思え。って言ったのはあなたでしよう ? 」 オールド・ハウス べニーは答えなかった。車は彼のかっての家に近づきつつあった。″昔の家〃とは呼べなかった。 ほんとうは、 " 家。という表現さえできない。自分が金を出した建物なのに。かっての家は、道から 少し奥まったところにあり、草深い斜面に建っていた。輝くばかりに白いコロニアル風の建築で、ポ ケットの鍵を探って玄関を開けるとき、いつも荘厳な気持ちになったものだった。。 へニーは縁石のと ころでエンジンを切った。私道を車で登っていくことは、彼にはできない。 クリスは後部座席から身を乗り出し、べニーとサ 1 シャのあいだに顔を出していた。いっから彼が そうしていたのか、べニーにはわからなかった。 あの薬飲んだほうがいいんしゃない ? 」 「いいアイデアだ」とべニーは言った。そしてポケットをあちこち叩いたが、あの赤い小箱はどこに もない。 「ほら、ここにあるわ」とサ ] シャが言った。 「レコーディング室から上がってくるときに落とした のよ」 こうしたことは何度も、何度もあった。、 、ヘニーの忘れものをサーシャが見つけるーーーときにはべニ ーが失くしたことをまだ気づかない先に。このことはべニーの彼女への依存に、何か恍惚とした感し を加えていた。「ありがとう、サーシャ」 彼は小箱を開けた。ああ、金箔は光っていた。金は色褪せることがなく、そこが大事なところだっ た。この金箔は五年後も、 いまと同じように光っているだろう。 べニーは息子に訊いた。「きみがしてたみたいに、直接舌に載せるほうがいいかな ? 」 「そう思うよ。、ほくも貰うね」
まで気づかなかった。二人はくつつきあい いちゃっいていた。やつれていたが、同時にセクシ ] だ った。若いうちはそれが可能なんだ。間もなくセクシーさは消えて、ただやつれてるだけになっちま うが。「なあ」おれは二人に近づきながら、声を掛けた。 この河べりでもう二十回は会っているはすなのに、男のほうはサングラスをした目を、一度も見た ことのない人間にするようにおれに向けた。女の子はおれを見もしなかった。「ぎみたちはミュージ シャンだろう ? 」とおれは訊いた。 男は振り切るように背を向けた。だが女の子が顔を上げた。赤い、何かが剥げ落ちたような目をし ていた。太陽で傷めたのだろうかとおれは思った。そしてこの、恋人だか夫だか知らないが、彼はな ぜサングラスを貸してやらないのだろうと。「彼はオウサムよ」と彼女は言った。十代のスケポー少 年が使うような意味でだ。あるいは、そうじゃないかもしれない。字義通りの意味で言っていたのか もしれない。 「そうだと思う」とおれは言った。「彼はオウサムなミュージシャンに間違いないだろう」 おれはシャツのポケットに手を人れてべニ ] の名刺を取り出した。昨日着ていたジャケットから、 ティッシュペ ーで注意深く摘み、今日のシャツのポケットに人れていた。折れ曲がったり汚れた 「この男に連絡を りしないように。エンポス加工されたその文字は、ローマ時代の硬貨を思わせた。 「レコード 会社を経営してるんだ。スコッティの紹介だと言うといい」 取りなよ」おれは言った。 斜めに降りそそぐ陽光の下で、二人は目を細めて名刺を見た。 「電話したらいい。彼はおれの親友なんた」 「するとも」と男は言ったが、確信はなさそうだった。 ー 149 ー
局、何も言わなかった。 彼は車に戻ったが、まだキーはまわさなかった。うねうねとした芝生の斜面を、彼のかっての家に 向かって、クリスがよし登っていくのを見ていた。発光して見えるほど鮮やかな芝生だ。息子は巨大 いったい、何が人ってるんだ ? 。フロの写真家でも、 なリュックの下で押し潰されそうになっている。 かす クリスが家に近づくと、その姿が霞んだ。ことによると、濡れてきた あんな荷物は持っちゃいない。 のはべニーの両目なのだろうか。玄関ドアへの長い道のりをゆく息子を見るのは耐えがたかった。サ し子ねとか、楽しかったわとか、べニー シャが何か言うことを、べニーは恐れていた。あの子はい、 が振り返らねばならないようなことを言うのを恐れた。だがサーシャは言わなかった。何もかもわか っているのだ。たた黙って隣に座っていた。クリスがよく茂った鮮やかな芝生を登り、玄関へと辿り つき、扉を開けて振り返りもせすになかに人るのを一緒に見ていた。 、ドソン・ ークウェイからウエスト・サイド高速へ抜け、ロウワー へニーは初期のフーとかストウージズとか、コンサー 向かうあたりまで、二人はロを利かなかった。。 トにも行けないくらい幼かったころに聴いていたバンドの曲をかけた。続いてフリッパ ンツ、アイ・。フロテクションといった、七〇年代べイ・エリアのグルー。フをかけていった。マブハイ ・ガーデンズで仲間と一緒にスラムダンシングをやった曲たちだ。そのころはべニー自身もまた、ザ ノドを結成していたものた。彼はサーシャが注 フレーミング・ディルドズという聴くに堪えないバ、 意を払っていることに気づいた。そして自分が幻滅しているという告白ーーー彼が人生を捧げるこの業 界を本当は憎んでいるという告白を、するべきかどうか考えた。べニーはひとつひとつの選曲に重き
そうしてわたしは、ロルフのことを、すでに知っていたのだと気づいた。レアも知っていたーー、全員 が知っていた。古い悲劇だった。 「そう。二十八歳だった」ルーが言った。 わたしは目を閉した。 「もうすっと昔のことだ」彼は言ったが、言葉は喘ぐ胸郭のなかで割れてしまった。「しかし」 ああ、その通りだろう。二十八歳はとうの昔だ。太陽がひどく痛かったので、わたしは目を閉した。 「子どもを失うなんて」レアが呟いた。「あたしには考えられない」 怒りがほとばしるように出てきて、わたしを内側から粉々にした。腕が痺れてきた。わたしはルー の医療用べッドに近づき、しやがんでしたから押し上けた。タ ] コイズ・ブルーの。フールにルーの身 体が滑り落ち、点滴の針が腕を引き裂いて外れ、血が飛び散り、しぶきとなって水に落ち、薄まって 黄色つぼい色になった。長い時間が経ったけど、それくらいの力はわたしにもある。わたしはル ] の あとについて飛び込む。レアが叫んでいる。わたしは水に飛び込んで彼の頭を沈めて膝のあいだに挟 み込み、すべてが穏やかに静かになるまで待つ。ル 1 とわたしは待っている。やがて彼はわたしの脚 カくりと揺れる。完全に動かなく のあいだで震えだし、激しく痙攣し、生命が身体を出ていく瞬間、。、 なったら放してやり、水面に浮かばせる。 わたしは目を開けた。誰も動いていなかった。ルーはまだ泣いていて、虚ろな目を。フールに漂わせ ていた。その胸を、レアがシーツのうえから撫でてやっていた。 今日は悪い日だ。太陽が、わたしの頭を噛み砕く 「わたしはあんたを殺すべきなんだ」彼の目をまっすぐに見て言った。「あんたは死ぬべきだよ」
う一回始めようとする。旅は終わりに近づきつつあり、ルーはミンディに優しくなっている。彼女は ノーが女のあとを追って行くことはますなかったからである。旅が ークレーで何か勉強していて、レ 終われば、もう一度見つめあうことがあるかさえも疑わしい。 ロルフは砂の上で本を読んでいる。シュノーケリングの道具を持ってルーがやってくると、文句を 言わすに『ホビットの冒険』をわきにどけて立ち上がる。チャーリーは無視していて、ルーは娘にも 声を掛けるべきだったかと束の間考える。父とロルフは波打ち際まで行き、マスクと足ひれをつけて、 槍をベルトの横にぶら下げる。ロルフの身体は貧相だ。もっと運動をしなければならない。それに水 を怖がっている。息子の母は読書と園芸が趣味で、ルーはロルフにおけるその影響とつねに闘い続け ていた。彼はロルフが自分と一緒に暮らすことを望んでいるが、その話を持ち出すと、弁護士はいっ もただ首を横に振るのだ。 派手な見た目の魚たちはサンゴをつついていて、簡単に標的にできる。槍で七匹捕らえるころ、ル ーは息子が一匹も捕っていないことに気づく 「どうかしたか、ロルフ ? 」水面に顔を出してから、彼は訊く。 「ぼく、見てるほうがいいんだ」とロルフは言う。 二人は外海へと突き出た岩のほうへ泳いでいく。そして注意深く水から上がる。潮溜まりにはヒト デやウニ、ナマコがたくさんいる。ロルフは腹ばいになって、それらの生き物を夢中で眺める。ルー 、、ンディが二人をビーチからフィオナの双眼鏡で見てい の魚は網に人れて、腰からぶら下げている。 る。手を振るので、二人も振り返す。 ノ」とロルフが、潮溜りから緑色の小さな蟹を摘みあげつつ訊く。「ミンディのこと、どう思 0 、 0 、 ー 110 ー
で奏でる音楽と、妻を恋う歌とを響かせながら。エウリ二アイケを死から解き放とうと許す冥王ハデ ス、ただし唯一の条件として、昇ってゆく途中ォルフエウスが振り返らないことを課す。そしてあの つまず 哀れなる瞬間、道中躓きそうになる新妻を危ぶみ、我を忘れて振り返ってしまうオルフエウス。 テッドはそのレリーフのほうへ、一歩すっ近づいていった。まるでその内側へと歩み入っていくよ うだった。それほどまでに完璧に、作品は彼を包み込み、彼の心に影響した。エウリ = デイケがふた たび冥界へと落ちてゆくことになるその一瞬前、オルフエウスと別れを交わす場面。テッドの心を動 かし、胸のガラス細工を砕いたのは、そのやり取りの静けさだった。互いに見つめあい、穏やかに触 れ合う二人に、ドラマも涙も描かれてはいない。二人の了解はあまりに深く、ロに出して言うことす らできない。それはつまり、すべてはすでに失われてしまったという、言いようのない認識だった。 テッドはレリーフを見つめたまま、三十分のあいだ立ちすくんでいた。彼は歩き去り、また戻った。 展示室を出て、また帰ってきた。その都度、感激が彼を待ち受けていた。もう何年も、芸術作品から 感じることのなかった、心臓を細かく震わせるようなあの興奮。それはさらなる興奮を、こうした興 奮を感しることがまだ可能なのだという興奮を伴っていた。 残りの時間は、二階でポンペイ出土のモザイク画を見てすごした。だが心はつねにオルフエウスと エウリュデイケを離れることはなく、博物館を出る前に、彼はもう一度レリーフに立ち寄った。 もう昼下がりだった。テッドは外に出て歩き出したが、いまだ眩惑されていたので、入り組んだ路 地裏に迷い込んでしまったことに、しばらく気づかなかった。道はとても狭く、それゆえ暗く感した。 , は幾つかの教会を通りすぎた。朽ちかけたパラツツオが教会のそばに並んでいて、不潔そうなその 内部から、猫や子どもたちの泣き叫ぶ声が漏れ聞こえた。それそれの重厚な玄関口には、上部に汚れ - 289 ー
三人で作った決まりを、自分一人で変えちゃったわけ ? 」 「変えたわけじゃない。 うつかり破ったんだ。たった一度くらい、うつかりすることがあってもいし だろう ? 」 レベッカは眉を上げた。彼女が自分を見ているのを感じた。 「なぜいまになって ? 」と彼女は言っ た。「長いことすっとそうしてたのに、なぜ今日 : : : わたしには納得できない」 「納得しないといけないことなど、ないさ ! 」アレックスはそう言いたてたが、頭のなかでは思って なぜ彼女は気づいたんだろう ? そして次に、彼女は何に気づいてるんだろう ? と。 二人はそこに立ったまま、消えゆく光のなか、互いを見ていた。キャラⅡアンはおとなしく待って いた。キャンディーのことは忘れたらしい。水上散歩道にはもうほとんど人がいなくなっていた。べ ニーとの契約を、レベッカに言うべきときだった いまだ、いましかないー だがアレックスは 麻痺したようになっていた。その報告はすでに汚れてしまった気がした。レベッカに e を打ちたいと、 狂おしいまでに思った。頭のなかでその文章を組み立てさえした。ーーー数週間ノ仕事モラッタ。儲カ ル仕事。ドウカ大目ニ見テ。 「行きましよう」とレベッカが言った。 アレックスはキャラⅡアンを抱え、抱っこ紐に戻した。暗いなか、彼らは水の壁を降りていった。 薄暗い通りを歩きながら、気づくとアレックスはレベッカに出会った日のことを思い出していた。狼 マスクのハンドバッグ泥棒を追いかけ、捕まえそこねたそのあとで、アレックスは彼女を誘い、一緒 にビールを飲みブリトーを食べた。その後アベニ = ] の彼女の下宿で、三人のルームメイトを避け て屋上でセックスした。まだレベッカの名字さえ知らなかった。そこまで回想した瞬間、唐突に、何 ー 411 ー
極度の身体的隣接性のために、図書館内の彼らと同じ妄想に感染してしまい、朦朧とした状態のなか で自分は排除されたのたと信じるようになった。五番街四二丁目の立派な図書館の外で、晴れやかな 内部の様子を想像しながら、永遠に震えて立っているよう宣告されたのだと。 おれはあすき色の髪をした受付嬢のデスクへ近寄り、両手で魚を支えて見せた。魚から出る汁が新 聞紙に染みてきていた。「魚だ」とおれは言った。 彼女は首を傾げた。まるでいま急におれの存在に気づいたみたいな顔をしてる。「ああ」と彼女は 言った。 「急がないとこれが腐っちまうと、べニーに伝えてくれ」 おれはまた座った。この待合室におけるおれの " 隣人。は男がひとりと女がひとりで、どちらも会 社勤めのタイ。フだ。二人がおれから距離を取っているのに気づいた。「 ミュ ] ジシャンなんだ」とお れは、自己紹介するように言った。「スライド・ギタ ] を弾く」 返事はなかった。 やっとべニ ] が出てきた。さつばりと、きちんとして見えた。黒いズボンに白いシャツを着て、首 許までボタンを留めネクタイはなし。そのシャツを見たとき、おれはこれまで気づかなかったあるこ とを理解した。高価なシャツは安いシャッより見栄えがいいのだ。その布地はテカテカしていないー ーテカテカしてるのは安物だ。でもそれは輝いていた。内側から光を発してるみたいに。つまりそれ は、とてつもなく美しいシャツだった。 「スコッティ、おい、元気でやってるか ? 」べニーが握手しながら言って、おれの背中を親しげに叩 いた。「待たせてすまなかった。サーシャがちゃんと相手してたんならいいんだが」べニーは言って、
「あの輪にいた連中で、何が起きてるのか気づかなかったやつがいると思うか ? 」 ステファニーは、それが事実かもしれないと怖くなったーー・みんな、一人残らす気づいてたんだろ うか ? べニーにそう思って欲しくはなかった。「気にしすぎよ。キャシーでさえ言ってる : : : 」 「まただ ! またそれだ ! 」 彼は階段の最上段で拳を握りしめていた。ステファニーはそばに寄り、両腕に抱きしめた。べ 彼の呼吸がゆっくりになるまで、二人は抱き合っていた。 が寄りかかってきたので倒れそうになった。 , ステファニーがそっと言った。 「引っ越しましよう」 べニーは後しさった。ひどく驚いていた。 とうでもいいわ。これ 「わたしは本気で言ってるの」と彼女は続けた。「あんな連中、くだらない、。 は一種の実験だったと思わない ? こういう街に住んでみたってことが」 べニ】は答えなかった。彼はあたりを見まわした。床の薔薇模様の寄木細工は、彼自らが膝をつき、 ひとつひとつ手で磨いた。こんな手の込んだ仕事を頼めるような、信頼できる業者はいなかったのだ。 彫り出したのだ。階段の吹き抜け 寝室の扉の窓も、幾層もの塗料をカミソリで何週間もかけて削り、 の窪みには、長いこと思案した挙句、一つに一つすっオブジェを置いて、照明が当たるよう調節した。 彼の父親は電気技師だったので、べニーは何でも照らすことができた。 「これはおれの家なんだ、チクショウ」 「連中を引っ越させろ - と彼は言った。 「結構よ。ただわたしの言ったのは、引っ越すことが可能だって話。明日にでも。一カ月後でも、一 年後でも、好きなときにね」 「おれはこの家で死にたい」とべニー - 163 ー
だ物を積んであるテーブルには気づかないようだった。。 ヘン、双眼鏡、鍵、子ども用のスカーフ。こ のスカーフは、小さな女の子の首から、母親に手を引かれてスター バックスを出ていくときに落ちた ものだった。サーシャはそれを拾い、ただ返さなかったのだ。そのときにはすでにコズの診察を受け はしめていたから、言い訳の呪文の数々が頭を、頭痛のようにすきすきと通っていくのを、自分で意 識することができた。 だってもう冬は終わりだ。子どもの成長は早いもの。子どもはスカーフが 嫌いだ。親子はもうドアを出ていった、手遅れだ。動揺してしまって返せなかったのだ。落ちるとこ ろを見なかったことにするのも簡単。というか実際見てなかったし、たったいま気がついたのだ あら、スカーフだわ ! 明るい黄色にピンクの縦縞の、子ども用のスカーフ : : : 気の毒に、持ち主は 誰かしら ? そうね、じゃあちょっと拾って、しばらくわたしが預かっておこう・ : ・ : 。家に着くとそ れを手で洗濯し、丁寧に折りたたんだ。たくさんの物たちのなかでも、お気に入りのひとつだった。 「これ、いったい何 ? 」 アレックスがとうとうテーブルに気づいたらしく、山と積まれた物を見つめている。それは小さい ものが好きなビ ] ーの作った作品みたいに見えた。物たちは判読しがたいけれど、出鱈目に積まれ ているわけではない。サーシャの目には、それは困惑の重みのためにほとんど揺らいで見えた。ぎり ぎりのところで得た小さな勝利、混しりけのない恍惚の瞬間。そこには彼女の人生が、凝縮されて詰 まっている。いちばん外側にあるのがあのスクリュードライ バーだ。サーシャはアレックスに近づし た。そうしたすべてを取り込んでいく、彼のまなざしに惹きつけられて。 「で、盗んだ物すべてを前にして、アレックスと一緒に立っているのはどんな気分だったかな ? 」と コズは訊く。