ロシア - みる会図書館


検索対象: アメリカの鏡・日本
44件見つかりました。

1. アメリカの鏡・日本

ういう日本を助けたのは、国際的対立関係、具体的には大英帝国とロシアの伝統的対立だ 2 った。アメリカがモンロ ー・ドクトリンと「門戸開放政策を打ち出せたのもこの対立の おかげだった。 歴史は繰り返さないという人たちは、日本という立場から、歴史に近づいてみるべきだ。 「共産主義」という言葉が聞かれるようになる以前から、イギリスは自分たちの合法的領 分とみなす地域に、拡張主義のロシアが人ってくるのを防ぐために、同盟相手を変えなが らさまざまな手段を駆使して戦っていた。 一八五四年、アメリカが他に先駆けて日本を国際潮流に引き入れることができたのは、 イギリスとフランスがロシアの地中海進出を阻止するために、クリミア戦争でトルコ帝国 を支援するのに忙殺されていたからだ。英仏両国にしてみれば、ロシアの地中海進出は、 極東に展開する自分たちの帝国と勢力圏にいたる独占ルートを脅かすものだった。 地中海で阻止されたロシアは、太平洋への出口となる不凍港を求めて、北東アジアへの 進出を図った。ロシアは英仏が中国からカで引き出した譲歩を利用して、日本と朝鮮北部 に隣接する沿海州とウラジオストクを確保した。そして、日本本土の北に位置し、地理的 には日本列島の一部である樺太と千島列島に人り込んだ。一八五九年、ロシアは日本に樺 太の領有を認めるよう要求したが、日本はこれを拒否し、代わりにロシアが先取した領土 の購人を提案した。 一八七五年、最終的に取引が成立し、これによってロシアは千島列島の領有権をあきら からふと

2. アメリカの鏡・日本

香港にイギリス、雲南省にフランスというように、中国はいくつかの「勢力圏ーに画然と 分割された。日本は韓国を手に入れ、福建省を確保したが、この地域では具体的開発に手 をつけていない。 外国勢力の進出で、中国は混乱状態に陥った。義和団事件が起き、欧米列強と日本の連 合軍に徹底的に鎮圧された。いまや独立国となった日本は、イギリスの完全なるパートナ ーとして、西洋文明のために非文明の中国と戦って「立派な仕事」をしていた。 多くの国が中国割譲に殺到した事実は、極東に介人した超大国がイギリスとロシアだっ る すたことを不透明にしているが、両国が超大国であったことに変わりはない。中国本土のイ ギリスと満州のロシアは、それそれ鉄道建設、鉱山開発、工場建設などの大事業を着々と 的進め、経済権益を追求していた。韓国の日本は小さい存在だったが、ライバルとしてのカ 給を貯えていた。日本は韓国と中国における彼らの「権益」はイギリスあるいはロシアの権 益以上に、当然のものであると考えていた。二つの超大国はいたるところに大きな権益を の もっていたから、中国における彼らの行動はケーキ用のあわだてクリーム程度のものだっ 初 最たが、日本にとって、中国は生きるためのパンでありバターだった。 章 日本は競争相手の大国のどこかに助けてもらわなければ、自分たちの権益を確保できな 第 かった。日本にとって幸運だったのは、ロシアを押し返すという点では、イギリスと利害 が一致していたことである。日清戦争後に締結された日英同盟は、やがて日本とロシアが 戦うことを想定して、日本強化のために結ばれたものである。一九〇四年、日本はロシア こ

3. アメリカの鏡・日本

日本が日露戦争の「賠償」として、ロシアから南満州鉄道を獲得した。中国東部鉄 道は引きつづきロシアが保持した。 一九二〇年 ロシア革命のあと、ソ連は帝国主義政策を放棄し、次のように宣言した。「ソ連政府 は : : : 前ロシア帝国政府が占有していた中国東部鉄道を中国の主権のもとに返還する。 この間に、中国革命が起き、満州王朝は倒された。 見返りは一セントも要求しない、。 中国は共和国を樹立しようとしたが、さまざまな外国勢力がさまざまな軍閥を支援し、 国内は混乱状態がつづく。満州は張作霖が支配していた。彼は武力で握った権力を、日 本の支援で維持していた。このため、ソ連は鉄道を返還すべき相手が明確でないとし 質 資て、実際には返還しなかった。 ち 者 一九二六ー二七年 育 教張作霖はソ連軍将校を相次ぎ逮捕し鉄道を占拠しようとしたが、果たせなかった。 章 十 第 一九三一年 満州事変

4. アメリカの鏡・日本

430 各国の足並みの乱れによって挫折した。一九三〇年代以降、アメリカとソ連の政策は、イ ギリスが頑迷に踏襲する昔のパターンへと徐々に回帰していった。そして、第二次世界大 戦後は、この両国が圧倒的な力を発揮して、世界を逆もどりさせているのである。 そこで、極東における国際法が改善されたかどうかを知るために、在満鉄道と旅順をめ ぐる争いを簡単に振り返ってみたい。 一八九六年 ロシアが満州とウラジオストクを結ぶ鉄道建設のための租借権を満州中国 ( 訳注・清 国 ) から得た。日本を狙った秘密条約で合意が交わされた。八十年間で中国まで鉄道を 延ばすというものである。中国は共同経営者だが、運営はロシアに一任する。これが、 いわゆる中国東部 ( 訳注・東清 ) 鉄道である。 一八九八年 ロシアは満州中国政府から中国東部と旅順港を結ぶ南満州鉄道 ( 訳注・東清鉄道のうち、 長春と旅順間の鉄道 ) の建設権を得た。旅順港は、日清戦争後、ロシアが日本の介人を防 ぐのを助けた見返りに、中国から得たものである。 一九〇五年

5. アメリカの鏡・日本

中国人はこうした体制に不満を抱いていた。満州王朝を倒した中国人は、次は弾圧的な 彼らにとって支配階級と西洋列強の癒着は、 四地方小君主と西洋列強からの解放を目指した。 , もはや耐えられないものになっていた。中国はいっ爆発するかわからない火山だった。 メキシコを含 中国に特権をもつ国は、ヨーロッパのほとんどの国とブラジル、ベルー め全部で十三にのぼる〔注 6 〕。しかし、はじめから、巨大な経済権益をもっ最大の外国 勢力はイギリスである。 日露戦争までは、ロシアがイギリスと並ぶ勢力だった。一九〇四年から五年にかけて、 日本はロシアと戦ってその勢力拡大を食い止めてくれた。そして、日本は活動の場を朝鮮 半島と満州に限定していたから、イギリスをはじめとする西洋列強は、中国本土でほしい ままに振る舞うことができた。しかし、第一次世界大戦でカの均衡が崩れた。敗戦国ドイ ツがもっていた山東省を獲得しようとする日本の試みはアメリカに妨げられたが〔注 7 、、 日本は大戦を利用して、強引に中国での権益を求めていった。それ以上に極東の「安定」 を揺さぶったのは、共産主義革命という形をとって再び出現したロシアである。中国に権 益をもち、アジアとその周辺地域に植民地をもつ大国にとって、共産主義ロシアは帝政ロ シアよりずっと危険な対抗勢力だった。ツアーのロシアは「合法的に」ゲームをしていた が、ソ連は「帝国主義、を否定し、帝政時代の「不平等条約」を認めず、西洋列強が特権 を享受しているシステムの基盤そのものを直撃してきたのである。 加えて、ソ連の既存体制否定と革命的スローガンが、中国の革命的大衆の感情に火を点

6. アメリカの鏡・日本

満州は日本 ( そしてロシア ) の勢力圏として認められていたはずである。 芻しかし、第一次世界大戦までの日本は、列強の中でそれほどの力はもっていなかった。 初めは、イギリスとロシアが二大勢力だった。日露戦争の時点では、満州を含む対中国投 資はイギリスが三三パ ーセント、ロシアが三一・五パーセントを占めていた。この戦争で 日本はロシアを北満州とモンゴルまで押しもどし、韓国と満州にしつかり食い込んだ。 日本は資本力と投資力がなかったから、イギリスが支配的役割を果たしている中国本土 では、まともに竸争はできなかったが、第一次世界大戦を契機に、中国への進出攻勢をか け始めた。日本の対中国投資と商業利益は徐々に増大し、一九三一年までに、ほとんどイ ギリスと肩を並べた。それでも、イギリスにとって中国での権益は広大な支配圏の中の小 さな一部にすぎないのに、日本にはパンでありバターだった。一九三一年、外国の対中国 投資はイギリスが三六・七パーセントを占め、ソ連は八・四パーセントに落ちた。そして 日本は三五・一。、 ーセントまで上がっていた。 この時期、アメリカの存在は小さかった。一九〇一一年、私たちの投資占有率は〇・一。 ーセントにすぎない。満州事変の一九三一年には六・一。 ーセントまで上がったが、同じ 年イギリスの投資総額が二十億ドルだったのに対して、アメリカは二億ドルにも達してい 一九三一年、日本の投資は十一億三千六百九十万ドルにのぼっている。ここで注目すべ き点は、日本の対中国、対満州投資は対外コミットメントのかなり大きな部分を占めてい

7. アメリカの鏡・日本

アーリスト・ロシア、「進歩的」王政主義者日本、民主的共和主義者アメリカ。 アクションⅡロシアと日本が戦い、日本人が勝つ。アメリカ大統領ルーズベルト ( セ オドア ) の「仲介」で講和条約が調印され、ロシアは満州 ( 全当事国が中国の一部とみ なしている ) の権益を勝利者日本に引き渡す。日本は中国の「合法的承諾」を得る。 時Ⅱ一九四五年。場所Ⅱクリミア半島ャルタ。登場キャラクターⅡ共産主義ロシア、 君主帝国イギリス、共和主義アメリカ合衆国。 アクションⅡソ連、イギリス帝国、合衆国がドイツと戦争をしている。イギリス帝国 と合衆国は日本と戦っている。ソ連と日本の間には不可侵条約がある。米英の代表団が ソ連に、ドイツが敗れたら条約を破棄して日本に宣戦布告するよう説得している。その 質 資見返りとして、両国代表団は日本が満州にもっている権益をソ連に引き渡す約束をして ち いる。中国の「合法的承諾」は合衆国代表団が保証する。 者 育 教国際関係は民主主義諸国が関与しているかぎり、いつも道徳的に高められていくと考え 章 る人がいるかもしれない。しかし、極東の事件からは、この説の正しさは証明できない。 十 第 米国政府はその外交政策を通じて、中国のみならず一一十世紀の世界を混乱させてきたパワ ・ポリティクス的なものに、たゆまぬ圧力をかけてきたはすだった。しかし、ヤルタで その努力を投げ出してしまったのだ。

8. アメリカの鏡・日本

順港を含む遼東半島のロシア領有地、ロシアの南満州鉄道、樺太の南半分を獲得し、アジ きようとうほ ア大陸に橋頭堡を築いた。ロシアが大陸にもっていた諸権利の譲渡に関しては、もちろん 条約に基づいて中国の同意を得ていた。 若い同盟国に、こういう問題は「法的に」処理しなければならないと教えたのはイギリ ーこ関して出す諸要求の法 スである。中国との間で締結された諸条約が、その後日本が満冫 ー・リツ。フマン 的根拠になっていった。 ( アメリカのフィリピン獲得について、ウォルタ が説明しているように ) 満州と遼東半島における「責任」を担った日本は、以後、「カの る す均衡をはかる」ことを義務づけられるのである。 行 ロシアと日本が和平交渉を進める過程で、イギリスは日英同盟を更新した。新たな同盟 的関係では「韓国の独立 , は忘れ去られ、その代わり、イギリスは韓国と中国における日本 冾の「政治、軍事、経済」権益を永久に尊重することを約束した。これに対して日本は中国 とインドにおけるイギリスの永久権益の尊重を約束した。 しのぶ の日本がこの時代をどのようにみていたか、早稲田、法政両大学の国際政治学教授、信夫 じゅんべい 最淳平博士は「近代日本に対する西洋の影響」〔注 2 〕の中で、次のように要約している。 章 第 日英同盟の主目的は、中国における英国の権益と、中国、韓国における日本の権益を 第三国の侵害から守ることであった。日清戦争ののち、日英両国は共通の利益が極東に おいて結びついているとの認識を得た。とくに英国は、義和団事件で日本が果たした優 ・アーサー

9. アメリカの鏡・日本

ロシア、フランスが韓国に代表部を開いた。 日本はまだ欧米列強の半植民地国だったが、韓国では、後れた国民を近代化する役割を 担う、列強と対等の「進歩的」〔注 1 〕勢力として認められていた。欧米の進出が、日本 に革命的状況をもたらしたように、韓国にも革命的状況がつくり出された。韓国の「進歩 的」勢力の先頭には日本が立っていた。当時、日本は進歩的勢力を代表し、中国は近代化 に反対する保守勢力を代表していた。韓国の最も戦闘的で「進歩的」な若い世代は、親 こ日・反中国勢力になった。欧米列強が日本の親欧派を支援したように、日本は韓国の親日 す派を支援した。そして「事件」が起きた。日本の侵略的行動を警戒する中国は、韓国の首 絎都に駐在代表を派遣した。中国のこの動きは、当然、緊張を高めた。 的イギリスは日本の韓国での行動を、注意深くかっ好意的に見守っていた。ロシアはすで 合 にウラジオストクに根を下ろし、中国から満州横断鉄道の建設権を得ていた。 一八八四年、 韓国国王はロシアに軍隊の養成を依頼し、その見返りにポート・ラザレフ ( 訳注・永興湾 ) 教 のを海軍基地、石炭補給基地として提供しようとした。これは日本、中国、イギリスを怒ら 最 せた。日本と中国の抗議で韓国の申し出は実現しなかったが、イギリスは念を人れて、朝 ハミルトン ( 訳注・巨文島 ) を占拠し二年間そこにとどまっ 六鮮半島の先端に近いポート・ こうしたことから、戦略的に重要な韓国は、カが弱いために基地と土地使用の要求を拒 プロピンキティ 1 否できないことがはっきりした。ロシアの領土的近接と満州への急速な進出は韓国にとっ

10. アメリカの鏡・日本

することだった。リバイバル版の筋書では、中国が日本の役を演じ、ロシア ( ソ連 ) の対 抗勢力にはイギリスに代わってアメリカが登場している。 今日、私たちは日本の近代史全体が「凶暴で貪欲」であったと非難している。私たちは その罰として、日本が十九世紀に獲得した帝国領土を没収した。この訴訟の法解釈は実に 斬新だ。つまり、実行行為の段階では犯罪とみなされず、しかも現行裁判の担当判事の何 ほうじよ 人かが幇助した行為で、被告を有罪にできるという解釈だ。一九四三年カイロで、大英帝 国のチャーチル首相、アメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、それぞれの国を代表して、 日本は韓国人を「奴隷にした」と宣言した。しかし、民主主義国のアメリカとイギリスは、 ーとシンガポールを攻撃されて初めて、日本が韓国人を「奴隷にしているー ことに気づいたのだ。 今日、日本を裁く判事席に着いている三大国の中で、当時日本の対韓国政策に反対して いたのはロシアだけだが、そのロシアも日本の韓国での行為が許せなかったのではなく、 自分が日本の地位を占めたかったにすぎない。その当時の米英両国政府にとっては、ロシ アが韓国にいるより日本にいてもらったほうがよかったのだ。 十九世紀半ばの韓国と中国は、日本と同じように、西洋文明から遠ざかっていたかった のだ。しかし、欧米の本当の狙いである中国が最初に開かれ、ついで中国を狙ううえで戦 略的に重要な日本が開かれた。欧米列強にとって韓国は直接的な意味をもっていなかった。 だから、韓国は一八七〇年代半ばまで、「隠者の国 , でいることができたのだが、日本は どんよく