の後、徒刑二年、シベリア流刑五年に減刑された経歴の持主であった。百科辞典への彼の関心は、 かってベトラシェフスキー自身が『外来語辞典』の形で、西欧革命思想のロシアへの紹介をめざ した故知に啓発されたものらしい。トーリとドストエフスキーは、その後とくに交友はなかった ようだが、新しい言葉、新しい知への共通の関心が、同じ時代の二人の知識人を、たんなる因縁 以上のもので結びつけていたと考えるのは楽しい しかしドストエフスキーは、何もただ新しがり趣味だけから、「旋毛虫」という言葉に注目し たのではない。彼にはもともと、同時代の先端科学の動向にたえず目をくばって、大げさに言え ば、自身の世界観、自然観、さらには人間観をさえ、そのレベルで検証していこうとする強い志 向があった。イワン・カラマーゾフと「悪魔」との対話に、非ュークリッド空間の話や、人工衛 星さながら、一定周期で地球を回転する斧の話などが取りあげられるのは、そのことの手近な例 証だろう。 しかし、「旋毛虫、の場合は、たんに最新科学への一般的な関心とだけでは片づけられぬ問題 が、裏にひそんでいたようである。自身が癲癇病者であったせいもあって、ドストエフスキーは 身体と精神との不可分な関係について、つねづね人並以上に鋭敏な感受性をもち、その点につい て、ほとんど感覚的ともいえる思索をつづけてきた。そのことは、次作『白痴』でのムイシュキ 夢 ン公爵やイツポリート少年の描き方を見れば、だれにも納得の行くことだろう。『悪霊』の最後 去 が、「町の医師たちは、遺体を解剖したうえで、精神錯乱説を完全に、また強く否定した . といび う謎めいた言葉で結ばれていることの意味も、案外、同じ問題意識の延長線上に求められるのかが もしれない。 この『罪と罰』でも、身体と精神との相関、そこにおける病理の問題への関心は、万 けっして旋毛虫の扱い方だけに現われているのではない。
て、実はこの「柱ーは二本だけなのである。ギリシャ神話が伝えるヘラクレスの十二功業による と、「ゲ 1 リュオンの牛」を退治に出かけたとき、ヘラクレスはいまのジプラルタルに到り、ヨ ーロッパ・アフリカ両大陸の岸辺に二本の柱を建てたことになっている。そのなごりがジプラル タル海峡の断崖で、神話時代にはここが「世界の涯」と考えられていた。そこから「ことの極限 まで行ってしまう」という意味で、「最後の柱まで」という慣用句が生まれたのである。 この慣用句を用いたとき、ドストエフスキ 1 がヘラクレス神話を念頭に置いていたことは、傍 点を付した「岸辺に運んでくれて」という表現で確かめられる。文脈の判然としないこの一言葉は、 やはり神話起源である。二本の柱を立てたヘラクレスは、陸路の炎熱に倦み、海を渡りたいと、 太陽神ヘリオスに向って弓を引きしばる。するとヘリオスはその剛胆さに感嘆して、自分が毎タ 西へ沈んでから、大洋を渡って東へ帰るのに用いる黄金の盃をへラクレスに貸し与えた。ところ が大洋神オケアノスが、彼を試そうと荒波を立てて盃を揺さぶったので、ヘラクレスはオケアノ スにも弓を引きしばり、大洋神は恐れて「嵐」を静めた。こうしてヘラクレスは無事に怪物の棲崎 むエリュティア ( 落日の国 ) に着くことができたという。神話を論理的に説明するのは困難だが、 前述したように、この直後ポルフィーリイがラスコーリニコフを「太陽」にたとえることもあり、コ この一節にヘラクレス神話を読みとれることは、ほとんど疑問の余地がないと思われる。なお、 「嵐」、「岸辺という言葉は、ラスコーリニコフが二度目にソーニヤを訪ねて、老婆殺しを告白 したあとの描写にも現われる。 「二人は、あたかも嵐のあと、無人の岸辺に二人だけ打ちあげられでもしたように、悲しげにうオ ちしおれて、並んで坐っていた」 すべてを神話で割りきるのは邪道だが、「ソーニヤⅡオケアノスの娘 , も連想され、ここでも
ゝ 0 ソーニヤが外套ふうのものを着ようとする描写は、小説の 9 日目、つまり、ラスコーリニコ フの二度目のソーニヤ訪問の場面に二度出てくるが、このとき使われる一言葉は「プルヌス、では なくて「マンチールカ」である。あの貧しいソーニヤが、「プルヌス」のほかに「マンチールカ」 まで揃えた衣裳持ちであったとは到底考えられない。しかも絵で見ると、この両者はどちらもマ ントふうで、素人目にはほとんど見分けがっかない。だとするとドストエフスキーは、ソーニヤ の一帳羅のマントふう外套を、時に応じて呼びわけているのではないか、という疑問が生じる。 米他には一度だけ、ラスコーリニコフが初めてマルメラードフの家を訪ねる場面で、ソーニヤの妹のポーレ チカが、カチェリーナお手製の「ドラデダム織のプルヌス」をむきだしの肩に羽織っている場面がある。 とすれば、ポーレチカは、すでにこの時点で、シベリアへ行って「復活」するソーニヤを先取りしていた ことになる。ラスコーリニコフの予言に反して、彼女は姉と「同じことになる」運命を免れられるわけだ。 なぜそんな必要があったのか。 このことを考えるうえで、私に 衝撃的なヒントを与えてくれた のは、パステルナークの『ドク ストル・ジパゴ』の巻末に置かれ襯 。ルた「マグダラのマリヤ—・ 復 の詩編であった。小説における 数 ジパゴとラーラの関係を、イエ の スとマグダラのマリヤの関係に 普遍化したと読めるこの詩編で
なると、この一節は、ラスコーリニコフの愛青告白にあこがれるソーニヤの熱い願望が、早くも 彼女の夢の中では肉体的に実現した、と読めることになる。 とはいっても、あまりにポルノふうな想像だけをめぐらすのは、考えものである。ソーニヤは もうずっと以前冫 こ、この夢の中でと同じ、複数形の「足」への接吻を体験しているからである。 それはソーニヤがはじめて自身の肉体を売りに行って、九時前に戻ってきたときのことであった。 そのままべッドに突伏してしまった彼女の足もとにひざまずいて、ふだんは義娘につらく当って いたカチェリーナが、いつまでもいつまでもソーニヤの「足」 ( 複数形 ) に接吻していた。この情 景は、その話をマルメラードフから聞かされたラスコーリニコフの記憶にも、もちろん、ソーニ ヤの記憶にも、はっきりと焼きつけられていたはずである。ことによるとドストエフスキーは、 「両足 . への接吻をソーニヤに夢見させることで、義母カチェリーナにも、ラスコーリニコフに もおそらくは共通する、卑しめられ、虐げられた者たちへのヒューマンな愛情で、やさしく彼女 を包んでやりたかったのかもしれない。 もっとも、検閲のきびしかったロシアでは、プーシキン以来、女性の身体部分としての「足、 は、詩人たちによって、「女体。のいわば代名詞として使われてきた歴史がある。マルメラード フでさえ、ソーニヤの商売用の服装について、「靴も恰好のいいので、水たまりを越えるときな んか、あんよがちらっとのぞくようなやつじゃなくちゃいけません、 ( 傍点引用者 ) と、したり顔 に解説を加えている。そういった背景で考えると、ソーニヤが「肉体の感じられぬ影のような女 性」であるなどとはとんでもない話で、ドストエフスキーは彼女に、愛する者にのみ感応する繊 細でゆたかな肉体感覚をこそ与えてやったのだ、と思えてくる。彼女が愛しているわけもない 「商売」相手の男性に対しては、ソーニヤはまったく感応しない。 ラスコーリニコフが考えるよ
現われる場は「都市ーである、と考えていたらしい。黙示録章には「多くの水の上に坐る大淫 婦」が登場し、「地の王たちはこの女と姦淫を行ない、地に住む人々はこの女の姦淫の酒に酔い しれた」と言われている。「大淫婦。とは、地上の都ローマないしバビロンのことであり、それ は神の裁きによって滅亡する運命にある。もしこの神話をロシアに当てはめるなら、まず第一候 補になるのは当然、「水の都」ペテルプルグだろう。だからこそ、ザライスクから上京してきた ミコールカは「酒と女」によって堕落し、土着共同体連合が彼を救わなければならないのである。 リアリズムが一転、神秘論。 こすりかわったが、このようなコンテキストに置いて考えると、た とえば、小説構造におけるポルフィーリイ予審判事の役割などもかなりはっきりと目に見えてく る。この予審判事は、、 父称からしてベトローヴィチ、前にも述べたように、ピヨートルの都ベテ ルプルグの「息子、であることが歴然としている。洗礼名の「ポルフィーリイ」には、裁判官が つかさ 着用する「緋袍」の意味があるから、名前を翻訳すれば、実際の職業そのまま「都司」、つまり 「都市の司直」ということになるだろう。彼は、「終末、に瀕した都市の秩序の護持者として、 説に導入されているわけである。少くとも、自宅と警察署でのラスコーリニコフとの再度の面談 に関するかぎり、彼はその職務に忠実であり、それどころか、すばらしい敏腕ぶりを発揮する。 ミコールカの自首というハプニングがなければ、ラスコーリニコフはすでに警察署で彼の軍門に 降っていただろう。 ところが、最後にラスコーリニコフの下宿を訪れたときのポルフィーリイは、まったく人が変 ってしまったような印象を与える。相手の有罪を固く信じているのに、彼は「司直」として当然 取るべき犯人逮捕の挙に出ようとさえしない。逆に、減刑の可能性をほのめかして、ラスコーリ ニコフに自首をすすめる。、こゝ ) オししち、このときのポルフィーリイは、顔つきからして、がらり変
「あれはどこで読んだんだっけ ? ーラズミーヒンの目を盗んで、夜の街へ散歩に出たラスコーリ ニコフは考える。「なんでも死刑を宣告された男が、死の一時間前に言ったとか、考えたとかい うんだった。もしどこか高い断崖の上で、それも、やっと二本の足で立てるくらいの狭い場所で、 絶壁と、大洋と、永遠の闇と、永遠の孤独と、永遠の嵐に囲まれて生きなければならないとして も、そして、その一アルシン ( 約七十センチ ) 四方の場所に一生涯、千年も万年も、永久に立ちっ づけなければならないとしても、それでも、 いま死んでしまうよりは、そうやって生きるほうが というんだった。なんとか生きていたい、生きて、生きていたいー どんな生き方でもい いから、生きていたいー : なんという真理だろう ! ああ、なんという真実だろう ! 」 引用を長くしたのは、悪魔Ⅱラスコーリニコフの人間的弱さをきわだたせようためだけではな むしろ、彼のうちにある雄々しいばかりの人間性への暗示をここに読みとりたいからであり、 またこの一節に、ラスコーリニコフの洗礼名の謎を解く鍵の一つがひそめられているからである。 ふつうこの一節は、ユゴ 1 の『ノートル・ダム・ド・ パリ』のクライマックス、大伽藍上の傴 僂男カジモドの場面に触発された文章だとされている。ドストエフスキーがこの長編を高く評価 していたことは事実で、いちがいにそのことは否定できない。しかし、それにしては、道具立て があまりに違いすぎるのが目につく。大伽藍が岩山の頂にすり代えられただけでなく、唐突に 「大洋」、「嵐」などという一言葉まで出てくるからだ。そこで、これらのイメージをたよりに想像 をめぐらせると、カフカースの岩山、海に近いところに縛られ、永遠の孤独と苦痛の生を運命づ けられた人物が浮んでくる。言うまでもなくプロメテウスである。ギリシャ・ローマ神話に通じ ている読者なら、この神話では、「オケアノス」 ( 大洋 ) とその娘たちがプロメテウスの慰め手と されていたことを想起するだろう。ソーニヤが「オケアノスの娘」だとまでは言わないが、ここ 104
ないがしろにする挙動に出ていたら、小説はまったく異なった展開を見せていただろうに : しかし、ニコライ聖者よりもさらに大きな仕掛は、もう一章遡ったところに、ひそめるどころ か、だれの目にもっくように、 ことさらアフォリズムめいた粧いまでこらして、公然とさらされ ていた。ラスコーリニコフの警察署出頭の場面である。やっとのことで書類のサインをすませ、 家路につこうとしたラスコーリニコフの耳に、例の老婆殺しについての取沙汰が聞えてくる。ニ コジム署長の説明に、石上雷太副署長が食いさがっている。 「それにしても、犯人を見かけた者はだれもおらんかったのですか ? 自席にいた書記のザメートフ、目付護夫君がすかさず口を入れる。 「見かけるも何もないですよ。アパートはノアの方舟だもの」 ( 傍点引用者 ) ひとっ断わっておくと、これまでの邦訳では、私自身の訳も含めて、ここは「あの家はノアの ド 1 ム 方舟だから」と、「あの」を補って訳すのが通例になっていた ( 「家」を「アパート」と訳し変え 。ー一。たのは、そのほうが実態に近い と考えたまでである ) 。もとも とロシア語には定冠詞も不定冠 詞もないので、「あの」を補っ方 ゞゝこり一との て訳すことをいち力し。 = = はいえない。現にマガーシャク舟 堵の英訳も《 the house 》と定冠詞 一をつけて訳している。しかし、 ( ニもしザメートフが老婆のアパ 。 .3 、ラ今 ドーム
自身告白するように、ポルフィーリイはミコールカが「好きになって , しまった。そして、「苦 しみを受ける」ということの独特な意味合いをも理解しはじめたらしい。ついにはラスコーリニ コフに向って、ミコールカのロうっしに、「苦しみを受ける」ことをすすめるまでになる。分離 派教徒の独特の「終末」観が彼に衝撃を与え、同時にラスコーリニコフの「理論」のうちに、た ラスコーリニキ またまその姓が「分離派」君であるという暗合も手伝って、同じく「終末、に通ずる哲学を読 みとったのだろう。そのことは、彼を不安に陥れないではいなかった。「できあがってしまった 人間 . などと、あきらめの自己満足にもう安住することはできない。別の言い方をすれば、ラス コーリニコフのシベリアでの病夢を、ポルフィーリイはすでにこの段階で予感したのだとも言え る。 まさら彼には、逃亡 しかしポルフィーリイは、あまりにも生粋な「都市の人間」であった。い コロムナ・ザライスク共同体の一員になる 派をまねて、荒野や森林をさまようことはできない。 ナロード こともできない。彼は「何やかや知識のある人間」、つまり、知識人であって、民衆とは隔絶し た存在である。そのような人間は、結局は「都市」に踏みとどまって、体制の中での自身の職務 を果していかねばならない宿命を負っている。しかし、考えてみれば、この事情は、ラスコ 1 リ ニコフにとってもまったく同じであった。彼もまた、ドストエフスキー流の言い方をすれば、自 身の「土壌」から切りはなされた人間である。そこでポルフィーリイは、ラスコーリニコフを口 説きにかかる。 「いや、あなたは逃げたりしませんよ。百姓なら逃げるでしようし、いま流行の狂信的信徒なら : 〉しかしあなたはもう自分の理論を信じ 逃げるでしよう。他人の思想の下僕ですからね。〈 : ておられないでしよう、だったら何を持って逃げるんです。それに、逃亡で何が得られます ? 240
っている。前回までの妙に取ってつけたような無邪気さ、狡猾らしい目くばせなどは影をひそめ て、一瞬「悲しみのかげ」が顔をよぎりさえする。それに気づいて、ラスコーリニコフは驚きを 禁じえない。例の「にわとりの鳴くような」話しぶりも、落ちついた調子に変る。何より、人を 小馬鹿にしたような「へ、へ、 へ」という独特の笑い方が、極端に少くなっている。そしてつい には、自分からこんな告白をはじめる。 「私はね、おしまいになってしまった人間なんです、それだけです。なるほど、ものを感じたり、 共感したりはするかもしれないし、何やかや知識はあるかもしれない、しかしもうすっかりおし まいになってしまった人間なんです。ところが、あなたはちがう。あなたには、神さまが現に人 生を用意してくださっている」 「おしまいになってしまった」と訳した「ボコンチェンヌイ」というロシア語は、より直截に訳 せば、「息の根をとめられた」ということにもなりかねない。ポルフィーリイは、警察署での面 談のときにも、「私はもうできあがってしまった人間です」と、似たような表現を使うが、ここ のロシア語は「ザコンチェンヌイ」で、微妙にニュアンスが異なる。少くとも最後の告白の場面 では、前途になお「人生」があるラスコーリニコフと対比させて、自分が生きながら「息の根を とめられた」死人も同然であることを訴えようとしていると読める。「都市の司直」の口から出 夢 たこの一一一一口葉は、ポルフィーリイの心中に、自分は「大淫婦」に仕えるたんなる体制護持者に過ぎ 去 び という自覚が芽生えたことを示しているのだろう。 それにしても、ポルフィーリイのこの急変ぶりは何によって説明されるのだろうか。そこに媒 人 介項としてペンキ屋のミコールカを考えようとするのは、ソ連のユニークなドストエフスキー研万 究家カリャーキンである。ミコールカを、また彼の仲間の「ザライスクの連中」を訊問するうち、
Ⅱ章でラスコーリニコフに「割崎英雄ーという日本名を与えたとき、洗礼名の「ロジオン」を ひでお 「英雄、とした根拠については、ことさらふれなかった。それが「ラスコローチⅡ割裂くⅡ分離 派」、「日 666 」とは異なるコンテキストに属し、キリスト教神話の枠内にはおさまりき らぬ新たな地平を予想させたからである。ことによるとそれは、キリスト教とは敵対する異教的 雄 となれば、小説の中で、あるいは主人公の内部で、複数の神英 な神話の地平であるかもしれない。 せめ 割 話の鬩ぎ合いが、すでに命名の段階から予定されていたことになる。 フ 実際問題として、キリスト教神話の文脈で考えるなら、「黙示録の獣アンチクリスト日悪魔、 に擬された主人公は、最終的には、再来するキリスト、唯一神によって断罪されるしかない存在 だろう。ところが小説を小説として読むかぎり、ラスコーリニコフという主人公は、そのようなコ 断罪に甘んじ、神の裁きに服するだけの受動的な存在とはとうてい思われない。むしろ彼には、 ン オ 「人を殺すと地獄に堕ちますぞ」式の坊主臭い宿命論などはねのけてしまいかねない、独自の生 命力、エネルギー、人間臭さが多分にそなわっているように見える。酔ったマルメラードフのく りごとと夢想に寄せるあの熱い共感、卑劣なル 1 ジンを糾弾するときのあの純粋なまでの怒り、 ロジオン・ラスコーリニコフⅡ割崎英雄