らべると、秀吉はむしろ優れた判断力と忍耐力をもって行動していたように思える」〔注 四 4 〕と書いている。 サンソンはさらに、日本のキリスト教弾圧は宗教的なものではなく、「明らかに政治 的」だった、というのである。日本の改宗者はスペインとポルトガルの手でキリスト教に 入信した人たちである。当時、この両国は「世界征服」を意識しないまでも、遠隔地に広 がる多くの領土を占領しようとしていたし、実際に成果をあげていた。日本では、日本と の取引交渉に難航するスペイン人船長が、スペイン領が記されている世界地図をとり出し、 もしスペインの貿易商人に協力しなければ、スペインに征服された他の民族と同じ運命を たどることになる、と地方役人を脅かしていた。 日本人が、スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのかと質問すると、ス ペイン人は簡単なことだと答えた。まず、原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。 改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するよう仕向ける。 そしてスペインが占領する、というのだ。スペイン人は西洋人の平和目的を信じこませよ うとしているのではないし、彼らが宗教に関して公平無私であるといっているわけでもな 当時のヨーロッパでは、狂信的カトリック教徒の暴力化は当たり前のことで、それが日 本にも現われ始めていたのだ。その後、スペイン、ポルトガルのカトリック勢力につづい て、オランダとイギリスのプロテスタント布教団がやってくると、貿易競争や国家対立と
通せば、それが正しくないことがわかるのだが、この宣伝文句の大きな間題点はそこにあ るのではない。 こんなことをいったら、日本人だけでなく、政治意識をもつアジアの人々 には、アメリカ人がおろかしくみえる、ということなのだ。 私たちが日本にきた目的は、軍国主義的侵略性をもって生まれた日本人を「改革」する ことである。この「生まれつきの」軍国主義なるものを、日本人の過去に求めるとすれば、 十六世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の失敗の記録ぐらいのものだ。しかし、この遠征 をとらえて日本民族を生まれつき軍国主義者と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、 イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たち自身のことはどう性格づけしたら いいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は十五世紀から、まさしく「世界 征服」を目指して続々と海を渡ったではないか。 日本とアジアの目で見ると、日本に歴史的侵略の罪を着せる私たちの姿は、自分のガラ スの家を粉々に壊している ( 訳注・自分の罪を棚に上げて他人を非難している ) 立派な紳士だ。 私たちの非難は、むしろ、明治までの日本がいかに拡張主義でなかったか、これに対して ヨーロッパ諸国がいかに拡張主義であったか、をきわだたせる。 秀吉の軍隊が朝鮮から追い払われた同じ時期、スペインはベルーとメキシコを征服し終 え、フィリピンに地歩を固めていた。ポルトガルは世界を駆け巡り、ジャワ、インド、マ レーの沿岸地帯、マカオ、中国沿岸部に及ぶ広大な帝国を築きつつあった。イギリス、オ ランダはスペイン、ポルトガルと競いながら、徐々にポルトガル領の大部分とスペイン領
していたが、それ以外の島は日本のものだった ( 敗戦国ドイツから得たのである ) 。第二 次世界大戦の初め、日本がアメリカからグアムを取った。一九四四年、アメリカがグアム を奪還し、マリアナのその他の島も取った。 スペインがグアムを取得できたのは、征服による領有権以外の何物でもない。アメリカ トイツがマリアナ がグアムを領有しているのも、征服による領有権以外の何物でもない。、 を所有していたのは、スペインから買った権利によるものだった。日本は征服による権利 としてマリアナ諸島を得た。第一次世界大戦当時は、日本も平和愛好国の一員だったから、 第一次世界大戦の平和愛好国機構である国際連盟から、領有権を認められたのだ。 アメリカ合衆国は第一一次世界大戦の平和愛好国の一員として、第二次世界大戦の平和愛 好国機構である国際連合から領有権を認められるだろう。しかし、この間題の相談にあず からないチャモロ族には、何から何までわからないのである。 チャモロ族は初めから平和愛好民族だったのではない。十六世紀、スペインが彼らを平 定しキリスト教徒にするためにやってきたとき、彼らは抵抗した。しかし、三十年にも及 んだ戦争、その後につづいた疫病と混乱の歳月が、チャモロの人口を四万から二千五百ま で減らしてしまった。生き残ったチャモロ族がスペインに降伏し、以来、彼らは平和愛好 民族としてやってきたのである。 ワイ チャモロ社会が新しい状況に適合していくにともなって、人口は徐々に増えた。ハ と日本からの移住者がチャモロ人と混じり合って人口はさらに増えた。アメリカがスペイ
を企てた。しかし、フビライの艦隊は二回とも台風に追い払われた〔注 2 〕。 十六世紀、最初のヨーロッパ人が極東に来たとき、彼らは日本列島に食指を動かさなか った。スペイン人とポルトガル人にとっては、日本人をキリスト教徒にするほうが大事だ った。貿易はある程度伸びたが、世界各地に豊かな植民地をもっ彼らは、たいした資源も ない島には魅力を感じていなかったのだ。 十七世紀に、スペイン人、ポルトガル人のあとからやってきたイギリス人とオランダ人 も同じだった。イギリスとオランダは、スペイン、ポルトガルと争って東南アジアの豊か な領土を奪うのに忙しかった。だから、日本人が、よその土地にきていがみ合い、徐々に 侵略性をむきだしにしていくヨーロッパ人に警戒心を強めて、彼らに国外退去を命じたと きも、ヨーロッパ人たちは日本をどうにかしようとは思わなかった。そして、外国人は日 本から出ていったのだ。 育 教日本人が小さい島の限られた中で独自の文明を育んでいたときも、世界支配を目指すョ ーロッパ人同士の争いはつづいていた。十六、十七世紀のヨーロッパ人は拡張主義者だっ 革 ーマンに変えた。太平洋諸島とアジ 改た。そして十八、十九世紀、産業革命が彼らをスー 五アの現地住民はもともと争いを好まなかったから、科学の力を身につけたエネルギッシ = やり 第な白人にたちまち征服された。銃で武装した白人からみれば、槍で武装した現地住民など 物の数ではなかったし、大砲を積んだ蒸気機関の軍艦を、帆掛け舟と弓矢で追い返すこと などできるはすもなかった。世界の未開発地域は、ヨーロッパのいずれかの国に次々と踏
川誰のための戦略地域か グアムはアメリカ本土からあまりにも遠いから、平均的アメリカ人の日常生活には、か かわりのないところだろう。しかし、グアムはパール、 ーという大きな疑間に含まれ る疑問を数多く提起する島だ。それは、私たちが合衆国を離れてアジアに近づくにしたが って、いよいよはっきりとみえてきた。 政アメリカ大陸から九九二〇キロ、日本からはわずか四八〇〇キロのグアムはマリアナ諸 の 島の中心の島である。マリアナの歴史は逆説と矛盾をきわ立たせるためにつくられたかに みえる。その逆説と矛盾のために、とりわけ、太平洋の戦略的要衝の島に生まれてきてし たまった人たちには、国際関係がわかりにくくなっている。 見 マリアナ諸島は戦略的な場所に位置していた。そのために、原住民族のチャモロ族は十 六世紀以来、四回も外国の支配者を変えた。いずれも戦争の結果だが、住民はいつも外国 爆人の戦争には無縁の第三者だった。彼らの父祖の地は、非拡張主義と平和主義を掲げる国 章からさえ、戦争の論功行賞として合法的に取り上げられた。 第最初に来たのはスペイン人だった。 , 彼らは三世紀にわたってマリアナを占有していた。 米西戦争の後、合衆国がグアムを確保した ( 戦争中に占領したものである ) 。その他の島 はドイツが敗戦国スペインから買い受けた。アメリカは第一次世界大戦後もグアムを領有
百年、千年の長い歴史の中で、秀吉の朝鮮侵略とキリスト教改宗者の迫害のことしか論じ られていない。確かにこの二つの事実は日本史の汚点だが、どうしてそれが日本人だけを きわだたせることになるのか理解できない。いったい過去に隣国を攻めなかった大国があ ったろうか。日本人がキリスト教徒を迫害していたころ、西洋ではキリスト教徒がキリス ト教徒を迫害していた。これは西洋文明の大きな特徴ではないのか。 この種の論理の脆さは、複雑な日本の歴史を極端に単純化していることにある。と同時 に、日本の歴史と他の文明社会の歴史を同時代で比較していないことにある。秀吉の武将、 あるいは政治家としての行動を正しく分析するには、彼がスペインの異端審問時代と同じ 時代に生きていたことを考えに人れなければならない。スペインがベルーとメキシコを血 で征服した時代でもあった。そこでは、十字架は剣と同じシンポルだった。力による奴隷 貿易や、アジアの領土と世界中の島国を血で征服していったことを思い起こすべきだ。そ 性 略れは、この時代の西洋の歴史を特徴づけるものだが、同じころ、日本は鎖国の中に閉じこ 的 もっていたのだ。 伝 0 。、、レ、 ーバー以前 アジアの歴史家は、こういう西洋の歴史をしつかりと覚えている 章は、日本について語るときは、西洋の歴史家もこの点を押さえていた。たとえば、イギリ 第 スの歴史家、ジョージ・サンソン卿 ( その著書『日本ーー・文化小史』は西洋の学者が日本 について書いたものとしては、最も権威ある労作として知られている。そればかりでなく、 あらゆる本の中で最も素晴らしい本の一つである ) は「同時代のヨーロッパの残忍性にく
ンに取って代わったときには、非スペイン系住民は約九千人に達していた。 十九世紀の後半になると、日本人が商人や漁師として島にやってくるようになった。ス ペイン人は島の交易にはあまり興味をもたなかったが、日本人は島と島の交易、日本との 貿易を発展させていった。アメリカがスペインからグアムを獲得した一八九九年当時、数 百人の日本人が、農民、漁民、商人として定住し、チャモロ人と結婚していた。島の貿易 はほとんどすべてが日本との交易で、日本船で行なわれていた。 グアムを獲得したアメリカの現地新政府は、ただちに、日本の交易を打ち壊しにかかっ た。新政府は海軍省のもとに置かれたま 0 たくの軍政で、短期間だけグアムに派遣される の 海軍将校によって運営された。将校たちは「自由経済」という言葉など聞いたこともない みたいに振る舞った。「自由経済」はまるで認めていないようだった。アメリカはもとも たとグアムに経済的関心などもっていなかった。大事なのはグアムの戦略的位置であり、海 ら軍基地と石炭補給地に適した港だった。グアムの貿易も、貿易として考えてはいなかった。 機あくまでも戦略的見地から島を支配しようとしていたのである。アメリカの企業家もグア 爆ム貿易に関心をもってはいなかった。 章そんなわけで、日本人を交易から締め出すには、政府の力が必要だった。政府の船舶が 第商船としてつかわれた。グアムからの輸入品には関税がかからなかった。日本商船を規制 するさまざまな法律が議会を通過した。日本は価格を下げて対抗しようとしたが、確実に 地盤を失っていった。一九三八年にはアメリカはグアム貿易の八〇パーセントを握り、日
また、主都でさえ、海軍官舎を除けば、下水道が敷設されていなかった。 クアム島民は合衆国国民ではなく、軍政当局が認め 政治の面では、完全な軍政だった。。 る権利以外の市民権は与えられなかった。警察官は海兵隊員だった。陪審裁判がなく、裁 判所は軍事法廷で、上級審がなかった。そのうえ、社会的には、肌の色で厳格な差別の線 を引いていた。近代以前のスペインは、東インド諸島における現代のオランダと同じよう に、色による差別はしなかったが、上にへつらい下には威張り散らす階級制度を設け、通 貨を区別していた。それでもスペイン人はチャモロの上流階級を社会的に同等と認め、彼 政らと婚姻関係を結び、場合によって行政上の権限も与えていた。 の 私たちは、確かに全グアム島民を同一に扱った。白人と原住民の学校をはっきり区別し た。学校と官庁では英語以外の言葉の使用を禁じ、ある若い海軍行政官は、英・チャモロ た辞書を見つけて、焼いてしまうという極端なことまでしている。別ないい方をするなら、 ら私たちは人種的優位性と支配人種が存在するという考え方を導人していたのだ。つまり、 優秀な支配人種はある種の経済的、文化的特権を有するという考え方だ。賃金体系を決め 爆るにさいしても、白人労働者は、能力にかかわらず、同じ職種の現地労働者の二倍の給料 章を受け取れるようになっていた〔注 2 〕。 第アメリカの「防衛」体制に属するグアムの地位は、現地住民に単純な頭痛から完全破壊 にいたるまで、災い以外の何物ももたらしていない。そこにアメリカ国民が慎重に考え直 バーだという すべき一つの疑問がある。グアムは西太平洋における未来のパールハー
事実、この時期、朝鮮軍のほうが日本軍より戦上手だった。朝鮮側は独自に開発した新 型「戦艦」で日本の侵略軍に大損害を与えた。だからといって、私たちは、朝鮮は生来侵 略的であるとはいわない。当時の日本軍が唯一有利だったのは、スペインとポルトガルか ら仕入れた西洋式火器で装備されていたことぐらいのものだ。 日本の歴史的軍国主義を告発するホーンべックは、一五七八年の秀吉から一気に一九二 七年の田中メモランダム ( 捏造の可能性もある ) に飛躍する。彼は三世紀半のハードルを 跳び越えながら、「帝国の創設者」としては失敗した秀吉が、数多くの国内改革に成功し た事実には触れないのである。アメリカの歴史学者、・ナイ・シュタイガー教授は、秀 吉の国内改革を評価して「 : : : 十六世紀の外交家、政治家としては世界的に優れた一人で ある , 〔注 2 〕といっている。 しかし、秀吉の個人的資質はともかくとして、彼の海外遠征は成功しなかった。それか ら三百年間、日本軍は一度たりとも外国に足を踏み人れたことがない〔注 3 〕。 4 「伝統的軍国主義者。 われわれはいかなる宗教にも介入するつもりはない。 しかし、これからは宗教が軍国
236 ソ連は本土面積六三〇万平方マイル、本土人口一億八千三百万人で、全支配面積は八八 一万九七九一平方マイルにのぼっていた。 そして、「歴史的拡張主義者」の日本カノー ー当時、太平洋地域で支配してい ーセントだった。 た面積は全体のわすかに〇・二パ こうした中でアメリカの立場は興味深い。当然のことながら、私たちは自分たちのこと を侵略的民族であるとは思っていない。もし誰かにアメリカは「世界支配の歴史的野望」 をもって行動していたなどといわれようものなら、私たちは震え上がってしまうだろう。 それでも、私たちの国と文明の発達を、前近代の日本と比較すれば、違いは驚くべきもの である。私たちは初めてこの地に移ってきてから三百年の間に、先住民、イギリス、メキ シコ、スペインを打ち破り、フランスを脅かし、国家統一のための内戦を戦い、大陸の三 〇〇二万二三八七平方マイルを獲得して定着した。そして、国境を越えて進出し、ときに は大陸の縁から七〇〇〇マイルも外に出て大国と戦ったり、現地住民の反発を抑えて七一 万二八三六平方マイル ( 日本列島の五倍に相当する面積 ) の海外領土を得たのである。 日本人は民族として活動を開始してから一八六八年に近代に人るまでの、少なくとも千 八百年の間、「征服」して住みついたのはわすかに自分たち自身の島の南と中央だけ、面 積にして九万一六五四平方マイルの領土にすぎない。 一八五三年、ペリーが「門戸を開放 した」ときには、日本人は海外領土をもっておらず、日本固有の北の島に細々と植民して いるだけだった。