管理者は日本人だったが、移住者、農民、労働者、漁民、商人もやってきた。 彼らはチャモロ人と結婚し、島に定住した。そして、日々の糧を得るために島の資源を 開発した。一九三八年には、マリアナに住む七万人の日本人の半数が農民だった。あとは ほとんどが漁民だった。日本人の習慣、生活様式、生活水準は島民とあまり変わらなかっ たから、生活習慣の違いが大きな障害になることもなかった。 アメリカはグアムを海軍基地として確保することによって、グループの中で最も大きく、 最も肥沃な島を押さえ、島の経済を通常の地域経済から切り離した。一九三八年、日本領 政マリアナの貿易総額は二千五百万ドルだったのに対して、面積では他のマリアナ全域に匹 の 敵し、潜在的にははるかに生産力のあるグアムの貿易総額は、わずか七十八万五千ドルに すぎない。しかも、このうちの八〇パーセントがアメリカと米領マニラとの貿易だった。 たそして、グアムの輸人品のほとんどがガソリン、機械、自動車などグアムのアメリカ経済 らに必要なもので、現地住民の生活とはまったく関係のないものであった。 機グアムの主要かっ唯一の輸出品は石鹸の原料となるコプラで、戦前はその八〇パーセン 爆トがアメリカに輸出されていた。さまざまな要因が重なって島の農業は十分開発されず、 章食料品は定期的に輸人しなければならなかった。 第日本領マリアナでは、状況はかなり違った。日本は私たちがグアム貿易を独占する以上 に、マリアナの対外貿易を独占していたが、それは、日本人以外に貿易をするものがいな 彼らは自分たちの意思を表明する かったからだ。、 クアム島民は別だったかもしれないが、 ,
また、主都でさえ、海軍官舎を除けば、下水道が敷設されていなかった。 クアム島民は合衆国国民ではなく、軍政当局が認め 政治の面では、完全な軍政だった。。 る権利以外の市民権は与えられなかった。警察官は海兵隊員だった。陪審裁判がなく、裁 判所は軍事法廷で、上級審がなかった。そのうえ、社会的には、肌の色で厳格な差別の線 を引いていた。近代以前のスペインは、東インド諸島における現代のオランダと同じよう に、色による差別はしなかったが、上にへつらい下には威張り散らす階級制度を設け、通 貨を区別していた。それでもスペイン人はチャモロの上流階級を社会的に同等と認め、彼 政らと婚姻関係を結び、場合によって行政上の権限も与えていた。 の 私たちは、確かに全グアム島民を同一に扱った。白人と原住民の学校をはっきり区別し た。学校と官庁では英語以外の言葉の使用を禁じ、ある若い海軍行政官は、英・チャモロ た辞書を見つけて、焼いてしまうという極端なことまでしている。別ないい方をするなら、 ら私たちは人種的優位性と支配人種が存在するという考え方を導人していたのだ。つまり、 優秀な支配人種はある種の経済的、文化的特権を有するという考え方だ。賃金体系を決め 爆るにさいしても、白人労働者は、能力にかかわらず、同じ職種の現地労働者の二倍の給料 章を受け取れるようになっていた〔注 2 〕。 第アメリカの「防衛」体制に属するグアムの地位は、現地住民に単純な頭痛から完全破壊 にいたるまで、災い以外の何物ももたらしていない。そこにアメリカ国民が慎重に考え直 バーだという すべき一つの疑問がある。グアムは西太平洋における未来のパールハー
ンに取って代わったときには、非スペイン系住民は約九千人に達していた。 十九世紀の後半になると、日本人が商人や漁師として島にやってくるようになった。ス ペイン人は島の交易にはあまり興味をもたなかったが、日本人は島と島の交易、日本との 貿易を発展させていった。アメリカがスペインからグアムを獲得した一八九九年当時、数 百人の日本人が、農民、漁民、商人として定住し、チャモロ人と結婚していた。島の貿易 はほとんどすべてが日本との交易で、日本船で行なわれていた。 グアムを獲得したアメリカの現地新政府は、ただちに、日本の交易を打ち壊しにかかっ た。新政府は海軍省のもとに置かれたま 0 たくの軍政で、短期間だけグアムに派遣される の 海軍将校によって運営された。将校たちは「自由経済」という言葉など聞いたこともない みたいに振る舞った。「自由経済」はまるで認めていないようだった。アメリカはもとも たとグアムに経済的関心などもっていなかった。大事なのはグアムの戦略的位置であり、海 ら軍基地と石炭補給地に適した港だった。グアムの貿易も、貿易として考えてはいなかった。 機あくまでも戦略的見地から島を支配しようとしていたのである。アメリカの企業家もグア 爆ム貿易に関心をもってはいなかった。 章そんなわけで、日本人を交易から締め出すには、政府の力が必要だった。政府の船舶が 第商船としてつかわれた。グアムからの輸入品には関税がかからなかった。日本商船を規制 するさまざまな法律が議会を通過した。日本は価格を下げて対抗しようとしたが、確実に 地盤を失っていった。一九三八年にはアメリカはグアム貿易の八〇パーセントを握り、日
川誰のための戦略地域か グアムはアメリカ本土からあまりにも遠いから、平均的アメリカ人の日常生活には、か かわりのないところだろう。しかし、グアムはパール、 ーという大きな疑間に含まれ る疑問を数多く提起する島だ。それは、私たちが合衆国を離れてアジアに近づくにしたが って、いよいよはっきりとみえてきた。 政アメリカ大陸から九九二〇キロ、日本からはわずか四八〇〇キロのグアムはマリアナ諸 の 島の中心の島である。マリアナの歴史は逆説と矛盾をきわ立たせるためにつくられたかに みえる。その逆説と矛盾のために、とりわけ、太平洋の戦略的要衝の島に生まれてきてし たまった人たちには、国際関係がわかりにくくなっている。 見 マリアナ諸島は戦略的な場所に位置していた。そのために、原住民族のチャモロ族は十 六世紀以来、四回も外国の支配者を変えた。いずれも戦争の結果だが、住民はいつも外国 爆人の戦争には無縁の第三者だった。彼らの父祖の地は、非拡張主義と平和主義を掲げる国 章からさえ、戦争の論功行賞として合法的に取り上げられた。 第最初に来たのはスペイン人だった。 , 彼らは三世紀にわたってマリアナを占有していた。 米西戦争の後、合衆国がグアムを確保した ( 戦争中に占領したものである ) 。その他の島 はドイツが敗戦国スペインから買い受けた。アメリカは第一次世界大戦後もグアムを領有
解に苦しむのは、アメリカ国民がこの考えを喜んで、あるいは誇りをもって受け止めてい ることだ。 グアムは初めから、米本土のはるか遠くに設けられたアメリカの拠点だった。とくに日 本がマリアナ諸島を取得してからは、グアムはその中に突き刺さるトゲのように、絶えざ る痛みのもとであり、やがて何らかの病気を誘発せすにはおかないものだった。 グアムが海軍基地になった一八九九年以降、常に要塞化されるのではないかという恐れ があった。そして、この島への外国人の自由寄港が禁止され、日本人の移住が完全に止ま って、米議会で軍事基地増強の是非が論議されるようになると、とくに根拠があったわけ ではないが、アメリカは巨大基地を建設しているのではないかという疑念が、絶えずささ やかれるようになった。議会は何回も海軍基地建設への支出を否決した。それでも、アメ リカの新聞には、グアムを強力な砦にすべきであるという政策立案者や海軍高官の意見が、 繰り返し掲載された。もちろん、日本には本当のことはわからなかった。 同じように、私たちも日本が彼らの委任統治領で何をしているか、知らなかった。一九 三一年以降は、私たちもだんだんと、日本が彼らの島を軍事基地にしているのではないか、 という疑いを抱くようになった。日本が疑われる根拠はあった。なぜなら日本は、一九二 一年のワシントン海軍軍縮条約を非難して、マリアナ諸島への寄港を禁止したからである。 同条約は太平洋諸国 ( 英米日 ) が太平洋の基地を強化しないことで合意したものだった。 そしてパール、 ーのあと、私たちは日本の委任統治領が侵略行動のための大型基地
本に残されたのは二〇パーセントにすぎなかった。一九三九年には、アメリカは日本船に 対して主要港を閉鎖した。この時点で日本との貿易関係は完全に断ち切られたようだ。 どこの国の海軍もそうだが、海軍の立場でいえば、このやり方は正しいのである。間題 は、それがどこの国にとっても正しいやり方かどうかだ。日本には本当に貿易が必要だっ たが、アメリカにとっては必要でないことを日本は知っていた。だから日本にすれば、私 たちのやり方は侵略的軍事政策であり、食べたくもないのに餌を抱え込む犬のような政策 だった。そこから日本人は、海軍力で支配する領土と国家の協力がなければ、貿易は確保 できないことを教わった。だから、日本人は私たちの真似をしようとしたのだが、私たち 冫ー一口しがたいことだった。 アメリカの真似はグアム島民にとっても、 いいことではなかった。私たちがやってきた ことは、グアムを遠い国と結びつけ、島民と関係ないアメリカの国内経済の景気動向に従 属させるつくりものの経済だった。このやり方はマリアナ諸島の他の島の人々にとっても、 いいことではなかった。 ひょく グアムはマリアナ諸島の中でいちばん大きい肥沃な島である。ほかの島を全部合わせた ぐらい大きい。農業従事者、職人、漁業従事者によって開発されれば、この地域全体の繁 栄を支え、アジアの余剰人口を賄えるだけの力をもっている。 日本がドイツからマリアナ諸島を獲得してから、グアム以外の島々は、ある程度発展し た。日本人は支配階級としてのみ、やってきたのではなかった。もちろん、いちばん上の
していたが、それ以外の島は日本のものだった ( 敗戦国ドイツから得たのである ) 。第二 次世界大戦の初め、日本がアメリカからグアムを取った。一九四四年、アメリカがグアム を奪還し、マリアナのその他の島も取った。 スペインがグアムを取得できたのは、征服による領有権以外の何物でもない。アメリカ トイツがマリアナ がグアムを領有しているのも、征服による領有権以外の何物でもない。、 を所有していたのは、スペインから買った権利によるものだった。日本は征服による権利 としてマリアナ諸島を得た。第一次世界大戦当時は、日本も平和愛好国の一員だったから、 第一次世界大戦の平和愛好国機構である国際連盟から、領有権を認められたのだ。 アメリカ合衆国は第一一次世界大戦の平和愛好国の一員として、第二次世界大戦の平和愛 好国機構である国際連合から領有権を認められるだろう。しかし、この間題の相談にあず からないチャモロ族には、何から何までわからないのである。 チャモロ族は初めから平和愛好民族だったのではない。十六世紀、スペインが彼らを平 定しキリスト教徒にするためにやってきたとき、彼らは抵抗した。しかし、三十年にも及 んだ戦争、その後につづいた疫病と混乱の歳月が、チャモロの人口を四万から二千五百ま で減らしてしまった。生き残ったチャモロ族がスペインに降伏し、以来、彼らは平和愛好 民族としてやってきたのである。 ワイ チャモロ社会が新しい状況に適合していくにともなって、人口は徐々に増えた。ハ と日本からの移住者がチャモロ人と混じり合って人口はさらに増えた。アメリカがスペイ
8 ことを許されていなかった。日本人は農業を奨励し、砂糖産業を開発した。これは日本国 内で必要なものだったが、現地住民にとっても砂糖は当然開発すべきものだった。日本人 は魚の養殖技術も研究した。これもこの地域の発展に役立つものだった。 日本人は島民に安い木綿の衣服、安い靴、塩、タバコなど、日常生活を快適にする品物 を売っていた。いい換えれば、アメリカ人の信条である物とサービス財の正常な交換が発 達していたのだ。もし日本人が統治者としてではなく、島民として、軍事力と国力の増強 に頼らずにそのすべてを成し遂げていたら、地域経済の立場からいえば、何の問題もなか ったのだ。 一方、グアム島民の立場から私たちのグアム統治と経営をみるなら、彼らはいったい何 を得ることができたのだろうか。私たちは、もちろん彼らを「虐待 , しなかったし、軍政 は効率よく機能していた。経済をある程度の低水準で安定させ、公衆衛生制度を確立した。 一九三八年から、主都の一つの病院で無料医療サービスを開始し、外国人医師、歯科医師、 看護婦を村の診療施設に派遣して、地方の公衆衛生体制を整備した。これらの施策はかな りの効果を上げ、一九四〇年までにグアムの人口は倍増した。しかし、経済的繁栄と市民 的自由は与えなかった。 経済の面では、私たちは均衡ある発展には貢献していない。私たちは高い税金を課し、 小作農は土地税を払っていた。島民に近代的便利さを与えなかった。一九四一年まで、主 都の水さえ浄化されていない。島民は毎年赤痢に悩まされ、幼児が死亡することもあった。
9 グアム クワジャリンを飛び立ってから八時間。夢のような雲の峰を抜けて降下を始めたとき、 らグアム島が緑鮮やかな波に縁取られた青い樹林の広がりとなって現われた。丸一日この島 にいられるというので、私たちと同じように仕事で東京に向かう陸軍少佐が、どこからか 爆ジープを一台かすめてきた。ひと泳ぎしてから、島を見物しようということになった。 章海水浴場は金色の砂浜だった。椰子の林に囲まれて湾曲する景色が絵のように美しい レディーズ フィーメイルズ 第しかし、更衣室が「ご婦人用」と「女性用」の二階級に区別されている。民主主義が繁栄 するのはアメリカ本土だけといわんばかりだ。もっとも、設備はご婦人用も女性用もまっ たく同じで、どっちにしろたいしたものではなかったから、普通のアメリカ女性みたいに 共同財産制度を破ろうとした。当然、これは島の上流階級には不人気だったが、一般島 民は歓迎していた。 0 、 1 レ、 ジョンストン島と同じように、クワジャリン環礁は実に重い、しかし 答えのない疑間を突きつけてくるのだった。
81 第一章爆撃機から見たアメリカの政策 Felix M. Keesing, The SO ミ se 斗 0 0d0 0 「ミ (The John Day company) 」「 0 、、 0 ミ d S き、・ ( sm 一 ( h00 三目一 n , ( デ三 on ) を参考にした。ミ 0 「 Ba g 「 0 ミミ d S ミミ ) には アジア・太平洋の人々に関する美しいイラスト入りパンフレットが含まれている。米陸軍 省歴史局発行の G さミは戦争、とくに軍事技術問題に関する報告だが、将来グアムとグ アム住民の問題を論議するうえで貴重な資料。グアムの基地問題に関しては ~ ミ斗 T ぎから多くの有益な記事を参考にした。引用文献の解釈はすべて著者の責任による。 3 と】】 erican council, lnstitute 0 ( pacific Relations Far Eas ( 0 Survey'June 5 言 946. 4 Sup 「 0m0 command ( 0 「 the と = ed powe フ連合国最高司令部ーー実際には、マ , カーサー 将軍とその指揮下にある軍人と文官で構成されていた。