恐れているじゃないかー ( 傍点引用者 ) これこそ、人間 「新しい一歩」に傍点を付した意味は、くだくだしく説明するまでもあるまい の定めたおきてを「踰える , ための一歩、つまり、題名を具体化する行為そのものであった。ラ スコーリニコフはふつうの人間、彼自身の分類法を借用すれば、「非凡人、ならぬ「凡人。たち が恐れてやまない「プレストウピーチ」という新しい一歩を、あえて踏み出すことを決意するの プレストウブレーニエ 行」は、たんなる金貸しの老婆殺人事件ではなく、より広い社 である。こうして彼の「犯 会的、哲学的な意味を担った行為でもあることが暗示される。それは、作中に登場する酔いどれ の小官吏マルメラードフがいみじくも言ったような、「どこへも行き場のない」当時のロシアの 状況のなかで、その状況に逆らって踏み出される反逆の一歩をも意味していた。 このように考えると、ラスコーリニコフの下宿から老婆の家までの距離が、五、六百メートル というふうにではなく、「きっかり七百三十歩」と歩数で表現されていることの象徴的な含意も 理解されるだろう。ラスコーリニコフにとってこの七百三十歩は、人間のおきてを踰える「新し い一歩」の長く苦しい連鎖にほかならなかった。老婆の家に近づくにつれて、彼の心の波立ちが 「一歩ごとに高まっていった」 ( 傍点引用者 ) と書かれているのも偶然ではない。 このように周到にコンテキストが準備されたところで、いよいよ主人公が老婆の部屋に入る瞬 間に、「ペレストウピーチ」という動詞が登場してくる。「青年は敷居を踰えたーとまでは書かれ装 ていない きわめて日常的に「敷居をまたぐ , だけである。しかしここには、題名にはじまるそ れまでのコンテキストの全重量がかけられている。その意味で、とくに注目に値するのが、「敷 居ーという一語である。ドストエフスキーの作品における「敷居、、「階段」、「踊場」などの重要精 性に着目して、これらを「カーニバル的空間」と名づけたのは、パフチンであった。たしかにこ
ずはないが ? 思い悩んだあげく、彼ははっと思いあたる。 「蠅が一匹飛んでいたつけ、あいつが見たんだ ! でも、まさかそんなことが ? 主人公の無意識の記憶の底から、五日ぶりでよみがえったこの蠅は、よみがえるとほとんど同 時に、記意から夢、夢から現実へと、いわば四次元的な移動、変身をなしとげる。そして、つい には主人公その人の状況を真似た存在にまで成長する。一方、この変身譚を語る立場にある作者 ドストエフスキーは、蠅にまつわるロシアのフォ 1 クロア、慣用句をほとんど全動員して、やが てはそれを、対立物としての「蜘蛛」のイメージと結びつけようとする。具体的に見ていこう。 蠅がよみがえってからわずか二ページほど先で、夢の中でのラスコーリニコフの二度目の老婆 殺しが語られる。見おばえのある老婆の部屋。窓からは巨大な赤銅色の月がのぞいていて、あた りは奇妙に静かである。「あの月のせいだ、こんなに静かなのは」と、ラスコーリニコフは謎め いたつぶやきをもらす。と、そのつぶやきに誘い出されるように、目をさました蠅がふいに飛び 立って、窓のガラスにぶつかり、哀れつほい羽音を立てはじめる。それと「まったく同時」に、 ラスコーリニコフは、戸棚と窓の間にぶらさがった女ものの外套を目にとめる。そして、そのか げに隠れていた老婆に、ふたたび斧をふるいはじめる。 「つぶやきに誘い出され、などと書いたのは、この部分のイメージの移行が、きわめてポピュラ ーなロシアの慣用表現ー・ー「静けさは、蠅の羽音も聞えるほど」を、そのままなぞっているよう に見えるからである。いや、そればかりではない。蠅から斧への連想のスライドも、「斧の峰で 贄 蠅を追えば、へとへとになるばかり」という俚諺を明らかに踏まえている。「斧の峰」とはよく生 も言ったもので、ラスコーリニコフの老婆殺しも、すでに何度か強調したように、やはり脳天の性 「峰打ち」であった。どうやらフォークロアのほうが、ラスコ 1 リニコフの行動を予見していた
ても、日数をかぞえながら小説を読む人もあるまいから、この機会に、小説の主要なエピソード をあらためて日録ふうに整理して、その点を実証しておこう。 1 日目ーー老婆のもとへの瀬踏み、酒場でのマルメラードフとの出会い、家まで送る。 2 日目ーーー母の手紙。並木道の少女。馬殺しの夢。リザヴェ 1 タと商人の会話を聞く。 3 日目ーーーオアシスの夢。犯行準備。午後七時過ぎ、老婆とリザヴェータを殺害。下宿へ逃げ 帰る。 ( 以上、第一編 ) 。午後八時、ミコールカが盜品を持って酒場へ。 4 日目ーーー午前十一時、警察署へ出頭し、そこで失神。盗品を石の下に隠す。ラズミーヒンを 訪れる。ネヴァ河のパノラマ。この夜から意識不明。 5 日目ーー・意識不明。ラズミーヒン駆けつける。伝書人、母からの送金を届けにくる。酒場の 亭主、ミコールカのことを警察に通報。同夕、ミコールカ連行さる。 6 日目ーーー意識不明。スヴィドリガイロフ上京。 7 日目ーーー・・午前十時、意識を回復。第二の伝書人から金を受領。着替え。枕もとで犯行の話。 ルージン来訪。午後八時、夜の散歩へ、水晶宮でザメートフと対話。身投げ女を目撃。老婆の家 を再訪。マルメラードフの死。ラズミーヒンと下宿へ。母、妹の上京。 ( 以上、第二編 ) 8 日目 , ーー母、妹、ラズミーヒンと話し合う。ソーニヤの来訪。ポルフィーリイ宅訪問、凡襭 人・非凡人論。「地から湧いたような男」と遭遇。老婆殺しの夢。スヴィドリガイロフ来訪。 ( 以 上、第三編 ) 。スヴィドリガイロフとの対話。午後八時、家族とともにルージンと会う。午後十一 数 時、ソーニヤを訪れ、福音書朗読。 の 9 日目ーーー午前十一時、警察署でポルフィーリイと対決。ミコ 1 ルカの自首。 ( 以上、第四編 ) 。 マルメラードフ家の法事、ソーニヤに冤罪。二度目のソーニヤ訪問、犯行を告白。カチェリーナ
がひびきはじめるのである。「ワリサキ , は「割裂き」に通じ、ラスコーリニコフという姓が、 ラスコーリニキ 分離派も同様だが、ロシア語の動詞「ラスコローチ」 ( 割裂く ) から派生したことを示している。 その名のとおり割崎青年は、金貸しの老婆アリヨーナ・イワーノヴナの脳天を斧で割裂く運命に ある。その現場を、テキストで確かめておこう。 彼よ斧をすっかり取り出し、なかば無意識のうちに両手でそ 「もう一刻の猶予もならなかった。 , 冫 れを振りかぶると、ほとんど力をこめず、機械的に、老婆の頭をめがけて斧の峰を打ちおろし た」 ( 傍点引用者 ) 原文ではここは傍点ないしイタリック体で強調されているわけではない。そこでドストエフス キーは、これだけでは読みすごされてしまうことを恐れたのだろう。ほんの数行おいて、ふたた び次のように書く。 「彼はもう一度、さらに一度、もつばら峰打ちで、脳天だけを狙って、カまかせに斧を振りおろ した」 ( 傍点引用者 ) ゝ。ドストエフスキーは斧が「峰打ち」であることを、あくまでも強 もう疑問の余地はあるまし 調したかったのである。なぜか。この点については、ユニークな『罪と罰』論『夜の光』の著者 である、亡命ロシア人学者ゲォルギー・メイエルの考察がある。つまり、「峰打ち」であれば、 斧を振りおろした瞬間、砥ぎすまされた斧の刃は、当然、まっすぐに割崎青年の面をにらんでい たことになる。だとすると、この瞬間に割裂かれたのは、老婆の頭ではなく、むしろラスコーリ ニコフ自身の顔、精神ではなかったか、というのである。 念のため、メイエル説を実証面から補足しておこう。精神がどの程度の硬さのものか知らない が、たしかにこの斧が、精神をさえ割裂けるほどに砥ぎすまされていたことは、作者ドストエフ
たのではないだろうか。 そのことを裏づけるように、おみつ婆さんは文字どおりの「人食いーの本性をさえ垣間見せる。 事件の一カ月半ほど前、ラスコーリニコフは指環を質入れした帰途、ふらり安料理屋に立寄った。 たまたま隣のテープルで、一人の学生が熱つほく論じていた。 「一つの死で百の生命があがなわれる これはもう算術もいいところじゃないか。だいたいあ の婆アの生命がどれだけにつくだろう。せいぜい虱かごきぶりの生命、いや、それにさえ値しな いさ。なぜってあの婆アは有害だからだ。あれは他人の生命を吸いとる女さーーーっいこの間も、 かっとなってリザヴェータの指に噛みついたんだぜ。すんでのことに噛み切るところだった ! 」 ( 傍点引用者 ) 傍点を付した「吸いとるーの原語は「ザ工ダーチ , で、その語根「エダーチ」は「食べる」の 意味である。しかし、それよりもさらに興味深いのは、この単語を用いたロ語的な慣用句に、 「他人の金を吸いとる」という表現があることだ。高利貸の老婆にあまりにも打ってつけのこの 表現を、ドストエフスキーはいくぶん修正して、人食いの魔女にも通用するものとした。そして、 それだけではまだびんとこない読者のために、その直接の具体例として、リザヴェータの指に噛 カンニバリズム みつく話を引いてくる。後にエピローグの有名な「旋毛虫 , 夢で語られる「人肉嗜食」は、ま ずリザヴェータの指からはじまるというわけだ。これはもうイ者の側からのプラック・ユーモア まさし / 、ヾ 的なサービスと考えなければなるまい ・ヤガーの本性見えたりである。 ラスコ 1 リニコフが、老婆の寝台の下の「木櫃」に狙いをつ一ける設定も、おとぎ話と無関係で 十 6 よゝ 0 ヾヾ ・ヤガーも金銀の宝物を「木櫃ーに蔵って、それを土中に埋めておくのがふつうだ からだ。すでに瀬踏みの訪問のとき、ラスコーリニコフは老婆の鍵束に、ほかのとはちがって、 172
イロフは、この五旬祭の日の夢の翌朝、つまり、ルサールカの週の第一日目の夜明け方にピスト ル自殺をとげる。これは明らかに、自分が自殺に追いやった少女の化身、魔生のルサールカに導 かれての自殺であった。 しかし、小説に登場する「魔性の女ーのきわめつきは、やはりラスコーリニコフに殺される金 貸しのおみつ婆さんだろう。「瀬踏み」のための一回目の訪問のとき、彼女の髪はまず次のよう に描写される。 「それは痩せこけたちんちくりんな老婆で、意地の悪そうな鋭い目と、鋭くとがった小さな鼻を して、髪はむきだしだった」 ( 傍点引用者 ) 重複を恐れぬ例の手法で、犯行のための二回目の訪問のときにも、同じ描写がくり返される。 「老婆は、いつもと同じように、むきだしの髪をしていた」 ( 傍点引用者 ) おみつ婆さんの場合、在宅の折だから、むきだし髪がそのままはしたない振舞とまではならな しかし、この年輩の女性であれば、やはり人前に出るときは、「チェペーツ」と呼ばれる布 製のキャップぐらいはつけているのがふつうである。プーシキンの「スペイドの女王』の伯爵夫 人も、ゴーゴリの『死せる魂』のコローポチカ夫人も、みな「チェペ 1 ツ」をかぶっている。お みつ婆さんだけが、「チェペーツ」をかぶるどころか、「むきだし髪ーでいることを、ことさら二 度までも強調される。やはりこれは、おみつ婆さんの「魔性」を暗示する一種の記号として受け とめねばなるまい いくつものディテ 1 ルで補強される。 おみつ婆さんの「魔性ーは、「むきだし髪」以外にも、 まず、Ⅵ章でも触れたが、老婆の髪が「鼠編み」であったことがある。二本に細く編み分けた髪 をぐるぐると頭に巻きつける髪型で、さすがにそれを肩に垂らすことまではしていないが、名称 フ 0
ないがしろにする挙動に出ていたら、小説はまったく異なった展開を見せていただろうに : しかし、ニコライ聖者よりもさらに大きな仕掛は、もう一章遡ったところに、ひそめるどころ か、だれの目にもっくように、 ことさらアフォリズムめいた粧いまでこらして、公然とさらされ ていた。ラスコーリニコフの警察署出頭の場面である。やっとのことで書類のサインをすませ、 家路につこうとしたラスコーリニコフの耳に、例の老婆殺しについての取沙汰が聞えてくる。ニ コジム署長の説明に、石上雷太副署長が食いさがっている。 「それにしても、犯人を見かけた者はだれもおらんかったのですか ? 自席にいた書記のザメートフ、目付護夫君がすかさず口を入れる。 「見かけるも何もないですよ。アパートはノアの方舟だもの」 ( 傍点引用者 ) ひとっ断わっておくと、これまでの邦訳では、私自身の訳も含めて、ここは「あの家はノアの ド 1 ム 方舟だから」と、「あの」を補って訳すのが通例になっていた ( 「家」を「アパート」と訳し変え 。ー一。たのは、そのほうが実態に近い と考えたまでである ) 。もとも とロシア語には定冠詞も不定冠 詞もないので、「あの」を補っ方 ゞゝこり一との て訳すことをいち力し。 = = はいえない。現にマガーシャク舟 堵の英訳も《 the house 》と定冠詞 一をつけて訳している。しかし、 ( ニもしザメートフが老婆のアパ 。 .3 、ラ今 ドーム
センナヤ広場付近 E 通り 0 通り 1 ラスコーリニコフの下宿 6 料亭 2 金貸しの老婆の家 7 バカレーエフ旅館 5 ソーニヤの住居 8 ヴャーゼムスキイ館 ( 木賃宿 ) 4 警察署 9 盗品の隠し場所 5 水晶宮 61 パロディとダブル・イメージ
る。ところが彼は、ふいにこみあげてきた限りもない憎悪の発作にかられて、考える。 「えい、そんなことは何もかも糞くらえだ ! 始まってしまったものは、始まってしまったのさ、 ・ : 」 ( 傍点引用者 ) 彼女も新しい人生も、糞くらえだ ! ああ、神さま、なんて馬鹿らしい 小泉氏は、私をも含めて、これまでの翻訳者、論者のだれもが、ラスコーリニコフにとっての 「まぎれもなく重大な一点」とは何かを突きつめて考察していないことを慨嘆し、さらに傍点を 付した「彼女」を「老婆」と解してきた従来の訳を全面否定して、この「彼女、はソーニヤであ ると主張する。つまり、ソーニヤへの愛こそ「まぎれもなく重大な一点」というわけだ。これは 一卓見であり、私自身も「老婆」説は誤訳であることを自認せざるをえない。しかし、そのうえ でなお、氏の指摘にはいくぶんの飛躍を感ずる。虚心に考えれば、ここの「彼女、にいちばんふ さわしいのは、その直前に話題にのばった「並木道の少女、のはずだからである。そのことと 関連して、「新しい人生、を「ソーニヤとの新生活、と理解することにも疑問がある。というの ジ 1 ズニ ジーズニュ も、ここの「人生」もやはり造格形で、《る》と古めかしく表記されているからである。 ジーズニ ドストエフスキーはこの「人生」に何かのアクセントを置こうとしていた。そして、おそらくそ れは、すでにカトコフへの手紙にもあったような、「人類に対するヒューマンな負債、をひたむ きに「帳消し、にして行く「新しい人生ーではないかと思われる。いや、それは「人生」と呼ば れるにもふさわしくないもの、創作ノートに何度か書きこまれている「ポードヴィク」ではない かとさえ想像される。「ポードヴィク」とは、自己を万人のために捧げるいさおし、そのための地 苦行の生を指すロシア語である。おそらく、「並木道の少女ーを救ったラスコーリニコフの行 為は、そのような「いさおし」、「人類のための苦行の生 , の最初のひな型として考えられていた のだろう。
ひとっ例を引こう。 小説がはじまって間もなく、主人公ラスコーリニコフが、犯行計画の瀬踏みのために、金貸し の老婆の家を訪れる。警戒心旺盛な老婆は、すぐにはラスコーリニコフを中へ通そうとしない。 まずドアを細目にあけて、その隙間から、 いかにもうさんくさそうに来客を眺めまわす。 「しかし、踊場に人が大勢いるのを見て安心したらしく、彼女はドアをすっかりあけた。青年は 敷居をまたいで、衝立で仕切られた暗い玄関に入った」 テキストにはこう書かれている。たしかに心理的緊張のよく伝えられている文章にはちがいな しかし、引用したこの短い一節に、小説のもっとも根源的なテーマのひとつがこっそりと忍 ばせてあると言ったら、おそらくけげんに思われるだろう。ところが事実はまさにその通りで、 ここはドストエフスキーがもっとも趣向をこらして、テキストの多層構造を地で行って見せたと ころなのである。小説のテーマの展開から言えば、ここには最初のクライマックスが設定されて いると考えてもよい その秘密は、「敷居をまたいで」という一句、とりわけ「またぐーという動詞にある。この動 詞のロシア語の原語は「ペレストウピーチ」で、辞書を引けば、「またぐ、 踏み越える」という 語義がたしかめられる。なんのけれんもない、ふつうの日常語であり、テキストの中でも、そう いう日常語としての機能をまず充分に果している。ところが、このなんでもない言葉が、小説の装 からくり構造の中ではひとつの重要な仕掛になっていて、小説の中心テーマであり、題名の一部 でさえある「罪」という言葉と、微妙に呼応し合っているのである。 この「ペレストウピーチ」という動詞のいくぶん古い語形に「プレストウピーチ」というのが精 ある。まったくの同義語で、この二つの一一 = ロ葉の相違を日本語で表わすとしたら、せいぜい「越え