サーシャ - みる会図書館


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1. ならずものがやってくる

女性は顔を上げ、柔らかな茶色の目がサーシャの顔をゆっくりと眺めた。何が見えているのだろ う ? サーシャは振り返って、ふたたび鏡を覗き込みたいと思った。自分の何かが、いまやっと明ら かに見えるかもしれないーーー自分の失った何かが。だが振り返らなかった。サーシャはしっとして、 見つめられるままになった。そして唐突に気づいた。この女性の年齢はサーシャ自身とーーそのほん とうの年齢と、変わらないということを。家には、子どもだっているだろう。 「いいわ」と女性は言い、顔を伏せた。「秘密にしておいてあげる」 「ありがとうサーシャは言った。「ありがとう。ほんとうにありがとう」安堵と、穏やかに効きは もた しめたザナックスのために気を失いそうになり、サーシャは壁に凭れかかった。それから、女性がこ こを出ていきたがっていることに気づいた。サーシャのほうは床に滑り落ちてしまいたかった。 ドアをこっこっと叩く音がして、男の声が、「ありましたか ? 」と訊いた。 サーシャとアレックスはホテルを離れ、寂しく風の吹きすさぶトライベッカ地区へ出た。ラッシモ ・ホテルを選んだのは、サーシャの長年の習慣からだった。べニ ー・サラザーの助手として、十二年 間働き続けたソウズ・イヤー・レコードの事務所に近かったのだ。だが世界貿易センタービルがなく なって以来、この界隈の夜は嫌、どっこ。、 しオオカっては貿易センタービルの照明がきらびやかに行き交い 希望に満ちた感じがしたものだった。サーシャはいまやアレックスにうんざりしつつあった。たった 二十分のあいだに、経験を共有する意味ある関係という理想的な時点をとばして、互いを知りすぎて いるというあまりそそられない関係に至ってしまった。アレックスは毛糸の帽子を目深に被っていた。 まっげ 長く黒々とした睫毛をしている。「変な話だよな」と彼は言った。

2. ならずものがやってくる

赤信号で止まったとき、べニ ] はあのリストを思い出した。駐車券を取り出すと、最後にひとっ書 き加えた。 「ねえ、その券にすっと何を書いてるの ? 」サーシャが訊した。、 ゞ、ヘニーは駐車券を手渡したが、その 〇・五秒後に、リストを人目に触れさせたくないという思いが溢れてきた。恐れた通り、サーシャは それを声に出して読みはしめた。 「修道院長にキス、無能、毛玉、芥子粒、便器の上」 べニーは苦痛のうちに聞いていた。おのおのの単語が世界の終わりをもたらすかのようこ。 かす ーシャの掠れ声で発音されたとたん、言葉たちは中和されていった。 「悪くないしゃん」とサーシャ。「曲のタイトルでしよう ? 」 「もちろん、そうだ」とべニー 「もう一回読んでくれるかな ? 」サーシャは読みあげた。すると彼 の耳にもほんとうに曲のタイトルみたいに聞こえた。平和な、浄化された気持ちだった。 サーシャは言った。「『修道院長にキス』っていうのが好きかな。どうやったら使えるか、考えな くちゃね」 フォーサイスにある彼女のアパートまで来ると、車を停めた。道はひと気がなく、街灯も暗かった。 サーシャはどこにでも持って歩いている、黒い鞄を掻き集めた。それは願いを叶える不定形の井戸で、 べニーが欲しいと言えばいつでも、ファイルでも書類でも引っ張り出すことができるのだ。十二年来、 すっとそうだった。べニーはサーシャの、痩せた白い手を握った。 「聞いてくれ」と彼は言った。 「聞いてくれ、サーシャ」 彼女は目を上げた。べニーはいま、性欲は一切感していなかった。下半身も硬くなっていない。彼 冫だがサ

3. ならずものがやってくる

触れもなしに、片足を軸にくるりと振り返った。その目は動揺した様子で彼を見つめた。「まさか」 と言葉に詰まっている。「 : : : 叔父さん ? 」 「なんてことだ ! サーシャじゃないか ! 」テッドは叫び、大げさに驚いて見せた。お粗末な演技で ある。 「怖いじゃないの」まだ信しられないという顔で、サーシャが言う。「わたしはてつきり誰かが・ 「ぼくも怖かったよ」とテッドも調子を合わせ、二人して神経質に笑った。ただちにサーシャをハグ すべきだった。だがもう遅い気がした。 明らかな疑問をかわすために ( いったいナポリで何をしているのか ? ) 、テッドは喋り続けた。 「これからどこへ行くの ? 」 「と : : : 友達のところよ」とサーシャ。「そっちは ? 」 「ええと : : : 散歩してるんだ ! 」不自然なほどの大声で答えた。二人は揃って歩き出していた。「そ の足、どうしたの ? 」 「タンジールで足首を骨折したの」サーシャは言った。「長い階段から落ちたのよ」 「医者に診てもらうべきだ」 サーシャは憐れむような目を向けた。「三カ月半、ギ。フスをつけてたわ」 「じゃあどうして引き摺ってるの ? 」 「わからない」 彼女は大人になっていた。成熟は何一つ留保しなかった。胸、尻、なだらかに窪んだ腰、馴れた手 - 291 ー

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がサーシャに感じているのは、愛だった。かってステファニーに感していたような、安らぎと親密さ べニーが裏切りを繰り返し、妻が正気をなくしてしまう以前に感していたような。「とても好き だ。ものすごくきみが好きだ、サーシャ」 「ちょっと、べニー」たしなめるような口調だ。「そういうのは、ナシ」 べニーはサ ] シャの手を、両手で挟んでいた。彼女の指は冷たく、震えていた。もう片方の手はド アにかかっている。 「待ってくれ」べニーは言った。「頼む」 サーシャは彼を振り返った。厳しい表情をしている。「絶対に駄目よ、べニー。わたしたちは仕事 のパートナーなんだから」 乏しい光のなかで、二人は互いを見やった。柔らかな輪郭を持っサーシャの顔は、少しそばかすが 浮いていた。少女の顔だ、と思った。だが彼が目を離したとき、彼女は少女であることをやめた。 サーシャは身を乗り出して、べニーの頬にキスをした。純粋なキスだった。兄と妹のあいだのキス、 母と息子のあいだのキス。それでもべニーは彼女の肌の柔らかさを感じたし、あたたかな息づかいも また感じることができた。そしてサーシャは車を出た。窓越しに手を振り、何か言ったが、べニー は聞き取れなかった。空つぼの助手席へ身を乗り出して、顔を窓ガラスに近づけると、サーシャが繰 り返すのをじっと見た。だが今度もわからなかった。そちらのドアを開けようとしていると、サーシ ヤはそれをもう一度、とくべつにゆっくり口を動かして、言った。 「ま、た、あ、し、た」

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「つまり、盗むってことだな」 コズはサーシャに″盗む″という言葉を使わせようとしている。彼女が過去の年月にわたりくすね てきた物たちに較べ、財布の場合は、この語を避けるのがより困難である。 ( コズが言うところの ) " 健康状態″が悪化してから、サーシャは数々の物をくすねてきた。鍵束五個、サングラス十四個、 縦縞のある子ども用スカーフ、双眼鏡、チーズのおろし金、小型ナイフ、石けん二十八個。ペン八十 五本の内訳は、サーシャがデビットカードの伝票にサインするのに使った安手のポールペンから、ネ ットで二六〇ドルの価格がついているビスコンティの万年筆までさまざまだ。万年筆は、以前仕えて いた上司の顧問弁護士から、契約会議の際にくすねた。店から取ることはもうなくなった。冷たく生 気のない売り物たちには、もはや心をそそられないのだ。サーシャは人からしか取らない。 「いいわよ」と彼女は答える。「盗む、ね」 サーシャとコズはその感覚を、″個人的な挑戦″と呼ぶことにする。すなわち、財布を取ることは サーシャにとって、強さと独立性を確認する行為なのだという解釈だ。二人がこれからすべきことは、 彼女の頭のなかを逆転させ、財布を取ることから取らないことへと、挑戦の中身を変えることた。そ ファンキーな れが治癒となるだろう。もっともコズは、″治癒″というような語を決して使わない。 セーターを着て、自分のことをコズと呼ばせているが、昔ながらの謎めいた心理療法士である。同性 愛者だろうかとか、有名な本の著者かもしれないとか、サーシャが考えてしまうほどに謎めいていた あるいは ( とサーシャはときどき疑う ) 、外科医のふりをした挙句、患者の頭蓋骨内に手術器具を残 してしまう、逃げている最中のおたずね者とか、そういう類いの人間かもしれない。そうした疑問は むろん、グーグル検索で一分もあれば解決することだ。しかしそれらは ( コズによれば ) 有効な疑問

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サーシャは笑った。「行く先々で友達を作るの。それが旅してるときのやり方よ。テディ叔父さ サーシャの頬には赤みがさしていた。ワインか、あるいは回想の愉快さのせいかもしれない。テッ ドは手を上げて給仕を呼び、勘定をすませた。 , 彼のほうは憂鬱な、鉛のような気分だった。 夜の空気はひやりと冷たく、先ほどの若者たちはどこかへ消えてしまっていた。サーシャは上着を 「ぼくのジャケットを着るといい」テッドは言って、擦り切れたツィードの 持ってきていなかった。 ジャケットを羽織らせようとしたが、サーシャは言うことを聞かなかった。赤いドレスを覆い隠した 、、女はロングプーツのせいで、余計に足を引き摺っていた。 くないのだと気づした。彼 だる トアマンが怠そうに二人をなかへ入 何プロックも歩いて、よくある感しのナイトクラプへ着いた。。 れた。真夜中になっていた。 「ここ、友達が経営してるのよ」サーシャは言 0 て、犇めく人混みと蛍 光紫のライト、そしてどれも削岩機の音にしか聞こえないビートの鳴り響くなかを進んでいった。ナ イトクラブには馴れていないテッドでさえ、そうした何もかもにうんざりするような既視感を覚えた が、サーシャは心を奪われているらしかった。「飲み物を買ってくれない、テディ叔父さん ? 」そう 言いながら、手近なテーブルのますそうなカクテルを指さした。「ああいうの。ちっさい傘の刺さっ てるの」 テッドは人混みを掻き分けつつバーカウンターへ向かった。姪のそばを離れると、まるで窓を開け 放ったように、息苦しい圧迫から解放された感じがした。だが何がそんなに問題なのか ? サーシャ 彼女は二年間で、テッドが二十年間でしたよりも、すっと多く は世界しゅうを見て、楽しんできた。 , の経験をした。ではなぜ彼は、こんなに姪から逃げたくて仕方ないのだろう ?

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どんな気分だった ? どんな気分たった ? もちろん、この尸 引いには正解がある。時折サーシャは、 ただ正解をコズに与えないためだけに嘘をつきたいという衝動と、闘わねばならなかった。 「悪い気分ーと彼女は言った。 「これでどう ? わたしは悪い気分だった。ったく、わたしはあなた に支払うお金で、もうすぐ破産するところだわ。 ・こんなのが生きるための偉大なやり方じゃない のは、わたしにだってわかる 一度ならすコズは、老配管工をサーシャの父親と結びつけようとした。彼女が六歳のとき失踪した 父だ。サーシャはその連想の線に引き摺られないよう気を付けていた。「父のことは覚えてないの」 とコズに言う。「だから何とも言えない」そんなふうに答えるのは、コズと自分とを守るためだ。二 人の書いているのは贖罪と、新しい出発と、第二のチャンスの物語だ。だが父親の方向には、こ。こ悲 しみがあるだけだった。 サーシャとアレックスは、ラッシモ・ホテルのロビーを横切り、道へ出ようとしていた。サーシャ はハンドバッグを上腕に押しつけるように抱いていた。財布はまるく温かく、脇の下に収まっていた。 堅いつぼみをつけた枝を潜り、大きなガラス扉を抜けて行こうとしたとき、ひとりの女性がふらっく 足取りで行く手に現れた。「待って」と彼女は言った。「探しものがあるの : : : 本当に困ってて」 サーシャは恐怖に引ぎ攣った。この女性こそ、彼女が財布を取った相手なのだ。女性はサーシャの 想像していた持ち主、烏の濡れ羽色の髪をした朗らかな女性像とは似ても似つかなかったが、それで も瞬時にそうわかった。傷つきやすそうな茶色の瞳をし、先の尖った平靴を履いていて、その足音は 大理石の床で騒々しく耳につく。縮れた茶色の髪には、灰色の毛がたくさん混しっていた。

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ヤは言った ) 。時折きみはその探偵について、率直な疑問を抱くことがあったーーサーシャの義父は、 その後探偵について何か言っているのだろうか ? 探偵が男だというのははっきりわかっていること だがそうした疑問はサーシャを なのか ? この監視状態は、いつまで続くと思っているのだろう ? 苛立たせるようだったので、きみは追及しなかった。「わたしが幸せだということを、彼に知って欲 しいの」と彼女は言った。「わたしがまた元気にしてるところを、見てほしいのよ : : : わたしがこん なにまともだってことを。あんな何もかものあとでもこんなに、ちゃんと生きてるってことを」それ はまた、きみの望みでもあった。 トリューはまさしく探偵に見せるべき ドリューと出会ったとき、サーシャは探偵のことを忘れた。。 証拠だった。そのうえ、彼女の義父にも気に入られた。 三番街のセント・マークス書店で、きみとサーシャがドリーと落ちあうときには、もう午後十時 をまわっている。泳いだあとでドリーの目は赤く、髪は濡れている。彼はサーシャに一週間も会わ ひと なかったあとみたいなキスをする。彼はしばしばサーシャを " 年上の女。と呼び、彼女がより広い世 さまよ 界を、たったひとりで彷徨っていた事実を愛しがった。もちろんドリ、ーは、サーシャのナポリでの 悪事については何も知らない。そしてこのごろではサ ] シャ自身が、当時を忘れたがっているように ーに似つかわしい人間として、再出発しようとしているみたいに。 きみには見える。忘れて、ドリュ きみは吐き気がするほどの嫉妬を覚える。どうしてきみはサーシャに対して、そんなふうにできなか ったのか ? この先誰が、きみに対してそうしてくれるというのだろう ? を通りすぎるが、部屋の灯りは消えている。リジーは両親 東七丁目のビックスとリジーのアパート ー 264

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ってやり直すことももうないの。でもそうじゃないひとたちもいる。戻ってやり直せるひとも」 スウェーデン人のラースはどっちだったのか、きみは尋ねようとした。でもうまく声が出なかった。 「聞いて」とサーシャはまた言った。「あと少しで、わたし病室から叩き出されるわ」 きみは目を開けた。それまで自分が目を閉していたことに気がついた。サーシャが言った。「つま りわたしの言いたいのは、わたしたちは生き残ったんだってこと」 彼女の言葉は、ぎみの頭に詰まっていた靄のようなものを取り除き、澄ませていくかのようだった。 まるで封筒を開けて、きみが至急知らなければならなかった結果を読み上げるかのようだった。まる で反則で捕まっていたきみを、矯正して送り出すみたいだった。 「みんながみんな、ってわけじゃない。でもわたしたちはそうなの。わかる ? 」 「わかった」 サーシャはきみのそばに横たわっていた。身体じゅうが触れあっていた。彼女がドリューと出会う 前、幾晩もそうしていたように。肌越しにサーシャの強さが染み込んでくるのを感した。サーシャを 抱きしめたかったけれど、きみの手は縫いぐるみみたいに力なく投げ出されていて、動かすことがで きなかった。 「それはつまり、もう二度と、こんなことをしては駄目ってことなのよ」彼女は言った。「絶対、絶 対、絶対、絶対駄目。約束してくれる、ポビー ? 」 「約束する」そうしてそれはほんとうだった。サーシャとの約束は、きみはけっして破らないだろう。 「ビックス ! 」とドリュ ーが声を上げる。ビックスがアベニーを勢いよくやってくるところだ。 - 269 ー

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ーを捜索しはしめた。そのあたりに財布を置いておけばよかったと、サーシャ らは二手に分かれ、 は強く思った。まるでそれが抗いがたい衝動であるかのように強く。 「わたし、トイレを探してみる」アレックスにそう一言うと、彼女はエレベーターの列の前を通ってい った。急ぎ足にならないよう、努めて自分を抑えながら。トイレには誰もいなかった。サーンヤはハ ンドバッグを開け、財布を出し、底からザナックスの小瓶を探り当てると、一粒口に放り込んだ。噛 み砕くほうが速く効くのだ。焼けるような苦みが舌に広がり、彼女は室内をすばやく見まわした。財 布をどこに隠すか決めねばならない。個室のなか ? 洗面台の下 ? 決めようとすると身体が麻痺し た。正しい選択をし、何ごともなく出なければならない。そしてもしそうできたら、そのときはきっ と : サーシャは熱に浮かされたように、心中でコズに誓っていた。 女子トイレのドアが開いて、あの女性が人ってきた。取り乱した彼女の目が、洗面台の鏡のなかで サーシャの目と合った、ーー緑色の細い、同しく取り乱したサーシャの目と。間があって、サーシャは 対決を挑まれていると感した。この女性は、知っている。初めからすっと知っていたのだ。サーシャ は彼女に財布を渡した。女性が唖然とした表情を見せたので、違う、やはり知らなかったのだと悟っ 「これ、わたしの病気なの」 「ごめんなさい」サーシャは早口に言った。 女性は財布を開けた。財布を取り戻した彼女の身体的な安堵が、あたたかな波動となってサ ] シャ を通り抜けていき、互いの身体が融合したかのように感した。「みんな揃ってる。誓うわ」とサーシ ャ。「わたし、開けさえしなかったもの。病気なのよ、わたしの。でもだんだんよくなってる。ただ ・ : お願い、黙っててくれる ? でないとわたし、身の破減だから」