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検索対象: アメリカの鏡・日本
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1. アメリカの鏡・日本

つけたことから、「不平等条約」という名前で呼ばれた条約である。一八四四年以降この 四条約で保護された外国人社会は、共同して治外法権をより有利な特権的制度へと発展させ ていく。 外国の租界と割譲地では、外国人は完全に中国の法律の外にいた。彼らが輸人する製品 には、条約で決められた低率の関税しかかからなかった。外国人は税金を払わず、罪を犯 しても中国の裁判所で裁かれず、同国人の中から任命された判事によって裁かれた。各国 はそれぞれ自国の銀行と郵便制度をもち、中国国内に自国の軍隊を駐留させ、中国の河川 や港に自国の軍艦を配備して、自国民の生命、財産を守っていた。 中国の金融活動はほとんど外国人に握られていた。対外貿易と国内の産業開発も、外国 人が握っていた。今日でも、中国人の八〇パーセントは農民だが、中国の産業の成長速度 がゆるかったのは、中国資本が外国資本と十分競争できなかったこと、関税が外国に管理 されていたために、民族産業を保護できなかったことに大きな原因がある。外国資本と企 業が支配体制を固め、拡大していったことも原因である。中国資本は外国と結びつくこと が多く、外国に押さえられている東部沿岸の背後に広大な中国が広がっていることを見よ うとしなかった。 一九三一年当時、中国の産業資本の四分の三は、中国の低賃金水準を利用する外国人に 握られていた〔注 3 〕。わずかな鉄道も外国人が建設したもので、中国人のためではなく、 外国人の特殊権益のために敷かれたものだった〔注 4 〔。外国人 ( 実際にはイギリス人 )

2. アメリカの鏡・日本

を企てた。しかし、フビライの艦隊は二回とも台風に追い払われた〔注 2 〕。 十六世紀、最初のヨーロッパ人が極東に来たとき、彼らは日本列島に食指を動かさなか った。スペイン人とポルトガル人にとっては、日本人をキリスト教徒にするほうが大事だ った。貿易はある程度伸びたが、世界各地に豊かな植民地をもっ彼らは、たいした資源も ない島には魅力を感じていなかったのだ。 十七世紀に、スペイン人、ポルトガル人のあとからやってきたイギリス人とオランダ人 も同じだった。イギリスとオランダは、スペイン、ポルトガルと争って東南アジアの豊か な領土を奪うのに忙しかった。だから、日本人が、よその土地にきていがみ合い、徐々に 侵略性をむきだしにしていくヨーロッパ人に警戒心を強めて、彼らに国外退去を命じたと きも、ヨーロッパ人たちは日本をどうにかしようとは思わなかった。そして、外国人は日 本から出ていったのだ。 育 教日本人が小さい島の限られた中で独自の文明を育んでいたときも、世界支配を目指すョ ーロッパ人同士の争いはつづいていた。十六、十七世紀のヨーロッパ人は拡張主義者だっ 革 ーマンに変えた。太平洋諸島とアジ 改た。そして十八、十九世紀、産業革命が彼らをスー 五アの現地住民はもともと争いを好まなかったから、科学の力を身につけたエネルギッシ = やり 第な白人にたちまち征服された。銃で武装した白人からみれば、槍で武装した現地住民など 物の数ではなかったし、大砲を積んだ蒸気機関の軍艦を、帆掛け舟と弓矢で追い返すこと などできるはすもなかった。世界の未開発地域は、ヨーロッパのいずれかの国に次々と踏

3. アメリカの鏡・日本

ある。私がメンバ ーとなっている委員会がいい例だ。委員のうち十人は、経済学者、法律 家、統計学者であった。二人が大学教授、一人はヨーロッパの労働間題の専門家として国 際的に知られるヨ 1 ロッパ人である。一人を除けば全員が政府の仕事をしていた。 しかも、そのほとんどが戦争に関係する機関の仕事だった。彼らは個人的には真摯で、 教養のある人たちだった。アメリカでの自分の分野では優秀な人たちだったが、日本に関 する本は一冊も読んでいなかった。占領に関する出来事も新聞でフォローしていなかった。 ほとんどが「ポーリー報告」のことを知らなかった。この報告は日本経済の将来、日本の 政労働者の将来、つまり私たち委員会が助言すべき事柄を決定づけるものなのだ。しかも、 の 彼らは日本のことをまったく勉強してこなかったことに、何の痛痒も感じていないようだ ア た 普遍的に正しい経済原則というものがある。この原則と仕事の取り組み方を知っていれ 見 ば、特定の状況について知らなくても 、、かなる経済問題でも解決できる。日本がいまま 機でどうであったか、などということにはまったく関心はない。なぜなら、われわれの仕事 爆は日本をわれわれが考えているように変えることだからである : : : というのが彼らの基本 章姿勢だった。委員の一人はいつもアリストテレスとマキアベリの軽装本をもっていて、飛 第行機の中でも、しばしば目を通しては基本原則をしつかり頭に入れようとしていた。 私には、彼らのこういう姿勢が布かった。′ 彼らは自己矛盾を犯しているばかりか、根拠 のない仮説にしがみついている。アメリカ人が日本社会を「改革」する能力をもっていて

4. アメリカの鏡・日本

ものたちは引き返すか、溺れ死ぬしかなかった。 西海岸沿いの無益な反撃で少なくとも千五百人が死んだ。これで駐屯部隊の力が弱ま り、戦闘終結が早まったことは明らかである。異様で絶望的な反撃だった。陸軍、海軍、 特殊上陸部隊、補給部隊、司令部を寄せ集めた数千人ほどの日本軍が、三・五キロ手前 まで攻めてきたところで阻止された。敵軍の中には、手製の槍と手榴弾しかもっていな しものもいた。。 きりぎりの地点まで前進してきた彼らは、砲台を一つ占拠したが、歩兵 せんめつ と戦車に殲滅された。 戦闘が終わったあと、手榴弾で自殺した多くの日本人の死体がみつかった。しかし、 民間の日本人とチャモロ人が何百人も投降してきており、現在島の捕虜収容所には数千 人が収容されている。 ニューヨーク・タイムズの社説が、軍隊と「民間人数千人ーが一緒にいたこと、あるい は彼らが海に飛び込んだときの「混乱と恐慌」状態を無視している点は注目に値する。こ の記事のどこにも、日本兵が兵士、民間人を間わず「戦死を崇高な運命」と考えていたか ら死んだと思わせるような記述はな、。 逆に、ここに描かれているのは、武器らしい武器 も装備もないために集団自決した島の人たちと守備隊員の姿である。 新聞の見出しや社説は日本側の死者の多さを狂信的軍国主義の表われであるという。ニ ース記事を一読すれば、その見方がいかに偏執的で歪んだ解釈であるかがわかる。たと ゆが

5. アメリカの鏡・日本

282 の間で、力を行使しながら、その制度を維持していた。 アジアに進出してくる西洋人は「安定した政府」と「法と秩序」の確立に力を注いだ。 物を売り、鉄道を建設し、施設を整備し、金を貸して利子をとるという重要な事業のため には、何より安定が望まれた。個人的には公正な人も多く、進歩に貢献する活動もあった。 しかし、「門戸開放」と「後進地域の開発」の背後にある原動力は「人道主義」であると いう西洋のお題目は、この活動の中に置かれた「現地住民」には通じなかった。 私たちが日本の発展をもっとじっくり分析し、日本人は「間違っている」と非難するこ とだけに時間を費さなかったら、私たちがその壊滅のために戦ったと主張する「ファシス ト」社会の源を、もっとはっきり突きとめることができただろう。私たちが「全体主義」 社会から思い浮かべるのは、個人と集団に対する残虐行為である。あるいは、人種的偏見、 市民的自由に対する警察の暴力、政治的討論と選択の弾圧、生まれつき優れたものが政治、 社会、経済を支配するという「指導的人種」観、あるいは「カは正しい社会をつくる」と いう独善的信仰、などである。 私たちはドイツ人、イタリア人、日本人、そして、ときに応じてロシア人を感情的に嫌 ってきた。 / 彼らは野蛮と弾圧と侵略の社会をつくり出し、選択した、と私たちは非難する のだ。 この非難は、西洋人 ( アメリカ人もある程度まで ) が植民地や半植民地に対してとって きた態度にも当てはまるが、私たちはそれに気づいていないらしい。十九世紀に日本人を

6. アメリカの鏡・日本

国際社会におけるオーストラリアとニュージーランドの地位がとくに重要な意味をもっ ている。この両国は、英語圏がともすればアジアの関係を不安定にする法的擬制の一形態 である。オーストラリアの総人口は東京の戦前の人口と同じである。それでも、人口七百 万程度のオーストラリアと四百万足らずのニュージーランドが極東委員会に大きな発一言力 ( アジアのどの国よりも権威ある ) をもっている。オーストラリアとニュージーランドそ れ自体が重要であると、誰が考えるだろうか。 アジア人から見れば、両国は英語圏の前哨基地である。八百万人に満たない国が八千万 人を超える日本の上に権力的地位をもつ。彼らは太平洋の島とその住民の上に「信託統 治」を要求し、手にすることができる。オーストラリアは人口まばらな大陸にアジア人が 移住することを拒否する一方で、アメリカ人とイギリス人には移住を懇請している。日本 圏 人は小さな島にいままでよりもっと窮屈に密集している。 の何世紀もの間、アジア・太平洋地域はヨーロッパの、そして若干はアメリカの、共栄圏 ただった。この状況を変えようとした日本の手段は、利己的であり、最後には野蛮だった。 誰しかし、問題は現存している。この間題は法的擬制では解決できないだろう。 章 九 第 注 1 Ching-chun Wang, E ミ、ミ e 、 C ミ China lnstitute in America, 1931. この中で、

7. アメリカの鏡・日本

の日々と、その後の推移の中で、自分の国もまた同じ道をたどっていることを知ったので ある。大統領が一九三九年に「制限的非常事態」を、ついで一九四一年五月二十八日には 「無制限非常事態」を宣言した。国民はラジオ、新聞、演説にあおられ、パニック状態に 陥っていった。乱暴にねじ曲げられた歴史記述が、当然の事実として受け人れられた。 「民主主義は包囲されている」という呼びかけが、ルーズベルト大統領の印象的な声に乗 ってラジオから流れ、リべラル、保守の区別なくすべての新聞に見出しとなって躍った。 「枢軸国は世界を征服し、奴隷化しようとしている」という警告がアメリカ国民に対して 重々しく発せられた。ナチスはいまのところはまだ、英仏海峡を越えてイギリスを侵略で きずヨーロッパ大陸に留まっているが、いまやアフリカのダカールをおとす寸前にあり、 そこから合衆国に侵人しようとしている、というのだった。膨大な「国防」予算が、議論 らしい議論も経ずに議会を通過した。これが日本の議会なら非民主主義社会といわれかね ないものに、アメリカ議会は近づいていたのだ。 米国民はこうした警告を当然の事実として受け人れていた。それは日本での体験から、 十分うかがえたのだ。列車やバスで地方を旅行しているときに土地の人と話したり、友人 や隣近所の人と国際問題を議論したり、あるいは新聞を読んだりする中で、アメリカ人も 日本人と同様、頭の中にもっているのは脳味噌ではなく蓄音機であることを知って驚いた。 アメリカの蓄音機がかけているのは違うレコードだが、それでも信じられないほど多くの アメリカ人が、同じテーマのレコ ] ドを聴いていた。

8. アメリカの鏡・日本

その夜、私たちは教会へ行った。マーシャル島民が百人ほど、通路の片側に座っていた。 聞くところによると、最近ポストンから派遣された会衆派の宣教師が改宗させたばかりだ という。二人の黒人をまじえたアメリカ人は通路の反対側の席に座った。マーシャル島民 たちが自分たちのメロディーで歌えるように、席を分けているのだった。島民たちは二回 歌った。自分たちの声に合わせてアレンジされた西洋の賛美歌を楽しんでいるふうだった。 やわらかい声を急に小さく裏返して、声を伸ばしてリズムを変える。なかなか耳に心地い アメリカ人たちは四曲歌った。「主に祝福を、主に祝福を。主はわれらを愛され給う。 われらは主のもの」といった信仰復興運動の歌である。歌のあと、若いアメリカ人牧師が 説教をした。説教は、マーシャル島民には理解できない英語だった。世界は人間が醜くし てしまったところを除けば、美しく、素晴らしいのです。教会の建物は裾の部分が開いて いて、そこからいい風が入ってくるようになっていたが、風と一緒に陸軍のラッパと、近 くのラジオのスピーカーの絶え間ないがなり声が吹き込んできた。 お祈りのあと、私たちはそろって「リチャードソン劇場」へ繰り出した。覆いをかけた 舞台の前に椅子を並べた野外劇場だった。席は兵隊と将校でいつばいだった。他の観客は 広場のヘりに小さな集団をつくっていて、白とかカーキ色のズボンとシャツを着た現地の 人たちがそこにまじっていた。演じられているのは、 ()n O のお笑いだったが、これが意 外によかった。

9. アメリカの鏡・日本

363 第八章第五の自由 国時代の日本も台湾とはまったく接触はなかった。しかし、一八七一年船の難破で台湾に 漂着した琉球人が殺されたことから、日本政府は、琉球は日本に属するとして台湾改革の 懲罰部隊を送った。中国側は台湾の懲罰的改革は必要だが、台湾住民を統制できないこと を認めていた。しかし、中国は日本がその役割を引き受けることには反対だった。 ( 法と 秩序を重んじる ) 西洋列強は違う考えだった。アメリカの公的、準公的立場にある人の中 には日本支持の人が何人かいた。米国政府は国内向けには反対を表明していたが、実際に は数人のアメリカ人顧問が日本軍の平定作戦に同行している。米国政府は公式には中立と いうことになっていたが、実際には日本を支持していた。 アメリカ人は贅沢なことを考えるから、占領経費を節約しようとはしない。将校宿舎や官 舎の生花代、本国への電報電話代、キャンプの維持費、文民専門職と秘書の給料、その他 生活のお楽しみ代は日本人が負担した。一九四七年一月三十一日付 ~ ミ T ぎ es は、 日本の新年度予算に関する記事に「米軍の経費節約、日本のためにコスト削減」の見出し をつけている。記事は「新年度予算のうち約四百億円は占領経費に充てられる。しかし、 アイケレヾ ノノーガー将軍が『節約措置』を講じなかったら、その額は六百億円にのぼるとこ ろだった」という内容である。私たちの占領が日本人 ( そして米国国民 ) にどれだけの経 費負担となっているか、は一九四八年一月十七日付 ~ ミ Times. BurtonCrane 記者の 東京電に詳しい。日本の大蔵大臣が同記者とのインタビューで一九四七年度の占領関係政 府支出を項目別に説明したものである。これによると、仮設宿舎と住宅以外の一

10. アメリカの鏡・日本

246 八六二年、生麦事件に巻き込まれたのは、リチャードソンというイギリス人である。 彼は仲間と江戸近郊を野駆けしていたさい、江戸から下る途中の薩摩藩の行列にぶつかっ 大名は私たちの国でいえば、州知事に相当する。しかも薩摩は比較的豊かでカのある南 の藩だった。こうした行列に会った一般庶民は道をあけ、うやうやしく礼をするのが日本 の習慣だった。しかし、イギリス人の一行はそういう習慣を知らなかったか、あるいは知 ′」うまん っていて無視したか、行列の前を馬で通り過ぎた。当時の日本人は自分たちの国で傲慢に けいべっ 振る舞う外国人に異常に神経を高ぶらせ、外国人は自分たちを軽蔑していると思い込んで いた。数人の警護の武士が馬上の一団を追いかけていき斬りつけた。リチャードソンは殺 された。 事件を重大視したイギリスは「中央政府」に襲撃した警護の武士を逮捕し、裁判にかけ て処刑するよう要求し、あわせて十万ポンドの損害賠償を求めた。また非道を働いた武士 の主君である藩主には、二万五千ポンドの損害賠償を要求した。「中央政府」はただちに 賠償金を全額銀で支払ったが、犯人については遠く薩摩に逃げてしまったので逮捕できな いと答えた。そこで、イギリス人は自分たちの手で法を執行した。 とりで 彼らは法を犯した領主の砦である鹿児島湾に艦隊を送り、犯人の引き渡しを要求した。 藩当局は犯人を逮捕して罰すると答えて時間を稼いだが、イギリス側は有無をいわせず鹿 児島湾を砲撃し、町を破壊した。イギリスが本気であることを知った薩摩藩は、即座に賠