日英同盟 ルスプルグに使し、二十七日には露国外相ラムスドルフに会見していた。すかさす翌二十八日 に、閣議は日英同盟条約の修正案を可決した。十二月四日、伊藤侯爵はラムスドルフに日露協 定案を示したが、三日後の七日には東京の元老会議は日英同盟案を可決し、十二日林公使はそ いたって、対露交渉の一時打切りが宣せ れをランズダウン外相に手交した。十二月二十三日こ られた。金之助の知らぬところで歴史の新しい一ペ 1 ジが書かれつつあるなかに、明治三十四 年は暮れようとしていた。 日英同盟 日英同盟がロンドンで調印されたのは、明治三十五年 ( 一九〇一 l) 一月三十日のことである。 二月十二日に公布されると、日本では一種異様な昻奮状態がおこり、朝野をあげて連日のよう に祝賀会が催された。十四日には慶応義塾の学生が、親愛の意を表するために英国公使館に炬 まっ 火行列をおこない、祝意をこめて次のような新作唱歌をうたった。 旭輝く日の本と入り日を知らぬ英国と 西と東に分れ立ち同盟契約成るの日を 世界平和の旗挙げて祝ぐ今日の嬉しさや ′」とほ たい
奥大将の 第二軍〉 よしふる 四月九日、広島に在った第二軍に、陸軍少将秋山好古麾下の騎兵第一旅団が動員された。秋 山はミシチェンコのコサック騎兵とたたかうはすであった。十四日には「東京朝日新聞、と「万 朝報」の紙面に一風変った死亡広告が掲載された。 まさる めでたく つかまつり 〈僕本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也四月十三日緑雨斎藤賢 > というのである。緑雨は別名正直正太夫、辛辣きわまる舌鋒をもって知られた文芸批評家て、 かずとしばくぎやく 文科大学教授上田万年の莫逆の友であり、鸛外とも親交があった。死期の近いことを悟った緑 こちょう 雨は、死の二日前友人馬場孤蝶を枕頭に呼んでこの遺書を口述したのである。死因は肺結核で あった。孤蝶と並んで緑雨の遺言の執行人となった幸徳秋水は、前年十月に非戦論を唱えて僚 さかいとしひこ 友堺利彦とともに「万朝報」を退社していた。四月十六日には独立第十師団の、十九日には第五・ 第十一師団の動員が令せられた。五師団と十一師団は、二十一日付で第二軍に配属させられた。 四月二十一日、金之助は第三学期のシェイクスビア評釈第一講として、『リア王』のフールの りつすい 性格を論じていた。文科大学二十番教室は立錐の余地もなく、彼の講義は見ちがえるように冴 うじな 日えていた。 運送船八旙丸の船上にあって宇品港から出陣しようとしていた外は、この日三首 の和歌を詠んだ。 つかまつり ぜっぽう さ 3 引
あた 感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。 ・↓ ( 『文学論』序 ) 十二月二十四日、樗牛高山林次郎が療養さきの鎌倉で死んだ。三十一歳であった。船中の金 之助はもちろん樗牛の訃を聞くよしもなかったが、もし聞いたとしても、親友の死に対してす らさほど心を動かさなかったこのころの金之助が、ひそかに軽蔑していた「高山の林公」の死 に対して格別の感慨をもよおしたはすはない。彼に感慨があったとすれば、それは友人や後輩 が次々と死んでも不思議てはない年代にさしかかったということであり、したがって彼が突然 死んでも不思議ではないということだったはすである。ふたたび彼の周囲にはインド洋の鉛色 の水があり、彼の露出された自己は、その上をあてどなくさまよっていた。 帰って来た男 金之助を乗せた博多丸は、当初の予定では明治三十六年 ( 一九〇三 ) 一月二十一日に神戸に ホンコン 。いたってよ 帰航するはすであったが、途中で丸二日遅れて十六日に香港を出航し、二十日朝こ うやく長崎に到着した。同船は二十二日正午に長崎港をあとにし、同日夜神戸和田岬沖にい った。乗客が検疫を済ませて上陸したのは翌二十三日である。一月二十四日付の「神戸新聞」 は「帆影汽響」欄に次のような記事を掲げている。 224
も無く、満場一致、露国に対し戦を開くに決し、即時命令を陸海軍に下し、駐露栗野公使をし て、国交断絶の旨を露国政府に通告せしめたり >> 翌二月五日、天皇は陸海軍に勅を賜い、近衛・第二・第十二の各師団をもって編成される第 一軍に動員令が発せられた。七日ごろ上野駅に続々集って来た兵士は、多く第二師団の召集兵 である。軍司令官は陸軍大将男爵黒木為槙であった。九日にはロシアが対日宣戦し、十日には ふざん 対露宣戦の詔勅が渙発された。翌十一日、宮中に大本営が設置された。第一軍はます釜山、次 おうりよっこう いで鎮南浦に上陸し、朝鮮半島を制圧しつつ北上して四月二十九日ついに鴨緑江を渡り、九連 城の会戦でクロバトキン麾下のロシア軍を破った。しかしこの直前の四月二十五日夕刻、御用 船金州丸は朝鮮新浦沖でロシア軍艦三隻・水雷艇二隻と遭遇、あえなく撃沈された。 金之助の『マクベス』評釈は二月十六日で終った。これよりさき、彼は『帝国文学』の一月 号に『マクベスの幽霊について』を発表している。これは森田草平の回想にあるように、『マ クベス』にあらわれる幽霊が一人か二人かについて論じた理窟つばい論文であるが、彼がこと さら幽霊に興味を抱いたのは依然として非存在を追い求める気持が強かったからかも知れない。 二月十九日の夜、大学構内の山上御殿で開かれた英文会では、彼は『ロンドン滞在中の演劇見 物』という講演をおこなった。これは同年七・八月の「歌舞伎」に載った談話『英国現今の劇 況』の原型である。だが、英文会の機関誌を拡充して年四回発行することを申し合わせたりし て、暗に金之助の積極的な指導を期待していた学生たちは、彼が超然とした態度を崩さないの を不満に思っていた。 かんばっ ためもと 3 川
雑誌論文 石川悌二「戸籍から見た漱石幼時の複雑な家庭環境」 「国文学解釈と鑑賞」昭和三十九年三月号 蒲池正紀「漱石は光琳寺にはいなかった」 「日本談義」昭和四十四年一月号 丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石」 「展望」昭和四十四年六月号 武井静夫「夏目漱石と本籍」 「北方文芸」昭和四十四年十二月号 山形政夫「子規と漱石」 「南海放送」七一ー七七号昭和四十一年七月ー・ー・十一月 狩野亨吉「漱石と自分」 「東京朝日新聞」昭和十年十二月八日付 才神時雄「年齢意識と人生の転機ーー・漱石の松山落ちをめぐって」 「東京新聞」昭和四十四年十月 十七日付 夏目鏡子述・松岡譲筆録「漱石の思ひ出・四」 「改造」昭和三年一月号 土井晩翠「漱石さんのロンドンにおけるエビソード ( 夏目夫人にまゐらす ) 」 二月号 「中央公論」昭和三年四月号 松岡譲「倫敦の漱石先生について」 「神戸新聞」明治三十六年一月二十日・二十二日。二十三日・二十四日付 ゅうしん 「神戸又新日報」明治三十五年十二月二十日付、明治三十六年一月二十四日付 目林原耕三「漱石英詩の校訂について・漱石山房折り折り」 「不死鳥」三十一号昭和四十五年一月 「朝日ジャーナル」昭和四十一年七月三十一日号 文興津要「漱石と江戸文化」 考 「新宿区・区勢要覧」昭和四十年版 参 「文学散歩」 「明治村記念号」第二十五号昭和四十一年 「中央公論」昭和三年
<BrockwelI Park ニ至ル。帰途 shower ニ出逢ヒ、ビショ濡トナル。帰リテ「シャッ」及 ビ其他ヲ着換ュ。夜入浴。此夜妄想ヲ夢ム。浴後寝ニ就キタル故カ〉 鏡子の手紙は依然として到着せす、彼は重ねて三月九日付の手紙に書いている。 そのご たより 其後国から便があるかと思っても一向ない。二月二日に横浜を出た「リオデャネイロ」と云 あて ふ船が桑港沖で沈没をしたから、其中におれに当た書面もありはせぬかと思って心掛りだ。 とも < 御前は産をしたのか、子供は男か女か、両方共丈夫なのか、どうもさつばり分らん。遠国に もら 居ると中々心配なものだ。自分で書けなければ中根の御父さんか誰かに書て貰ふが好い。夫が 出来なければ土屋でも湯浅でもに頼むが好い。 これ ^ 新聞も頼んで置たが一向来ない。是は経済上の都合があると云ふならよこさんでもよろしい 只だんまりですてゝ置くのは宜しくない。注意するがよい。 あひかはらずいそ たく ^ おれは不相変忙がしいから長い手紙を出し度ても出す暇がない。諸方へは御前からよろしく 緒言って呉れ。 端 の 崩子供の誕生を知らせる手紙が、山川信次郎から届いたのは三月十三日であった。子供は女子 で、一月十六日に生れていた。山川の手紙は一月二十八日付であった。それから五日後の三月 十八日になって、ようやく中根重一から鏡子が安産し、子供は恒子と名づけられた旨の消息が そのなか わか それ 〃 3
ロッデン・ロードの旧居に帰って寝ていた。女主人の妹と二匹の犬、それに主人の徒弟のアー ネストが同居しており、下女のペンは解雇された。金之助はほとんど遮蔽するものを奪われた さら 自己の存在を、渇き切った醜い外界に曝していた。 彼がトウーティングからただちに逃げ出さなかったのは、ドイツから理学士池田菊苗がロン ドンにやって来るのを心待ちにしていたからである。四月二十七日の『日記』に、彼は「 Bal- ham ニ行ク。又移リ度ナッタ。兎ニ角池田君ノ来テカラノ事ダ」と記している。池田は元治 元年 ( 一八六四 ) 生れで金之助より三歳の年長であり、大学は四年前の卒業でしかも専攻が化 学であったから、果して留学以前から知り合っていたのかどうかはわからない。しかし当時ョ 1 ロッパへの派遣留学生の数は限られていたので、お互いの消息には通じていたものと推測さ れる。池田は留学地ライブツイヒから帰朝する途中で、ロンドンにしばらく滞在する予定であ り、その間の下宿の選定を金之助に依頼して来ていたのである。 四月十九日及び二十三日の金之助の『日記』には、それぞれ「独乙ノ池田氏へ手紙ヲ出ス」 「池田氏へ返事ヲ出スーというような記事が見える。五月三日には「池田氏ノ部屋出来上ル . と あり、四日には「池田氏ヲ待ッ来ラズ」とある。またこの日、彼は「薔薇一一輪 6 pence 百合 三輪 9 pence ヲ買フ。素敵ニ高イコナリ」と記している。彼は待望の珍客を花でもてなそう としたものと思われる。 池田は翌五月五日の日曜日に到着し、二人は午後早速散歩に出た。金之助はこの日在英中の ないぶ 男爵神田乃武、領事館員の諸井某らの訪間をも受けた。金之助が急速に池田に惹かれて行った ことは、六日の『日記』に「池田菊苗氏ト Royal lnstitute ニ至ル。夜十二時過迄池田氏ト話 しゃへい
世紀末のロンドン ^ 十月九日 ( 火 ) 猶 Aden ニ泊ス サングワン 見渡セバ不毛ノ禿山墳玩トシテ景色頗ル奇怪ナリ。十時頃出帆、始メテ亜弗利加ノ土人ヲ見 ル。ロシャナ仏ノ頭ノ本家ハニアリト信ズ〉 ( 『日記』 ) ^ 十月十日 ( 水 ) 昨夜 Babelmandeb (Bab-el Mandeb) 海峡ヲ過ギテ紅海ニ入ル。始メテ熱 モョホシ ヲ感ズ。此夜上等室ニテ ball ノ催アリ。御苦労千万ノ事ナリ。 cabin ニ入リ寝ニ就ク、熱名 状スペカラズ。 赤き日の海に落込む暑かな 海やけて日は紅に ( 以下なし ) 日は落ちて海の底より暑かな > ( 同上 ) ^ 十月十一日 ( 木 ) 昨夜 cabin ニ人リテ寝ニ就ク。熱苦シクテ名状スペカラズ。流汗淋漓生 ャウャスズン タル心地ナシ。此夜又然リ。明方ョリ漸ク涼 > ( 同上 ) ャウャ 十月十二日 ( 金 ) 秋気漸ク多シ。然レドモ船客未ダ白衣ヲ脱セズ。「スエス」以北ニ至ラ・ハ 始メテ寒カラン。夜 Sinai ノ山ヲ右岸ニ見ル。月未ダ上ラザリシ為メ雲カ陸カ見分難カリシ〉 ブッ ココ スコプ シン イマ アッグル 、、、ワケ ッ 8
は記している。その雑沓を眺める彼のかたわらには、おそらく池田がいたはすである。 だが、このあいだにも彼には果すべき公務があった。それは、熊本の第五高等学校校長桜井 房記からの依頼で、狂死したお雇い外人教師プランドラムの後任を選定するという件である。 金之助はこの過程で、彼自身にとっては意外にこたえたかも知れないささやかな失敗を二度繰 り返している。最初は五月三十日のことで、候補者の推薦を依頼したキングズ・カレッジ ( ロ ンドン大学 ) のヘイルズ教授に誤って手紙の写しのほうを送った。彼は相手がそれを返送して 来たのを見て、あわてて正式の書状を送り直している。次は六月六日、キングズ・カレッジに ヘイルズ教授と候補者のスウィートに面会に行き、約束の時間に三十分おくれて逢えすに終っ ている。ようやく金之助がスウィートに逢ったのは六月八日のことで、ヘイルズ教授にはさら 冫いたってはじめて面会している。この人選は結果的には成功し、八 にその二日後の六月十日こ 月下旬三カ年契約で日本に向ったスウィートは、のちに良心的な外人教師として五高で好評を 得たが、この折衝にあたった金之助はおそらく心身ともに疲れ果てていた。 「学術研究ノ旅行報告ヲ慥カニスペシ」という文部省からの手紙が届いたのはまさにこのとき である。彼は「学術研究」のためにもなににも、旅行らしい旅行などはまるでしていなかった。 それどころか、「学術研究」そのものがどれほど進展しているのかも覚東なかった。クレイグ に「 Taste ハ天福ナリ。君之ヲ得タリ、賀スペシ」といわれたのは嬉しくないことはなかった が、それを文部省にどう報告するすべがあるだろうか。六月二十六日の『日記』には「池田氏 Kensington ニ去る」という記事がある。そして二十八日には、彼は「プレット夫人ニ下宿替 ヲスル旨ヲ言渡ス」と書いている。池田が去り、ふたたびひとりになってみると、彼は自分が
21 作家漱石の誕生 「あのおいらんが二三人も並んでいる華やかな光景がいいのです。たまにああいう刺戟を受け に来るのです」 と答えるとうなすいて納得したように見えたが、筋の不自然なところをひどくきらい、 「何故あの役者はあんなに不自然な大きな声をして怒鳴るのか」 といったり、 「何故あんなにだだっ広い部屋にしたのか。何故あすこの壁があんな厭な色をして居るのか」 などと文句をいった。しかし彼は能楽に対しては興味を示し、 「能は退屈だけれど面白いものだ」 といったので、以後虚子はしばしば金之助を能見物にさそうようになった。 ほんけいこ 十月八日、クロバトキン麾下の一兵団は、本渓湖のわが軍陣地に激しい攻撃を加えはじめた。 りゅうだん 。攻城用の二十八サンチ榴弾砲十二門が据 乃木中将の第三軍はまだ旅順要塞をおとせすにいた えつけられ、威力を発揮しはじめたのは九月末日からである。十月五日にはさらに同型砲六 の増加が決定された。十月十日、児玉満洲軍総参謀長は全軍に攻勢転化を命じた。沙河会戦の 幕が切っておとされたのである。第二軍軍医部長鵰外森林太郎はうたった。 血の海や枯野の空に日没して この日東京では暴風雨が荒れ狂っていた。あたかもこの同じ日、金之助は文科大学で『リア 王』のヒ 1 スの荒野の場を講じた。同じ日に発行された「ホト、ギス」には彼の無題の俳体詩 353