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検索対象: 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち
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1. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

「一れからは競馬も女性の時代かもしれませんね」 しミスター競馬こと野平祐ニ先生が生きておられたら、 平成 20 年の天皇賞秋を観て、優しく微笑みながらこうおっしや ったに違いない。そして、自ら最強馬と称するクリフジを引き合 いに出して、ウォッカやダイワスカーレットがどれだけ強いか を弁舌爽やかに教えてくれたはずである。競馬はギャンプルだ けでは滅びてしまう、と繰り返し主張された野平先生にとって、 牝馬による天皇賞ワンツーフィニッシュが嬉しくないはずがな いのだ。 今こそ、ひとりでも多くの女性を競馬場へ連れてこようじゃ ないか ! 強く美しい牝馬たちが緑のターフを駆け巡る姿を見 れば、彼女たちが競馬を好きにならないはずがない。女性は競 丐の健康状態を示すバロメーターのようなものだ。競馬がギャ ンプルだけであり続ける限り、女性は決して競馬場には足を運 ばない。裏を返せば、競馬場に女性がいる限り、競馬が滅びて しまうこともないだろう。たくさんの女性が楽しめる競馬は健康 である。 それからロマンを語ればいい。サラブレッドは 500 キロもある 体重をあの細い脚で支えながら、時速 60 キロのスピードでカ尽 きるまで全力疾走すること。生まれて数か月で母親から引き離 され、競走馬として生きる強さを求められること。編まれたタテ ガミは厩務員さんの愛情の証であること。芦毛の馬は年を重ね るごとに雪のように白くなること。額に刻まれた意思の強さを表 す模様は流星と呼ばれること。ウォッカの名は、父であり、彼 女と同じくダービー馬でもあるタニノギムレットより強いお酒に 由来すること。 牝馬として初めてダービーを勝った悲劇の名牝ヒサトモのこ と。ヒサトモが生涯で最後に残した一頭の牝馬から血が繋がり、 トウカイティオーという名馬が生まれたこと。トウカイティオー が奇跡の復活を遂げた有馬記念の涙のこと。父はシンポリルド ルフという 20 世紀を代表する最強馬であったこと。その母スイ ートルナの父はスピードシンポリという野平祐ニ騎手に愛され た馬であったこと。そして、その昭和の大騎手は、「牝馬の祐ち ゃん」と呼ばれるダンディな男だったことを。 も 今こそ、 TOkyo Racecourse T h e 1 3 8 t h T e n れ 0 S h 0 ( A u t u m r 、 ovember2 , 2N8 , 言 義 0 Photostud Premium GaIIery 治郎丸敬之 = 文 text by Takayuki Jiromaru Ph0tostud = 写真・デザイン photograph & design by Photostud

2. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

それからしばらくして、ポスの血統報告が俺にか、今までより一層やさしく俺の世話をやいてくすっとんで来て、厩舎へ連れ帰ってくれた。カタ 初めて父親の名前を教えてくれることになった。 れる。俺も最近ではカタブツにマバに対するのと 。フツはさんざん俺を捜しまわったらしく、その夜 マバに聞いても、マバも詳しいことは知らなかっ同じような心をいだき始めている。 はこっぴどく彼からお目玉であった。 たから、俺は今まで父親の名前すら知らなかった 追い運動がつづけられているある日のことであ せつかく飛び出しながら、お目当ての放牧地も のだ。 る。追い運動の最中に見知らぬ馬が角馬場へ連れ見つからずがっかりだが、俺にとっては面白い遠 俺の父はフォルティノⅡという。祖先は世界的こまれ、俺はその馬をあぶなく避けた拍子にポン足であった。 なスプリンターのグレイソヴリンで、さかのぼると外へ飛び出してしまった。 と父の三代前にネアルコという名馬がいる。 いい機会である。一度やってやろうと思ってい 松林が寒風に鳴り、馬道に霜が薄化粧するよう 俺にはそのネアルコの血量が、血統遺伝学上いたトレセン見学をしてやろう、と俺は一目散に駈になると、あわただしく師走がやって来た。厩舎 ちばん理想的といわれる十八・七五 % 流れているけ出した。まだ人ったことのない馬場のほうへ行のなかは殺気立ち、厩務員は自分の持ち馬にしき とのことだ。そして、俺と同じような十八・七五けば、放牧地もあるだろうと考えたのである。 りとハッパをかけている。 % の名馬、トキノミノルやコダマなどの例をあげ、 周囲をじっくり眺めると、やはり牧場とは大分話の中で、阪神一二歳ステークスの勝馬ヒデハヤ 俺の血統がいかに理論的に組み合わされたものか違っている。 テが〈強い強い、とにかく速い〉と来年のダービ を語ってくれた。 馬場に覆いかぶさるように聳える山が、牧場な ー一番候補にあげられているようだった。わが厩 俺はうれしかった。初めて父の名を知り、それら今頃はすっかり葉のなくなった灌木であるが、 舎のプリンス、タイテエムは最近腰を悪くしてい がミラおばばの血と同じように、すぐれた血の流目の前の山はやや黒ずんだ葉を繁らせている。左るという。 れであるということを知ったから。 手には背の高いスタンドが堂々と立っている。そ厩舎に〆縄が張られ、小さい重ね餅が鼻前に飾 エプリルについては貴族的ともいえる名血、ビ の前は平坦な広い土地になっていて、牧場ならばられると、俺たちは急に三歳馬と呼ばれるように ューティフルドリマーだといい、この血統で馬さフサフサした牧草が風になびいているのだが、そなった。 えよければ間違いなく走ると断言している。父はの広場は草一本はえていない砂地だ。柵止めされ トレーニングに元旦はない。京都競馬が四日か 日本の競馬ですばらしい成績を残したコダマといた馬場には人ることもできず、牧草のある牧草地ら始まり、騎手や厩務員たちに餅代が配られてい ったが、父のコダマよりもエプリルの場合は母系など、どこを捜しても見つからない。がっかりでたが、俺たちに休暇を与えてくれる訳ではない。 ある。 の優秀さが際立っているとのことである。 故障馬でもない限り、古参馬は朝早くから競馬に しゃれ さて、飛び出してトレセン見学と洒落てはみた出かけて行った。 翌日からエプリルも運動をはじめ、俺の追い運ものの、帰る段になってはたと困ってしまった。 帰りつく馬運車からは、時折り、骨折したもの かくばば 動が馬場近くの角馬場で日課となった。 見回して、俺の厩舎を捜しても、何しろみな同じゃ故障した仲間がビッコをひきながら降りてくる。 もともと負けず嫌いであるし、父のことを聞い形をしている。これではどこへ帰っていいかわか冬になれば筋肉も堅くなり、骨も折れやすくなる てはりきっていたから、牧場で仕込まれたフットらない。厩舎を捜してくるくる漫歩している間にのが俺たちだ。競馬によって起こる故障は俺たち ワークで俺はいつも先頭を譲らなかった。 日も暮れ、俺は完全に迷い仔になってしまった。 の宿命と思って諦めもするが、ビッコをひいて帰 そんな俺を見てカタブツも気に人ってくれたの 途方にくれていると、息をきらせたカタブツが ってくる先輩たちを見ると抗議をしたい気持に駆 ROUNDERS vo い 102

3. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

りはびと言たりともおやしの言葉なんかを付け足す必要 こうやって、手元の血統表を辿っていると、忘れ去 のない馬てすのて、名前と戦績たけをあげておきましょ られた馬たあがいろんな話をおやしに聞かせてくれま うかマンノウォー ( 幻戦跚勝 ) 、ネアルコ ( い戦は勝 ) 、リ す。グレイハウンドメアーは、おやじに「ど・つ、・つち ポー ( 怖戦怖勝 ) : : : せーんぷでなんほや ? のスカーレットなかなかやるでしよ。アメリカって あっ、なにも足し算することはなかったてすな。それ国でもうちの子か活躍しているのよ」と教えてくれ にしても、 4 号族の名馬たちというのは妻いてすよね。 たのかもしれません。 血統の楽しみは犀きることを知リません。 競馬の歴史そのものではないですか ? このうち の 1 頭ても欠けると、今の競馬そのものか消滅し てしまう ! 4 号族の名馬には、「歴史的」という言 葉を冠しておきましよう。 そして、わがスカーレットはどうかというと、ー戦 8 勝、デビュー以来一度も連を外したことはなかった。案 外知られていませんが、連対率 100 % の馬に限ってい えば、これはシンザンの連続連対に次ぐ記録てす。負 けない、力強い。これそ 4 号族の名馬てす。日本の種牡 馬てはバクシンオーが 4 号族てす。歳近くになって朝 日杯の勝ち馬を出したのは驚きてす。血の更新の盛んに なった今日、これほど息長くチャンヒオンクラスの仔を 出している内国産種牡馬がいるなんていうのは、奇跡 以外の何ものてもありません。バク、ンンオーは内国産 の「歴史」そのものなのてす。 この春はバクシンオーの仔、グランフリポスても買っ てみましようか。府中のケヤキの向こうにキンチエムの 影が映っているかもしれませんよ これがおやしの「血統の楽しみ方」てす。 ルドルフおやし たたの血続おやしと遜するか、実は血統表を読む天才、サクラシ「「一ウリのターヒーから馬券を買 い始め、サッカーホーイや一一ホンヒロウイナーとせに育った。酒とタハコをこよなく愛す「 ROUNDERS vol.l

4. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

程度しか話せなかったのが、ここ一年ですいぶん語学力が アッフしたと思う ( 自己評価 ) 。たた「読めるけど話せない」 という感じは大いにあるんたよなあ。現地にたくさんいる 「日本語をしゃべれる韓国人」に負けないようにせねは。 韓国にたひたひ行っている理由には、競馬のほかにソウ ル在住の友人たちの存在がある。一一年一月の韓国訪問も、 目的のひとつはソウルでの新年会なのた。というわけで、 金曜が釜山競馬、土曜が競輪と新年会、日曜はソウル競馬、 という濃密な日程で競馬仲間の尾関健一くんと一入で行こ うと計画していたら、済州島に住んでいるメイセイオペラ に会いたいという要望が、高崎競馬の元騎手、赤見千尋さ んから来た。ならは土曜日はそれに充てようということに なり、さらにその旅行話に乗っかって来た人が加わり、釜 が韓国に初めて行ったのはおよそ一一十年翦その当プレッドが種牡馬として対馬海峡を渡っている。サンテ 1 禾時の韓国は、日本の歌を電波に乗せることは禁止さウ = ル、オースミジット、サクラシ 1 キング、エアダブ山に競馬好きの日本人五人が集結することにな「たわけで れていたし ( もちろんライヴなどで歌うのもアウト ) 、ソウル市内リン、フィールドアスカ・ : : ・。ど 1 ですか、このビミョ 1 ある。ちなみに今回の遠征にあとから合流した三名とは、 ですれ違う男性という男性は角刈りに近いスタイルたった。なラインナップ。たた、イングランティーレの初年度産駒済州島で別れることになっている。 対して私はほぼワンレンの長髪姿。というわけで、常にどが二〇一一年には三歳を迎え、さらに同年にはアドマイヤというプチ団体旅行ではあるが、旅のスタ 1 トは一人。 こからかの視線を感じないわけにはいかないという状況たドンが海を渡っていったから、今後の韓国競馬のレベルア一月一一一日 ( 水 ) の飛行機に搭乗し、福岡に行くのと大差な っこ 0 ップはより顕著になっていくのかもしれない い時間で金海国際空港に到着した。二〇〇八年以来、二年 それが今や何ですか。髪型はおろか服装もどんどんチャ さて、二十年くらい前に韓国を訪れた私だが、それ以後半ぶり一一回目の着陸である。あのときは空港から競馬場に ラくなり、当時四号線までしかなかったソウルの地下鉄は、はとんとごぶさた。再ひ韓国に行こうと思ったのは、一一〇行こうとタクシ 1 に乗ったら、運転手にメーターの電源を 今となっては作りすきたろというくらいに拡大。日本人の〇八年の六月に内田利雄騎手が釜山慶南ラサンキョンナム ) 落とされて、「二万五千ウオンなら行くよ」とカタコトの日 韓国に対する意識も「近くて遠い国」から「どんどん情報競馬場で短期免許を取得したことがきっかけたった。とい本語で啖呵を切られたんだっけ。入国後すぐにそんな宣戦 が流入してくる国」に変貌をとけた。ミクロ的に社会を見うわけでその初日に突撃したのたが、肝心の内田騎手がマ市告を受けたので、ふさけんなテメ工、日本人をなめんじ れはいろいろと問題点が多い韓国も、全体的にみれは勢いカオで食らった騎乗停止処分を韓国にまで連れてきていたやねえぞと、国の威信をかけて売られた戦争を買うことに がある印象。残念ながら相対的に活力が低下しているのはのが大誤算。内田騎手とは少し話をしただけで、あとは普したのだ。しかし向こうはホ 1 ムでこちらはアウエリ遺 日本のほうなのである。 通に馬券おやじとしての活動たけになってしまった。 憾なことにその不利は大きかった。なんとか反撃したもの しかし日本たって負けてはいない。競馬のレベルは日本それでもそれ以後は韓国によく行くようになり、二〇一の一万ウオン値切るのが精一杯で終戦を迎えたという届辱 のほうがはるかに上だ。近年では数多くの日本育ちのサ一フ〇年は五回も訪闃その前年までは「トイレどこですか」は忘れないそコノヤロウ。わすか六鞅多く見積もっても 子くトコ子くトコ馬はかり① メイセイオペラと ビワシンセイキを謗ねマ 浅野靖曲文・写真 ROUNDERS vol.l 071

5. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

栗東トン極道 昭和 4 年月、 」æ< 初のトレーニングセンターが栗東に誕生した。 栗東トレーニングセンターで、 サラブレッドは日々厳しい鍛錬を積み、 数々の名馬か日本国内で活躍し、 世界へ羽はたいていった。 そんな競馬の舞台裏を知り尽くすべく、 インサイダーとしてでもなく、 アウトサイダーとしてでもなく、 栗東トレセンに毎週通い続ける男がいる 、ミ守きミき Kaz き、 0 久保和功に訊く 取材・構成 「 ROUNDERSJ 編集部 榎田ル、、、写真 phOtog 「 aphs by Rumi Enokida きわめみち 1

6. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

「 ROUNDERS 」創刊に寄せて 竸馬は文化てあり、スホーツてある 競馬ファンに読んでもらい、競馬の雑誌を通して伝えたい。競馬は文化で いつまでも手元に残しておきたいと思わせる雑誌を。そして、たくさんの いてもらえるよう、語ってもらえるよう、新しい竸馬の雑誌を創りたい。 ろう。もちろん、私だけでは足りない。たくさんの人々に競馬について書 と言われようと、私の命の続く限り、大好きな競馬について語り続けるだ 私は語るのをやめない。これが私の原動力でもある。これからも、誰に何 としても、語り続けなければならない。いや、偏見や差別があるからこそ、 それでも私は競馬の魅力について語りたい。たとえ偏見や差別があった からである。 大好きな競馬が、単なるギャンプルに帰せられてしまうことに深く傷つく ではなく、たとえ儲かっていたとしても、そのたったひとつの質問で私の やつばり儲からないよね」と相手は納得してくれるかもしれないが、そう 儲かっていないからではない。私が儲かっていないと答えれば、「ほらね、 競馬 ? で、儲かってるの ? 」という質問に私は耐えられないからだろう。 どうしても「競馬」とは答えられない。おそらく、その後に続く、「えつ、 れないほど積み重ねてきた。野球も映画も好きなのでウソではないのだが、 「映画です」などと決まってごまかす。その 0.1 秒の逡巡や葛藤を数え切 「競馬が好きです」と答えるべきかどうか逡巡し、葛藤し、「野球です」、 「好きなことはなんですか ? 」と初対面の人に尋ねられると、私はいつも それは今でも続いている。 かもしれない。いわゆるギャンプルというものに手を染めている恥じらい えざるを得なかった。罪悪感というよりも、恥ずかしさといった方が適切 すがになかったが、それでも私は競馬を楽しむことにある種の罪悪感を覚 マンや華やかさが溢れていた時代。競馬が滅びてしまうという恐怖感はさ ーの世界になっていた時代だ。かってとは比べようもないほど、感動やロ 私が競馬を始めたのはオグリキャップが引退した年だから、競馬がカラ まう。 ンブルがなくなれば滅びてしまう。しかし、ギャンブルだけでも滅びてし ど急速に衰えていったかは、競馬の歴史を顧みれば分かる。競馬からギャ 半分はギャンプルである。馬券が売られなくなった時代に、競馬がどれほ ル一辺倒の時代であった。競馬にはギャンプルという側面がある。いや、 まさにギャンプ そこには文化やスポーツとしての感動や華やかさはない キーはギャンプルの駒であり、レースが終われば怒声や罵声が飛び交った。 までを賭さんとする男たちが集まる賭博場であり、サラブレッドやジョッ 今からほんの数十年ほど昔まで、競馬はセヒ。ア色の世界だった。生活費 あり、スポーツであると。 ( 本誌編集長・治郎丸敬之 )

7. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

Kéken Höん na Ke 廿 6 「 on ↓豊富な 第血統論 【第 1 回】 アグネスタキオン / ジャングルポケット タニノキムレット / クロフネ んべⅡイラスト 統の話、というと難しいと思えてしまうン、プライアンズタイム、そして、ノーザンダ 方もらっしやるかもしれません。サランサー系の有力種牡馬フレンチデピュティの血 プレッドは一一 0 わば過去の名馬たちの血脈の結晶を引く有力後継種牡馬たちをピックアップして なわけで、統表を見ながら競馬の歴史や背景みました。 に思いをくらせてみるのも面白いのですが、 この連は、現在の日本の競馬界において活調査時期【種牡馬デビュー時 52 年 3 月末まで 躍ししる種牡馬について、どういう適性、傾調査対象【 LOOO 万下 ロカあるのか、ということを調べてみたいと思調査項目 ( 芝コース【複勝圏率 ) います。 ・競馬場別 同し血統でももちろん個体差があるので、大・距離別 枠で傾向を見たあとに、それそれの馬について・天候別 見てみる必要があります。人間でも大まかに・斤量別 「日本人の性質」「フランス人の性質」「イタリ ア人の性質」みたいにザクッとしたイメージの以上のデータについて、 違いがあると思います。たとえは、オリンピッ クの E 走で日本人の短距離選手が金メダ・支持率 ( 3 番人気以内に支持された率 ) ルを取れそう・ : : ・とは思えないのは日本人の体・達成率 ( 3 番人気以内の人気馬が 3 着以内に 型、資簒かその種目に向いていない、というイきた安定度 ) メージがあるからだと考えられます。個々の日・穴馬率 ( 4 番人気以下の人気薄の馬が 3 着以 内にきた剛脚度 ) 本人はそれそれ全然違うのに、全体的なイメー ジがある、というのが面白いですよね。 ・総合 ( 実質的な複勝圏率 ) 予想をする際に血統的な適性を考慮すること で、意外な穴馬に辿りついたり、人気馬の危険というポイントで調べています。 性に気。ついたり、というのが血統データの面白人気馬が人気をよく裏切っている競馬場、距 さ。何かのタイミングでデータが役に立ってく離などはやはりその血統にとって苦手な設定だ れるといいなあと思います。 と考えられます。逆に人気薄の馬でも好走が見 今ロ取り上げる種牡馬は、アグネスタキオン、られる条件は、得意条件と考えて良さそうで 0 ジャングルポケット、タニノギムレット、クロす。総合的な複勝圏率との兼ね合いを見なが フネの 4 頭。サンデーサイレンス、トニービら、データを読み解いてみたいと考えています。 血 057

8. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

が、我々の前にメイセイオペラを連れてきてくれた。 怪しさ抜群の黒い軣おまえらどう考えてもポッタクリたも信号がほとんどない高原の道なのに。 その堂々とした体は、さすが馬。異国の地でも威厳 迎えに来てもらってよかったと思いつつ牧場に到着し、 ろうが。当然のごとく無視して、走ってきた銀色のタクシ 1 に手を挙けた。 敷地内に車を入れる。ここまで道路は乾燥していたが、さが違う。栗色の体は輝いており、体調のよさもうかがえた。 冬は馬にとって過ごしやすい気温で、夏もそれほど暑くな 「不良タクシ 1 がいますから、気をつけてくたさいね」 すがに牧場には雪が五Ⅷくらい積もっていた と、初老の運転手。そう言われると、ある意味ボッタク「先週だったら道路も雪で、レンタカ 1 では来れなかったらない済州島は、サラブレッドにとって暮らしやすい土地 なのかもしれない。 リタクシ 1 を最初に経験したことで逆に免疫がついたようんじゃないかな」 続いて同じ牧場に繋養されているビワシンセイキの馬房 な気がする。なんにせよ、明朗会計というのはまことにすと、牧場主。我ながら天気には本当に恵まれるなあとい はらしいことであるのは間違いない うのは自画自員だ。さっそくモンゴル人と思われる従業員に移動。ぬかるんだ放牧地を踏み越えると、メイセイオペ ラも住む種牡馬厩舎があった。その馬房からさきほどの推 私と尾関くんが乗った健全タクシ 1 のメーターは清く正 定モンゴル人がビワシンセイキを出すと、待ってましたと しく上昇していき、六時四〇分に金海国際空港国内線タ 1 はかりに大暴れ。先週までの雪で放牧量が足りす、欲求不 ミナルに到着してほかの三人と合流。大韓航空カウンタ 1 満になっていたらしい。立ち上がったり回転したり、挙け で荷物を預けて航空券を受け取れは、レシートみたいな大 句の果てには寝転ぶありさまたったが、尼だらけになれて きさの感熱紙だった。日本の飛行機もこれで十分なのにな うれしそう。こちらも元気一杯のビワシンセイキに大満足 あと思いながら制限エリアに入り、済州島で待っ牧場主の た。昨年は大統領杯 (t-) 優勝馬を出しており、さらなる キム・ジョンシク氏に電話をかける。母国語しか話せない 活躍馬の登場も期待できるたろう。 外国人に電話をするのは初めてた。 続いてビワシンセイキ産駒の姿も見てみたいということ : : 超キンチョ 1 した・ : で、これも日本から移動したマイネシルビア ( 父ティンバー 今は金海空港にいるということと、済州国際空港への到 カントリー ) を母にもつ一歳馬に会わせてもらった。舎で 着予定時刻を伝えただけなのだけれど、脂汗が出た。電話 は同じくマイネシルビアの一一歳馬 ( 父メイセイオペラ ) とも遊 は直接会話よりも難しいことを、このトシになって初めて ~ ひ、五人ともおなかいつばいのニコ一一コ顔た。 実感するとは : : : 。ともあれ連絡がついたことには安心し 異国で元気に生活して、名前を残していく名馬。その姿 て、空路一時間で済州国際空港に無事到着であゑ に力を与えてもらった我々は、気合十分の前傾姿勢で済州 預けた荷物を回収して外に出たところで再ひ電話をして、 競馬場に向かったのであった。ポ一一 1 競馬だけど。 牧場主と無事に合流。レンタカーと牧場主の車に分乗して、 島の南側にあるプルン牧場に向かった。 初めて来た済州島は、いい意味でイメ 1 ジを裏切られた 形。島の地図はだいたい頭に入っていたのだが、実際の感 覚が違ったのだ。ます、済州島が思っていた以上に大きい 空港から牧場まで四十分もかかるとは想定外だった。しか 転 れ る ワ イ 浅野靖典あさの・やすのり 競馬キャスターとして、グリーンチャンネルや各種イベントへの出演、競 走馬セリ市の進行役なとを務める。旅をこよなく愛し、平成朽年には日本 の競馬場を全て踏破した。競馬総合チャンネルや netke 一 ba.com でも連載 中。著書に「廃競馬場巡礼」 ( 東邦出版 ) がある。 ROUNDERS vo い 0 / 3

9. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

OVRC らだ。オーストラリアの人々にとって竸馬は、 一種、宗教的な意味合いさえも持つのである。 オーストラリア初の本格的な競馬は、最も早 ' ィーいい くつくられた町・シドニーの中心地、 ークで行われた。英国女王が派遣したマクワリ ークにちなんで一八 ー督が、英国のハイドバ 一〇年に名付けたこの場所は、競馬だけでなく、 クリケットなども行われる、当時のオーストラ リアのスポーツの中心地であった。現在のハイ ークは、英国風ガーデンに様変わりして、 ランチタイムには付近のビジネス街からサンド ィッチや SUSHI などを手にしたビジネスマン たちが集まってくる。 オーストラリアで最初のジョッキークラ、フ、 ムオーストラリア・ジョッキー・クラブ ( ) も、最初はこのハイド、 ークで競馬を行なった。 < O はその後、シドニーの西方地区 ( シドニ ーオリンビックを実施した場所 ) でも競馬を開催し、 さらに一八六〇年、シドニー市南方に新たに竸 馬場を建設して、オーストラリア競馬の最初の 拠占とした。現在のロイヤルランドウィック競 馬場である。 一方、ビクトリア州のメルボルンでは、バッ トマンズヒルという場所に竸馬場が作られ、一 八三八年に競馬が行なわれている。現在のメル 刈ボルンでフレ、 , 、ントン竸馬場を所有するビクト ROUNDERS vol.l 050

10. 「ROUNDERS」vol.1 特集「調教」 馬と話す男たち

調教のすべて 治郎丸敬之 = 文 text by Takayuki Jiromaru 速く走ることを目的として血を重ねられてきた以上、 速く走ることの出来ないサラブレッドはほとんど存在しない。 その体内には、父や母、そのまた父や母から受け継かれた、 速く走るための血かすてに内包されている しかし、実際には、速く走ることの出来る馬とそうてない馬がいる 育成段階ては目立たなかった馬かクラシックを制し ダービー候補と謳われた馬が 1 勝も出来すにターフを去る なせたろうか その答えは調教にある サラブレッドの速く走る能力を十全に引き出すことは案外難しい。 同し馬を別の人間か育てれは、全くの違う馬に育ったろう。 私たちの人生か生まれてきた環境によって大きく変わってしまうように、 サラブレッドの競走成績や生活も、 どのような調教を施されるかによって変化する あのディープインバクトやウォッカてさえ、 もし誰か他の調教師に調教されていたら、 あそこまでの名馬、名牝に育っていたかどうか。 こ数十年の間に、日本の調教技術は格段の進化を遂けてきた 若き情熱的なホースマンによって海外からノウハウが持ち込まれ、 従来の常識が打ち破られ、新しい育成、調教施設も次々と作られた 速いだけてはなく、強い馬づくりには最高の舞台が整った いざ出でよ、名馬たち 現代の日本競馬における調教の全てをここに記す