だとすれば、彼の独特なペテルプルグ論に、このさい、ぜひ耳を傾けておく必要があるだろう。 初めてのラスコーリニコフ訪問のさい、彼は突然、こんな話をはじめる。 いや、よくもまあこんなものがわが国にでつ 「 : : : そこへもってきて、おまけにこの町ですー セミナリスト カンツェリャリスト ちあげられましたな、呆れたものだ ! 官僚族とあらゆる毛色の神学生たちだけの町じゃあ まったく、私も以前はここでいろいろと見落しをやっていたものですよ、八年前 りませんかー ここでのらくらしておった時分にはね : ・いまはもう解剖学ひとつだけに望みをかけているよう なわけです、ほんとうですとも ! 」 「解剖学って、どんな ? 」 この一語はあまりにも唐突で、前後の ラスコーリニコフが思わず問い返したのも無理はない。 文脈もはっきりしない。しかもスヴィドリガイロフは、まともにはこの一 = ロ葉に説明を与えようと しない ボアント 「まあ、例のクラプだの、デュソーだの、ご存じの『岬』だの、なんならもう一つ、例のプロ いや、そんなものは、われわれ抜きでやってもらおうというわけ グレスとやらも加えますか です」 セミナリスト ちょっと注釈を加えると、「神学生」というのは、ほとんど「えせ学生」というのにひとし 夢 る く、当時のペテルプルグに氾濫していた西欧かぶれの疑似インテリを指すと考えてよい カンツェリャリスト 「官僚族」と同じく、外来語であり、暗にラスコーリニコフのある一面を衝いているようにもび 思える。一方、「クラブ」は会員制の上流社交場。「デュソー」はペテルプルグ最高級のレストラが ボアント 万 ン。「岬、は、ネヴァ河口にあるエラーギン島の西端、天の橋立ふうに海に突き出た砂洲で、 4 2 ここに高級な自然散歩道がしつらえられていた。要するに、これまた外来語ぞろいの「クラブ、
のことは次章で考えよう。 もっとも、イエスといえば、彼が伝道の初期、カペナウム近くの山に登って説いた考え、いわ ゆる「山上の垂訓 . が、リザヴェータとソーニヤについてのラスコーリニコフの独白にそっとひ そめられていることも見落せない。「かわいそうな、柔和な女たち」という一句がそれだ。「かわ いそうな」の原語「べードヌイチは、英語のを or と同じく、「貧しいーという意味をも持って いる。といえば、マタイ福音書五章の有名な聖句がすぐに頭に浮ぶだろう。 さいわい 「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなりー ( 5 ・ 3 ) 正確に言うと、ロシア語訳聖書では、「貧しき」という一一一一口葉には「ニーシチェー ( 乞食のように貧 ・ : 〉しかし貧乏もです、洗 しい ) が当てられている。マルメラードフが「貧は悪徳ならず、〈 : うがごとき赤貧となると、こいつはもう悪徳なんですな」と語るときの、「赤貧」を意味する言 クロ 1 トキイ 葉である。しかし言葉のこの微妙なずれは、次に出てくる「柔和な」という言葉が、福音書その ままであることでつぐなわれる。 さいわい 「幸福なるかな、柔和なる者、その人は地を嗣がん」 ( もともとこの一句ま、詩篇 7 。一口 3 ・Ⅱの引用であって、「柔和なる者ーとは、本来は「踏みつけら れてじっと我漫している人たちー ( 塚本虎二訳 ) を指すのだという。ラスコーリニコフも、どうや らその含意をこめて、この「クロートキエーという一一一一口葉を使っているらしい。というのも、すぐ それにつづけて、「どうしてあの女たちは泣かないんだ ? どうしてうめき声をあげないんだ ? 」 という問いかけがあるからである。彼女たちは肉体を売ることを強いられ、さらにはほんの巻添 えで殺されてしまっても、ただひたすら耐えている。彼女たちにこそ「天国 , と「約束の地」が 与えられんことを、「かわいそうな、柔和な女たち」という一一一一口葉に託して、ラスコーリニコフ、 180
ひとっ例を引こう。 小説がはじまって間もなく、主人公ラスコーリニコフが、犯行計画の瀬踏みのために、金貸し の老婆の家を訪れる。警戒心旺盛な老婆は、すぐにはラスコーリニコフを中へ通そうとしない。 まずドアを細目にあけて、その隙間から、 いかにもうさんくさそうに来客を眺めまわす。 「しかし、踊場に人が大勢いるのを見て安心したらしく、彼女はドアをすっかりあけた。青年は 敷居をまたいで、衝立で仕切られた暗い玄関に入った」 テキストにはこう書かれている。たしかに心理的緊張のよく伝えられている文章にはちがいな しかし、引用したこの短い一節に、小説のもっとも根源的なテーマのひとつがこっそりと忍 ばせてあると言ったら、おそらくけげんに思われるだろう。ところが事実はまさにその通りで、 ここはドストエフスキーがもっとも趣向をこらして、テキストの多層構造を地で行って見せたと ころなのである。小説のテーマの展開から言えば、ここには最初のクライマックスが設定されて いると考えてもよい その秘密は、「敷居をまたいで」という一句、とりわけ「またぐーという動詞にある。この動 詞のロシア語の原語は「ペレストウピーチ」で、辞書を引けば、「またぐ、 踏み越える」という 語義がたしかめられる。なんのけれんもない、ふつうの日常語であり、テキストの中でも、そう いう日常語としての機能をまず充分に果している。ところが、このなんでもない言葉が、小説の装 からくり構造の中ではひとつの重要な仕掛になっていて、小説の中心テーマであり、題名の一部 でさえある「罪」という言葉と、微妙に呼応し合っているのである。 この「ペレストウピーチ」という動詞のいくぶん古い語形に「プレストウピーチ」というのが精 ある。まったくの同義語で、この二つの一一 = ロ葉の相違を日本語で表わすとしたら、せいぜい「越え
細かな点を詮索したが、どうやらこれで、日説はほば固まったと見てよいだろう。それにし ても、小説を日の枠に納めることが、ドストエフスキーにとってどのような意味を持っていた のだろうか。この本の—章で、処女作『貧しき人びと』の手紙の日付の枠にふれて、それが復活 ボクロフ 祭の二週間後の四月八日にはじまり、聖母祭を翌日に控えた九月三十日で終っていたことに、作 者の意図を越えたある種の黙示の存在を示唆しておいたが、私はそれとのアナロジーをここにも 見出したい気持が強い。 創作のいつの時点でかはわからないが、ドストエフスキーは、黙示録の作者ヨハネのように、 カタストロフィ ある日突然、このという数の黙示を受けた。それは、主人公ラスコーリニコフの「破局 を指示する数として、あまりにもふさわしいものに思えた。その瞬間から、主人公の自首は日 目に行なわれるべきことが、いわばアプリオリに予定され、小説の時間的な枠組が決定されたの である。 第六編冒頭の一種韜晦的な文章は、そのような使命を負わされた語り手が、小説の時間のミス ティフイケーションの手法をまで動員して、なんとか自分の役どころをこなそうとしている図と も読める。となると、の黙示が作者を訪れたのは、ほばこの時点のこととも考えられないでは ない。小説が連載された『ロシア報知』のバックナンバーを繰ると、第五編の終章、つまり、ソ ーニヤへの犯行告白とカチェリーナの死という、全編のいわばクライマックスが一八六六年八月 号に掲載されたあと、第六編が十一月号に載るまでには、三カ月の中断がある。おそらくこの中 断は作者にとって、小説全体の構成をあらためて振りかえるために、絶好の機会となったに相違 ない。なるほどこの三カ月は、ドストエフスキーが未来の妻アンナ・スニートキナを知り、中編 『賭博者』を彼女にロ述筆記させた時期にも当る。公私ともに、作者が多忙であったことは間違 272
そういう視点から、この小説の全体を再構成してみると、なかなか興味深い光景が浮びあがっ てくる。たとえば、ドウーニヤの「花婿」候補として登場するあのルージン氏までが、立派に終 末絵図の一端を担っていることが判明する。下宿を訪れてきたルージンにラスコーリニコフが喝 破するように、ルージンの功利主義哲学は、「最後まで押しつめていくと、人を斬り殺してもか まわないということになる」からである。 ラスコーリニコフの身代りとして自首して出るべンキ屋のミコールカなどは、この世が「終 末」とあれば、さしずめたれよりも生き生きとした光彩を放ってくる人物だろう。彼は、この世 と がすでにアンチクリストの支配する時代であり、いっ本来の終末が訪れてもふしぎではない、 考える人間だった。ポルフィーリイ予審判事が最後にラスコーリニコフを下宿に訪ねて、自首を べグーヌイ ミコールカは分離派系の一セクト「逃亡派」に属していた。ペテル すすめる場面で語るように、 プルグという町、とりわけ女と酒にショックを受けて、信仰のことなどけろりと忘れてしまった らしいが、監獄に入ってから、かって二年間もそのもとで修行生活を送ったセクトの長老のこと を思い出し、ふたたび信仰を取り戻した、という。 「逃亡派」という奇妙な名は、この派がアンチクリストの支配する都市や村を逃れて、荒野や森 に「逃亡」するよう説いたことに由来している。分離派の共通認識では、黙示録の獣の数 666 夢 る にちなむ一六六六年以降 ( 後に年数の起算をキリスト誕生からでなく、キリスト復活からに改め たため、それに三十三を加えた一六九九年以降 ) は、アンチクリスト支配の時代であり、その化び 身がニコン総主教とピヨートル大帝であるとされた。注目されるのは、この派が、「お上によっが であると評価して、たとえ無実の罪をかぶ万 て与えられる苦しみ」は「アンチクリストとの闘い ってでも、獄につながれることを奨励した点である。ミコールカが虚偽の自白をしたのも、この
章の調子の高さは、ドストエフスキーがほとんど熱狂的ともいえるほどの感動をこめてプーシキ ンの原作を受けとめたことを示している。とすれば、その感動は、スヴィドリガイロフに『エジ プト夜話』のことを語らせようと決意した瞬間にも、まだまだ持続していたと考えるほうがよい だろう。傍白的なほんの数言でしかないが、そこにはスヴィドリガイロフ個人の事盾を越えて、 ドストエフスキー自身の感も託されていたはずである。 第一に、ここに「メスがオスを食う蜘蛛の魂。という言葉が見出されることで、小説に仕掛け られた三題噺がめでたく完結することになる。この三題噺説は私の発案だが、もともとはドスト エフスキー自身がたねを仕掛けておいてくれたものだ。「メス、蜘蛛にたとえられるのは、おそ らく、クレオパトラだけではあるまい。逆に、メスに食われること、文字通りの「性の生贄。と なることに、無上の决楽を感ずる男たちもいるのだろう。スヴィドリガイロフとマルフアの七年 間は、クレオパトラとの一夜を七年間に薄めたような、そんな鈍い快楽の持続であったのかもし れない。偶然の卒中がオス蜘蛛を「永遠」から解放し、そこから歯車が狂いはじめたということ だったろう。 第二に、このほうがはるかに重要だが、紀元前五一ー三〇年のクレオパトラの治世を、プーシ キンの詩に触発されてにせよ、ドストエフスキーが紀元前の「終末」期と観じていたことである。 終末が現存していたからこそ、いっさいのモラルが頽廃し、肉の悦楽が繊細と洗練の極に達して いた時代があったからこそ、「贖罪者、たるイエス・キリストが三十年後に誕生し、六十三年後 に、人間のいっさいの罪を負って十字架にかけられなければならなかったのである。むろん、ド生 ストエフスキーは彼と同時代のロシアの現実にも、新たな終末を予感していた。神をも贖罪者を性 も信じようとしないスヴィドリガイロフは、この終末を感覚的に代表する人物であった。ラスコ
うか。東洋系の彼女の目が黒みがかっていたことは確実だろうが、スヴィドリガイロフがそのあ たりについて特別に造詣が深かったとは到底考えられない。 とすると、やはりこれはドウーニヤ の瞳なのだろう。彼女の顔立ちは、ラズミーヒンとの出会いの場面に詳しく描写されており、そ の眼の色は「ほとんど、黒といってもよいほどだった」と記されている。「黒き瞳よ ! 」が、ス ヴィドリガイロフの秘められたドウーニヤ讃美の一言葉であることは、これで確定する。 それでは、最後の一句「おお、わが青春の : : : 」は、どうだろうか。すでに五十歳になるスヴ イドリガイロフが過ぎ去った日々をひたすらなっかしんだ一言葉とも受けとれないではない。しか し、プーシキンの詩との連想を重く見ると、おそらくこれは、クレオパトラの挑戦に応えた三人 いかさまカル 目の少年のイメージと自分自身の青春の思い出とを重ね合わせた言葉なのだろう。 タ師に身を落す以前、彼は騎兵隊に二年勤めていたという。おそらく、まだその時期にだったら、 彼もまた生命に代えて、クレオパトラとの一夜をあがなう純粋さをもちえたに相違ない。これは 彼自身の青春への挽歌であると同時に、ドウーニヤによる回春への期待をこめた一言葉であった。 永遠の美女クレオパトラの現実の姿が、彼にとってはドウーニヤなのである。後に彼が、しきり とドウーニヤをエジプトの公女や殉教女になぞらえようとするのは、偶然ではない。 それにしても、現実のスヴィドリガイロフは、四十三歳から五十歳までの七年間、たまに農奴 あがりの娘に手をつけるくらいの浮気は黙認されたにせよ、五歳も年上で、しかも独特の「ロ臭 持ちーであったというマルフアと、よくも折合いをつけてこられたものである。安料亭で最後に ラスコーリニコフと落ち合ったとき、彼はマルフアのことを語り、それを、「こよなく優しい夫 がこよなく優しい妻に捧げる弔辞ですよ」と言い切ってはばからない。「優しさ」とはふしぎな ものである。それは、すさまじいばかり持続する忍耐心の現象形態であるのかもしれない。 204
を過すーという転義がある。かっては、狙いをつけた「蠅」はけっして取り逃がすことのなかっ た「蠅泥棒ーも、 いまや「蜘蛛」の神通力を失い、無為と倦怠に落ちこんでいる図なのだろう。 ラスコーリニコフという「大きな蠅をとらえ損ったことも、彼には応えたにちがいない。それ より、最後の狙いであったドウーニヤをさえ、彼はみすみす取り逃がしてしまった。ドウーニヤ という言葉が彼のロをつ の発射した弾丸が右のこめかみをかすめたとき、「黄蜂に刺されたー いて出るのは、偶然ではない。「雀蜂」ならぬ「黄蜂」が「蜘蛛の巣」を突き破った図に相違あ オサー るまい。「黄蜂」もまた、ロシア語では女性名詞である。 なんとも哀れな話になったが、スヴィドリガイロフを「生贄ーと呼ぶのは、彼のこうした末路 を想定してのことではない。むしろそれは、彼の女性観ないし人間観そのものに根ざした、多分 に宿命的なものであった。初めてラスコーリニコフと出会った折、自分がドウーニヤの尻を追い まわし、忌わしい申し人れで相手を辱しめた、と非難されていることを弁明して、彼は次のよう に述べる。 「しかし、まあ考えてもみてください、私だって人間ですし、 et nihil humanum•••••• ( 人間的なこと は何によらず : : : ) 要するに、私も人なみに忽れもしようし、恋もしようというわけです ( これば かりは、われわれの意志でどうなるものでもありませんしね ) 。で、そうなれば、何もかもごく イズヴェルク 自然に説明がつくのとちがいますか。つまり問題の本質は、私が悪党 ( 「非人間」とも訳せる ) か、 それとも自身、ジェールトヴァ ( 犠牲者、生贄 ) か ? ですよ このスヴィドリガイロフの二者択一論は、きわめて狡猾にできている。つまり、「非人間」で ないかぎり、つねに「犠牲者ー ( 生贄 ) だ、と居直れる構造になっているのである。しかも、テレ ンテイウスの成句にある「人間的ーの意味が、もつばら情欲の面に限定されている。これでは、 200
という。以前にも書いたように、地水火風あるいは東西南北の「 4 」と、過去・現在・未来の 「 3 」を加えた「 7 」という数は、ほとんど世界的に「完全数 , とされ、天地創造神話もこの数 に依拠している。それほどの完全数が七回もくり返されるとしたら、これはもうスヴィドリガイ ロフの言う「永遠ーそのものの数的な表現なのではないだろうか。たしかに「永遠」というのは、 案外にみみっちいものかもしれなし ) 。いわば「男妾ー的な境遇に身を置いた男が、妻の持村の田 舎臭い風呂場にひとりたたずんで、隅々に巣を張った蜘蛛をじっと見つめている光景を想像して みるとよい。しかもそれが七年間、明けても暮れてもつづくのである。これが「永遠」でなくて 何だろう。この実体験の裏づけがあるからこそ、彼の永遠論には異常な存在感と説得力があるの 。こっっ この説得力は、結局のところ、ラスコーリニコフにさえ影響を与えずにはおかない。「せめて もうすこしましな、まっとうなものを考えられないんですか ? 」と抗議したラスコーリニコフ自 身が、いっか彼のイメージのとりこになっている。二度目にソーニヤを訪れたとき、彼は次のよ うに告白する。 「そこでばくは、蜘蛛みたいに、自分の隅に閉じこもってしまったんだ。きみはばくの部屋に来 たことかあったね、見たろう : ・ : ・ ソーニヤ、低い天井と狭い部屋というのは、魂も知 性も押さえつけてしまうものなんだ」 ・「ばくはただ殺したんだ。そのあと善行者になろうが、 あるいは一生涯、蜘蛛のように、万人を蜘蛛の巣にかけて捕え、その生き血をすするようになろ うが、あのときのばくにはどうでもよかったんだ ! 」 これもまた一種の「永遠」にちがいない。唯一の救いは、未来への予言めいたスヴィドリガイ ロフの永遠論を、ラスコーリニコフが自身の現実、近過去に差し戻してとらえ返そうとしている
はあまりに対照的である。水が引くまではノアも開けようとしなかった「方舟ーの窓を、スヴィ ドリガイロフは自分から勝手に開けてしまう。ラスコーリニコフのほうは、あの暑さ、息苦しさ にもかかわらず、けっして「船室。の窓を自分から開けようとはしなかった。一度だけ、ソーニ ヤに犯行を告白し、妹のドウーニヤが訪ねてきたあとで、だれが開けたのか、「涼気が窓から吹 きこんできた」ことがある。彼の魂がよみがえりのきざしを見せたことを象徴するできごとだっ たのだろう。しかしスヴィドリガイロフにはタブーなどない 。息苦しいとなれば、彼は即座に窓 を開けてしまう。当然、窓からは水しぶきが顔に吹きつける。外はどしゃぶりの雨なのだ。ふい に砲声がとどろく。 「あ、警報だ ! 水かさが増したんだなーと彼は考える。「朝方には、低いところでは街路が水 びたしになり、地下室や穴蔵が水につかる。地下の鼠どもが浮きあがってくるぞ。人間は雨と風 のなかで、悪態をつき、びしょ濡れになりながら、自分のがらくたを階上に運びあげるわけだ これはもう、洪水がペテルプルグという「方舟」の「下階」、獣たちの居住区にまで及ばうと している図である。浮きあがる鼠たちーーーそれがスヴィドリガイロフ自身の呼びこんだイメージ であることに注目したい。すでにこの安旅館で、スヴィドリガイロフは鼠の幻影にたつぶりとな ぶられていた。 「小部屋ーに人ったとたん、すでに鼠の気配を感じたのだが、やがてそれはべッ ドの中にもぐりこみ、シャツの下にまで入ってきた。そのあげく、「方舟 . の終末を象徴するよ うな鼠の光景である。こうなると、十七世紀初頭の写本が伝えるもうひとつのロシアの偽経『ノ ア物語』を思い出さずにはいられない。そこでは鼠に、重要な役どころが振られている。 偽経によると、人類全体の絶滅を望む悪魔は、方舟でノア一族が生き残るのを望まず、さまざ