「目が見えなくなったとき、これで死ぬ、悔しい、と思いました」 光野充す当時五三歳 栃木県小山市の農家に生まれる。昭和一六年、太平洋の始まった年だ。学校を卒業し て、知人の界町の印刷〈在に勤める。当時の町は、まだ馬が馬車を引いて走っ ていた時代だった。物十しに上れば東京駅まで晟せた。〈在の寮に一一一歳まで住む。遊ぶ といえば映画を見に行くか、あるいはグループで山歩きをするくらいだった。 昭和四四年、一一八歳、大阪召の前の年にする。相手は、友だちとグループで海 に行ったときに知り合った女性だった。「寅さんのシリーズが始まった年でしたねーと回想 する。 「禛は一一四歳の長女と、一一一歳の息子。埼玉県草加市に住んでいる。はは丈夫でこれま
466 大好きだったのに、あれからあと、食べたらジ についても同じこと。なにごとによらずやる気 ンマシンがでるようになってしまった。それかが起きないんだね。〈在の方もそのへんの事情 ら視力もずいぶん落ちたね。これは年のせいかはわかっているから、一年くらいはして見 もしれないけれど。老眼みたいな感じになって守ってくれるけれど、一年過ぎたらもう普通の 来ちゃった。 人だからね。それなりのことは要求するし、こ そういうことをいちいち考え始めるといらい っちもそれにこたえなくちゃならない。「さあ、 らするから、なるべく考えないようにしているこれからまた一らなくちゃ」とは思っていま んだ。でもね、仕事のこともあるしね : ・ 。たすけれどね。 とえば去年一年は、こうして会社に出てきて麻原はね、早いところ瞽すませて死刑にな も、あまりたいした仕できなかったような った方がいいよ。あんなこと、瞽でだらだら ものだね。我々は骨暴だからね、半集、一年やっているのはむだだよね。 先のことを考えて仕事をしなくてはいけないと いう部分もあるわけです。でも正直に言って、 そんな先のことまで僕はちょっと考えられなか った。長い目でものを見たり考えたりする力が なかったんだよね。考えようという気力がね、 湧いてこない。少なくと、呈牟の一年はそんな 目天只だった。 それも仕事だからというのではなくて、遊び
しし力とそれですぐに明くる日 三月だから、まるまる三三年もいたことになるってたから、、、ゝ。 な。そこで私はずっと外商の仕事をしていましに顔合わせ。 話を聞いて親父がかんかんに怒っちゃった。 。外に出て注文を取るんです。 仕ね。麝したのは、蛮がなくなった年おれが後先を考えずにいろんなことをばっと決 だか , ら・ 、ええと、あれは昭和三四年だっためてしまう性格だというのを、知っているか ら。「いくらなんでも、一度も会ったこともな つけね ? ・ っ い相手し J ・になんかするんじゃない そ一 2 = れてもちょっとわからないですて。「お前ひとりだけのでもない。家の顔 もあるじゃないか」。それでまたまた大喧嘩に なった。でも今になって考えてみれば、乂の 三四年だったと思うな。市川房枝さんが国会言っているのも正しいね。おれだってヱ虚 ( の親 で無理して通したのが ( * 売務止法、昭和三になって、娘を仕させるときに、やつばりそ 、あれはた ういうことは考えましたからね。 一年五月公布、年四月施 t) : 明くる日会ったけど。一回しか出てこんかっ ぶん : 、三三年の三月一〇日、陸軍記念日 だ。その日に仕麝したんです。福井の田舎の , ったし、そんなまともに顔も見なかった。話とい うほどのこともしなかった。向こうの両親がず 啓ちにちょっと帰ったときに、近所のおばさんが っと話していて、こっちはおれ一人きりだも 石「こんな子がいるんやけど、どうやろう」と言 うので、「いいよ」と・に言っちゃった。まあの。今の嫁さんは、ちょっと出てきて、あいさ っしてそれで終わり。酒を出されたから、それ こっちもそろそろ世間並みに - 「罌市を持とうと思
と思い出せるものなんですが、今では帛まで しか思い出せません。最初は「年をとったせい かな」と思っていたのですが、どうもそれだけ ではありませんね。やはり不安ですよ。今は一 年目ですが、これが一一年二年と経ったらいった いどうなるのか。このままで止まるのか、ある いはもっと進んでいくのか ? 犯人の個人個人については、とくに怒りとい うのは感じません。あの人たちも盟の中で踊 らされていたんだなという風に思います。テレ ビなんかで麻原の顔を見ても、憎たらしいとい う気持ちはなぜかあまり湧いてこないんです。 それよりは、重い被圭暑の方々をなんとかして あげなくてはいけないという思いの方が強いで す。我々はまだいいとしてもね。そう思いま す。
と ~ 又け答えをするという仕事をしてきた。「我々の仕事は、ちょうどホテルのフロント マンみたいなものですーと一一一一口う。根っからの術畑の人で、現場の堅実なたたき上げーー・そ のような履歴はただ黙って話を聞いていても、なんとなくこちらに伝わってくる。髪は短 、はがっしりとして、いかにも働き盛りの男という風貌である。仕に対する亠性感 ととっ も人一そうだ。决して能弁」いうタイプではない。 考え込むように、一 = 口々と事件を語る。 お宅は江尸川区にあり、して一〇年、少子四年を頭に三人の「禛がいる。家は事件 の起こるちょうど一年前に染になったばかりである。その一年足らずのあいだに家の引っ 越しがあり、勤務先のがあり、そしてサリン事件が起こった。 1 直力の多い、多事多難 な一年だった。「本厄でしたからね」と本人は夭して語る。 しかし一一一一口うまでもなく、一九九五年三月一一〇日に奩さんが遭遇したことは、とても夭 では済ませられるのものではない。品みな纉だが、どこにでもある「小さいながら も幸福な家庭は、相を超えた髣によって、何 2 れもなく理不尽に踏みにじられる ことになった。少石駅まで行く通勤のバスがたまたまいつもより一一分早 / 、やって来たばかり にーーーそんなちょっとした運命のいたずらによってーー彼はその「サリン電車に乗り合わ せてしまう習になったのだ。 現在でも重い後遺症に悩んでいるが、それと同時に地下鉄サリン被圭訴訟のグループに加 わって、に的なも行っている。自分と同じように一人で苦しみ悩んでいる被 圭昱右を救うためのネットワークを組織することができればというのが、大橋さんの切実な思
202 を選んだんです。もう両親の年齢も高かった ットに勤めることになりました。そのことでち し、高校でこれ以上をするよりは、早く手よっとがっかりしたところもあったようです。 に職をつけて、少しでも楽をさせてあげたいとでも親を残して立するというの子ではな いうことでした。それを聞いて、「俺よりよほ かったので、家の近くで仕事を見つけるしかあ どしつかりしているな」と思ったことを覚えてりませんでした。 います。いで、まじめな子でした。まじめ ここにはそれ以来ずっと、一〇年くらい勤め というか、いろんなことをちょっと考えすぎるています。士子は父母の家からバスに乗って くらい考えてしまうだったんですね。おおそのスー ーまで通っていました。仕事はレジ ざっぱに導ョに犂をすませるというではが中心でした。一〇年もやっていますから、も ありませんでした。 うべテランですね。一一年近く入院している今で それでの子校で学んで、学校を出たも、いちおうまだそこに社員し J しての籍は置い あとの今狂に入ってしばらく働いてい てあるのです。この勤務先のスー ヾーーこは、事 たのですが、運の悪いことにそこが呂不振でもいろいろとお世話になりました。 潰れてしまいました。妹がそこで働いていたの は、三年か四年くらいのものでしたね。 ーー埼玉県にお住まいで、近くのスー 〈在が昔になったあと、妺は自分の腕をい勤めておられて、その日の朝どうして丸ノ目 かせるの仕事をもっと続けてやりたかったで中野まで行かれたのですか ? のですが、たまたまその方面に求人がなかった ので、今度はまったく畑の違うスー ーマーケ実はその日、杉並で従番貝の会がありま
694 ( 父 ) 私の生まれたのは昭和七年です。し半まで、 ( 中番 ) 一時半から夜の十時まで、 ( 遅 たのが昭和三六年で、が昭和三八年、資番 ) 十時から朝の五時まで、というものです。 の栄一一が四〇年に生まれました。臠は上田のですから夜の十時から五時まで勤めますと、ま 近くの東部町の生まれで、実家はやはり農家でず朝に帰ってきて、午則中くらいは寝て、それ す。 から午後は半日曲ーができます。お一曻の仕 さいしょのうちは ~ 木農家でちゃんとやって事は昼間しかできませんからね。でも正直に言 いけたのですが、私が四〇歳になったころに って体にはちょっと無理でした。とくに凹 は、それだけで生活していくというのがだんだのときはきついです。「今はだからちょ んむずかしくなってきまして、それで現入っと休ませてください」とは一一口えません。交代 を得るために工場に勤めに出るようになり制ですし、働いている人の大半は農家ですから ました。このへんには昔から大きな工場がね。一人だけ休むわけにはいかないのです。 あります。工場というのは一一四時間休みな その工場に一 = 一年のあいだ勤めました。四木 く鬟しなくてはなりません。というのは一度とエ窈めという一一つの仕事をこなすのに忙し 犠を止めると、犠が冷めてしまいますし、 くて、そのためにヱ - 青てにはあまり関心を持っ そうすると糸そのものにムラが出てしまうからことなくやってきました。「禛たちは一一人とも です。そのために仕事は一一一交代制になります。それで一人前になりました。マ一・時代のことな そしてこの勤務間はで凹禾をやるには適んかは、私よりは ~ に訊いてもらったほうが しているのです。 よろしいでしよう。 仕爭の時間は ( 早番 ) 朝の五時から昼の一時
422 て住んでいます。引き継いでいるという感じで最初は大宀手化出て、普通のサラリーマンにな す。 ったんです。でもたぶん社〈がなかったんで 住ですので、生活するのには不自由はなしようね、かろうじて勤めていましたが、〈在 いのですが、いささか狭いですね。六畳一一間に がなにしろ嫌で嫌でしようがなかった。勤めた キッチンが四畳半、建ってからもうそろそろ一一一のはコンピューター関係の会社だったんです。 〇年になります。家賃は今でもまあ安いです僕は糸だったんですが、高校時代にプログラ が、昔はもっと遥かに安かったです。バブルの ミングの未をとっていました。あるいはバン 頃から、改装にかこつけてだんだん値上がりが ドでシンセサイザーをやっていたで、ある 始まりまして、一一年ごとに里げをするように程度そっちの知識がありましたし、それで r-n なったんです。 ( システム・エンジニア ) として入社しました。 その当時はまだコンピューターというのがあ もともと僕は音楽がやりたかったんです。大まり一ではなくて、素人の人には・にで 学のときもバンドをやっていたんですが、大学きなかったんですよ。でもこの仕事はすご / 、忙 を出てからも三年くらいは、バンドをやっていしかった。休みなんてほとんどありません。残 ました。マイナーな、どっちかというとテクノ業、寝、おまけに土日の休日出勤です。工場 つばい感じのバンドでした。今でもバンドはやの生呂理みたいな仕事で、自分の作りたいも りたいことはやりたいんですが、部屋が狭すぎのを作るということができない。これはいても るもので、なかなかできません。楽器をセッテしようがないなという感じで、四同一年半でや めてしまいました。 イングする場所がないんですよ。
半年くらい主人の実家にいたわけです。もうこく考えてみれば、位牌とかもそこにあるし、 うなると自分の家みたいなものですね ( 笑 ) 。「そうだ、うちの人死んじゃったんだ」ってわ 今でもよく行くんですが、行くのは楽しみでかります。「そうだよね」とかって。それで す。皆あたたかく迎えてくれて、主人の墓も向するんだけれど、どこかまだできてない。 こ , つにありますし。 していない部分がありました。現実と空想 が入彑父じっているような気持ちです。「うち 事件から一年経って、少し区切りがついたかの人帰って来るんだ」と思いながらお墓参りし なという感じはあります。「もういないんだ」ているような、矛盾した感じですね。でも一年 というのはだんだんわかってきました。一年経経って、「そうだ。もう死んじゃったんだ」って い , っことがやっとはっきりレ J わかったと思いま つまではまだ何か・ : 。うちの主人はアメリカ によくしていたので、二、三カ月いないこす。 とは多かったんです。だからいなくてもあたり それはつらかったです。外を歩いていても、 まえという部分もあったので、死んだあともお父さんが「亠・を肩車しているのを見たりする 「ああ、・に行ってるんだっけな」なんて思と、耐えられなかったです。それがずっと耐え っちゃうことも多かったですね。一年 / 、らいはられなかった。若い夫婦の〈み請 ) か聞いたりす 子 嘉ずっと。「私は里帰り出産しているんだ」とか。 ると、やつばり目を逸らしたくなるんです。そ 和突然「ただいまあ」なんて言って帰って来るんの場にいたくないというちでした。しかし じゃないかと。たまにふっときると、「あ、人のことをうらやんでいてはいけないんだと、 うちの人、山峩だ」って思っちゃうんです。よ自分に言い聞かせ続けました。今では、けっこ
際示整理だとか、そういう誰にでもできるようようもないもの。 な仕事をするだけです。これまで長いあいだ培 ええ、あまり上は見ないで、自分なりにこっ ってきたを、もう仕事にいかすことができ ないのです。 こっと地道にやっていこうと思っています。で もそうは思うものの、今のこの苦しみが果たし でもそれでは自分の励みになりませんから、 通る通らないは別にして、「これはこんな風にて完治するのかどうか、現実的にいつまでこう したらどうだろうか」というような企画を自分いう生居を続けてやっていられるのか、それが なりにいろいろ考えてはいます。まあ人生、一わかりません。将来が見えないんです。今は勤 ナしカ今思 , つめは朝から昼の一一一時までですが、それでもぐ 一年くらい遅れたっていいじゃよ、ゝ。 ったりと疲れるんです。 ビと、これまで一一〇年も仕事一途、一生懸命やっ タ てきたんだ。四一で正課長になったというのが通勢災のため、ポーナスのカットだって年 ン 間で一一五万円くらいになりました。には イベースとしていささか早亠 9 ぎたんだから、ここ かなりきつい状況です。サラリーマンというの 目らあたりでまあ一服してもいいじゃないかと、 一一できるだけそういう風に考えるようにしていまはなにしろボーナスの存在が大きいんです。ポ ーナスで毎月の足りないものをやっと補うわ す。 賢 けですからね。それががぐっと減るんだから、 大 そうですね。まだ若いし、お子さん余っらいですよ。家もつい最近建てたばかりで、 ローンの支払いがあります。三〇年のローン、 さいし、じっとして体を万全にするのがい Ⅲちばんでしよう。ここで潰れたら本当にどうしなにしろ七〇歳まで続くんです。