ヤコブ - みる会図書館


検索対象: サラバ! 上
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1. サラバ! 上

地区は高級住宅街だ。僕は正直、ヤコプがこんな場所に住めることに驚いたし、そう やって驚いた自分が嫌だった。自分が自分側にいることが、苦しかった。 恐ろしく古びたフラットが見えた。ヤコ。フの家族は、そのフラットの地下に住んで いた。ヤコブのおしさんがボアーブ ( うちでいうドラえもんだ ) をしているというフ ラットだった。ヤコプはその 3 部屋の家に、おじさん夫婦、お父さんとお母さん、ふ クたりの妹と一緒に住んでいた。 マ地下だったから、家には窓がなかった。全体的に湿っていて、独特のにおいがした。 実際、床の隅には水たまりが出来ていた。そのそばで雑巾を持って笑っている人はヤ イコブのおばさんで、その年頃のエジ。フシャン女性にしては珍しく、びたりとしたジー カ ンズを穿いていた。 ヤコブのお母さんも、洋装だった。白いブラウスと茶色いフレアスカ】トを穿き、 プ ジ髪の毛は剥き出しでひとつに結んでいた。へジャ。フをかぶったエジ。フト人女性に慣れ ていた僕には、それは新鮮に映った。 章 急な訪問だったにもかかわらす、お母さんは僕の体を抱きしめ、大きな声で何か言 第 った。僕にはヤコブ以外の言葉は分からなかった。妹ふたりは、そばで恥ずかしそう に笑っていた。

2. サラバ! 上

290 一度だけヤコプが「彼ら、に対して怒ったことがある。「彼ら」が、ヤコブのこと を、何ごとか野次ったのだ。 僕にはヤコブの言葉は分かったが、エジ。フシャンの言葉は相変わらす理解出来なか った。でもそれはきっと、いつも僕たちに浴びせられる、他愛ない野次と同しだろう あらわ と思っていたし、普段のヤコプは、そのような心ない野次程度で、怒りを露にするよ うな男ではなかった。 だが、そのときヤコプは、そばにあった空き缶を拾い、「彼らに投げつけたのだ った。僕は心から驚いた。そんなヤコブを見たのは、もちろん初めてのことだったの 「彼ら」は逃げたが、ヤコプは怒りが収まらないらしく、目についたものを次々と、 もう逃げていった「彼ら」にぶつけていた。 しばらくして、我に返ったヤコプは、僕に詫びた。とても、恥すかしそうだったが、 同時に、まだ怒りが収まってもいないようだった。 「大切なものを、馬鹿にされたんだ。 ヤコブの声は、低く、乾いていた。僕は静かに、ヤコブの肩を叩いた。

3. サラバ! 上

278 お母さんは、とても太っていた。美人かどうかなんて一 = ロえるような風貌ではなかっ た。ヤコブの妹ふたりもまるまると太り、僕はヤコブの体格の良さの理由が分かった ような気がした。 ヤコプは家族に囲まれて、嬉しそうだった。 家族はヤコブを愛していた。それは僕にも分かった。そしてヤコ。フは、その家族を 誇りに思っていた。自分の母親を心から美人だと思っていたし、この場にいないお父 さんのことを、何度も何度も褒めた。 ホテルで会ったとき、目を逸らしたのは、羞恥からではなかったのだと、そのとき 気づいた。ヤコプは僕と母に、ただ気を使っただけだったのだ。もしかしたら、ホテ ルの従業員に、ホテルの客を見てはいけないと、言われていたのかもしれなかった。 僕は自分の卑しい思いに、また打ちのめされた。そして同時に、ヤコブをますます愛 しているという実感を得た。自分の仕事を、地下の家を恥じないヤコ、、フを、僕は眩し く思った。 「僕」と「ヤコブ」の間には、きっと、大ぎな溝がある。 でも、「」に入らない丸腰の僕とヤコブの間には、僕らを遮るものなど、何もな かった。ヤコプは僕を愛してくれた。そして、僕のヤコプに対する愛は、きっとそれ

4. サラバ! 上

なかった。丸い屋根の上に、少しいびつな十字架があり、集っている人たちは、誰も ガラベーヤを着ていなかったし、ヘジャ。フもかぶっていなかった。 僕はそのとき、初めてヤコブの宗教を知った。 「僕は、コ。フト教徒なんだ。 教会はとても静かで、ロウソクの燃えるにおいがした。正面に女の人が笑っている 絵がかけられていた。 「マリア様だよ。 ヤコプが、小さな声で説明してくれた。 マリア様と聞いて、僕が連想できるのは、キリスト教だけだった。僕はそのときま だ、ヤコブの一言う「コ。フト教」とキリスト教を結び付けられないでいた。ヤコブとい う名前が、聖書から来ていることにも、気づいていなかった。 なんたって、ヤコプはヤコプだったのだ。それ以外の、何ものでもなかった。 僕にとってヤコプは、唯一無二のヤコプだった。こうして僕の手を取り、 「アユム、祈ろう。 静かにそう言うヤコプは、もう僕にとっては、なくてはならない人、ただそれだけ のことだった。

5. サラバ! 上

274 そのおかげで、僕らが入り口に着いたとき、ヤコブと、髭の生えたおしさんが、バ ンの荷台を開けているところに出くわしてしまった。ふたりは、中からたくさんのシ あらが ーツを取り出していた。僕は咄嗟に目を伏せた。でも、好奇心に抗えす、やはり見て しまった。 初めヤコプは、僕には気づかなかった。荷台に乗り込んでシーツをおしさんに渡す のが、ヤコブの役割らしかった。ヤコ。フの上半身ほどもあるシーツの塊を持ち上げ、 わき おしさんが用意していた籠に入れてゆく。大きく腕をあげたヤコブの腋が、汗で染み になっていた。 僕はヤコブのにおいを思い出していた。ヤコブの少し酸つばい、ナツメのようなに おいを。そしてほぼ瞬間的に、何故か泣き出しそうになった。 おしさんは、受け取ったシーツがい つばいになると、それを通用口まで運んだ。 その間、ヤコプはバンの中で待機していた。シャツの袖で額の汗を拭い、肩で息を していた。そして、何気なくバンの外に目をやり、そこで、僕と目が合った。 先ほどから気づいていた僕と違って、ヤコプには覚悟が出来ていなかった。ヤコブ は、「あ、という顔をし、それからすぐに逸らした。僕がサッカーでやったときと違 う、あからさまなやり方だった。いや、もしかしたら僕もあのとき、ヤコブくらい明

6. サラバ! 上

文字を呟くと、僕はそばにヤコプがいてくれるのだと思えた。ヤコブのにおいを、ヤ コブの気配を感じることが出来た。そしてそれは、僕を安らかにしてくれた。だから 僕は家の中で一番、「サラバを口にした。 「サラバ」は、僕らだけの言葉だった。 僕が急速にヤコブと関係を深めていくのに反して、向井さんとはどんどん疎遠にな クっていった。僕は放課後のほとんど毎日をヤコブと過ごしていたし、「キミハヒワイ マダトッ ! 」事件の余波は、まだ僕たちの間に根強く残っていた。 ザ とはいえ、仲が悪いというわけではなかった。クラスメイトとは時々ゲジラで遊ん イだし、それそれの家へ遊びに行ったりした。みんなの中にいると、僕と向井さんの気 カ ますさは目立たなかった。 一度、皆と僕のフラットの中庭で遊んでいるとき、ヤコプが来たことがあった。ャ プ ジ コブとは、特別毎日約束をしていたわけではなかった。ヤコプが僕のフラットに来た 工 とき、僕が外に出ていないこともあったし、僕が外に出ていても、ヤコプが来ないと 章 二きもあった。 僕らは連絡手段を持っていなかった。 向井さんや同級生と遊ぶときは、それそれの家の電話を使っていたが、ヤコブと僕 つぶや

7. サラバ! 上

322 み、僕を安心させ、僕が誰より勇敢な人間なのだと思わせてくれるヤコ。フの大きなカ が、まるで僕の体に直接人り込んでくるようだった。 ヤコ。フ。 僕は心の中で何度も、その名前を呼んだ。ヤコプは隣にいるのに、その気配を存分 に感じているのに、僕はヤコブの体内にいるようだった。ヤコブ、ヤコ、、フ、ヤコプ。 『それまでどうか、ヤコ。フをお守りください。』 僕はそのとき、生まれて初めて、自分以外の人のことで祈りをささげた。 『どうか、どうか、ヤコブをお守りください。』 どこの誰だか知らない神様に、真剣に祈った。 教会を出た僕らに、数人の子供たちが何か叫んだ。舌を出したり、指を突き立てた りしていた。 ヤコプは耐えていた。 「僕の神を否定しているんだ。」 ヤコ、、フの言葉は分かるのに、子供たちの野次は、やはり、ちっとも分からなかった。 「こんなことは、よくあるんだよ。」

8. サラバ! 上

「祈るワ・ 「そう。」 「何を ? 「なんだっていい。 むに思いつくことを、なんでも。」 僕が畳み掛ける前に、ヤコプはもう、目を閉じていた。長い睫毛がびっしりと瞼を ク覆い、何かを呟いている唇は、分厚くて、少しひびが割れていた。ヤコブの耳たぶは マ大きく、そこに生え揃っている毛は、金色に光っていた。その姿は、僕にそれ以上の 追及を許さなかった。ヤコ。フが祈っている姿の完璧さに、僕は打ちのめされた。 イ僕は、ヤコブの隣に膝をついた。 カ ヤコブと同じように掌を組み、唇の下に持って行った。知らない神に、何を祈れば プいいのか分からなかったので、目をつむっていようと思った。ただ目をつむって、ヤ 、シ コブの隣にいよう、と。でも、 工 『またヤコブと会えますように。』 章 一一不思議なことに、自然と言葉が浮かんできた。 あの神社での僕とは、雲泥の差だった。僕は目をつむりながら、ヤコブの気配を感 していた。ヤコ、、フは、目をつむっていても、どうしようもなくヤコプだった。僕を包 まぶた

9. サラバ! 上

ヤコプは、僕を見た。その目が安堵で濡れていた。 僕たちは、ほとんどその言葉にすがるようになっていた。 ヤコプは、肩に置いた僕の手を握った。そしてまた、あの高貴な笑顔に戻った。 「サラバ クそれは、ほとんど魔法の言葉だった。 マ ザ ヤコプには、あれから何度か家へ招待を受けていた。 ロ 僕はお父さんにもおしさんにも、つまりヤコブのすべての家族に会っていた ( 痩せ カ ていたのは、ヤコブのおしさんだけだった ) 。いつ行っても、家族は僕を歓迎してく プれた。僕は湿 0 た居間のソフアに座り、皆からお茶を注いでもら 0 たり、お菓子をも ジ らったり、ときどきワケもなく抱きしめられたりした。 工 ヤコブの家族は、最高に優しかった。僕は段々、ヤコ。フの家に本当の居心地の良さ 二を感じ始めていた。家のなかは、あたたかい何かに溢れていた。そしてそれは、当時 の僕の家には、決してないものだった。 家に招待を受けたのに、反対に僕がヤコ。フを招待することはなかった。 あんど あふ

10. サラバ! 上

250 でも、ヤコブも男だった。僕は少年だったが、ヤコプは僕より年上に見えた。が しりとした体に、くたびれた白いポロシャツ、ネイビーのコットンのパンツを穿き、 大人の男が履くような茶色いサンダルを履いていた。 エジ。フシャンの子供が苦手であるということは、散々記述した。 そのときも僕は、早速、卑屈に笑っていた。同時に手に取った卵を、譲るつもりだ ったのだ。 通常のエジ。フシャンの子供だったら、絶対になにやら話しかけてくるか、体に触っ てくるかしてくる。覚悟していたが、ヤコプは違った。卵のケースを取り、微笑みな がら、僕に差し出したのだ。 ふいをつかれた僕は、思わすケースを手に取ってしまった。ヤコプはにこっと笑っ て、自分は違うケースを手にした。 そのときのヤコ、、フの笑顔を、僕は忘れられないでいる。 ロ全体をにやりと広げる、子供の笑い方ではなかった。ロ角だけをわすかに上げる、 「微笑み」といっていい、大人の笑い方だった。それも、とても高貴な大人の。 がっしりとした体と対照的に、ヤコブの指はほっそりと細く、長かった。そして、 小指の爪だけを伸ばしていた。それがまた、ヤコブを大人に見せていた。 っ