274 すく、力を持つ。おかげでいろいろと貴重なお話をうかがうことができた。見てい ると、これは大変なお仕事なんだなとっくづく思う。 ードな毎日での休まる暇が ないだろう。大事なお時間を割いて取材に応じていただけたことを咸謝、する。 なおこの斉藤先生がここで治療されている重症串名は後出の菅崎廣重氏である。菅崎 氏の証一一一口とあわせてお読みいただければと思う。
私は新しく応援に来た係貝に「このビニール いうことでした。駅員が倒れてしまったので、 袋をあっちの方にやってくれ」と一一 = ロいました。彼が次の列車に合図を送ったようでした。 爆発しても危なくないように奥にある仮眠室に でもとにかくこれで私の亠荏は終わったと思 持っていかせたんです。そこならステンレスの いました。不はとりあえず片づけたし、菱 扉で飭られていますから。 沼さん〕さんもここに戻っている。これで その女性は、あとから聞いた話では、不当務助役としての当初の役目は果たしたんだ が ~ 暈に乗っているのを目に留めて、私どものと。それから私は応援にきた係貝に、出 ところに知らせに来てくれた人だったそうでロに里がくるので迎えるように指小しまし す。その人は自分は気分が悪くなって二重橋前た。通産省ロですね。第葷で運ぶにはそこが 駅で降りて、それから次の重里に乗って霞ヶ関いちばん便利なんです。こういう仕事をしてい まで来たらしいです。 ( * 後出のさん ) ますから、どこへ救急車をつければいいカ ( そこに菱沼さんがホームから一民ってきまし いつもちゃんと頭の中に入っています。ですか た。私はさんに「さっき連んだものはいっ らそこに担加弯」運んで、墨里がやってくるの たいなんだろう ? 体は震えるし、こんなの生を待つようにと。 まれて初めてだ。俺は長く地下鉄に勤めている それから私は顔を洗いました。鼻水は出る 明 けれど、こんなのは初めてだよ」と言いましわ、涙は出るわ、もう見られたものじゃありま 田」 0 さんはどうやら扣加木にのせられた右せん。もう少しましな顔にならなくちゃなと思 豊 さんと一緒にホームから降りてきたみたいでしったんでしようかね。肥を脱いで、流し場で さん粤、目も見えなくなっていると顔を洗いました。顔を洗うときには、水がかか
360 中嶋克之す当時四八歳 中嶋さんが一九九五年の一一一月一一〇日に地下鉄で経験されたことは、前出の一・貢三氏が同 日に経験されたことと、不思議によく似ている。一一人とも同じようなで、霞ヶ蹤でサ リン事件に遭遇し、だいたい同じような被害を受けた。年齢は少し離れているが、どちらも 航空良の、防衛大宀露・業のエリートである。ジェット・。ハイロットになることがで きずに、涙をのんで地上勤務につき、そこでキャリアを築き上げていったという進路も似て いる。同じ時期に同じにいたから知り合いだが、このお一一人をインタビューすることに なったのは、あくまで偶然の仕帽である。 どちらの方も非常にスマートで、は柔らかく、しかしきつばりとした話し方をする。 「差し迫った危機感がないと、いろんなことって見過ごしてしま うものなのですね」
Ⅷらないとされていました」と廣瀬は語っている。 廣瀬はニ個のポリ袋両方に穴を開け、九〇 0 ミリリットルのサリン液を床に漏出させ た。その結果、の一人が亡くなり、三五八人が重を負った。 中野室駅で「人が倒れている」という通報がからあり、ニ人の重症運び出 され ( 一人は死亡、もっ一人はに登場する明石志津子さん〈仮名〉である ) 、サリン の袋は駅職員 ( に登場する住夫氏 ) によって拾い上げられ、除去された。しか し棗そのものは、サリンの液に床を汚されたまま運行を続けた。棗は八時三八分に 荻窪駅に到着、を乗せてそのまま折り返し運行をした。この折り返しの棗の中で もはの不調を訴えた。 = 一暈には荻窪駅から複数の駅員が乗り込んで、モップで 床の清掃おこなったが、彼らもやがて具△悪くなり、病院に運ばれた。暈は 新高円寺で運行を打ち切られ、そのまま後の車庫に回送された。
豊田利明ャ当時五一一歳 豊田さんは山髷 k 出身、昭和三六年一一一月一一〇日ーーサリン事件が起こったのとたまたま同 じ日付であるーーーに骨届地下鉄に入社した。「高校を出ても田舎では就職ロもなかったので、 文字どおり布団ひとっ背負って束泉に出てきたんです」と本人は一一一〔う。とくに地下鉄に興味 があったというわけではなく、親戚に界されてこの仕事に就いた。以来三四年間一貫して 明 駅の勤務を続けてきた。一一一量にはまだ少し山形の訛がうかがえる。出蠶でを化す 田るつもりはないが、いかにもねばり強く物事の対処にあたる「東北人ーという印象がまず最 初にくる。 実を一一一一〔うと、この人と話しているあいだ私の頭には「倫理。という一一一量がずっと浮か 「私はサリンの被生暑ではなく、体験者なんです」
もずっと気張りつばなしじゃないと出てこなの考え方とは、もともと根本的に異なっている 、 0 ショックでした。つまり一一日目 / 、らいになわけです。我々は彼らのやったことは間違った ってだんだん症状がひどくなってきたんです。ことだと思っている。でも彼らから見たら、 はじめはたいしたことなかったんですが : 我々のやっていることのほうが間違っていて、 このまま元に戻らないんじゃないか思うと、そそれに天罰を加えているということになる。極 れはもう不安で仕方ありませんでした。まあ一一一端な話、彼らに対して同じ人間だという基準を あてはめるのが間違いだと思いますね。彼らが 日目になったらずいぶんよくなりましたが。 事件以来たしかに疲れやすくなったみたいで既に基準を逸脱しているんだから、そんな権利 す。以前は手墨に乗って寝るなんてことはなかを与えてやる必要はありません。自分たちが違 ったんですが、最近では本を読んでいてもそのうを主張し勗しているんですから。裁 まますっと寝ちゃったりとか、そういうことが韵なんかする必要はないと僕は思います。そん なことに時間かけて日様ないですよ。 よくあります。でもそれがサリンのせいなのか どうか、そこまではわかりませんね。ただ私は 裁判しても意味がないということです 何年か前に胆巖出亠黹を受けまして、サリン はにすると聞いていますので、それはか ? 敦不安ですね。今どうこうというのではないので そうです。意味はない。彼らがやっていると 平すが、将来的な不安は残っています。 いうことは事実なんですから。もちろん法ム閠 オウム噐・の考え方と、我々大多数の人間家ですから、裁判はしなくてはいけないんです
372 は、おそらくはガス状のものだろう。となるそのにしたがって冶療をおこなったので とこれは、丘し U してのリン、つますが、そのときにはサリンなどという薬物の りサリン、ソマン、タブン、そういった類のことは、私たちの頭の中にはまったくありま もの以外にはありません。松本のロ」同じせんでした。しかしリン中毒の治療につ ですね。 いてはそれなりにがありましたので、そ の結果幸いにして重症者を助けることがで 見たところものすごい数の火者がいて、きたわけです。そういう私たちの霰をとり 私がテレビを見ていた時点で一〇〇人以上あえず、相手に」して知らせてあげた方 の患者が聖路加病院に連び込まれていましがいいだろうと思ったのです。 た。そんなたくさんの数の出名が、はっきり それで私はすぐに病室に・髯」救 とした原因もわからないまま急に連び込まれ々ョ割の医師を一一人呼びまして、聖路加をはじ ても、現場はきっと困ってしまうだろうし、めとして、串右が収容されていると思われる あるいは。ハニック甃に陥るかもしれない、 病院にとにか、 - 、鷲を入れるようにと言いま した。テレビを見て、そこに名則が出てくる そう思うと私は心配になりました。 私たちも、松本の事件があったときは非常病院に亠からファックスでを送ってく に凧刀 , ・したんです。わけのわからないまま、れと。「硫酸アトロピンと。ハムといった解毒 運び込まれた串右の ~ を見て、これはだい 剤、、あるいはジアゼ。ハムといった鎮静 オい有機リン中毒じゃないかということで剤を治療に使うといい」といったようなこと
異なっている。ひとつは不な天災であり、もうひとつは不鼠し J は一一一一口えない〈人災Ⅱ犯 罪〉だった。それらを「髣」という共通項でひとつにくくってしまうことに無理があるの はもちろんよくわかっている。 しかしたまたま実際に被害を受けた側からすれば、それらの髣の襲いかかり方の唐突さ と理不尽さは、地震においても地下鉄サリン事件においても、不思議なくらい似通ってい る。髣そのものの出明と質は違っても、それが与えるショックの質はそれほど大きく違わ ないのだ。サリン事件被害者の化聞きながら、私はしばしばそのような印象を持った。 たとえば被圭暑の多くは「私はオウムのを深く憎んでいる」と語る。しかし人々は 「深く憎んで」いながらも、その憎しみをうまく現実のレールに乗せることができないで、い くぶん戸惑っているように見えた。羶に一一 = ロえば、自分の感じている怒りや憎しみをいった 」いどこに持ち込めばいいのか、どちらの方向に向ければいいのか、その確証をうまくつかめ 悪ないのだ。ならその髣がはたしてどこからやってきたのかという正確な「出所 ( マグ マの位置 ) 」がいまだに明確に皚できていないからだ。そういう意味ではーーー怒りや憎し の みの向けようがもうひとつはっきりしていないという点においてはーー地下鉄サリン事件 と大震災はにしている。 用それら ( 震災とサリン事件 ) は、考えようによっては、ひとつの強大な髣の裏と表であ るということもできるかもしれない。あるいはそのひとつを、もうひとつの集的なメタフ アーであると捉えることだってできるかもしれない。
道がありました。啝只消防庁機動中釋ことになります。それが大きな鑑別点です。 串並名が人され、み叱察してみると簡が起 子重・というガスを検知したりする特別な 車両があるんです。それで調べてみたら、アこっている。・検査をしたらアシドーシス セトニトリルが出てきた。となると、これははよい。 腱反射の氏下もありました。これら はサリンの ~ です。だからみんな首をひね 亠〈惕 ( シアン ) です。 ってしまった。「先生、これはどうみてもサ 救へ坤忌センターにホットラインで詁が 人ってきて、「地下鉄の被害者を一人収容願リン中毒ですよー「たしかにそうだな : ・ したい」ということです。すぐに「シアン中でもテレビの報道はアセトニトリルって言っ 毒キット」を田思し、忌室で待っていましてたぞ」というようなやりとりになりまし た。串名さんがはれてきたのは一 C 四五た。 分でした。連ばれてきたとき ( の 度合い ) は二 ( ) でした。これはつねれば少実を言いますと、以瞿」もの病院にシア しは動くが、あとは反応がないというレベルン中毒の患者さんが運び込まれたことがあ のかなりの甃で、瞳孔が収縮していまりました。そのときは事故の状況がすぐには した。もしシアン中毒であれば、アシドーシわからずに、適止な処置が遅れて、残念なが 徹スといいまして、血液中が酸性になります。ら亡くなられてしまいました。シアン中毒は 助かるんです。うち 斉つまりが起きていたらサリン中毒、アシ速く処置すればだいたい ドーシスを起こしていればシアン出毋というでもこれまで三例あったうちの一一例は、迅速
るのは嫌だなというようなことを言っていまし しかしどれだけ待っても夂わらず第墨単は た。仕島ビニール袋に入れたもの ( サリンの包来ません。ずいぶんいらいらしました。なんで み ) を事務所の中に堡目していたので、そのせこんなに来ないのだろうと。今考えれば、忌 いだったんですね。 車はみんな築地の方に行ってしまっていたので そうはいって〕さんを運びあげなくてはすね。遠くの方で墨里のサイレンが聞こえた なりませんから、みんなで豊を下りてもう一りするのですが、こっちには来てくれません。 度事務所に戻りました。 間違えてほかのところに行っちゃったんじゃな いかと、私ははらは、らしました。土心っていって 事務所に戻りますと、目天口が悪くなられたら「こっちですよ」と呼んで連れて来たいような しい女性のおが一人、入り口のところにあちでした。 るソフアに座っていました。 ( 後出のさん ) 実際にそちらの方に走ってもみたのですが、 古さんはその奥に、相加木に載せられ、そのま走ったときに多少めまいというか、頭が : ま床に置かれていました。そのころにはもう動 ~ 刄分が悪いなという感じはありました。でもそ かないというか、硬直したみたいになっていまのときは「明け番だからかな」というくらいに した。前よりはずいぶん甃 ) が悪くなっていたしか思いませんでしたね。 んです。亠もほとんどありません。ほかの係 ~ 〕さんを上に運んだときには、もう報道の 員が声をかけたりしていましたが、反応はない人なんかは出口のあたりに来ていました。女性 ようでした。私たちは四人で、担架に載せた高のカメラマンがやって来て、ばちばちとに言【を んテレビじゃなくて、 橋さんを地上に連ひあげました。 撮っていました。いい - 、