『祖国雑記』誌に連載された彼の文壇復帰第二作『ステパンチコヴォ村とその住人』では、早く もアファナーシェフの新説が、ある種の揶揄の対象にされているのである。長編の主人公ロスタ ーネフ大佐は、アファナーシェフばかりか、彼の新説を掲載した『祖国雑記』そのものをまで槍 玉にあげていた。 「『祖国雑記』とは、名前からして立派なものさ。祖国が総出で執筆にはげんでいる風情がある ぜ。まったく有益きわまる雑誌だよ。〈 : ・ : 〉おまけに、載っている学術論文ときたら、びつく ウフヴァ 1 ト : 〉わしに言わせりや、箒は箒、鉤手は り仰天、目の玉がでんぐり返るくらいのもんだ。〈 : 鉤手でいいと思うんだが、それがちがうんだな。学者先生にかかると、鉤手も鉤手じゃなくなっ て、象徴だか神話だか、何かそんなふうのものになるんだそうな」 筆者自身の「謎とき」論法をからかわれているようでこそばゆい思いだが、自分の小説を載せ てくれた雑誌を、その小説の中で揶揄しようというドストエフスキーの神経も相当なものだろう。 しかし、いずれにしても、『罪と罰』創作の六年前に、作中人物のロを借りてにせよ、こんな ウフヴァート 「鉤手」論が展開されている以上、「ウフヴァートフ」という命名が、単純に「ソーニヤ日生 贄」構想を暗示するものだとは、素直に首肯できなくなってくる。私としてはむしろここに、ド ストエフスキー一流のしたたかなパロディ精神を見たい気持が強い。 だいいち、「娼婦」という生業をいとなむ娘を「性の生贄ーと規定するのは、あまりにも陳腐 でセンチメンタルな常識論だろう。ドストエフスキ 1 はそのことを百も承知で、あえて「鉤手さ んーなどという命名を採用し、常識論を逆手に取ろうとしたのである。学者先生の証言にもあり ますとおり、たしかにソーニヤは、男たちの祭壇に捧げられた「生贄」でござる、ひとっこの トストエフスキーはこんなふう 「哀れなソーニヤ」の運命に、心ゆくまで涙していただきたい。、
それは論外として、こういう儀礼のさいに授かった子供は、それぞれの「舟」の未来のキリスト 候補、未来のマリヤ候補として、セクト共同体の責任で育てられる風習もあったようである。だ いぶ寄道をしたが、リザヴェータが「いつも妊娠」していたのはこのためであり、従って彼女は、 生まれてきた子供の養育について、それほど気に病む必要はなかったのだろう。 ソーニヤの部屋にあった「古い、手ずれのした、革表紙の」ロシア語訳福音書は、ドストエフ スキー自身がシベリアへの途次、トボリスクでデカプリストの妻たちから贈られた一八二三年版 の福音書を模したものだと言われている。発行後四十年以上を経たそんな稀覯本をどうしてリザ ヴェータが持っていたのか、という謎も、彼女がセクトで占めていたらしいかなり重要な地位と の関連で解くことができそうである。ペンキ屋のミコールカが虚偽の自白をして獄につながれた とき、彼が属する「逃亡派」の信徒たちがさっそく「聖書」を差入れたという話を、予審判事の ポルフィーリイに語らせることで、ドストエフスキーはそのあたりについても巧妙に暗示を与え ている。なお、ドストエフスキーと聖書のかかわりについては、岩波新書の小著『ドストエフス キー』で詳しく述べておいたので、参照していただければ幸いである。 こうして、「鉤手さん」の命名から連想された常識的な「ソーニヤ日生贄」説は、ドストエフ スキー自身によって、大長編にふさわしいより高い次元に発展させられたようである。しかしド ストエフスキーは、「性の生贄」というイメージそのものをまで断念することはしなかった。そ れは、ソーニヤとはまったくの対極をなすもう一人の作中人物スヴィドリガイロフに移し変えら れることになる。意外と思えるかもしれないが、実は彼自身が、きわめてあいまいな言い方でだ が、自分が一種の「ジェ 1 ルトヴァ」 ( ふつう「犠牲者」と訳されるが、ずばり「生贄」の意味もある ) で あることを、自分からラスコーリニコフに語っているのである。むろんこれは、「私はめったに 192
レット賭博場は国際的にも有名だった。となれば、。、 リの流行語がこの地に伝わるのに、それほ 3 どの時間はかからなかっただろう。それも「女を捜せ」とくれば、賭博場の雰囲気には打ってつ けの流行語である。 ドストエフスキーは、流行語や俗語には人いちばい敏感な作家であった。しかもこのときのド ストエフスキーは、まるでわざとのように、「犯罪小説」の構想をえて、せっせとそのためのノ ートを取っていた。一一一一口うまでもなく、後の『罪と罰』の原型である。自作の構想にあまりにもび ったりな流行語を、彼がむざむざと聞き逃したはずはない。 しかし、その年の九月初め、賭博に負けて一文なしになり、三百ループリの前借りをものしょ うと、『ロシア報知』の編集長カトコフに売り込んだ小説の筋書には、なぜか「女 , のことは一 言も触れられていなかった。ドストエフスキ 1 が、女主人公不在の小説を目ざしていたなどとは、 到底考えられない。しかもカトコフへの手紙には、売り込み文句とはいえ、「小説のおもしろさ は保証します」と大見得も切られていた。常識的には、犯行の動機に「女、をからませることが、 小説をおもしろくするいちばん手近な道だろう。「女を捜せ」 毎日のように耳にする呪文め いた流行語を聞きながら、ドストエフスキーはさぞかし悩ましい思いを噛みしめていたに相違な 問題は、この小説の主題が、安易に「女」を持ちこむには、あまりに重かった点にある。一時 はドストエフスキーも、常識との妥協を考えたらしい。その名残は、完成稿でのラスコーリニコ フの母親の扱いにとどめられている。常識人そのものである母親は、ラスコーリニコフの部屋を ソーニヤが訪れてきたとき、娘のドウーニヤに、こんな感想をもらす。 「 : : : わたしはね、あの娘さんもこわいんだよ : 「あの娘さんって、お母さん ?
なるほど「愛する者を罰す」は、「罰としての愛ーとは多少ニュアンスがちがって、「愛ゆえの 鞭 , といった意味合いが強いかもしれない。しかし、いずれにしてもこの二つの諺は、いく モディファイされながら、ドストエフスキー一流のからくり装置に組込まれて、小説の主題の展 開をうながし、最後には壮大な新しい神話の創造にまで高められることになる。愛にしても、狂 気にしても、ともに感染しやすいものであることを考えると、この二つの罰の形は、思いのほか 多くの作中人物に適用されることになるのかもしれない。 ところで、聖句はともかく、流行語にもひとしい芝居のせりふを小説の仕掛に使うのは、かな りの冒険のはずである。下手をすれば、まじめな、いや、「深刻」そのものの小説が、安手な茶 番劇にもなりかねない。『罪と罰』のような大長編が、ほんとうにそんな場あたりの小細工に支 えられていたのだろうか。 一一一一口うまでもなく、この点はテキストの検証によって確かめられることだろう。しかし、その作 業にかかる前に、ひとつ一般論として確認しておきたいことがある。これまでも折にふれて指摘 してきたことだが、、 トストエフスキーという作家は、根がいたって不器用なくせに、滑稽さや、 洒落た笑いへの願望が人一倍強かったということである。このことは、彼の作品題名の選択に、 もっとも端的に現われている。つまり、ほとんどの作品が、表と裏、二様ないし三様に解釈でき る題名をもっているのだ。いかにも深刻で、「ドストエフスキー的」なのが表の題名だとすると、 それとうらはらに、思いきり俗つほく、「非ドストエフスキー的ーな裏の題名がある。そこで、 いたずら心から「裏版全集」を企画すると、そこには次のような作品が並ぶことになる。いわく、 『哀れな人たち』、『そっくりさん』、『ミセス・ホステス』、『露命つなぎ氏』、『しらけた夜々』、 『名なしの否ちゃん』、『ねずみ穴から出た回想記』、『おばかさん、またの名は、瘋癲行者』、 1 ラ 0
しない。しかしその代り、ドストエフスキーは速記者という新しい利器に頼れるようになった。 とすれば、現代の作家がワープロを使いはじめるのと同じで、少くともドストエフスキーは、自 分の原稿を以前よりは客体視できるようになったはずである。この執筆スタイルの一新が、作者 の側にいくぶんか俯瞰的なゆとりを生み出し、小説の全体的構成への目配りも利くようになった のではないだろうか。 ところで日という日数の枠は、思わぬ偶然の発見をさえドストエフスキーに贈ってくれた。 周知のように、小説は「七月初め」からはじまっている。とすると、それから日目に当るラス コーリニコフ自首の日は、七月二十日前後に相違ない。ところが教会暦を繰ってみると、旧暦七 月二十日は、前にも触れたが、なんと予言者ィリヤの日なのである。ロシアの雷神ィリヤと言え ば、だれしも警察署の副署長ィリヤ・ベトローヴィチ ( 石上雷太 ) 中尉を連想するだろう。つま り、ラスコーリニコフが自首の相手として副署長を選んだのは、イリヤの日にちなんだ天の配剤 だったのである。ところで、このようにして日目の自首の日が七月二十日ときまれば、小説の 書きだしは、七月八日ということになり、老婆殺人の日は、一八六五年七月十日午後七時過ぎ、 と特定できることになる。 話 と思われるかもしれない。しかしド 神 何もそこまで小説を現実とっき合わせることはあるまい ストエフスキーはそのような作家であり、その意味で彼は徹底した「リアリスト」であった。 章で、ソーニヤの部屋のいびつな形状に触れた。左奥の隅が鋭角で、右奥が間のびした鈍角だと いう奇妙な部屋、こんな部屋が現実に存在するわけはないと、だれもが思いこんできた。ところ数 が後年、好事家の研究者たちが、掘割沿いのそれとおばしきあたりに、まさしくソーニヤの部屋 とそっくり同じ、いびつな形状の部屋を見つけだした。
章の調子の高さは、ドストエフスキーがほとんど熱狂的ともいえるほどの感動をこめてプーシキ ンの原作を受けとめたことを示している。とすれば、その感動は、スヴィドリガイロフに『エジ プト夜話』のことを語らせようと決意した瞬間にも、まだまだ持続していたと考えるほうがよい だろう。傍白的なほんの数言でしかないが、そこにはスヴィドリガイロフ個人の事盾を越えて、 ドストエフスキー自身の感も託されていたはずである。 第一に、ここに「メスがオスを食う蜘蛛の魂。という言葉が見出されることで、小説に仕掛け られた三題噺がめでたく完結することになる。この三題噺説は私の発案だが、もともとはドスト エフスキー自身がたねを仕掛けておいてくれたものだ。「メス、蜘蛛にたとえられるのは、おそ らく、クレオパトラだけではあるまい。逆に、メスに食われること、文字通りの「性の生贄。と なることに、無上の决楽を感ずる男たちもいるのだろう。スヴィドリガイロフとマルフアの七年 間は、クレオパトラとの一夜を七年間に薄めたような、そんな鈍い快楽の持続であったのかもし れない。偶然の卒中がオス蜘蛛を「永遠」から解放し、そこから歯車が狂いはじめたということ だったろう。 第二に、このほうがはるかに重要だが、紀元前五一ー三〇年のクレオパトラの治世を、プーシ キンの詩に触発されてにせよ、ドストエフスキーが紀元前の「終末」期と観じていたことである。 終末が現存していたからこそ、いっさいのモラルが頽廃し、肉の悦楽が繊細と洗練の極に達して いた時代があったからこそ、「贖罪者、たるイエス・キリストが三十年後に誕生し、六十三年後 に、人間のいっさいの罪を負って十字架にかけられなければならなかったのである。むろん、ド生 ストエフスキーは彼と同時代のロシアの現実にも、新たな終末を予感していた。神をも贖罪者を性 も信じようとしないスヴィドリガイロフは、この終末を感覚的に代表する人物であった。ラスコ
ストエフスキー自身になり変るしか手がないとさえ思われる。 この本での私の『罪と罰』謎ときの試みは、天才ドストエフスキーが仕掛けた「謎 . のごく一 部分にしか及んでいないだろう。見当はずれもだいぶあるにちがいない。故人ドストエフスキー は、アレクサンドル ・ネフスキー寺院の墓所の奥深くで、百二十年もかかってせいぜいその程 度かいと、ペろり赤い舌を出しているかもしれない。あるいは、ここで私が発見したと信じた 「謎ーの多くは、ドストエフスキーの意識的な創作行為ではなく、なかば無意識の創造的直観、 さらにはたんなる偶然でしかなくて、「謎とき . などとはおこがましい、おれにはもともとそん なつもりはなかったよと、不機嫌な渋面をつくられるかもしれない。しかし、いずれにせよ、こ の古今の名作の「謎ーに挑もうとした私の気持が真摯そのものであったこと、そしてこの「謎と きーがこのうえもなく愉しい作業であったことは確言できる。 あまり大きなことを言えた義理ではないが、もしこの『罪と罰』が近代小説のひとつの極限を きわめた傑作であるとするなら、私の「謎とき」の試みは、小説とは何か、それが現代において 果しうる機能は何か、そもそも小説の運命は ? といった問題を考えるうえにも、なんらかの手 がかりを提供できるはずである。それがただの高望みに終っていないことを期待したい。 この , 小 まえがきめいた文章の最後に、『罪と罰』の翻訳の問題について一言ふれておきたい。 説の第一編 ( 巻之こが、内田不知庵 ( 魯庵 ) によって、英語からの重訳ではじめて日本語に移 されたのは、明治二十五年 ( 一八九一 I) のことであった。発表と同時に驚くほど大きな反響を呼 め んだことは、翌年刊行された巻之二の巻末に、訳者自身が前巻についての批評を網羅的に収録しは ているので、容易に知ることができる ( 『内田魯庵全集』貶巻、ゆまに書房、一九八四年 ) 。坪内逍遙、
の状態をこの言葉で表現しようとするし、『悪霊』のキリーロフもほば同様の感想をもらす。ド ストエフスキー自身も、最初の妻の死去した翌日、一八六四年四月十六日の日記に次のように記 「地上にあるのは、発達しつつある生であるが、かの地にあるのはーーー綜合的に満たされ、永遠 の快楽にひたる、充実した存在であり、したがってこの存在にとっては、もはや『時』がない」 オアシスでのラスコーリニコフは、この「時 , のない、充実した存在にもっとも近いように思 われる。ところが、そのような「時」のない世界から、「時計の打っ音」で、ラスコーリニコフ はふいにまた「時」のある現実世界に引戻される。そこではもう「生命の水を「無償で」、つ まり、無為のままで飲むことはできない。地上においては、あくまでも自身の行動によって、 「生命の水」ないしは「生の水、死の水ーを獲得することが要請される。そのための第一歩とし て、「英雄ー君はまず魔女退治の使命を遂行しなければならないし、ラスコーリニコフとしては おみつ婆さんの殺害を実行しなければならない。 どこから聞えてきたともしれぬ「時計」の音は、 そのことをラスコ 1 リニコフに告げ知らせ、彼をせきたてるのである。 それにしても、おみつ婆さん一人ならともかく、リザヴェータをまで殺してしまうラスコーリ ニコフを、はたして魔女退治の「英雄」に擬することができるものだろうか。魔女や蛇ないし龍 を退治して、囚われの美しい姫を救い出す話はいくらもあるが、魔女といっしょに姫まで殺して しまうおとぎ話は、おそらくどこにもあるまい ドストエフスキーはこの矛盾をどう解いて見せ魔 の ア るのだろうか 手品や奇術で、たしかに殺されたはずの美女が、思いもかけぬところから元気に再登場する出口 しものがある。どうやらドストエフスキーは、このテクニックに学ぶところがあったらしい。っ
美の女神にいけにえを捧げたものだ。 これはドストエフスキーがあこがれていた「人類の黄金時代ーの絵図そのものだろう。『悪霊』 の「スタヴローギンの告白ーの章では、クロード・ロランの絵画『アキスとガラテャ』を例に引 いて、スタヴローギンのような人物のうちにも、「黄金時代ーへの憧憬のあったことが語られて ヘーロース いた。ラスコーリニコフを「英雄」に擬したときにも、ドストエフスキーは、人間が神とも対 等につき合うことのできた時代への憧憬を語りたかったのかもしれない。それはともかく、これ でラスコーリニコフも、晴れて「割崎英雄」を名乗れることになったわけである。 本章の初めに、この小説では、すでに命名の段階から、複数の神話の鬩ぎ合いが予定されてい たのではないか、という仮説を出しておいたが、ラスコーリニコフはたんにギリシャ・ローマ神 話とだけ関係づけられているのではない。なんといっても彼はロシア人であり、ロシアの神話と のかかわりを無視することは許されまい。直接に命名論とはつながらないが、キリスト教伝来以 前のスラヴ・ロシアの神話も、小説では重要なコンテキストを形成している。ここではひとつだ け、ラスコーリニコフがロシアの雷神とも対等につき合い、むしろ「雷さまを下に聞く」存在で あったことを見ておきたい。 いきなり口シア版「富士山の歌」では唐突に思えるかもしれないが、例によってドストエフス キーは、この突飛な発想が宙に浮かぬよう、テキストにあらゆる仕掛をほどこしている。まず小 説の冒頭、書きだしから六行目に、次のように書かれている。 「彼の小部屋は、高い五階建の建物のてつべん、屋根板のすぐ下にあって : : : 」 Ⅱ章でも引用したところだが、ここで問題にしたいのは、ラスコーリニコフの小部屋の「高 さ」がことさら強調されていることである。当時のペテルプルグの建物は四階建がふつうで、 1 12
ウロード = 一口。ネカかりの狂信者、いわゆ 独白に「片輪」という言葉があるのも注目される。このロシア語よ、申ゞ る「瘋癲行者」や「聖痴愚」 holy fool を意味する「ユロード」、「ユロージヴィ」という一一 = ロ葉と同 語源の関係に立っている。ドストエフスキ 1 はしばしばこの二語をダブル・イメージで使ってお ウロード り、現にこの『罪と罰』でも、おみつ婆さんの妹、白痴女のリザヴェータが、「片輪、であると ュロージヴァャ 同時に、神がかり的な「聖痴愚」だとされている。ロシアにはまた、弊衣をまとって奇矯のふる まいに及び、人を笑わせる破戒僧、瘋癲行者が、一種の予言者として、古くから民衆の尊敬と人 気を集めてきた歴史がある。その一部はなかば職業化して、広場の大道芸人のはしりになったと も言われる。ドストエフスキーはどうやら「片輪ーという一一一一口葉に、ここでもそれだけの連想をひ そめ、主人公の道化性、と同時にある種の神秘めいた狂信性を暗示しようとしたらしい こういう目で見ていくと、主人公の帽子の細密描写も、俄然、異なった意味合いを帯びて見え てくる。実際問題として、あれほどのひしやげ帽子は、ふつうの人間の頭にはめったに見出せま 。それを身近に見かけるのは、日本でもロシアでも、田園風景の中でだろう。日本でなら、歌 ゴロホヴォイ・シュート の文句で「山田の中の一本足のかかし , というところを、ロシアでは「豌豆畑の道化。という。 ばろ服にひしやげ帽子のおどけた案山子を豌豆畑に立てて、鳥を追わせるわけだ。ドストエフス、一 キーがこの慣用表現に愛着を持っていたことは、次作『白痴』の冒頭の章で、道化役を地で行く レベジェフに対して、ロゴージンが「豌豆畑のかかし野郎」の悪罵を浴びせることからも知られ ゴロホワャ る。そう言えば、『狂人日記』の一節で見たように、ペテルプルグにも「豌豆通り」というのが あった。ドストエフスキーは、この地名からも「道化」を連想したらしく、処女作『貧しき人び と』では、牛田さんのところへお嫁に行くと決った「薄倖の、ワルワーラの嫁入仕度のために、 哀れな早乙女幸作氏を「豌豆通り」の洋品店めぐりに駆けずりまわらせている。これは、道化と ウロード