはせぬかと思って心掛りだ。 とも < 御前は産をしたのか、子供は男か女か、両方共丈夫なのか、どうもさつばり分らん。遠国に もら 居ると中々心配なものだ。自分で書けなければ中根の御父さんか誰かに書て貰ふが好い。夫が 出来なければ土屋でも湯浅でもに頼むが好い。 これ ^ 新聞も頼んで置たが一向来ない。是は経済上の都合があると云ふならよこさんでもよろしい 只だんまりですてゝ置くのは宜しくない。注意するがよい。 あひかはらずいそ たく ^ おれは不相変忙がしいから長い手紙を出し度ても出す暇がない。諸方へは御前からよろしく 緒言って呉れ。 端 の 崩子供の誕生を知らせる手紙が、山川信次郎から届いたのは三月十三日であった。子供は女子 で、一月十六日に生れていた。山川の手紙は一月二十八日付であった。それから五日後の三月 十八日になって、ようやく中根重一から鏡子が安産し、子供は恒子と名づけられた旨の消息が そのなか わか それ 〃 3

7. 漱石とその時代 第二部

十五日には国民同盟の祝賀会が行なわれ、十七日の華族会館での祝賀会には、内閣総理大臣 桂太郎ほか各閣僚、貴衆両院議員四十五名が集り、駐日英国公使サー・クロード・マクスウ工 ル・マクドナルドを主賓として盛大な宴が開かれた。乾杯の音頭をとったのは公爵近衛篤麿で あった。 ロンドンでは在留日本人会が、林公使の労をねぎらうために記念品を贈ることを申しあわせ、 かくのごとぎ 金之助も五円寄附させられた。「きりつめたる留学費中、まゝ如斯臨時費の支出を命せられだ 困却致候」と、彼は岳父中根重一にあてて書いている。 日英同盟は当然ヨーロッパ各地に大反響をまきおこし、一時は新聞論調もこの間題に集中し た感があったが、 その多くは日本の昻奮ぶりに対して冷笑的であった。四月九日にドイツから あねざぎまさはるちょうふう ちよぎゅう ロンドンにやって来た姉崎正治 ( 嘲風 ) は、日本で病を養っている友人高山樗牛にあてた手紙で、 ^ 鳴呼日本人には苦心の勇なきか、健闘の忍耐なきか、自ら造り出ださざる者は真に身につか ず、或る外国新聞が、日本人が日英同盟を狂喜せるを冷評して、彼等は貧乏書生が富有の寡婦 の入り婿になりしが如き感を以て喜べるなりといひしを見たり。 ・↓ ( 『再び樗牛に与ふる 書』 ) と痛憤している。金之助もまた中根重一あての手紙に書いた。 拿 : : 新聞電報欄にて承知致候が、此同盟事件の後本国にては非常に騷ぎ居候よし、斯の如き

8. 漱石とその時代 第二部

に起用された伊藤の女婿末松謙澄は、刷新人事の一環として、かねてからの腹心である中根重 一を地方局長に据えようとした。中根は当時ようやく終身官の行政裁判所評定官に就任して浪 人生活に終止符を打ったばかりであり、激職への復帰には乗り気でなかったが、末松の依頼を 断わることはできなかった。鏡子はやや誇らしげに、父の官界復帰を金之助への手紙に記した。 もちろん父も娘も、これが不運のはじまりであることには少しも気づいていなかった。 ^ 十月十四日 ( 日 ) Port Said ニ着ス。午前八時出帆、是ョリ地中海ニ人ル。秋気満目船客ノ 多数ハ白衣ヲ捨ツ。中ニハ白ノ上ニ外套抔ヲッケタルアリ。頗ル奇〉 ( 『日記』 ) 西航することさらに三日、プロイセン号は十月十七日薄暮ナポリ港に着いた。港内には二、 三町をへだてて、これから横浜に向うケーニヒ・アルベルト号が碇泊しているのが見えた。こ の船には、留学を終えて帰る大学の同窓生松本亦太郎ほか何人かの日本人が乗っているはすで ある。だが、なせかプロイセン号の乗客は上陸を許されなかったので、金之助の一行は呼べば ン 応えそうなところにいる友人に逢うことができなかった。その夜の十時、ケーニヒ・アルベル ン ト号の舷燈は港外に消えた。 世〈十月十八日 ( 木 ) NaPles ニ上陸シテ cathedrals ヲ二ツ、 museum 及 Arcade Royal スコブママ Palace ヲ見物ス。寺院ハ頗ル壮厳ニテ、立派ナル博物舘ニハ有名ナル大理石ノ彫刻無数陳列 S 1 C スコプ セリ。且 Pompey ノ発掘物非常ニ多シ。 Ro 、 al Pa1ace モ頗ル美ナリ。道路ハ皆石ヲ以テ敷 スコプ

9. 漱石とその時代 第二部

あたか 事に騒ぎ候は、恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り、鐘太鼓を叩きて村中かけ廻 もと る様なものにも候はん。固より今日国際上の事は、道義よりも利益を主に致し居候へば、前者 これある たと の発達せる個人の例を以て日英間の事を喩へんは、妥当ならざるやの観も有之べくと存候へど ぞんぜられ しカかおぼしめし も、此位の事に満足致し候様にては、甚だ心元なく被存候が如何の覚召にや。 まうすまでこれなく < 国運の進歩の財源にあるは中迄も無之候へば、御中越の如く財政整理と外国貿易とは目下の 急務と存候。同時に国運の進歩は、此財源を如何に使用するかに帰着致候。只己のみを考ふる おそれ 数多の人間に万金を与へ候とも、只財産の不平均より国歩の艱難を生する虞あるのみと存候。 まよま物こ いたし 欧洲今日文明の失敗は、明かに貧富の懸話しきに基因致候。此不平均は幾多有為の人材を年 かへ 々餓死せしめ、凍死せしめ、若くは無教育に終らしめ、却って平凡なる金持をして愚なる主張 を実行せしめる傾なくやと存候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別 ようぼん 生し、且耶蘇教の随性と仏国革命の殷鑑遠からざるより、是等庸凡なる金持共も利己一遍に流 これあり れす、他の為め人の為に尽力致候形跡有之候は、今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と 存候。日本にて之と同様の境遇に向ひ候はゞ ( 現に向ひっゝあると存候 ) 、かの土方人足の智識 文字の発達する未来に於ては由々しき大事と存候。カールマークスの所論の如きは、単に純粋 これある の理窟としても欠点有之べくとは存候へども、今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候。 あひだ たく 砿小生は固より政治経済の事に暗く候へども、一寸気餤が吐き度なり候間、斯様な事を中上候。 くだされまじく など ・↓ ( 三月十五日付中根重一宛 ) 日「夏目が知りもせぬに」抔と御笑被下間敷候。 姉崎や金之助の反応は、いつも祖国がより強大で、より多くの尊敬をかち得ていることを願 かっ もと これ ャえん おのれ 州 3

10. 漱石とその時代 第二部

个 : ・ : かう思ひまして、どんな具合かしらと時々行ってはのそいて見ますが、いつ行ってみて もどうも御機嫌甚だうるはしくありません。さらばといってこの儘いつまでかうしてゐるわけ にも行かす、どうしたものかと思ってをりますと、夏目の兄さんが、これは昔風の考から、私 が、むきにこの儘離籍でもすると思はれたものか、夏目のためを思ひ、私のためを思って、ど うか別れるの何のといはす、その儘黙って怒らすにかへってやってくれ、とかういふお話なの ぎやくたい です。で私も、別に怒ってゐるわけではなし、夫婦別れをしようといふのちゃなし、虐待され たからといって、それは誰からでもない自分の夫だから、そんなことで人様に御迷惑はかけな いつもりですが、ただああいふ頭で、子供がやかましいといってはいちめられたり打たれたり したのでは、第一子供のためにもよくないし、また自分の頭も悪くする一方に違ひないから、 げん そこで一時遠ざかってかうして別居してみたのだけれども、さつばり験がない、とすれば元ど ほり帰るよりほかに仕方がありません。どうか兄さんから話のロを切って戴きたい。あやまっ て帰ることにするからといふので、兄さんが夏目に、私がかへりたいと言ってるからと取りな して下すったわけです。 すると夏目が、 「つまり両方で神経衰弱なんだ。帰りたいといふなら、そんなら帰って来るがいい。が、大体 中根の家では子供を甘やかせて我が儘に育て過ぎる。だから鏡子なんそもあのとほり我が儘で、 自分のやりたい放題をやる」と、申しますので、兄さんも、 「ほかの姉妹はどうか知らんが、鏡子さんはあんたの奥さんちゃないか。細君のことなら強情