地区は高級住宅街だ。僕は正直、ヤコプがこんな場所に住めることに驚いたし、そう やって驚いた自分が嫌だった。自分が自分側にいることが、苦しかった。 恐ろしく古びたフラットが見えた。ヤコ。フの家族は、そのフラットの地下に住んで いた。ヤコブのおしさんがボアーブ ( うちでいうドラえもんだ ) をしているというフ ラットだった。ヤコプはその 3 部屋の家に、おじさん夫婦、お父さんとお母さん、ふ クたりの妹と一緒に住んでいた。 マ地下だったから、家には窓がなかった。全体的に湿っていて、独特のにおいがした。 実際、床の隅には水たまりが出来ていた。そのそばで雑巾を持って笑っている人はヤ イコブのおばさんで、その年頃のエジ。フシャン女性にしては珍しく、びたりとしたジー カ ンズを穿いていた。 ヤコブのお母さんも、洋装だった。白いブラウスと茶色いフレアスカ】トを穿き、 プ ジ髪の毛は剥き出しでひとつに結んでいた。へジャ。フをかぶったエジ。フト人女性に慣れ ていた僕には、それは新鮮に映った。 章 急な訪問だったにもかかわらす、お母さんは僕の体を抱きしめ、大きな声で何か言 第 った。僕にはヤコブ以外の言葉は分からなかった。妹ふたりは、そばで恥ずかしそう に笑っていた。
290 一度だけヤコプが「彼ら、に対して怒ったことがある。「彼ら」が、ヤコブのこと を、何ごとか野次ったのだ。 僕にはヤコブの言葉は分かったが、エジ。フシャンの言葉は相変わらす理解出来なか った。でもそれはきっと、いつも僕たちに浴びせられる、他愛ない野次と同しだろう あらわ と思っていたし、普段のヤコプは、そのような心ない野次程度で、怒りを露にするよ うな男ではなかった。 だが、そのときヤコプは、そばにあった空き缶を拾い、「彼らに投げつけたのだ った。僕は心から驚いた。そんなヤコブを見たのは、もちろん初めてのことだったの 「彼ら」は逃げたが、ヤコプは怒りが収まらないらしく、目についたものを次々と、 もう逃げていった「彼ら」にぶつけていた。 しばらくして、我に返ったヤコプは、僕に詫びた。とても、恥すかしそうだったが、 同時に、まだ怒りが収まってもいないようだった。 「大切なものを、馬鹿にされたんだ。 ヤコブの声は、低く、乾いていた。僕は静かに、ヤコブの肩を叩いた。
278 お母さんは、とても太っていた。美人かどうかなんて一 = ロえるような風貌ではなかっ た。ヤコブの妹ふたりもまるまると太り、僕はヤコブの体格の良さの理由が分かった ような気がした。 ヤコプは家族に囲まれて、嬉しそうだった。 家族はヤコブを愛していた。それは僕にも分かった。そしてヤコ。フは、その家族を 誇りに思っていた。自分の母親を心から美人だと思っていたし、この場にいないお父 さんのことを、何度も何度も褒めた。 ホテルで会ったとき、目を逸らしたのは、羞恥からではなかったのだと、そのとき 気づいた。ヤコプは僕と母に、ただ気を使っただけだったのだ。もしかしたら、ホテ ルの従業員に、ホテルの客を見てはいけないと、言われていたのかもしれなかった。 僕は自分の卑しい思いに、また打ちのめされた。そして同時に、ヤコブをますます愛 しているという実感を得た。自分の仕事を、地下の家を恥じないヤコ、、フを、僕は眩し く思った。 「僕」と「ヤコブ」の間には、きっと、大ぎな溝がある。 でも、「」に入らない丸腰の僕とヤコブの間には、僕らを遮るものなど、何もな かった。ヤコプは僕を愛してくれた。そして、僕のヤコプに対する愛は、きっとそれ
なかった。丸い屋根の上に、少しいびつな十字架があり、集っている人たちは、誰も ガラベーヤを着ていなかったし、ヘジャ。フもかぶっていなかった。 僕はそのとき、初めてヤコブの宗教を知った。 「僕は、コ。フト教徒なんだ。 教会はとても静かで、ロウソクの燃えるにおいがした。正面に女の人が笑っている 絵がかけられていた。 「マリア様だよ。 ヤコプが、小さな声で説明してくれた。 マリア様と聞いて、僕が連想できるのは、キリスト教だけだった。僕はそのときま だ、ヤコブの一言う「コ。フト教」とキリスト教を結び付けられないでいた。ヤコブとい う名前が、聖書から来ていることにも、気づいていなかった。 なんたって、ヤコプはヤコプだったのだ。それ以外の、何ものでもなかった。 僕にとってヤコプは、唯一無二のヤコプだった。こうして僕の手を取り、 「アユム、祈ろう。 静かにそう言うヤコプは、もう僕にとっては、なくてはならない人、ただそれだけ のことだった。
274 そのおかげで、僕らが入り口に着いたとき、ヤコブと、髭の生えたおしさんが、バ ンの荷台を開けているところに出くわしてしまった。ふたりは、中からたくさんのシ あらが ーツを取り出していた。僕は咄嗟に目を伏せた。でも、好奇心に抗えす、やはり見て しまった。 初めヤコプは、僕には気づかなかった。荷台に乗り込んでシーツをおしさんに渡す のが、ヤコブの役割らしかった。ヤコ。フの上半身ほどもあるシーツの塊を持ち上げ、 わき おしさんが用意していた籠に入れてゆく。大きく腕をあげたヤコブの腋が、汗で染み になっていた。 僕はヤコブのにおいを思い出していた。ヤコブの少し酸つばい、ナツメのようなに おいを。そしてほぼ瞬間的に、何故か泣き出しそうになった。 おしさんは、受け取ったシーツがい つばいになると、それを通用口まで運んだ。 その間、ヤコプはバンの中で待機していた。シャツの袖で額の汗を拭い、肩で息を していた。そして、何気なくバンの外に目をやり、そこで、僕と目が合った。 先ほどから気づいていた僕と違って、ヤコプには覚悟が出来ていなかった。ヤコブ は、「あ、という顔をし、それからすぐに逸らした。僕がサッカーでやったときと違 う、あからさまなやり方だった。いや、もしかしたら僕もあのとき、ヤコブくらい明
文字を呟くと、僕はそばにヤコプがいてくれるのだと思えた。ヤコブのにおいを、ヤ コブの気配を感じることが出来た。そしてそれは、僕を安らかにしてくれた。だから 僕は家の中で一番、「サラバを口にした。 「サラバ」は、僕らだけの言葉だった。 僕が急速にヤコブと関係を深めていくのに反して、向井さんとはどんどん疎遠にな クっていった。僕は放課後のほとんど毎日をヤコブと過ごしていたし、「キミハヒワイ マダトッ ! 」事件の余波は、まだ僕たちの間に根強く残っていた。 ザ とはいえ、仲が悪いというわけではなかった。クラスメイトとは時々ゲジラで遊ん イだし、それそれの家へ遊びに行ったりした。みんなの中にいると、僕と向井さんの気 カ ますさは目立たなかった。 一度、皆と僕のフラットの中庭で遊んでいるとき、ヤコプが来たことがあった。ャ プ ジ コブとは、特別毎日約束をしていたわけではなかった。ヤコプが僕のフラットに来た 工 とき、僕が外に出ていないこともあったし、僕が外に出ていても、ヤコプが来ないと 章 二きもあった。 僕らは連絡手段を持っていなかった。 向井さんや同級生と遊ぶときは、それそれの家の電話を使っていたが、ヤコブと僕 つぶや
322 み、僕を安心させ、僕が誰より勇敢な人間なのだと思わせてくれるヤコ。フの大きなカ が、まるで僕の体に直接人り込んでくるようだった。 ヤコ。フ。 僕は心の中で何度も、その名前を呼んだ。ヤコプは隣にいるのに、その気配を存分 に感じているのに、僕はヤコブの体内にいるようだった。ヤコブ、ヤコ、、フ、ヤコプ。 『それまでどうか、ヤコ。フをお守りください。』 僕はそのとき、生まれて初めて、自分以外の人のことで祈りをささげた。 『どうか、どうか、ヤコブをお守りください。』 どこの誰だか知らない神様に、真剣に祈った。 教会を出た僕らに、数人の子供たちが何か叫んだ。舌を出したり、指を突き立てた りしていた。 ヤコプは耐えていた。 「僕の神を否定しているんだ。」 ヤコ、、フの言葉は分かるのに、子供たちの野次は、やはり、ちっとも分からなかった。 「こんなことは、よくあるんだよ。」
「祈るワ・ 「そう。」 「何を ? 「なんだっていい。 むに思いつくことを、なんでも。」 僕が畳み掛ける前に、ヤコプはもう、目を閉じていた。長い睫毛がびっしりと瞼を ク覆い、何かを呟いている唇は、分厚くて、少しひびが割れていた。ヤコブの耳たぶは マ大きく、そこに生え揃っている毛は、金色に光っていた。その姿は、僕にそれ以上の 追及を許さなかった。ヤコ。フが祈っている姿の完璧さに、僕は打ちのめされた。 イ僕は、ヤコブの隣に膝をついた。 カ ヤコブと同じように掌を組み、唇の下に持って行った。知らない神に、何を祈れば プいいのか分からなかったので、目をつむっていようと思った。ただ目をつむって、ヤ 、シ コブの隣にいよう、と。でも、 工 『またヤコブと会えますように。』 章 一一不思議なことに、自然と言葉が浮かんできた。 あの神社での僕とは、雲泥の差だった。僕は目をつむりながら、ヤコブの気配を感 していた。ヤコ、、フは、目をつむっていても、どうしようもなくヤコプだった。僕を包 まぶた
ヤコプは、僕を見た。その目が安堵で濡れていた。 僕たちは、ほとんどその言葉にすがるようになっていた。 ヤコプは、肩に置いた僕の手を握った。そしてまた、あの高貴な笑顔に戻った。 「サラバ クそれは、ほとんど魔法の言葉だった。 マ ザ ヤコプには、あれから何度か家へ招待を受けていた。 ロ 僕はお父さんにもおしさんにも、つまりヤコブのすべての家族に会っていた ( 痩せ カ ていたのは、ヤコブのおしさんだけだった ) 。いつ行っても、家族は僕を歓迎してく プれた。僕は湿 0 た居間のソフアに座り、皆からお茶を注いでもら 0 たり、お菓子をも ジ らったり、ときどきワケもなく抱きしめられたりした。 工 ヤコブの家族は、最高に優しかった。僕は段々、ヤコ。フの家に本当の居心地の良さ 二を感じ始めていた。家のなかは、あたたかい何かに溢れていた。そしてそれは、当時 の僕の家には、決してないものだった。 家に招待を受けたのに、反対に僕がヤコ。フを招待することはなかった。 あんど あふ
250 でも、ヤコブも男だった。僕は少年だったが、ヤコプは僕より年上に見えた。が しりとした体に、くたびれた白いポロシャツ、ネイビーのコットンのパンツを穿き、 大人の男が履くような茶色いサンダルを履いていた。 エジ。フシャンの子供が苦手であるということは、散々記述した。 そのときも僕は、早速、卑屈に笑っていた。同時に手に取った卵を、譲るつもりだ ったのだ。 通常のエジ。フシャンの子供だったら、絶対になにやら話しかけてくるか、体に触っ てくるかしてくる。覚悟していたが、ヤコプは違った。卵のケースを取り、微笑みな がら、僕に差し出したのだ。 ふいをつかれた僕は、思わすケースを手に取ってしまった。ヤコプはにこっと笑っ て、自分は違うケースを手にした。 そのときのヤコ、、フの笑顔を、僕は忘れられないでいる。 ロ全体をにやりと広げる、子供の笑い方ではなかった。ロ角だけをわすかに上げる、 「微笑み」といっていい、大人の笑い方だった。それも、とても高貴な大人の。 がっしりとした体と対照的に、ヤコブの指はほっそりと細く、長かった。そして、 小指の爪だけを伸ばしていた。それがまた、ヤコブを大人に見せていた。 っ